米沢藩随一の主戦派であり
越後出兵を事実上リードした
米沢藩参謀甘粕継成の日記に
六月頃から会津藩の批判が目立つようになる。
「時に越地の人民会津を悪みきらふ甚深く恰も仇敵の如し。
依之所在の郷村御家を慕ふ心ありと雖会と相合するのを以て
味方する者なし。是を以て大面在陣以来
村民を雇て篝火を焼せ死傷を舁せ弾薬兵糧等を運はせんと欲すれども
家々の老若男女尽く逃散て一人も応ずる者なし。
其内衝鋒隊の歩兵乱妨せしより、大面村民
自ら火を家々にかけて我が軍を追出し
賊へ応ぜんと企つる者有之由村役より忠信出
早く会兵とはなれて御一手にて御持なされずんば
遖れ御大事なるへしと云う」
(甘糟備後継成遺文)

これは六月一日の記述だが
「略奪を行なう会津藩兵と一緒に行動するのなら
もはや米沢様には協力出来ない」と民衆が
米沢藩本陣を訪れて訴えたのを受けて
今は民衆に慕われている米沢藩だが
会津と行動を共にするのを続ければ
民衆の信頼を失いかねないので会津とは
別行動を取るべきだと
米沢藩参謀の任にある甘粕が考えていたのが判る。