古蜀国はどこに行ったか? −三星堆遺跡を見てー
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研究者によると、イ族のシャーマン(ピモと呼ばれる)の使用する経典(代々引き継がれてきた)の文字と
遺跡で見られる文字とが一部で一致する。また、死者の儀式でピモが死者の霊に呼びかける時、
祖先のいた場所に着くように指示をするが、その行先をたどると、三星堆遺跡の場所になるということだ。以上の調査から、彼らが古代国家の末裔と推測している。

それでは、なぜに彼らがこのように人里を離れた高地に住むようになったか、歴史の経過から説明している。
東晋時代に編纂された「華陽国史」に簡単な記述があるとのことだ。
紀元前316年に秦が侵入してこの国(古蜀国と名付けられている)を滅ぼしたこと、
紀元前2世紀に漢の武帝がこの地に益州を設置して中央集権を強めたこと、
さらに諸葛孔明が漢民族による支配を徹底させたとのことである。

このように、古蜀国の人々は侵入者により次々と追い払われ、最後には人里を遠く離れた高地にまで逃げ延び、
イ族の文化と伝統を守ってきた。 

イ族の学校(涼山州民族中学)で教えていた日本人教師が赴任した時に、イ族の先生や生徒から、
「日本人の先祖はイ族という話を聞いたことがある?」と質問されたとのことだ。
イ族の人たちの伝承である。実際にイ族の人たちの顔立ちや文化も日本と似ており、親近感を感じたとのことである。