【Y-DNA】ハプログループ総合スレ36【mtDNA】©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>549 古墳期に帰化した朝鮮半島人の出自は明白。 彼らはいわゆる秦氏と呼ばれているが、記紀には百済から帰化したかように 書かれているが、彼らは百済系土器を一切作らなかった。 彼らが遺した朝鮮陶質土器、いわゆる須恵器はすべて新羅系土器であった。 彼らのほとんどは倭と敵対していた新羅人だったのである。 >>550 で、日本のどこに四川文明の考古文物があるの? . 四川文明のイ族の宗教は琉球や弥生時代の日本と同じなんだよ: 彝族は、自然や、祖先を崇拝する原始宗教を信仰している。 彝族の宗教の技能者はピモとスーニーの両者に分けられている。 ピモは経典を含め、道理の説ける者でスーニ−は鬼神と交わることのできる者である。 ピモの主な役目は、宗教祭祀儀礼を取り行うことであり、とりわけ人が死んだとき、 その魂をいかにすみやかに、正しく送ってやるかが重要なことである。 一方、スーニ−が頻繁に行うのは、ニツゲ(駆鬼)である。 羊皮鼓(楽器、太鼓と似ている)を叩きながらスーニーの神であるワサ神をよぶと、 スーニーはトランス状態に陥り、そのカによって病気などを引き起した鬼(ツ)を追い払うのである。 逆に鬼に備えることもある。害をもたらす鬼をタコを蛸壺に押し込むように缶に閉じこめてしまうのだ。 敵に呪いをかけるショプという儀式はビモもとりおこなうが、スーニー独自の技ものとしては、 依頼者(参加者)に幻覚をみせてしまうニョチという技がある。 ピモは基本的には世襲であるが、幼いころから学業を積まねばならない。 スーニーは重い病気にかかったり、発作を起こしたりがきっかけでなる。 突如として山林に入ってしまい、ピモが治療に当たるが、好転しない場合、 スーニー神(ワサ神)が附体したと認定されるのだ。社会的地位に関しては、両者とも平民階級の白彝に属するが、ピモは智者として特別視されているようである。 イ族の鳥居は柱二本を縄で繋いで鳥の木像を載せたもので、日本の弥生遺跡でも沢山出ている 九州縄文時代の焼畑農耕もイ族と全く同じ農耕 イ族の太鼓を使った祭りも弥生時代の銅鐸の祭りと同じ 琉球のシャーマンもイ族のシャーマンと全く同じ イ族の言葉は日本語に近い イ族のY-DNAは九州縄文人や現代日本人と同じD1b1 >>554 んなこと聞いてねえんだバカ! 日本のどこに四川文明の考古文物があるんだ? と聞いてんだバカ! >>556 で、どこの弥生遺跡で鳥居が出たの? その遺跡名とその出土した証拠の鳥居は? で、そんなデタラメな詐欺を働いている考古学者の氏名と所属団体と、その証拠文献は? . >どこの弥生遺跡で鳥居が出たの? 残ってるのは鳥の木像だけだからね >>558 で、弥生人が江南から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、 その生活痕たる衣食住に関わる生活密着型文物と文化である 三足や耳の付いた中国系土器の飲食器や炊飯器や調理器と 石刃の中国系耕作用農具と 中粒種の中国系イネと 土壁の中国系住居と 帯と袖の付いた中国系衣類と 龍信仰と 亀卜と、 渡来時に伝わった中国系言語の単語は? で、弥生人が江南から渡来したと提唱している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は? 早く言えよ華南ブタ広鼻タラコ唇ベトナピーノ。 >>560 それは今現在の話だろがバカ! 3000年前の弥生開始時になかったという証拠は? 詐欺に何も反駁も応酬もできず、詐欺を放置して詐欺を本当化させてしまう、 ここの無勉無学の脳弱低能で頭カラッポのウルトラパッパラパーどもに サギブいて何か嬉しいか華南ブタチックインドシナゴリラ。 3000年前の弥生開始時は焼き畑農耕でイ族と全く同じ生業だろ イ族もタイの山岳民族も10000年前から何も変わっていない 登呂遺跡と全く同じ住居で暮らしている ここは人類学板だから 現代から考察することも大いにやって良いでしょう 結局古代人のDNAは圧倒的に少ないのだから 現代人のDNAからの推測が重要になります 古蜀国はどこに行ったか? −三星堆遺跡を見てー https://inookahikaru.at.webry.info/201904/article_4.html 研究者によると、イ族のシャーマン(ピモと呼ばれる)の使用する経典(代々引き継がれてきた)の文字と 遺跡で見られる文字とが一部で一致する。また、死者の儀式でピモが死者の霊に呼びかける時、 祖先のいた場所に着くように指示をするが、その行先をたどると、三星堆遺跡の場所になるということだ。以上の調査から、彼らが古代国家の末裔と推測している。 それでは、なぜに彼らがこのように人里を離れた高地に住むようになったか、歴史の経過から説明している。 東晋時代に編纂された「華陽国史」に簡単な記述があるとのことだ。 紀元前316年に秦が侵入してこの国(古蜀国と名付けられている)を滅ぼしたこと、 紀元前2世紀に漢の武帝がこの地に益州を設置して中央集権を強めたこと、 さらに諸葛孔明が漢民族による支配を徹底させたとのことである。 このように、古蜀国の人々は侵入者により次々と追い払われ、最後には人里を遠く離れた高地にまで逃げ延び、 イ族の文化と伝統を守ってきた。 イ族の学校(涼山州民族中学)で教えていた日本人教師が赴任した時に、イ族の先生や生徒から、 「日本人の先祖はイ族という話を聞いたことがある?」と質問されたとのことだ。 イ族の人たちの伝承である。実際にイ族の人たちの顔立ちや文化も日本と似ており、親近感を感じたとのことである。 >>563 バカヤロウ! タイは4000年前から三足土器文化だカス! >>565 だからイ族が渡来定着した生活痕たる中国系痕跡遺構が一体どこにあるんだよ? 早く言えよ華南ニグロチックブタゴリラ! 照葉樹林文化とは、プレ農耕段階(照葉樹林採集・半栽培文化)、雑穀栽培を主とする焼畑段階(照葉樹林焼畑農耕文化)の文化と考えます。 照葉樹林文化の中心と見られる東南アジア北部から中国西南部の地域の特に少数民族のもとでは、モチゴメやモチアワなどの比重が大きくなり、 さまざまなモチ製の食品が出現するようになります。広い竪杵の分布域の中で、東アジアの照葉樹林帯のごく一部に限られて分布する横杵、 その分布域こそが、モチ文化の核心地域となっているように思われます。 モチの次にスシの原型と考えられるナレズシが、やはり照葉樹林帯とその周辺に点々と分布しています。 世界の酒は、1. ブランデーやぶどう酒のような自然の酵素で発酵するもの、2. ウィスキーやビールのように麦芽の酵素を用いて発酵させるもの、 3. 麹というカビの塊を用いて発酵させる酒があります。 この麹を用いる酒は、照葉樹林帯を中心に東アジアに広く分布します。 照葉樹林文化に共通する物質文化は以下のようなものがあります。 水晒しあく抜き技法、発酵茶、絹糸虫の繭からの製糸、漆器、柑橘シソ類の栽培、麹発酵酒、納豆などの大豆の発酵食品、 ナレズシ、コンニャク、雑穀稲のモチ種、オコワ、チマキ、モチなどのモチ性の儀礼食品、 高床の吊り壁、雑穀イモ類の混作焼畑、山の神信仰、歌垣や鵜飼の慣行、天の羽衣説話、死体化生神話などです。 照葉樹林帯には多くの民族が住んでいるが、その生活文化の中には数多くの共通の文化要素が存在する。 ワラビ,・クズなどの野生のイモ類やカシなどの堅果類の水さらしによるアク抜き技法、茶の葉を加工して飲用する慣行、 マユから糸をひいて絹をつくり、ウルシノキやその近縁種の樹液を用いて漆器を作る方法、 麹(コウジ)を用いて醸造することがその主なものである。 照葉樹林文化は、水田稲作に先行する文化であり、水田稲作を生み出し、稲作文化を作り出す際のいわば母体になった文化だといえる。 >>567 モチと絹以外、何にも弥生時代と関係ねえじゃん。 バカだろおまえ。 日本の稲作儀礼はイ族や雲南省ハニ族の稲作儀礼同じだった イ族や雲南省ハニ族の新嘗祭はそのままに日本の新嘗祭です。しかものちに変質してしまった日本の新嘗祭の古代の原型を推定する手がかかりさえのこされています 照葉樹林文化というのは、西ネパール付近からヒマラヤの南山麓を通り、中国南西部を経て西日本にいたる帯状の地帯にひろがっていた 照葉樹林地帯(照葉樹林は、クスノキ、シイ、ツバキなどの、葉は革質で光沢のある常緑広葉樹の林で、日本では九州、四国、関東までの沿岸部に分布します)に生まれそだった文化で、 焼畑農耕にもとづく雑穀栽培、ナットウやなれずしなどの醗酵保存食の利用、高床式住居の住居形式などなどの文化複合を形成しています。 ほぼ4000年前の雲南省の稲作は、それよりもさらに4000年以上さかのぼる長江中流域から伝来したものと推定されます。 したがって雲南の地にひろまった稲作の祭りや信仰もじつは長江中流域が起源地であったということになります。 日本の稲魂信仰とイ族や雲南省ハニ族の稲魂信仰の共通性は、長江中流域の稲作民の稲魂信仰が東西に伝播したためであるといいきることができます。 日本の神社には鳥居が立っている。なぜ鳥居というのか。組んだ木のてっぺんに鳥が居るからだ。 この鳥は他界から鳥の姿をして幸福や豊饒をもたらすためにやってきた祖霊がシンボルである。 日本神話では「天の鳥船」といって、そうした祖霊や幸福や豊饒を天空で運ぶ船さえ想定されていた。 一方、竪穴式住居を脱した古代の家々は、それでも吉野ケ里遺跡や三内丸山遺跡に見るごとく掘っ立て柱に屋根をかぶせたようなもので、 つねに柱が目立っている。そうした家々のある集落では、その入口に1本あるいは2本の柱をゲート状に立てて、 その上に木彫りの鳥を止まらせる風習をもっていた。いや、最初から鳥を置いたのではなくて、 そんな高い柱や組み柱にはたいていどこかから鳥がやってきて止まった。 その鳥の来し方行く末は、古代集落にとっては祖先や未来の国である。そこで木に鳥を彫って、それを柱のてっぺんにつけた。 このような柱と鳥の関係を総称して「鳥竿」(とりざお)とよぶとして、この鳥竿をつかった祭は日本にも韓国にもいっぱいある。 その鳥竿のルーツをさらに追っていくと、中国に行きつく。萩原さんはさらに追いかけて、それがミャオ族の習俗に出所していたことをつきとめた。 ところで、関西ではオコナイ、関東ではオビシャとよばれる行事が広まっている。 オコナイとは祈年行事のことで、神社でやるときはミヤオコナイ、寺院でやるときはテラオコナイといった。 リーダーとなるのはその年の頭屋(とうや)で、鏡餅づくりをするか、茅の輪を編んでみんなでこれをくぐるか、 丸い的をつくってこれに矢を射るかした。関東のオビシャは御奉射のことで、三本足の烏や三つ目の兎を描いた的を弓で射ることが多い。 これでわかるように、関西のオコナイ・関東のオビシャのどちらにも弓神事なるものが絡んでいる。 これらに共通するのは、鏡餅にしても茅の輪にしても丸い的にしても円形の標的があることで、 そこに矢を射ることが加わっている。いったいこれらは何を示しているのか オコナイやオビシャより古いかたちを見る必要がある。たとえば神楽だ。 日本の神楽はおおむね天地創成神話を背景としている。舞庭(まいにわ)あるいは神庭(こうにわ)を一つの異界として創出するのが演目になる。 このとき野外なら柱や竿から、室内なら天井から綱や紐や糸を垂らして、 そこに三本足の烏を描いた日輪と三つ目の兎を描いた月輪を吊るした。 のちにはそれが左右の幡(旗)になった。 ミャオ族は中国江南に居住する民族で、中国では古くから三苗とよばれた。3つの言語集団がいた。 その後はタイ北部にまで広がった。移動した連中はまとめて「百越」とよばれた集団である。 そのミャオ族では、新年になるとジーユイニャオという鳳凰に似た木彫の鳥をとまらせる柱あるいは竿を立てる。 芦笙柱(ろしょうばしら=トン・カー)という。楓香樹であることが多い。 その上のほうに牛の角のような横木をつけた(写真を見るとすぐわかるが、鳥居の原型に近い)。 新年、その芦笙柱の周りを左まわりで踊る。 なぜそのようになったかという伝説が「跋山渉水」という古歌にあって、 カササギあるいはツバメの先導でこの地にやってきたことをあらわしているのだという。鳥の到着地はのちのちまで神聖な場所になり、カー・ニンとよばれる。カーは芦笙のこと、ニンは場所である。村の“へそ”にあたる。 この神聖な場所は東西軸を重視する。そもそも中国では純血チャイニーズの漢民族は天空の中心の北極星(太極)を信仰して、 そのため南北軸を重視する。風水も、天子や宮殿が北を背に南面することを基本とする。 一方、江南のノン・チャイニーズの少数民族は繁茂する植物の象徴である太陽を信仰して、太陽の昇降する東西軸を重視する。 これでわかるように、ノン・チャイニーズのミャオ族の村の“へそ”に立つ芦笙柱は、太陽が依り坐す柱なのである。 太陽のトーテム・ポールなのだ。 太陽は季節や時間とともにコースを動くので、その季節や時間を感じることが大切になる。 そこで暦のようなものが生まれるのだが、文字をもたないミャオ族は、この季節と時間の“しるし”を 鳥の去来で学習していった。また、それを教える者を鳥官といった。 さらに、このような太陽信仰を支える鳥の存在と去来を忘れないように、芦笙柱を寿ぐ数々の祭では、 男はニワトリの羽根や茅萱(ちがや)の輪を差し、女は鳥の羽根の衣裳で身を飾った。これが鳥装である。いいかえれば、村のシャーマンたちは鳥装によって鳥霊になり、太陽の行方と合体するわけである。たちまち日本の鷺舞や鶴の舞といった各地の祭りがおもいあわされよう。 太陽と鳥と弓はひとつのものなのだ。では、これらの前提の話がどうして日本のコメ文化と結びつくかということである。 ミャオ族にはイネ文化もモチ文化もトウモロコシ文化も雑穀文化もある しかし、そのうちのいくつかは日本の社会文化によく似たものをもっている 稲を保存する高倉、高床式の住居、チガヤを稲に見立てる田植え行事、正月のモチ月、羽根つき、 竹馬、おこわ、チマキ(粽)、なれズシ、糯稲の麹でつくる酒、鯉や鮒の水田飼育、鵜飼いなどである。 そのほか、正月料理を男主人がつくり、年初の3日間は女性は家事をしない風習、 その料理を家の者たちが10日ほど食べつづけること、 新年の辰の日(元旦)に2個の丸餅を台状の脚の低い椅子にのせて大地に酒をそそぐ儀礼 どこか日本の正月に通じるものがある。 萩原さんはこうしたミャオ族の儀礼や生活をつぶさに観察して、しだいに中国原産のジャポニカを日本に運んだのはミャオ族ではないかと考えるようになった。 おそらく中国江南地方の稲作の技能をもったミャオ族の一部が、なんらかの事情で長江から山東半島と朝鮮半島をへて日本に来たのではないか。 結論 九州の縄文人とY-DNAが同じ民族は長江のイ族しかいない 日本語に近い言葉を話していたのは長江のイ族しかいない 九州の弥生文化と同じ文化は長江にしかない 従って、 弥生人=長江のイ族 で間違いないよ >>572 単にその萩原とかいうバカヤロウがぜーんぜん考古を語っていいレベルにない、 無勉無学の頭カラッポのスーパーウルトラパッパラパーなだけじゃねえかカス! >>573 確かに、何らの考古立証もできねえ華南ブタチックニグロチック汚物ピーデなおまえの妄想で 間違いないな(嘲笑 >>573 で、弥生人が長江・江南から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、 その生活痕たる衣食住に関わる生活密着型文物と文化である 三足や耳の付いた中国系土器の飲食器や炊飯器や調理器と 石刃の中国系耕作用農具と 中粒種の中国系イネと 土壁の中国系住居と 帯と袖の付いた中国系衣類と 龍信仰と 亀卜と、 渡来時に伝わった中国系言語の単語は? で、弥生人が長江・江南から渡来したと提唱している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は? 早く言えよ華南ブタ広鼻タラコ唇ベトナピーノ。 >>575 そんなのは四川省の涼山に住むイ族も持ってないだろ シリーズ13億人の深層 _ イ族 - YouTube 動画 2016/12/28 に公開 新年1月3日(火)夜11時30分〜第2弾放送決定! テレビ大阪開局35周年特別企画 「天空家族の7年 〜中国・四川省 標高3000mの希望〜」 シリーズ第一弾 「天空の教室」 (テレビ大阪にて放送) 中国内陸、標高3000mの山奥で暮らす少数民族イ族の家族に密着。貧困から抜け出すため「教育」に全てをかける親とそれを一身に受ける3人の子どもたち。教育、経済、そして家族愛から中国の深層を描くドキュメンタリー。 ◆日本神話の源流 2016年10月28日 https://blog.goo.ne.jp/himiko239ru/e/00c1636e1c904cfe1241e6c4017993ad 学習院大学の名誉教授で芸能史学者の諏訪春雄氏によると、記紀の天孫降臨神話は朝鮮半島から内陸アジア地域にかけて広く分布する 祖神の天降り神話に由来するという定説に対して、 南方の長江流域の少数民族社会にも祖先が穀物を持って天から下ったという神話や伝説が流布していることから、 天孫降臨神話は北方諸民族の山上降臨型神話によってその骨格が形成され、 これに天から穀物をもたらし地上の人類の祖先となる南方農耕民族の神話が融合して誕生した、と唱えた。 出雲の根の国神話についてもその由来を長江流域の少数民族の神話や伝説に求めることができるという。 さらに諏訪氏は、東南アジアの兄妹始祖洪水伝説の系列に属するとされていた記紀の国生み神話が、 実は長江流域に数多く発見される洪水神話に基づくことを論証し、 東南アジアで発見される洪水神話もその分布状況から判断して中国から伝播したものである、 つまり洪水神話はその源流は長江流域であるとしている。 そしてこれと同じ理屈で、海幸山幸神話の原型も長江流域の伝承が取り込まれたのだと主張する。 ◆日本神話の源流 2016年10月28日 https://blog.goo.ne.jp/himiko239ru/e/00c1636e1c904cfe1241e6c4017993ad 学習院大学の名誉教授で芸能史学者の諏訪春雄氏によると、記紀の天孫降臨神話は朝鮮半島から内陸アジア地域にかけて広く分布する 祖神の天降り神話に由来するという定説に対して、 南方の長江流域の少数民族社会にも祖先が穀物を持って天から下ったという神話や伝説が流布していることから、 天孫降臨神話は北方諸民族の山上降臨型神話によってその骨格が形成され、 これに天から穀物をもたらし地上の人類の祖先となる南方農耕民族の神話が融合して誕生した、と唱えた。 出雲の根の国神話についてもその由来を長江流域の少数民族の神話や伝説に求めることができるという。 さらに諏訪氏は、東南アジアの兄妹始祖洪水伝説の系列に属するとされていた記紀の国生み神話が、 実は長江流域に数多く発見される洪水神話に基づくことを論証し、 東南アジアで発見される洪水神話もその分布状況から判断して中国から伝播したものである、 つまり洪水神話はその源流は長江流域であるとしている。 そしてこれと同じ理屈で、海幸山幸神話の原型も長江流域の伝承が取り込まれたのだと主張する。 華南では川を江と書く 華北では川を河と書く 朝鮮では川を江と書く つまり、朝鮮の稲作文化は長江の稲作民の文化が山東半島から朝鮮西岸沿いに海路を伝わったもの 弥生文化も朝鮮から伝わったものではなく、山東半島から朝鮮西岸沿いに海路を伝わったもの >>580 朝鮮への漢字の伝来は漢四郡を設置した遼東郡漢人によってもたらされたもの。 遼東郡の土器文化には三足や耳の付いた中国陶磁器の器形も原始青磁などの 中国陶磁器の焼成テクノロジーもなかった。 彼らの祖先は戦国時代の後期に燕に併合され漢化を余儀なくされた元々は非漢人たちである。 だからこそ遼東郡漢人は中国陶磁器を全く作れなかった訳で、その分家である楽浪郡の 楽浪土器にも鬲や鼎や原始青磁が一切ない訳だ。 鼎や原始青磁まみれの長江や華南なんて何の関係もない。 >>579 で、弥生人が長江・江南から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、 その生活痕たる衣食住に関わる生活密着型文物と文化である 三足や耳の付いた中国系土器の飲食器や炊飯器や調理器と 石刃の中国系耕作用農具と 中粒種の中国系イネと 土壁の中国系住居と 帯と袖の付いた中国系衣類と 龍信仰と 亀卜と、 渡来時に伝わった中国系言語の単語は? で、弥生人が長江・江南から渡来したと提唱している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は? 早く言えよ華南ブタ広鼻 突顎 タラコ唇ベトナピーノ。 イ族は中国人じゃないからそんなの無いだろ 九州縄文人とイ族は農耕民だけど南方系で Y-DNA は D1 なんだ: ユーラシア東部の現生人類集団の2層構造 https://sicambre.at.webry.info/201902/article_32.html オセアニアも含むユーラシア東部の現生人類集団が、北方系と南方系に明確に二分されることを見出しました。 現代人との比較では、北方系はシベリア集団と強い類似性を示し、南方系はアンダマン諸島・オーストラリア先住民・パプア人と密接に関連しています。 モンゴルや中国北部の現代人は北方系に分類されます。ユーラシア東部の現生人類集団の形成過程の検証において重要となるのは、古代人の頭蓋ですが、 後期更新世に関しては、中国北部の周口店上洞(Upper Cave at Zhoukoudian)遺跡および南部の柳江(Liujiang)遺跡からインドネシアのワジャク(Wajak)遺跡まで、 現生人類頭蓋は南方系の範囲に収まりました。 本論文は、後期更新世のユーラシア東部には、まず南方系現生人類集団が拡散してきたと推測し、 これを「第1層」と呼んでいます。 中国南部でもやがて農耕が始まりますが、5000年前頃までは、狩猟採集民集団が広範に存在していたようです。 これら中国南部の14000〜5000年前の狩猟採集民集団は、依然として「第1層」の特徴を保持していました。 日本列島の「縄文人」も南方系に区分されます。 北方系が中国北部以南のユーラシア東部に出現するのは、農耕開始以降です。 新石器時代・青銅器時代・鉄器時代のユーラシア東部集団では、「第1層」たる南方系から北方系への置換が確認されます。 本論文はこの北方系集団を「第2層」と呼んでいます。 「第2層」の拡大に関しては、農耕開始による人口増大が大きな役割を果たしていたのではないか、 と推測されています。 中国の黄河および長江流域では、9000年前頃に農耕が始まり、キビなどの「雑穀」やコメが栽培されるようになり、 やがて複雑な社会構造を形成していき、ついには「国家」が出現します。 中国の初期農耕集団は南北ともに、北方系との頭蓋の類似性を示します。 黄河および長江流域の最初期の農耕に関して、本論文は「第2層」集団との関連を推測しています。 「第1層」と「第2層」は遺伝的に明確に区分でき、早い時期に分岐したのではないか、というわけです。 本論文はこれに関して、二つの仮説を提示しています。 一方は、「第1層」集団が南方からシベリアへと拡散して寒冷地に適応して「第2層」が形成された、というものです。 もう一方は、「第2層」の起源はアジア西部またはヨーロッパにあり、ユーラシア北部を東進してきた、というものです。 本論文は、さまざまな証拠を考慮に入れて、北方系の「第1層」と南方系の「第2層」は早期に分岐し 前者はヒマラヤ山脈の北を、後者は南を東進してきた可能性が高い、と推測 「第2層」は45000年前頃にユーラシア西部からシベリアを経由してユーラシア東部へと移住してきて、 その考古学的指標は細石刃伝統ではないか、と本論文は想定しています。つまり単純化すると、 (中国北部以南の)ユーラシア東部においては、元々は南方系の「第1層」が拡散しており、 農耕開始とともに北方系の「第2層」が南下していき、ついにはポリネシアにまで拡散した、というわけです。 _______ 「第1層」のY-DNA は D1 : 縄文人とイ族、チベット・ビルマ人 「第2層」のY-DNA は O1, O2 : 黄河文明人、長江の稲作民、弥生人 本論文は、「縄文人」を「第1層」の南方系、「弥生人」を「第2層」の北方系と位置づけており、 有力説である「二重構造モデル」と整合的です。 「二重構造モデル」とは、更新世にアジア南東部方面から日本列島に移住してきた人々が「縄文人」となり、 弥生時代にアジア北東部起源の集団が日本列島に移住してきて先住の「縄文系」と混血し、 現代日本人が形成されていった、とする仮説です。 ただ、「縄文人」に関しては、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析でもゲノム解析でも北方系と南方系との混合が指摘されており、 単純に南方系とは言えないでしょう。 農耕・牧畜の開始(10000〜8000年前頃) 中国の現生人類集団は、農耕・牧畜開始の前後で南方系から北方系へと大きく変わった可能性が指摘されています。 これは頭蓋データに基づくものです 現代漢人のミトコンドリアDNA(mtDNA)研究では、漢人の遺伝地理的な区分として、 南北の二分よりも黄河(北部)と長江(中部)と珠江(南部)の各流域という三分の方がより妥当で、 この遺伝地理的相違は早期完新世にはすでに確立されていた、と推測されています。 という事で埴原和郎の「二重構造モデル」は否定されている 長江の稲作民 O1b は頭蓋データからは北方系になるんだ 九州の縄文人 D1b と弥生人 O1b も北方系になる 埴原和郎の弥生人寒冷地適応説は否定されている 縄文人・アイヌ人は 「第1層」D1b2b でアイヌ語を話していた 四川省の涼山に住むイ族・九州縄文人・西北九州弥生人・現代日本人は「第1層」 D1b1 で日本語を話していた 弥生時代後半から古墳時代に朝鮮から日本に移住してきた渡来人は「第2層」 O1b, O2 で百済語、高句麗語を話していた 四川省の涼山に住むイ族=九州縄文人 は「第1層」で Y-DNA は D1 だけど、稲作を取り入れていたからややこしく見えるんだ 埴原和郎の「二重構造モデル」 「縄文人」=「第1層」の南方系、「弥生人」=「第2層」の北方系 としている。 しかし、九州の縄文人=イ族 は「第1層」の南方系だけど焼畑農耕をやっていたので「3重構造モデル」が正しい >>583 >日本列島の「縄文人」も南方系に区分されます。 区分されません。 縄文人の祖先の旧石器人はアルタイ系石器人である。 >>584 「第1層」集団が南方からシベリアへと拡散したのなら、アルタイより日本列島の方が 地理的に近いのだから、日本列島最古の人類の足跡は南方系の石器集団のはずである。 ところが、日本列島最古の人類の足跡は石刃技法をもたらしたアルタイ系の石器集団である。 この時点で第1層が南方から北上した説は破たんしている。 >>587 イ族が日本語を話してたわきゃねえだろがカス(嘲笑 馬鹿も休み休み言えよキチガイ。 それに古墳期の朝鮮帰化人は百済系土器を作らず新羅系土器を遺した。 話していたのは主に新羅語だ。 飛鳥時代に白村江の戦い以降に亡命で入ってきたのは百済人と高句麗人だがな。 >>588 埴原和郎の「二重構造モデル」は、 「縄文人」=「第1層」は中央アジアからアルタイ経由で入ってきた北方モンゴロイドになる前の北方系、 「弥生人」=「第2層」は北方モンゴロイドになった後の北方系なだけだろ。 >>583 の北方、南方というのは北に居たという話じゃないよ 元々、中国全土に南方系の D1 属が住んでいて そこにシベリア回りで 北方系の O1, O2 が中国に移住してきた という話だ。 南方系が北回りでバイカル湖から北海道に入って来ても南方系は南方系だ だから縄文人は南方系と言ってるんだよ 長江は南方にあるけど、O1 はシベリアから南下してきた北方系民族だから 南方に住んでいても北方系になるんだ 北方系は朝鮮人みたいに8母音 南方系はアイヌや日本人みたいに5母音だ 長江人、弥生人は北方系 イ族、アイヌ人、縄文人は南方系 で間違いない 漢民族は北方系 中国語の母音は36個あり、 これに母音と21個の子音との組み合わせで形成される音(音節)を加えると 中国語の音節は全部で400余りにもなります。 音の数は日本語の51音に比べてかなり多くなります。 さらに 一つ一つの音節には声調と呼ばれる高低や上げ下げの調子がついていますので 中国語の発音をマスターするのは大変です。 単母音 母音だけからなる6つの単母音と「er」という特殊な「そり舌音」があります。 a 日本語のアより口を大きく開けて「アー」 o 日本語のオより唇を丸く突き出して「オー」 e 日本語のエの口の形で喉の奥から「オー」 i 日本語のイより口を左右に引いて「イー」 u 日本語のウより唇を丸く突き出し口の奥から「ウー」 ü 日本語のユを言う口の形でイの音を出す「ユィ」 er 単母音eの音を発音しながら下の先を上にそらせる i, u, üは単独で使うときはyi, wu, yuと書き換えます。 複合母音 複合母音は、単母音が2つ以上組み合わされてできた母音で、2つ組み合わされた二重母音と 3つ組み合わされた三重母音があります。 ◆二重母音◆ 始めの母音ははっきり発音、後の母音は弱く発音 イ族、アイヌ人、縄文人みたいな南方系は言葉も文化も単純なんだよ >>593 バイカルから樺太経由でバイカル系細石刃をもたらした旧石器人がアイヌの 祖先なんだから、バイカルもかつてはDじゃねえと話がおかしいじゃねえかカス! Dは中近東までに登場していて、中央アジアからアルタイ経由で東アジアから シベリアまで広がり、朝鮮半島経由でアルタイ系旧石器人と樺太経由で バイカル系旧石器人が日本列島に入った。 そのあとシベリア南部でOが発生して南下し、最終的にポリネシアまで凌駕し、 日本列島にも沿海州南岸から弥生人として山陰に渡来定着して西日本中に拡散した。 それだけの話だろが。 縄文末期は寒冷だったから沿海州で稲作なんかできないよ Oはスンダランドのクソ熱い気候に適応したからチビなんですよね >>598 稲作は渡来してから、50年以上あとの時代の子孫たちが朝鮮南部から パクってきただけの話だろがボンクラ! 出雲における最初の弥生土器の登場から50年以上あとの時代の話だぞ。 最古水田こと菜畑遺跡の出現は。 >>590 日本列島最古の人類の足跡は38000年前の磨製石器であり 磨製石器はオーストラリアや東南アジアで5万年前から作られてたし 遺伝子的にも南方からの北上が証明されてるから 最初は南方からの北上で確定 最古水田は一気に出て来たから、朝鮮から集団移住した稲作民が始めたんだ 文化だけの拡散ではない >>601 磨製石器は世界中で個別に出現してるから移動の証拠に使えないし、 なぜ東南アジアと日本までの間の磨製石器が一切ないんだ? 話にならんね。 >>602 最古水田の弥生人たちは朝鮮土器を一切作っていない。 最古水田からは搬入された朝鮮無文土器の壺が一基出土しただけ。 彼らがもっぱら作っていたのは出雲の前池式の次の段階の弥生土器である山ノ寺式。 最古水田の弥生人たちは山東省から朝鮮西岸を通って九州に船で来たんだよ 朝鮮土器なんか関係ない >>604 じゃあ何で三足や大きな耳の付いた中国系土器を作らない? 何で土壁の中国系住居を伝えない? 何で5000年前からある漢服を伝えない? 何で龍信仰を伝えない? それに弥生人が最初に渡来定着したのは九州じゃなくて出雲だぞ。 >>605 イ族は中国人じゃないからそんなの無いだろ >>606 そんな詭弁は通用しない。 で、何で三足や大きな耳の付いた中国系土器を作らない? 何で土壁の中国系住居を伝えない? 何で5000年前からある漢服を伝えない? 何で龍信仰を伝えない? 早く言えよ華南ウンコ色ブタチックインドシナゴリラ。 イ族は漢民族に虐殺されて山奥に逃げた民族だろ 今でも漢民族の文化を憎んでいる >>609 そんな詭弁は通用しない。 で、何で三足や大きな耳の付いた中国系土器を作らない? 何で土壁の中国系住居を伝えない? 何で5000年前からある漢服を伝えない? 何で龍信仰を伝えない? さっさと言えよ華南ウンコ色ブタチックインドシナゴリラ。 >>611 で、その証拠遺跡とその文物は? 華南ホラ吹き半ブタ半ニグロ。 四川省のイ族はそんなものは何もないだろ 弥生人は今のイ族と全く同じ生活してるし >>613 だから、その証拠遺跡とその文物は? 早く言えよインドシナ華南ホラ吹きブタ広鼻半ニグロのおまえ。 >>613 で、その証拠遺跡とその文物は? 早く言えよ全身全霊ウソで出来てる醜悪極まりないインドシナ華南のブタとボルネオ黒人の中間種。 >>617 その鳥居は現代人が勝手に建てた捏造建造物だろが大バカ! 鳥居の登場は8C以降で、それまでの埴輪にも、土器や石器や金属器の絵画にも、 鳥居は一切見られない。 で、その証拠遺跡とその文物は? 早く言えよ頭のてっぺんからつま先までウソで出来てるインドシナ華南ウンコ色ブタゴリラ。 弥生時代の鳥居は鳥の木像を載せた柱だ 大神神社の鳥居とは違うだけさ >>622 で、その出土した鳥居の証拠現物は? . 丸太は再利用するから鳥の木像だけしか残らないんだろ 日本語がフィンランド語に似てるようだからNに征服されたってのもありえるのか? >>622 で、その出土した鳥居の証拠現物は? 早く言えよこの身も心もウソで出来た華南ブタ広鼻 突顎 タラコ唇ハノイロピテクス。 鳥形木製品 鳥に対する信仰は,基本的には稲作文化の渡来とともに大陸からもたらされたと考えられます。 その意味では大陸系譜ということもできるでしょう。しかしながら,鳥形木製品は文化受容の玄関口となった北部九州からは あまり出土せず,近畿・東海地方から数多く出土する傾向があります。 ・山田康弘1996「鳥形木製品の再検討」『信濃』48-4 2014 国立歴史民俗博物館 鳥形木製品の用途 水野正好氏(1982)や渡辺誠氏(1995)に代表される「集落の境界を守る鳥」の考え 方が有力である。 鳥形木製品が北部九州からは あまり出土しないのは、長江人は朝鮮人によって北部九州から追い出されたからさ。 神社にある鳥居の起源って?これは昔から不思議に思っていたのだけれど、どうも東南アジアから東アジアに広がる“倭族”に共通した信仰・風習を起源としているようです。 「鳥居論---ニッポン人の鳥信仰とその出自」 鳥越憲三郎氏は「倭族」という概念で、中国南部や東南アジア、それから朝鮮南部および日本に共通して残る習俗を括る。 その氏によって、雲南省やそこに隣接する東南アジア北部の山岳地帯に棲むタイ系諸族(アカ・ハニ族など)に「鳥居」が見出されている。 それは左右二本の柱の上に笠木(横に渡す木)を載せたものだ。ただし、これは「社(やしろ)の門」ではなく「村の門」(「ロコーン」と言う)だ。 「鳥居」の起源は、共同体(村)へ侵入する悪霊を防ぐ結界門だったのである (「締め縄」とはそういう意味だ)。 そして、果たしてその門の笠木には木製の鳥が止まっていた。 実は、吉野ヶ里遺跡を始め、わが国の弥生時代の遺跡からは木製の鳥が頻出している。 だが「鳥居」は残っておらず、どこにどう止まっていたのかは分からない。 「村の門」には左右の自然木に「締め縄」が渡されただけのものもある。 それらにはしばしば「鬼の目」がぶら下がっている。 鬼の目とは竹で編まれた悪霊を追い払う呪具(「籠目」もその一つ)で、現代の日本の締め縄にも吊されている。 >>627-630 鳥型なんてシベリアからアフリカまで世界中で見られるじゃないか。 何の証拠にもならん。 つか、大バカ中の大バカだろおまえ。 >>627-630 で、弥生人が長江・江南から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、 その生活痕たる衣食住に関わる生活密着型文物と住居文化である 三足や耳の付いた中国系土器の飲食器や炊飯器や調理器と 石刃の中国系耕作用農具と 中粒種の中国系イネと 土壁の中国系住居と 帯と袖の付いた中国系衣類と 龍信仰と 亀卜と、 渡来時に伝わった中国系言語の単語は? で、弥生人が長江・江南から渡来したと提唱している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は? 早く言えよ華南ブタ広鼻 突顎 タラコ唇ベトナピーノ。 >>625 日本からフィンランドまで拡散したんやで >>633 Anthlogenicaだかどっかで 中国北東部だかで N tatだかが見つかったからそこが起源地ってみたけど違うんか? 日本列島から拡散したなら、少なくともアムール川下流域に日本のナイフ形石器が 伝わっているハズだろうが。 ありませんのでね。 人類の文化的躍進のきっかけは、7万年前に起きた「脳の突然変異」だった:研究結果 https://wired.jp/2019/09/01/recursive-language-and-imagination/ 人類が洞窟壁画の制作や住居の建設といった「文化的躍進」は、 7万年前より前には発見されていない。この時点でいったい人類に何が起きたのか──。 この進化の引き金を引いたのが「脳の突然変異」であった可能性が、 米大学の研究によって明らかになった。 7万年前というと北上してアフリカ北部の高温砂漠地帯に入って原始コーカソイドに なり始める頃だろ。 それまで熱帯雨林やステップなどの比較的恵まれた自然環境から一転して、 初めて厳しい自然環境に突入して急速に進化が始まったんじゃないか? 【歴史】縄文時代の終盤に人口急減 寒冷化か、DNA解析で[06/17] https://egg.5ch.net/test/read.cgi/scienceplus/1560787193/168 168 名前:ニュースソース検討中@自治議論スレ[sage] 投稿日:2019/09/02(月) 10:01:55.50 ID:yHFDAod9 中国の河姆渡遺跡から約7500年前の漆器が発見されている 一方、北海道の垣ノ島遺跡からは約9000年前の漆器が発見されている この二つの漆器の発生がそれぞれ独立して起きたとは考えにくい 漆器の発生がどちらが先かは兎も角として、少なくとも約7500年前にはこの地域間に交易があったと考えるべきだろう 河姆渡遺跡と言えば稲作発祥の地としても知られる遺跡である 古代の中国日本間に交易があったのならば、この時期に稲も伝わったのだろう >>640 Y染色体と男女の脳の形成に関する遺伝子とは関係ないよ YAPが関係あると仮定すると 人類の全女性と半数以上の男には 文化を創造する(言語を使う)ことができないことになってしまう これが全人類に共通している点から 「7万年前の突然変異」は出アフリカより前となるね 中国北方の青銅器・鉄器文化の再検討の結果、戦国七雄の一つである燕国の鉄器などの痕跡を 北部九州各地で確認したことです。これまでの定説よりも約 250年前の紀元前4世紀中頃、すでに燕国や東方の遼寧 地域との間に直接的な交流があったことを明らかにしました。 この2つの発見により、弥生文化の成立は、想像を超える遠 隔地とのダイナミックな交流によって達成されたものであるこ とがわかりました(図2)。 https://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/22_letter/data/news_2011_vol2/p-5.pdf >>639 で、7500年前に伝わったそのイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)は? . >>642 交流で搬入した金属器はあっても、漢人が渡来定着した痕跡遺構は縄文弥生を通して 一切ない。 >>645 金属器は奢侈品だぞ。 搬入された奢侈品だけあって、生活痕たる衣食住に関するあちらの生活密着文物や住居が在地産で一切ない。 つまり、単にこちら側が主体で搬入した搬入品なだけ。 >単にこちら側が主体で搬入した搬入品なだけ。 神体を搬入するアホは居ない 信仰も無いのに神体だけ買う可能性はゼロだ >>647 バーカ あちらの文物は弥生人にとって総て宝器だったんだよこの無学無勉の頭カラッポのパッパラパー! >あちらの文物は弥生人にとって総て宝器だったんだよ 鏡が出るのは伊都国と大和国だけだろ 華僑がそこに住んでいたに決まってる >>494 鏡は支那女の身だしなみの必需品、かつ生活密着文物 支那女は奢侈なんだよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる