ソシュールって過大評価されすぎじゃないか?
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言語学を構造主義と結びつけて哲学者の関心を惹きつけただけで大して新しい概念を生み出したわけでもない(そもそも構造主義自体が空虚)
通時と共時とかいう言葉が残るだけでソシュールの思想は現代の言語学には受け継がれてないし生成文法や認知言語学が流行りだすとすぐに時代遅れな概念として破棄された >>38
ペダンティックで中身の無い文章だね
馬鹿の見本 ソシュールって実際大したこと言ってなくね?
ラングとパロールだの差異がどうたらだの当たり前のことしか言ってない >>40>>41>>43
中身なし、説得力ゼロのただのこき下ろし
ちゃんと根拠を挙げろ >>46
根拠ない感情透視で煽りとか、落ちる所まで落ちたな >>48
イェルムスレウを読んだこともない愚か者に何が分かる
イェルムスレウを読まない者に発言権はない
イェルムスレウを読んだことがない者はここに書き込むな >>48
論理ゼロの決めつけ
感情だけで支持されてる落ち目のチョムスキーが可愛そう >>38
本当にイェルムスレウを読んでるのか?
レヴィ=ストロースが音韻論を学んだのはローマン・ヤーコブソンからで、あくまでプラハ学派の音韻論だが。
レヴィ=ストロースが神話の分析で出してくる+と−の表は、ヤーコブソンの弁別素性の表の応用で、イェルムスレウやコペンハーゲン学派の音韻論とはまったく関係ない。
イェルムスレウを構造主義に持ち込んだのはロラン・バルトくらい。 >>53
わけのわからないことを言うな
イェルムスレウを愚弄する気か? >>53
イェルムスレウは実際に読んだよ、原書でなく日本語訳でだけれどね
38に書いた『言語理論の確立をめぐって』と『一般文法の原理』だ、それと小林英夫による『批判的解説 一般文法の原理』もね
但し、レヴィ=ストロースに関しては『親族の基本構造』にざっと目を通しただけだから、ちゃんと読んだとは言えないのは認める
それはともかく、ソシュールを受け継いだイェルムスレウはウルダルと共に言語学のための代数学を作ろうとしていたのは事実だ
その「代数」は数学における構造主義の典型である代数学での「代数」と同様の意味でね
ウルダルによる“Outline of Glossematics, Part I”はその試みの記録だ >>54
愚弄?
レヴィ=ストロースが学んだ音韻論はイェルムスレウとは別系統と指摘しただけで、イェルムスレウを貶したわけじゃない。
>>59
コペンハーゲン学派の言語学のための代数学は、実質/形式の二元論による概念体系の厳密化を目指したのであって、「代数学」というのはあくまで厳密性をあらわす比喩だよ。
ところが、レヴィ=ストロースは、親族構造に変換群という本当の代数構造を見つけてしまったのだよ。 結局はソシュール言語学って20世紀前半に流行っただけの傍流なんだよなあ
今は認知言語学全盛でソシュール的記号論とは真逆だし 新しいことを初めて、読まれてくると追随者がいてベタになるから当時は新鮮で斬新だった売れっ子だと評価する方が。 そりゃ科学である以上、変化し進歩し主流は移り変わっていくわけだが、
なんでそうもムキになって否定したがるのかな?
>>64
そもそも20世紀前半にほかに「主流」って存在していたの?
あと、認知言語学の教科書を読んでも、
構造主義言語学の延長上にしかなくて、
革新的なパラダイムシフトがあったように見えないんだが
心理学を借りてきただけじゃん
それならチョムスキーもやってるし、しかも破綻している >>69
構造主義言語学とそれ以降の言語学(生成文法や認知言語学)との違いは、前者がもっぱら言語そのものの分析に止まるのに対し、後者は言語が脳内で処理される過程を想定し、それに基づいて言語を説明するという点だな
結果的に生成文法は形式主義に偏りすぎて失敗したけど >>70
何かを説明することを放棄したやつは関わるな
>>72
認知言語学の説明にただの類型論がちょくちょく混ざってるのって
何も新しくないよね ソシュールを継承したのは生成文法の方だろ
認知言語学は逆にラングとパロールみたいなソシュール的二元論を疑問視してる >>76
「面白かったねー!」って、開口一番に仰っていただい >>76
> ソシュールを継承したのは生成文法の方だろ
生成文法はソシュールの構造主義言語学とは全く異なるだろ
ソシュール流の言語学での構造は分析の結果として得られるのに対して
チョムスキー流の生成文法は最初から特定の構造を当て嵌めることで言語を理解し説明しようとする
つまり、ソシュール流での構造とは分析の果ての結果つまり分析の後で得られるものなのに対して
チョムスキー流での構造とは分析を行うための道具あるいは手段つまり分析よりも前に用意せねばならないものだ > 在日の親は、子供を朝鮮幼稚園・朝鮮学校に入れたいっていうのが多いのよ。
> 日本人からすると、なんでだろうって思うけど、日本人の学校では、民族の誇りを持った教育がしてもらえないんだそうだ。
> よく分からないけど、済州島の流刑者の白丁が大阪に密入国して住み着いたじゃ誇りが持てないけど、
> 日本人に強制連行された被害者なら誇りが持てる、とかそういう事かな??
>
> 市原市の能満は昔から市街化調整区域で、新規の建物は造れないことになっている。
> そのため土地が安く、日本の法律を無視した在日が、次々と移り住んできた。
> そこで問題になったのが、朝鮮学校だ。なかなか許可が下りず、一番近くても千葉市にしかない。
> そこで在日居住区の能満内にあった、能満幼稚園・市原小・市原中・緑高の保育士や教師を、朝鮮化する事を考えた。
> 今では在日幼稚園の保育士は全て朝鮮帰化人で、在日の父兄からの絶大な支持を受けている。
> 遠くからでも、わざわざ在日幼稚園に入園させたいという在日の親は、後を絶たない。
> この在日幼稚園卒園者はほぼ朝鮮系の帰化人と在日だ。 > 在日の親は、子供を朝鮮幼稚園・朝鮮学校に入れたいっていうのが多いのよ。
> 日本人からすると、なんでだろうって思うけど、日本人の学校では、民族の誇りを持った教育がしてもらえないんだそうだ。
> よく分からないけど、済州島の流刑者の白丁が大阪に密入国して住み着いたじゃ誇りが持てないけど、
> 日本人に強制連行された被害者なら誇りが持てる、とかそういう事かな??
>
> 市原市の能満は昔から市街化調整区域で、新規の建物は造れないことになっている。
> そのため土地が安く、日本の法律を無視した在日が、次々と移り住んできた。
> そこで問題になったのが、朝鮮学校だ。なかなか許可が下りず、一番近くても千葉市にしかない。
> そこで在日居住区の能満内にあった、能満幼稚園・市原小・市原中・緑高の保育士や教師を、朝鮮化する事を考えた。
> 今では在日幼稚園の保育士は全て朝鮮帰化人で、在日の父兄からの絶大な支持を受けている。
> 遠くからでも、わざわざ在日幼稚園に入園させたいという在日の親は、後を絶たない。
> この在日幼稚園卒園者はほぼ朝鮮系の帰化人と在日だ。 ソシュールじゃなくてソシュールの影響を受けた音韻論学派がすごかっただけでしょ
ソシュールはほとんど何もしてない ソシュールは喉音理論をうち立てただろ
その正しさは数十年後にヒッタイト語の解読によって事実上証明された
自然科学で言えばこれは新しい元素を想定したり、
観測されていない惑星の存在を想定したりして
後からその存在が証明されたような話で、
言語学史に残る快挙だよ
ここでだらだらと出しゃばってるのがその価値のわからないバカばかりなのが残念だね >>83
音素が一つの体系をなしているという見方が革命的だったのであって、その後の音韻分析の精密化はソシュールの敷いたレールの上を進んだ結果にすぎない。
印欧祖語の喉音の予言も、音素が一つの体系をなしているなら、ここに未知の音素があったはずという想定から生れた。 >>85
バカは他人の言葉を借りてもコミュニケートできないのか
言いたいことが何一つ伝わってこないぞ >>87
美女の中には、幼い頃から容姿端麗で誰からも愛されていて、純粋、天真爛漫、
逆にクソ生意気な女もいるが、後天的な美女は努力家で、打算的だが、非モテ男の気持ちが分かる思いやり深い女もいるし、やっぱりクソ生意気な女もいる。
クソ生意気にさせてるのは大体男のせいなので、彼女達も愛してやろう。 >>89
バリ堅の女性はいないと思ってる。
俺の前ではバリ堅だったとしてもほかの誰かの前では即系かもしれない。
それに女性はその日の気分や状態で誰しもが即系になる。
堅くしてるのは自分自身の可能性もあるし負けた理由が相手が堅かったは昔から言わないようにしてる
まぁほんと最近負けないけど(ドヤ)笑 >>88
生まれ持った容姿はシニフィエとなって「端麗」というシニフィアンで分節されてしまう。
容姿というノンバーバルメッセージは女性の場合は影響力が大きいから ちょっと残酷だね。 「容姿」も「端麗」もそれぞれ音声によるシニフィアン、意味というシニフィエを持つ言語記号にすぎない
ここでは「容姿」は主語、「淡麗」は述語に相当する文法機能を持ち、一つのセンテンスに相当する伝達内容を持っている
それぐらいなんでわからないんだろう >>95
容姿が端麗だっていうセンテンスなのはわかります。
女性の見た目の状態によって「美人」や「ブス」というシニフィアンによって分節されるっていう話です。 >>96
そこ、「シニフィアンによって」も「分節される」も使い方、間違っているよ 丸圭でソシュールを判断するなよwあれは関係ないポエマーだ
もちろん言語学もわかっていないしな アドラーのブームって終わってるかな?
仮想論っていうのがアドラーにあるみたい。
人はそれぞれ違った経験をして生きてきたから違った認識を持ってる。
各々の認識を私的感覚って呼んで、互いに尊重しようねって事みたい。
これって人が使う単語(シニフィアン)から想起される事柄(シニフィエ)がそれぞれ違うって話だと思うんだけど
アドラーとソシュールを合体できませんか? それはどっちかと言うとシニフィアンとシニフィエよりも
音素と音声、そこから派生したエティックとイーミックの違いを連想させる
あるいはラングとパロールの違い ソシュールは構造主義じゃないよ。言語システム理論だよ。
システムに関するその考え方が構造主義のアイデアの先駆になっているとも言われただけ。 >>101
丸山がソシュール理解の世界最高レベルに到達してたのはたしかだよ
ソシュールの思想とソシュールを読むはいいね
文化のフェティシズム以降はソシュールの概念を用いた丸山思想だね >>107
丸山の理解した「ソシュール論」は論外
彼の「ソシュール論」は悪い意味で日本の文系的な色彩の強い曖昧模糊としたスタイルへと堕落している
ソシュールの言語理論や思想は本来はもっと論理的で明晰なものだ
丸山はソシュール像を変に歪めて偶像化してしまっている 丸山の『ソシュールの思想』は1981年に出版されてバカ売れしたようだけど、なんでそんなに売れたんだろう?
80年代は現代思想(記号論、(ポスト)構造主義)が流行ったらしいけど、そのときにはソシュール理論はとっくに死に体だったのに はっきりしていることは、
言語学者の知っている言語学者としてのソシュールと、
哲学者や思想家の語るソシュールはまったく別のものだよ
スレタイは後者寄りだろうけど、たぶん思想的な理解も浅いし、言語学の知識も無いだろう >>106
> ソシュールは構造主義じゃないよ。言語システム理論だよ。
「言語システム理論」はあくまで『一般言語学講義』の方だな。
ソシュール自身は『講義』ほどは割り切っていない。 >>107
> 丸山がソシュール理解の世界最高レベルに到達してたのはたしかだよ
1980年代に、いち早く原資料のソシュールと『一般言語学講義』は違うという指摘を行ない、原資料に対する関心を高めたことは功績だと思うが、丸山自身は原資料の研究をろくにやっていない。
原資料に基づいているかのように見せかけて、独自の丸山哲学を展開するのに忙しかったというのが本当のところ。 >>108
> ソシュールの言語理論や思想は本来はもっと論理的で明晰なものだ
論理的で明晰なのは『一般言語学講義』であって、原資料のソシュールは茫漠としている。 >>110
> 丸山の『ソシュールの思想』は1981年に出版されてバカ売れしたようだけど、なんでそんなに売れたんだろう?
> 80年代は現代思想(記号論、(ポスト)構造主義)が流行ったらしいけど、そのときにはソシュール理論はとっくに死に体だったのに
古くなったのは『一般言語学講義』であって、本当のソシュールはポスト構造主義を先どりした思想家だという幻想を広めたからだよ。
丸山氏が実際に語っていたのは、原資料のソシュールではなく、あくまで丸山哲学なんだけどね。 >>115
丸山哲学の肝って「言語以前には何も存在しない(認識できない)」でしょ。
でも70年代には、人の認識が言語なしに可能であることは明らかになってた。
なんで誤っていることが明らかな理論が80年代にあんなに流行ったんだろう?
理論の正しさよりも、「ポスト構造主義の先取り」が重視されたということ? 丸山さんは自らが唱えていた文化記号論を先取りしていた言語理論家として
ソシュールのテクストを発展的に読解した。
ソシュールは単なる言語学者として読むことも可能だが、
その理論を深読みすれば、構造主義記号学を先取りしていた面があったんだというもの。
さらに構造主義を批判したポスト構造主義、ニクラス・ルーマンの社会システム論、
オートポイエーシス理論などと呼応する理論にまで、ソシュールの思想を発展させた人だね。 >>115
丸山さんがソシュールが述べていないことまで述べていると称していることは具体的に何?
丸山さんのテクストを読むと、彼の思想とソシュールの思想ははっきり区別されていたよ。
ただし、ソシュールの言語理論には最新のシステム論に通ずるような記述が見出せる
ということを彼は唱えていただけだよ。
そこから生物学的記号学にまで発展させていくところが丸山思想の凄いところだったね。
そこいらのソシュール言語学者にはできない理論展開だった。 単なる言語学畑にはその理論展開が理解できなかったんだろうね。 >>118-120
俺が>>116に書いたことについてどう思う?
マジで疑問なんだ。 >>121
丸山氏の使った概念には
・身分け構造
・言分け構造
という区別があった。
身分け構造は、ユクスキュル氏の「環世界」や市川浩氏の「身の構造」から
借用したと彼は書いていたと思う。
日本では柴谷篤弘氏の構造主義生物学やオートポイエーシス(自己創発)理論に通じるもの。
そのことから分かるとおり、この区別、どちらも記号学的なもの。
丸山氏は身分けと言分けを区別しつつも、その実、この二つが地続きであることを随所に述べていた。
身分け構造も客観世界ではなく、その生物種にとって自己創発システム論的なもの。
だからその意味では、丸山思想においても、生物は人間と同様に記号を操っている。
記号を介して世界を知覚している存在。
だから丸山氏は>>116さんが書いていることをとっくに見通していた。 >>116
それが「肝」?
だったらサピア=ウォーフの仮説と同じじゃん
そもそもソシュールは人間の認識の可能/不可能には踏み込んでいないだろ
「言語(記号)とは『差異』である」というのが肝だよ
「形が違えば意味が違う」とも言う
>人の認識が言語なしに可能である
認識はできても、人は世界をどう切り取っているかについての言語ごとの違いは否定できていないだろ 弁当の賞味期限を見て「食えない」って認識してもいいけど、においを嗅いだり色合いを見て「食えない」って認識してもいいってことでしょ? ここって言語記号について根本的に理解していないバカが時々混ざるな
ことばとモノをごっちゃにしている 人は生物として身分け、ヒトとして言分ける。
丸山は「文化のフェティシズム」のなかで言分けの集積である文化の虚構性を暴露している。
同時に身分け至上主義のような「自然に帰れ」という言説も批判している。
生物に退行するのでもなく虚構に振り回されるのでもないヒトとは何か?
それは「無分別知」の禅を源流に持つマインドフルネスである。 >>128
こういう丸山のレトリック的な造語嫌いだわ
丸山は「文化は虚構であって本質などない」というようなポストモダン的な行き過ぎた相対主義から逃れきれてない >>132
> こういう丸山のレトリック的な造語嫌いだわ
これね
新たに造語しなければ簡潔に概念や意味を伝えられないというのならばともかく
既存の言葉で十分に伝えられる概念や意味をわざわざ造語して、
さも全く新しい概念かの如く見せかけるのは小狡くてどうもね マンコに魅力を感じるのは身分けの占める割合も多いけど
オッパイの魅力は完全に言分けによるものだね。
文化的に隠すべき部位とされたことで「差異」が生じて価値が生まれている。 むしろ逆だ
おっぱいにこそ本質的な価値があるのであり
まんこに興奮するのはそれが性器として隠されているだけだからにすぎない 言語を持たない犬や馬はマンコを身分けて興奮する。
身分けつつ言分ける人間はパトスとロゴスで二重に興奮する。
おっぱいはロゴスの言分けだけで興奮するものだから文化的に純粋とも言える。
それを本質的な価値と呼ぶなら、その通りだろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています