【Y-DNA】ハプログループ総合スレ36【mtDNA】©2ch.net
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>>721
コーカソイドとかモンゴロイドとかに分れる前だな。
5万年前に出アフリカしたとして、それから5000年もせずに分かれてる。 アメリカ大陸やその他広く広がったQがRと別れたのは30000万年前以降。
拡散するのは最終氷期が終わって、マンモスが減って食いもんが減って。
NOの先祖とは一緒にはいなかったみたいだなあ。
欧州は、最終氷期は相当の部分が氷河に覆われている。
スカンジナビアもイギリスもドイツ北部まで。アルプスも広い範囲で氷河だった。
欧州人の先祖はいったいどこにいたのか?
Rは、シベリアでマンモスを追いかけていたようだけど。 >>722
Oは東南アジアじゃないよ。
Nと一緒にいたんだからな。
漢民族とかは、もっと新しい時代の概念だわ。
シベリアにいたOが農耕や稲作を持ってアジア一帯に広がり、同じくシベリアにいたRが
牧畜農耕を持って欧州からインドまで広がる。
どっちも発明したのが誰かは別だけど。
Rはウクライナ近辺で農耕と車輪と印欧語を持って西へ行き、現地民と合体して
後にゲルマン民族を成立させる。
Oは南下し、現地民と合体して農耕、稲作で爆発的に増え、さらに漢字で漢民族となる。
漢字の発明よりも前に、東南アジア、インドまで広がる。マダガスカルまでも行ってしまう。
K*が雲南に多いから、ここを通ったのか?
ブリヤートとウイグル族の多様さが特に目立つが、古いのか新しいのかはっきりわからんな。
言語は1万年以上経つと系統は判別できないとか。
中国語は、アジアの中で異質。人口の多さと漢字で惑わされるが。 >>725
南方アジアのOは、農耕民に圧倒されたと考えるしかないね。
バスクがR1bに乗っ取られたのと同じで。
だけど、どっちも母系は先住民がたくさん残ってるね。
アジアは二段階で農耕が広まった感じ。
初期農耕と水稲稲作と。
地中海除く欧州は、牧畜農耕と、車輪と鉄か? 普通なら、日本も南アジアのようにOで埋め尽くされていてもおかしくない。
なのにそうではないということは、Dが稲作を受け入れて自分で増えたってことだろうな。
O1bは、水稲稲作が来る前に日本列島へ来てたように見えるし、彼らも縄文人なんだろう。 >>737
Nの頻度が高いのはヤクートとネネツ。
Nの分布はシベリアからスカンジナビア半島北部がほとんどだから、
OがNと分岐したのはシベリア南部あたりだとしか考えられないね。
シベリア南部あたりからポリネシアまで拡散していった。 Oは北上するする前からIQ高かったのかな?
寒いとこでしかIQ高くならないんだろ? >>741
Oは南下しかねえだろがカス
残念だったなインドシナ華南ブタチックピテカントロプスのおまえ >>741
OはRの先祖と一緒に北回りで、おそらくは中央アジアルートかチベット超えルートで
シベリアへ入っている。
そこで、NOの先祖とR,Qの先祖が別れた後は別々の場所にいたのだろう。
大きくはO,N,Q、Rが出来、Qはものすごい広範囲に広がっている。アメリカから欧州、
Nも広いがもっぱら北の方が中心でイングランドやアイルランドまでも行ってる。
Rはご存知の欧州人というか印欧語族の中心で、一部はアフリカへも行ってる。
アジアへは来ていない。
OはRと逆で、欧州へは行かず、もっぱらアジアでインド西部を除くアジア一帯。
だけど、アメリカにはどうやら行かなかった。
1万6千年前にベーリング海峡をうろうろする集団にはいなかったらしい。
どれも、16000年前頃、第一次拡散期があったのだろうな。
最終氷期が終わり、一気に広がる。
氷期の間、どこでしのいでいたか。
その間は、どれも孤立していたのかもわからんね。
2万年前に混ざっていたらこんなふうにはなっていないから。
Qの一部はRといたのかもしれん。
それかNと一緒だったか。
とにかく、Rの主流は欧州へ行く前に中央アジアから黒海のほとりで印欧語を成立させ、
その後数回に渡って欧州へなだれ込む。
Oは分岐が古く、2.6万年くらい前にO1やO2が別れているが、拡散したのは農耕と水稲
が関係してるな。
古マレーと新マレーが正業が違うらしいし。
インドへ行ったのは水稲が出来てからだろうな。
南の地域は、ミトコンドリアは先住民のものが強い。
マラリア耐性は女系で受け継がれたのか。
白人のGm遺伝子は、家畜の病と関係するのか?
北アジアのGm遺伝子はインフルエンザ? http://1.bp.blogspot.com/_Ish7688voT0/TKTSclYI10I/AAAAAAAACn4/dwaqLUPumEM/s1600/philippines.jpg
やっぱOは南方だな
チベットの山地をNとともに南下し、Oだけになって東南アジアに広がった
マレー系は雲南人が南下した説があるがそれでも紀元前数千年前
その時代にはカナン人がすべてOである必要がある
アフロヘアーの黒人であるネグリトですら主要はO 大河灌漑農法、水田稲作で人口が爆発的に増え広がったにしても当然メソポタミアよりだいぶあとのことだろう
そんな短期間でマレー系を大部分置き換えるほどにはならないし、フィリピンやニュージーランドに至るのも不可能 何かブタとニグロの中間種みたいな激しくクッサイ汚らしい醜悪極まるニオイがしてこないか? 日本語のYesはHaiでバスク語のYesはBaiだがこれは日本人が形質で見ると少しQの連中が交じってるから? Rはむしろコーカサス諸語だろう
膠着語であるほうがPQNOと関係で整合がとれる 四万年前の中国・田園洞人のY染色体ハプロはK2b
ゲノム解読では田園洞人は現代北方漢民族とほとんど一致(ただし、田園洞はわずかに縄文の影響も受けている)
また田園洞人の全ゲノムは欧州からは遠いが、アメリカ先住民には結構近い
P、Q、R、N、Oは全てこのK2の子系統
K2は原始コーカソイドの系統だが、大陸東部で新モンゴロイド女をレイプしてモンゴロイド化した
従って田園洞人は全ゲノム上はモンゴロイドだが、Y染色体ハプロはコーカソイドという歪な構造になっている
全ゲノム解読で田園洞人は漢民族直系の祖先であるのは確実
Rは分岐時点では新モンゴロイドだったが、シベリアにいた西方コーカソイド集団と混血して再度コーカソイド化した
と見るべきだろう K2が性欲の化け物で大陸東部の新モンゴロイド女をレイプしまくってコーカソイド→新モンゴロイド化
Rもこの性欲の化け物の子系統らしく、今度はシベリアのコーカソイド女をレイプしまくって新モンゴロイド→コーカソイド化
OはMS(これもK2の末裔w)と一緒に東南アジアに南下し、現地のオーストラロイド女をレイプしまくってポリネシア人が誕生する
また一部がマダカスカルにまで到達し二グロ女もレイプ
Rの白人とOの中国〜ポリネシア人、マダカスカル人は性欲の化身・ネアンデルターロイド土人の末裔 K2なんか最後の最後の分岐系統なのに子系統がここまで爆発的に繁殖してるの見ると
ホモ・サピエンスに滅ぼされたネアンデルタール土人の最後の復讐と言えるのではないか? K2とその子系統達は人生楽しんでそうで笑える
法律もクソもない時代だからやりたい放題だっただろうな この拡散のカオス感を見る限り明らかにヒャッハー大好きな連中だからな
田園洞人は後の縄文の祖先との混血要素も見られるわけだから
この連中は当然旧石器時代の日本にも来てるだろうし(逆に来ない理由がない)
従ってO自体は弥生以降の系統というわけでもなかろう
というか縄文人の骨のY染色体ハプロを調べまくったら多分Oだらけだろう
K2、Pあたりもいるかもね
この連中はmtDNAハプロM9、D4あたりの新モンゴロイド女(性奴隷)と一緒に縄文時代の日本に来ている ならず者のK2の末裔達が母系M7、N9の縄文人女性をレイプしまくってないのは父系Dが抵抗したのかな?
あるいは共存ルート? まぁ他地域と比べて抵抗はあっただろうね
DもDで古代遺伝子のくせに繁殖しすぎだしこの連中もレイプ魔の末裔か? 普通に考えてCだろう
C1が原始モンゴロイドで最古層の東西ユーラシアの覇者
C2以降が新モンゴロイド C1は大陸ではK2と愉快な仲間達やクロマニョンのI、Jに押されて絶滅
現在はオーストラロイドと日本にわずかな痕跡を残すのみ
C2だって本来は東アジア広域に見られていいはずだがモンゴルとツングースに見られる程度 C1と対になる母系遺伝子がN9だ
C2は母系A、C、Gあたり
おそらく一夫多妻制って奴だろう
Dが母系M7と対になり
K2と愉快な仲間達がD4、M9、CZと対になる
これで縄文のミトコンドリア遺伝子の多様性の謎は解ける 縄文の時点でミックスされまくっているが、弥生になって母系D4主体の新モンゴロイド女が渡来
D4女が大量に繁殖し地域差はあれどここに来て日本人が完全に新モンゴロイド化する
形質遺伝子は常染色体だから女の影響の方がが強い(Y染色体にはチンポの設計図しか入ってないw) D4はQとともに南北アメリカ大陸を横断している
つまりアジア東部でD4女をレイプしてモンゴロイド化したQが
性奴隷であるD4女を従えてアメリカに移住している
またQはRと一緒になってシベリアのコーカソイド女もレイプしていたようだから若干コーカソイド形質遺伝子が入っている Y染色体ハプロは父系直系で娘には受け継がれんから原始モンゴロイドのうちのいくつかの系統が絶滅した可能性もある
現にC1は絶滅寸前だ
原始モンゴロイドにはC以外にもあったと思うがK2と愉快な仲間達に上書きされて消えた系統も当然あるだろう
発見されていない以上分岐図からは無視されているがな 非常に面白いし分かりやすい
D4女もヤリマンっぽいな
弥生時代に大量繁殖したのは原住民の父系Dと中田氏セックルキメまくったか だろうな
日本ではK2の末裔はでかい顔できなかったのかDがそれなりに残ってる
でも全ゲノムだと縄文率1割だから比率的におかしい
つまりD4女とDがセックスしまくった結果日本人が新モンゴロイド化したわけだ
K2がモンゴロイド化した理屈と同じで田園洞人みたいに歪な構造になっている
ミトコンドリア遺伝子のM7とN9の割合が実際の縄文率だろう
全ゲノム解読数値に近い D1b 東山天皇(京都)、南朝・後村上天皇(京都)、伏見宮家(京都)、近衞文麿(京都)
本郷源之丞(宮城)、橘孝三郎(茨城)、加藤周一(埼玉)、酒井崇匡(東京)、中田真秀(東京)、須藤元気(東京)、細川茂樹(岐阜)、山崎内蔵允(三重)、坂口和明(奈良)
蛭川立(大阪)、竹村真一(兵庫)、崗上虜囚(岡山)、正田初治(広島)、五反田甚蔵(広島)、堀江貴文(福岡)、小林よしのり(福岡)、吉原建(福岡)、又吉直樹(沖縄)
M7a 太田光(東京)、矢野暢(熊本)、有田哲平(熊本)
N9b 千葉雄大(宮城)、ねづっち(東京)、関野吉晴(東京)、スザンヌ(熊本)
M7b 細山貴嶺(東京)、山田賢治(千葉)、羽鳥慎一(埼玉)、川口春奈(長崎)、又吉直樹(沖縄)
N9a ナガセ・ヒロエ(山形)、篠田謙一(静岡)、中田敦彦(大阪)、後藤絵理(福岡)、コロッケ(熊本)、宮崎宣子(宮崎) >>752
その西方コーカソイドっていうのが、今の考古学証拠じゃあほぼ色黒なタイプなんだよな 現代日本人 Y-DNAハプログループ比率
D1a2a--32% :以前は縄文系だと言われていたが縄文人からはまだ見つかっていない
O1b2-32%(旧表記O2b) :長江系稲作民(倭人)
O2---20%(旧表記O3):漢民族系
C2----6% :縄文系 山人
C1----5% :縄文系 海人
O1b1--1%(旧表記O2a) :長江系稲作民 (倭人)
O1a---1% :長江系稲作民 (倭人)
N1----1% : トルコ系
D1a,Q1--1%未満
(2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)
現在のアイヌ人のY-DNA出現頻度調査まとめ
D1a2* 81.25%: 縄文系
D1a2a1 6.25%: 和人系
C2 12.5%: オホーツク文化人系
現在のニヴフのY-DNA出現頻度調査まとめ
C2 38.1%: オホーツク文化人系
O1b2 28.6%: 長江人系
Q 19.0% : フン族系
R1a 9.5% : スラブ人系 現代コーカソイドの肌の白色化遺伝子と金髪遺伝子はK2の末裔の持っていた遺伝子の可能性があるな
OCA2あたりのアルビノ変異が固定化されたんだろう
色黒碧眼コーカソイドの青い目はherc2の変異だから金髪や色白肌とは根本的には発色原理が異なる >>770
こんなもんも眉唾だけどなw
基本的にはmt DNAとその他ハプロとの比較が必要
縄文にC、Dしかないってのはミトコンドリア遺伝子多様性から見てどう考えてもおかしいw 星占い未満。
単なる無学無勉のパッパラパーをダマすための材料。
中国は7000年前の河姆渡遺跡の時代から甑で穀物を蒸して食べる事をしていた。
ところが日本は弥生末の3Cになるまで甑がなく、それまで穀物を蒸して食べる事を知らなかった。
その差、5000年以上。
中国から稲作も弥生人もあり得なさすぎる。 >>711
白くなったのはもっと最近って言われてるな。
せいぜい9000年前ごろとか。 ニヴフがアイヌと争ったなら史書に「船で攻めてきた」とはかかないだろう
アイヌが争ったのはC2主体の人種
顔も一部のアイヌにあらわれてるがツングースっぽい ブラック企業で有名な渡邊美樹みたいな顔がオリジナルツングース >>763
>形質遺伝子は常染色体だから女の影響の方がが強い
ソースは? >>777
ヒト含む哺乳類の性染色体は生殖器つまりチンポアンドキンタマを作る遺伝子しか持っておらず性決定に関与するだけ
生殖器以外の形質遺伝子は全て常染色体にある
理由は簡単で、元々は常染色体上にある性決定に関与する遺伝子群が進化の過程で習合して作られたものが性染色体
なお爬虫類などの下等生物では性染色体から形質が決定することもある
性染色体ではメンデル則は成り立たたず、必ず同性の子孫に受け継がれるという現象を利用してY染色体ハプロは成り立っている
これを遺伝的連鎖という
ソース?こんなの生物学の常識じゃないか?
猿でもわかる解説↓
>Xという染色体はYに比べて大きく、体の機能や構造、顔つきや性格の一部など生きていくために重要な遺伝子情報がたくさんのっています。
>一方、Y染色体には生殖器をつくる遺伝子情報しかありません。
https://woman.excite.co.jp/article/child/rid_E1558588337219/ これがY染色体ハプロが形質と一致しないと言われる所以
無論男にも常染色体が22本あるわけだからこっから形質は遺伝するが、それはY染色体ハプロとは無関係
当然だが娘が生まれるとそこでY染色体ハプロは断絶する
女は23本全てが常染色体だから子孫により形質を残しやすいという特徴がある
しかしmtDNAハプロは形質と関わりがある
mtDNAハプロはY染色体ハプロとは全く違う原理だが必ず母子遺伝する
しかも男にもミトコンドリアは存在するため、Y染色体とは違い母から息子にも受け継がれるのが特徴(この息子の子孫では断絶するが)
ミトコンドリアはエネルギー産生機構であるため体質と深い関わりがある
D4は超長寿遺伝子であるしFは瞬発力、Gは持久力に優れると判明している ヒト染色体数は23対46本
ヒト常染色体は44本
性染色体は女がXXで男がXY
Yのみ他の常染色体およびX染色体と形状が違い、付随体を持たない
Yのみ他の染色体との振る舞いが違い男性決定のみに関与しまた情報量も極端に少ない
X染色体は性決定以外の形質及び生命維持機能関連遺伝子にも関与するためある意味常染色体のように振る舞う >>779
>無論男にも常染色体が22本あるわけだからこっから形質は遺伝する
>女は23本全てが常染色体
X染色体は性染色体だから女も常染色体は22本だよ Yなんてゴミクズだよ
弥生人は長江江南
縄文人は南方
こんなフザケた答えを出してくるゴミクズをいつまで拝んでんだ中卒! >>752
YはK2なのに全ゲノム解読では中国人アメリカ先住民と一致か
そしてK2はPQRNOの直近共通祖先であると
面白いな
お前さんの言う通り元々はコーカソイドだったんだろう
んでRは元々モンゴロイドだったが混血してコーカソイドになったと
PQの分布とも整合取れるな
パシュトゥーンに見られるQ*だけ謎だが、ハザラ系モンゴロイドに原始的なQがいたのかもしれない (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html 日本人って絶対に大昔から色々な民族の血が混ざってるよね
東北には色白で目の色が青みがかった人とか薄いブラウンの人がけっこういるし天然パーマの人も多い、実は僕も小さい頃からハーフ?とか言われた両親も祖父母も日本人なのに、因みに先祖は高槻藩士 そもそも日本人は単一民族じゃないから
アンバーとは琥珀のことで、琥珀色によく似た色をしています。オレンジがかったような赤みのある茶色と考えるといいでしょう。
日本人には珍しい目の色になりますが、ヨーロッパ人には多くいます。
特に九州には、この目の色を持つ人が多くいます。
ヘーゼルとは緑がかった茶色で、明るいライトブラウンに深みのあるダークグリーンを混ぜたような色合いをしています。
アンバーの目の色が多い九州には、ヘーゼルの目の色も生まれやすいと言われています。
ヘーゼルの目は米国やヨーロッパの人々に多く、日本では九州地方に偏在して見られるものの、
基本的にはアフリカ、中東、アジア圏ではほとんど見られない。 (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
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蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
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粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
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3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
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◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
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7000年前 中国に起源
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3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
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今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
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◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
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7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html 縄文人は鍋に米、アワ、ヒエ、肉、魚、木の実をすべて入れて食べるんだ
甑は使わない 縄文晩期に渡来した弥生人は甑を伝えませんでした。
弥生人は中国では7000年前からある蒸して食べる方法を
弥生末まで知らなかったのです。
長江稲作民やら漢民族やら、2億%あり得ないね。 オリジナルツングースのワタミ形質は華北経由で日本に侵入し大和朝廷を乗っ取った ゲノム解析が進んだ結果「人種」は実在することが判明した 縄文晩期に渡来した弥生人は甑を伝えませんでした。
中国では7000年前からある甑で蒸して食べる方法を
弥生人は弥生末の3Cまで知らなかったのです。
長江稲作民やら漢民族やら、2億%あり得ないね。 男系がDだろうが母系がM7だろうが形質が朝鮮なら朝鮮人
ハプログループというのは現実逃避の甘えにすぎない 民族、人種、形質概念とネイション概念の違いを理解しよう
形質で判断する民族はほとんどいない (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html 縄文末期に渡来した唯一痕跡のある渡来系集団はアムール川周辺にいたオロチ族でしょ 縄文時代のイネの現物(稲籾、籾殻、炭化米)を一粒でも見てみたいもんだわ(嘲笑 >>80
弥生人が縄文末の渡来時に遺した最初の弥生土器と特徴が一致する土器文化があったのは
沿海州南部あたりで、アムール川あたりは違う土器文化だぞ
今はウデへとかナナイがいるあたりだよ 弥生人が縄文末の渡来時に遺した最初の弥生土器の特徴
突 出 し た 口 縁 部 に 刻 み を 施 す
. 弥生人の原郷
上記のように、シニ・ガイ文化から刻目突帯文土器と似た土器が発見されている[1]ことから、刻目突帯文土器およびこれを携えた弥生人(土器の無文化をもたらしたハプログループO1b2 (Y染色体)[3]が含まれる)の原郷を沿海州南西部に求める見方がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8B%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%82%A4%E6%96%87%E5%8C%96 シニ・ガイ文化(シニ・ガイぶんか)とは、沿海州南西部の青銅器時代(約4000年前〜3000年前)の文化である。
シニ・ガイ文化からは、青銅器を模倣したと考えられる石製品が出土するが、骨角製品が多く、土器の突出した口縁部には刻みが施される。
これは日本の縄文時代晩期終末〜弥生時代にみられる刻目突帯文土器と似たものである。
その後、初期鉄器時代にはヤンコフスキー文化→クロウノフカ文化(団結文化)に移行していく。 日本の最古の青銅器は
三崎山遺跡(山形県飽海郡遊佐町)では大陸との交易によって入手したとみられる約3000年前の青銅刀子
東アジア北部では中国よりも早くに鉄器が伝わり、沿海州では紀元前1000年頃に鉄器時代を迎えている。
シニ・ガイ文化とは、沿海州南西部の青銅器時代(約4000年前〜3000年前)の文化
3000年前に鉄器が流入してヤンコフスキー文化に移行
シニ・ガイ文化からは、青銅器を模倣したと考えられる石製品が出土する
石剣(せっけん/せきけん)は、縄文時代後期から晩期(約4000年前〜3000年前)にかけての遺跡などから出土する石製品の遺物(石器)である。
柏倉によれば、縄文後・晩期に現れる石刀は大陸からもたらされた青銅製刀子の模倣であるとしている[4]。
このように研究者の中には、これらの石剣・石刀を縄文人が大陸の光り輝く青銅剣を観て模したものとみている。 日本で出土した最古の鉄器は、が愛媛県大久保遺跡で出土した、中国東北部の燕という国で前5世紀頃(約2500年前)に作られた鋳造の鉄斧である。 弥生時代
本格的に青銅器が日本(倭)にもたらされたのはおよそ紀元前2世紀であり、生産もその後すぐおこなわれた可能性が高い[3]。
弥生時代の3世紀までに鉄器が普及していたのは北部九州地域に限られており、日本のその他の地域から出土する鉄器は僅かである。
日本で純粋に砂鉄・鉄鉱石から鉄器を製造出来るようになったのはたたら製鉄の原型となる製鉄技術が朝鮮半島から伝来し、確立した6世紀の古墳時代に入ってからである。 日本は青銅器と鉄器が同時に伝わったとされるが
どう見ても青銅器が先で、鉄が後
世界中で普遍的に発生した青銅器→鉄器による革命
これが日本で発生しなかったとするなら同時に伝来と主張せざるを得ないわけで
実際にはどう見ても青銅器→鉄器の流れが日本にもあり、神話では国譲りが描かれているので、日本でも同様の流れがあったと考えられる 青銅器
約3000年前に山形県に青銅刀が伝来
約3000年前にシニ・ガイ文化圏から日本への渡来定着の痕跡有り
シニ・ガイ文化圏と同様に、青銅刀を模した石刀が約3000年前の日本から出土
約2200年前から青銅器の生産は行われていた
鉄器
約2500年前に愛媛県に燕製の鉄斧が伝来
約1700年前の時点で鉄器は北九州のみ普及
約1500年前に日本全国に鉄器が普及 日本神話の国譲り
日本海側の出雲は青銅製の武器を量産していた
出雲に対して国譲りを迫った大和は身体が刀に変化する神を派遣
日本の国譲り神話は、青銅器→鉄器の革命を描いているものと考えられるし
そうであるならば、シニ・ガイ文化をもって渡来した弥生系の出雲が日本列島で支配的になっていた状況に対して、
鉄器を用いた土着系が「日本列島統治の正当性は我々にある」と主張して国譲りを迫ったと考えると全て繋がる 最古の青銅器が日本海側で出土して
最古の鉄器が瀬戸内(太平洋側)で出土しているのも
後の出雲と大和の対立軸を考えると理解できる 初期の青銅器や鉄器はすべて半島や沿海州からの搬入品だぞ。
日本で在地産の青銅器が作れるようになるのはBC2C、鉄器が作れるようになるのは
1Cまで待たなければならない。
興味深いのは、初期の搬入した青銅器や鉄器には漢字(金文)があるものが一つもない点。
つまり中国から搬入したものではない事が分かる。
漢字が入った青銅器が搬入されるのは半島が楽浪郡時代になるまで待たなければならない。 日本最古の鉄器は燕からのものとされているが
これも恐らく流れとしては、シニガイ文化圏に3000年前に流入した鉄器文化の伝播であると考えられる 約3000年前に青銅器文化のシニ・ガイ文化圏に鉄器が流入して革命が起きてヤンコフスキー文化に移行
その地を追われた集団が約3000年前に日本海側に渡来して最初の青銅器とシニ・ガイ文化が伝来
その末裔が出雲を建国して青銅器量産を可能にした
約3000年前にシニ・ガイ文化圏に鉄器文化が流入
その後、燕を経由して約2500年前に最初の鉄器が瀬戸内に伝来
北九州にて約2000年前に鉄器が量産された
鉄器を用いた土着集団が青銅器を用いた渡来集団に対して国譲りを行った 鉄器を用いて国譲りを行った集団が土着集団だったかは定かではないが
縄文末期から弥生時代を考えると渡来が証明できるのはシニガイ、青銅器、出雲の集団
それ以外に存在しないので必然的に土着集団が想定されるし、神話上の主張もそれを示している 国譲りがいつ行われたかは、銅鐸文化の消滅が示している
銅鐸は約1800年前に急に作られなくなり全て埋められているので、
その頃に鉄器集団による青銅器集団への国譲りが行われたと考えられる
その頃の鉄器は北九州でのみ生産・普及されていた
この鉄器を土着人が用いて九州から畿内に入り、青銅器集団を倒して大和朝廷が成立し、全銅鐸の放棄が行われた おいおい、渡来人の渡来はBC11〜12C頃、青銅器の生産はBC2C、鉄器の生産は1Cだぞ 銅鐸は約1200年前に掘り起こされた際には、「アショーカ王の鐘」と言われていた
銅鐸が仏教に由来するものであるなら、約2000年前の時点で南伝上座部仏教が日本に伝来していたことになり、国譲りの動機が一層深まる
中国江蘇省無錫市にある春秋戦国時代(紀元前770 - 同221年)の地方国家「越」の貴族墓(紀元前470年頃)から、日本の弥生時代の銅鐸に形が似た原始的な磁器の鐸が出土している。
発掘調査を担当した南京博物院考古研究所の張所長は、鐸が中国南部の越から日本に直接伝わった可能性があると指摘している。
青銅器伝来の始まりはシニ・ガイ文化からの伝来
銅鐸の形式は南方越が由来
銅鐸は南伝上座部仏教の可能性
渡来系文化のごった煮が青銅器文化集団と捉えることもできるので鉄器土着人による国譲りの動機には合致する >>825
青銅器の渡来自体は渡来人の渡来があった約3000年前が最初
三崎山遺跡(山形県飽海郡遊佐町)で約3000年前の青銅刀子が出土している >>826
銅鐸の起源は朝鮮青銅器の銅鈴
初期の銅鐸は朝鮮銅鈴とほとんど変わらない
越なんて何にも関係ない
>>827
俺が言い出した事だから知ってるわアホ
だから単なる沿海州からの搬入品だろ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>825
稲作の伝来がBC12〜BC11頃で、鉄器を持った渡来人が来たのがBC5〜BC4C頃
稲作を始めたのは元々日本に住んで居た縄文系の人達だったんだよ。 灰塚山古墳の調査成果を報告する東北学院大
の辻秀人教授=福島県会津若松市の
県立博物館で約1500年前に会津地方を
支配した豪族とみられる全身人骨が見つかった
喜多方市の大型前方後円墳「灰塚山古墳」
に関する講演会が24日、会津若松市の県立博物館であった。人骨の復元に取り組んでいた東北学院大(仙台市)の辻秀人教授(考古学)が調査成果を報告。顔つきは現代人に近く、渡来系集団が大和朝廷とつながって支配していたとの見方を示した。
https://mainichi.jp/articles/20191125/ddl/k07/040/052000c >>831
ウソコキ中卒チンコロ発見
渡来人の渡来は弥生土器の登場からBC11〜12C頃、稲作はBC10C、
青銅器の生産はBC2C、鉄器の生産は1C
稲作にしろ金属器にしろ、朝鮮土器を作らない集団が始めているから、
単に九州北部の弥生人が半島南部から技術をパクってきただけ (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html 中国では7000年前から甑があり、穀物を煮て炊くだけでなく、甑で蒸し上げて食べていたのです。
7000年前からですよ。
ところが日本に甑が伝わり、穀物を蒸し上げて食べる事を知ったのは3Cの弥生末ですよ。
フランスなんか、ほんの70年前まで蒸すという調理法がなかったのです。
弥生人が長江やら江南やら漢人やらと執拗にデタラメを垂れ流している
中卒のチンコロがいるようですが、2兆%あり得ないね。 ・水稲稲作を持った「弥生人がやってきた」と思い込まされてるのは、間違い
・水稲稲作は「縄文人」が取り入れた
・「弥生形質」が現れるのはもっと新しい
・「弥生人の遺伝子」だと思い込まされてるのは実は半分以上は縄文人
「弥生人」が縄文人を駆逐して今や10%しか残らないというのは嘘。 銅鐸は宗教、偶像であったから埋められたんだろうな
普通は溶かして再利用する
半島ではその宗教は流行らなかったからそもそも出土があんまない
半島がルーツではなく日本から渡った宗教
銅鐸のルーツは縄文土器の一部にある直立しない土器だろう 3000年前に箕子が朝鮮および沿海州、ワイ系を支配し、青銅器文明圏を鉄器で支配
鉄器の制作自体は広まらず、渡来人にも伝わらなかった
北九州の鉄器は半島から
砂鉄から作られる製法は知られてなく史書にも倭人が半島南部で鉄を買い求めてることが書かれる 銅鐸のルーツは長江で今も祭りに使っている銅鼓だというのが定説 そんなもんを埋めんだろ
その程度のものなら溶かして剣つくるわ https://www.sankei.com/photo/daily/news/160207/dly1602070021-n1.html
3個が兄弟銅鐸と確認 淡路島で製作の可能性も
素材は半島らしいが、銅自体は日本でとれる
ブロンズを限りなく黄金に近づけるための錫などを輸入しただけか
これが最古の埋められた銅鐸
当然日本で製造 >>836
真実はこちら
・水稲稲作を持った「弥生人がやってきた」と思い込まされてるのは、間違い
・水稲稲作はその50年以上前に沿海州から渡来した渡来人の子孫が半島からパクった
・「弥生形質」が現れるのは新町遺跡からで弥生早期以前 >>839
銅鐸のルーツは朝鮮青銅器の銅鈴だバカチンコロ
初期の銅鐸は朝鮮銅鈴とほとんど変わらない ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 >>833
滅茶苦茶だなw
>>848
最近のDNAの研究で縄文時代末に渡来は否定された
縄文人が稲作を始めて弥生時代になったんだよ
弥生土器は縄文土器を作っていた人達が生活様式が変わったので作る土器の様式も変わっただけなんだ。 >>849
縄文人は東南アジア、弥生人は長江と出してくるような、
そんな星占い未満の的中率しかないゴミクズ、いつまで信じてんだバカ
おまえみたいに脳内妄想を語ってるんじゃなくて、こっちは歴博基準なんだよ
渡来人の渡来は弥生土器の登場からBC11〜12C頃、稲作はBC10C、
弥生土器の登場の方が菜畑遺跡の稲作より50年以上早いんだぞ
稲作を始めた人々の土器である山ノ寺式は最古の弥生土器じゃなくて、もう次の段階の
弥生土器なんだぞ
一番古い弥生土器は島根の前池式だぞバカチンコロ! >>850
天動説と地動説の争いみたいなもんだなぁ。
歴史の面白いところはいくら証拠を積み重ねても
それが真実かどうかは分からないところ。
歴博基準の妄想なわけで。どの妄想が最も尤もらしいか
ってのを追求することしかできん。
んで、歴博基準の尤もらしい虚像に固執して、それに
縋ってても何も得られないよ。 >>851
歴博が妄想な訳がないだろが詭弁パッパラパー 弥生時代の稲作は縄文土器を作っていた人達が始めた事が近年のDNAの研究で判明している
水稲は稲を持った極一部の人が来ただけ
土器が変化しても作ってた人達は同じ
渡来人は紀元500〜400年くらい前から鉄器を持って北部九州へ来たが古墳時代になるまでは勢力を拡大出来なかった。 >>853
最古水田菜畑の土器は山ノ寺式弥生土器だぞパッパラパー!
しかも最古の弥生土器じゃなくて、すでに次の段階の弥生土器だぞ。
最古水田からは朝鮮無文土器の壺が一基出土しただけで、その人々は朝鮮土器を
全く作らず、もっぱら山ノ寺式弥生土器のみを作っていた。
つまり稲作は菜畑遺跡の山ノ寺式弥生土器人自身が朝鮮南部から技術をパクってきて
始めただけという事だ。
金属器にしても、青銅器はBC2C、鉄器は1Cになるまで生産はされていない。
それまでの金属器はすべて朝鮮南部から弥生人自身の手で搬入していただけだ。
最古の青銅器と鉄器の生産遺構にしても、搬入された朝鮮土器の出土はあるものの、
在地産の朝鮮土器がなく、半島人が入植した痕跡がない。
つまり金属器も稲作同様、九州北部の弥生人自身が朝鮮南部から技術をパクってきて
自らの手で始めただけという事だ。 >>854
アホだな縄文人は朝鮮半島南部にまで居たんだよ
日本国内での鉄の製鉄は5世紀くらいだし銅は日本国内で銅鉱山が発見された7世紀くらいからだろ。 >>855
あちらにこちらからの渡航定着を示す在地産の縄文土器遺構も弥生土器遺構も
ねえだろがパッパラパー
ぜーんぶぜんぶこちらからの搬入土器なだけ。
もっぱらステイばっかで定着まではないという事だ。
7500年前に朝鮮南部に登場した隆起文土器だって済州島系で九州系ではない。
もうその時代の九州はすでに隆起文土器の時代ではないしな。 東京出雲ふるさと会
出雲 猪目洞窟(黄泉の穴)古墳時代人骨DNA
核ゲノム抽出成功2体
男性 渡来系(8〜9世紀)
女性 縄文系(6〜7世紀)
ミトコンドリアDNA
3体 縄文系 3体 渡来系
小浜洞窟 核ゲノム抽出は現代の技術ではまだ不可能
https://www.yomiuri.co.jp/local/shimane/news/20191128-OYTNT50112/ >>855
もっと前だろ
百済が見捨てられ始める時代にはもう国内で鉄器が作れるのは知られていたはず
青銅器は砲金みたいな黄金色をだすための金属が国内にはなかったはず
でそれは輸入されたかもしれないが、青銅器は古い ゲノムDNAでさぐる日本列島人の由来(斉藤) 交詢雑誌2019年11月搭載
http://www.yaponesian.jp/userfiles/koujyunzashi_NOV2019.pdf
これはちょっと複雑な系統ネットワークですが、沖縄から見ると九州が一番近いです。地理的にも当然です。
数字を見ていただくと、沖縄から見ると、九州が二八二三という数字で沖縄と東北、沖縄と近畿よりも小さい。これは当然予想されます。
ところが、その次は東北なんです。近畿のほうが地理的には近いのに、沖縄と東北のほうが三二八二とちょっと小さい。
これが驚きであります。あたかも北のアイヌの人々と沖縄の人々に共通性があったと同じように、今度は東北人と沖縄の人にちょっと共通性があることがわかったわけであります。
沖縄----------------------------九州----東北--近畿
https://i.imgur.com/uD4xj8i.png これは共同研究をしておりますジェネシスヘルスケア社から提供を受けた日本人一万五千人を調べた結果ですが、
四十七都道府県のミトコンドリアDNAのハプロタイプの頻度を基にして調べたところ、驚いたことに、まさに今私が地図で言いました周辺部分が右に行きました。
鳥取、私は福井ですが、福井も田舎の県です。おとなりは島根です。島根と沖縄は近いんですよ。それから上に高知、山形、熊本、大分。もう北、南、入り乱れております。
そして、左のほうには中央軸で、東京、神奈川、千葉、埼玉、兵庫、大阪、静岡、愛知、福岡、京都、宮城と、これも東西関係なく集中しております。
https://i.imgur.com/yhoPGrW.png
https://i.imgur.com/MppWr3C.png >>860
その図を見ると、渡来人は南関東に渡来定着した事になってしまうな。
もちろん、そんな馬鹿げた話はない訳で、事実、弥生期の渡来系人骨のほとんどが
山陰〜九州北部から出土しており、その数も数千体にも及ぶ。
だから、遺伝子の頻度は最初に渡来定着した場所より、その遺伝子に合った場所の方が
ゆくゆくは数値的に上回ってしまうのではないか? 日本書紀に書いてるだろ
百済人新羅人高句麗人を関東に入植させたって そもそも東日本では縄文後期〜晩期にかけてほぼ絶滅に近いレベルで縄文人が減ってるから
理由は寒冷化 馬鹿な考古学者が縄文VS弥生の戦争があったと言うが
寒冷化で最盛期全国26万人から後期には全国8万人に減ってる縄文人が戦争なんかできる状態ではないし
渡来系の方も土地利用で利害が被らない沿岸性採集民である縄文人と戦争なんかする理由もなく眼中にすら無かったというのが実態
倭国の大乱とは明らかに渡来系同士の戦争
さらに言うと渡来社会に困窮した縄文人が融合していった結果が安徳台弥生や青谷上寺地弥生の核ゲノム(縄文率1〜2割)である 東日本型の母系M7aサブグループは現代日本人にはわずか0.5%しか存在しないのに対し
西日本型が12%も存在する
https://i.imgur.com/mmzqZ8f.jpg 寒冷化の影響を免れた西日本縄文人が東日本縄文より現代日本人に多く遺伝子を残していると言うことは国立科学博物館の斎藤、篠田も度々強く指摘している
これは弥生時代が始まった段階では関東に殆ど縄文人が存在していなかったことの証左となる
関東はローム層もあり水稲稲作を行いづらく渡来系弥生も定着しにくかったが、古墳以降に高句麗や百済難民を移入させ開拓された
斎藤成也「ゲノムを見ると山陰より関東の方が韓国人に近い」
https://i.imgur.com/kDkwY76.jpg >>862
それ7C頃の話だろ。
縄文晩期の渡来人はBC11〜12C頃だから、その1800〜1900年後の話なんだよ。
朝鮮帰化人の前にすでに今の日本人は完成してるの。 周辺部分が 縄文+弥生 であるのに対して、中央軸は 縄文+弥生+朝鮮 だからかもしれんな。 紀元前1100年頃は
ギリシャも青銅器集団のところに鉄器集団が流入して暗黒時代だったなぁ ソロモンも紀元前1011年頃生まれたと聖書教徒が言ってるけど
歴史的な裏付は無く、考古学的には疑問視する意見も少なくない。
ソロモンの指輪はヤハウェの命を受けた大天使ミカエルよりソロモン王に授けられた指輪
黄銅(真鍮)と鉄でできている
良き魔神(天使)を使役する場合は黄銅(真鍮)の部位を、悪き魔神(悪魔)を使役する場合は鉄の部位を投げ当て、呪文を唱えるといかなる魔神も強制的に従わせた。
銅が天使で鉄が悪魔 紀元前1000年頃が有力視されているゾロアスターは
世界初の唯一神、天使と悪魔、救世主、終末論を説いた >>867
縄文晩期に渡来人とかないよ
弥生時代は縄文系の人達が稲作を始めたんだよ
渡来人が来たのは弥生時代中頃で鉄器を持って来た
弥生時代に渡来人定住していたのは主に北部九州地域に限られていた
古墳時代になって日本全国に広がったんだよ。 >>873
中卒バカチンコロ乙
じゃあ何で弥生早期から渡来形質の人骨が出始めるの? 富山・小竹貝塚(前期)では中国安陽青銅器時代人に酷似した高身長でのっぺり顔の縄文人が出土している
北海道・北黄金貝塚(後期)でも小竹貝塚人に酷似した同様の大陸系の骨が出ている
この小竹貝塚のmtDNAハプロに漢系主流のD4は全く見られず、北東アジア系のN9が多いことからおそらくツングース系であろうとされている
大陸系の渡来自体は縄文晩期どころかかなり早い段階からあってしかも北部九州に限らない
ただ主流にはなり得なかった >>875
富山あたりの縄文遺跡から円筒土器やケツ状耳飾りが出てるから、対岸の沿海州と交流してたかもな。
ただ主流にはなり得なかった。
ところが縄文末に渡来した集団は人口を伸ばして主流になり得た訳だ。 主流になっていないというのは北日本を除く縄文人の話
北東アジア系のmtDNAハプロN9は東北北海道で極めて支配的
北日本では縄文系統であるM7の方が少数派という珍しい事態になっている
N9のうちN9bは縄文の系統とされるがこれは元々沿海州起源のツングース
円筒土器文化と沿海州の関連も散々言われていた話
縄文土偶の起源も沿海州シベリアに求める向きもある
ただアイヌにはN9bは殆ど見られずM7が増えるなど、アイヌには西日本の縄文の遺伝子が強く受け継がれた可能性がある N9bが現代日本人やアイヌに全く見られないのは当然後期〜晩期の寒冷化による東日本縄文人の激減が影響を与えている
ここでボトルネックがあり、寒冷化の影響を受けなかった西日本縄文人の方が現代へ子孫を残せただけの話 また北日本縄文にはmtDNAハプロD4(漢系だが沿海州にも多い)とG(これも北東アジア系)が多いことも見逃せない
出現頻度はM7より高く当然N9とともに南下してきたものと考えられる
D4は弥生の系統であるはずなのに縄文人から検出されたため学者を驚かせたことは有名 渡来人に中国系男系遺伝子が入ってるし
沿海州は支配層(中国系)が色々やらかしたんだろうな まぁ普通に考えてD4に対応する父系Oも北日本縄文に居ただろう
父系D(母系M7と対応)、O(同D4)、C2(同N9、G)が北日本縄文に見られると考えられる 7万〜1万年前の氷期の地図
海面は今より130m以上低いので陸続きだった
https://i.imgur.com/PzDIWPH.png >>882
これを見ると温暖化より氷河期の再来の方が人類の危機に直結しそうだな
俺達は生き残るために正しい努力するからお前らは絶滅に向かってどうぞの臭いがする環境対策 京都議定書で決定した代替フロンからノンフロンへの移行は誰も守っておらず
逆に代替フロンの量が増えていってることをみると
地球温暖化をわざと起こしているとしか考えられない
地球寒冷化に備えて温室効果ガスを出しまくった方が良いと主張している教授もたくさんいるのが現実だ >>880
中卒バカチンコロ乙
だったら縄文晩期の渡来時に鬲と甑のセットを伝えるはずだろうがパッパラパー
華北では7000年前から穀物はすべて鬲と甑のセットで蒸し上げて食っていた。
シニガイ文化のどこにそんなものあるんだ?
日本に甑が伝わったのは弥生末の3C、鬲に至っては永遠に日本に伝わる事はなかった。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html 7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 ミトコンドリアハプログループL3→M、Nの分岐と
Y染色体ハプログループCT→CF、DEの分岐が
どちらも約7万年前の東南アジアで発生したというのが最新の研究成果 日本列島に一番最初に来た人類集団は東南アジア系の石器を持ってきませんでした。
どこの石器を持ってきたかと言うと、
正 反 対 の 場 所 の ア ル タ イ 系 の 石 器 で し た 。
. 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 世田谷一家殺害事件のハプロ
<母系のミトコンドリアは、「アンダーソンH15型(イタリア、クロアチアなど地中海側の地域を示す)」
、父系の染色体は韓国、台湾、中国、日本人を含むアジア民族に多くみられる「O3e*(オースリーイースター)」と判明。
つまり、犯人は欧州人とアジア人のハーフ(混血)か、クオーターである可能性が高い> 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
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商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
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アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
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7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
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縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! >>907
それの元は7000年前の日本の勾玉だよ >>706のY-O,mt-M7の人 以前から度々5chに顔を上げてたこの人らしいね
https://i.imgur.com/F9W58XA.jpg
新ウィキリヒトっていうサイトの管理人やってて普通に顔晒してた
https://i.imgur.com/djfNHwK.png
確かに凄まじく濃い顔だな
どっかで父親の横顔も貼ってた
https://i.imgur.com/NNt1gi5.jpg
典型的な渡来系とはちょっと違うが確かに華北人っぽいね
とするとO1よりO2の可能性が高いか 2枚目は北村一輝に似てるな
311あたりで更新止まってるwikiリヒトの後継か
確かに元祖wikiリヒトは管理人の独断成分が強かった(特に謎の東北age)からな
オカマバイリンガルブログと並んで今後に期待 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
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7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
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7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
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縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! インド人ハーフと言われても違和感は無い
本物のインド人ハーフであるグローバーよりインドっぽい顔してる
主張見る限り少し左翼っぽいのが難点だが ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
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7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
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縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! >>917
理性ある人間なら天皇一族には消えてほしいと思うよ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 東アジアにいたコーカソイドってハプロは何なの?
J? そもそもなんで性染色体だけで形質が確定すると思ってんの OとRは近いからOは元々コーカソイドだったんじゃないかって説はある もともとはモンゴロイドでしょ
K2からきてるんだから 黄河文明人がまわりのモンゴロイドの女をレイプしまくって生まれたのが漢民族 じゃあその男系遺伝子ほぼ消えてるやん
結局支配者層をレイプ仕返したのが漢民族だな ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
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7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 鹿児島県人は顔が濃い。
だから、D系統が強いと思われがちだが、意外に
鹿児島県人は他の九州の地域と違って
O系統の割合が高い。 鹿児島県に多いO系統って
どのO系統なのか知りたい。 Oだから全部弥生の渡来人ってわけじゃないよな。
そう言い張る人類学者もいるみたいだけど。 権力者の家系が生まれると
その家系は何代にもわたって一夫多妻制なので
その家系のY染色体はどんどん増えていく。
一方、庶民の家系は一夫一妻制なので
特定の家系が一人勝ちして、増殖することはない。 世界中に強いてる民族が自民族に対しては産めよ増やせよを奨励しまくってるのがな。
なんでみんな気付かないのか不思議だ。 遺伝学者の崎谷満は、O2の一部は縄文時代に既に来ていたとしている
理由は簡単で母系M10が関東縄文や小竹貝塚によく見られるから
縄文人には少ないが母系D4も居ることから、対応するO1も居ただろう
というかそもそもY-ハプロと形質なんか一致しないだろ
父系Dの顔が濃いならチベット人が超薄顔しかいないことをどう説明する
日本の父系Dはチベットの亜流だぞ
縄文人のミトコンドリア遺伝子は多様性が大きすぎるわけで
まともに調べられていない縄文人のY-ハプロも調べたら多様性があるのが当然
ハプロで形質を語っている奴はヒトラー気取りのバカ 鹿児島県でO系が強くなったのは
中世以降の歴史が大きく関係していると俺は推測している。
鹿児島県は、惟宗姓の島津氏が最高権力者の家系になったから。
そこから多くの庶流の家も誕生した。
それらの多くが、何代にも渡って一夫多妻制にあるのだから。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! >>921
天コロなぞ古墳時代の日本にやってきた朝鮮半島由来の騎馬民族の直系子孫だからね
まともな理性があれば反天皇主義者にならざるを得ない >>943
島津に限らず公家やら華族やらの遺伝子なんか庶民の遺伝子には何の関係ない
身分差別が激しい時代で平民は雑草レベルの扱いだぞ
日本の上流階級は大元辿れば全て天皇家に辿り着き騎馬民族の末裔と言える
天皇の血が濃いか薄いかの違いでしかない 強烈な身分差別+儒教的価値観を持ち込んだのは明らかに騎馬民族
ヤマト朝廷が小中華思想を模したのは中華文明圏に対するあからさまなコンプレックスの発揚
この朝鮮半島由来生物の正体はワイ族と蔑まれたモンゴル・ツングース系の騎馬遊牧民
定住をせず他者からの収奪でのみ生活が成り立つ文化程度の低い奴らである
文化程度の高い渡来人が文化程度の低い先住民を征服啓蒙したかのように書かれるが
実際は文化程度の低い土人が、縄文文化弥生文化に代表される文化程度の高い先住民を逆恨みで侵略したというのが正しい 根拠の無い妄想を書き込んで無いで、遺伝子検査でもしてこいよ。
都合の良い事に現在y-fullには主要な日本人が属しているハプロタイプ
(この中には当然近畿天皇家のハプロも含まれている)が既に一つは
登録されている事から、もしも本物の天智天皇の直系子孫
(源氏か平氏か藤原不比等)であれば、y-fullに参加さえすれば
必ずTMRCA(共通祖先年代)1100年〜1500年の数値が出る筈。
騎馬民族征服説なんて血統妄想の典型的な症例の一つ。
人(家系図)は平気で嘘を付くから信用出来ないけど、唯一DNA(血統)は信用できる。
天智天皇 西暦650年TMRCA1350(近畿天皇家始祖)
藤原不比等 西暦650年TMRCA1300(藤原五摂家始祖、天智天皇の落胤説)
桓武天皇 西暦800年TMRCA1200(坂東八平氏、清和源氏等の共通祖先)
斎藤成也 Twitter
https://mobile.twitter.com/saitou_sayer
9月28日
いずれにせよ、1950〜1970年代に流行した騎馬民族征服説は
まったくの間違いということになります。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) また「Y染色体ガー」の知的障害者か
天コロのY染色体がyap系統みたいな似たようなコピペ連投しているが根拠など無い
奴らのハプロは明らかにC2で日本人傍流のツングース系朝鮮人の末裔
考古整合で考えると必然そうなる 大体俺が唱えてるのは「ネオ騎馬民族説」であってこの斎藤とやらが否定している「騎馬民族説」ではない
「騎馬民族説」は弥生人を騎馬民族とした考えでこれは明確な誤りである 今でも瀬戸内海周辺及び近畿地方住民は短頭〜過短頭型を示すという
朝鮮半島では有史以来ずっと過短頭
近畿人は顔も朝鮮人そっくり
当たり前だ騎馬民族の本拠地なのだから
しかし近畿の被差別部落では中〜長頭型で毛深く彫りが深いという
また九州と東日本は中〜長頭型である
また鎌倉時代の日本人(関東、北部九州)はクロマニョン人を彷彿させる長頭型である
また2016年には韓国で長頭型の古人骨が発見されており日本から逆渡来した者であると言われている 2016年発見の韓国の長頭型古人骨の年代は新羅が栄えていた頃の物
明らかに朝鮮に渡ったか奴隷にされた日本人の者であるという
また有史以前の朝鮮半島(日本でいう縄文時代)の遺跡からは縄文人のDNAを持つ縄文人そっくりの古人骨も多数発見されている
元々は朝鮮半島までが縄文人の分布範囲だった
ワイ族侵入までは倭人の国もあったということだ 朝鮮からは土偶すら発見されていない
そもそも縄文時代の西日本は人口密度がゼロに近かった >>949
天皇はOで沿海州南岸から渡来した弥生人の後裔だろ
神武天皇の時代は朝鮮半島人の帰化はまだないぞ
朝鮮帰化人は4C後半の秦氏まで待たなければならない >>954
神武天皇なんか実在しないから
皇紀など後付け設定 >>952
それはない
縄文弥生を通して、あちらにこちらから入植定着した証拠である在地産の
日本系土器遺構がないからだ 朝鮮の在地土器は櫛目文土器(ウラル系)だろ
櫛目文土器の担い手と九州縄文土器(轟式)の担い手が接触して曽畑が生まれた
このぐらい常識だろ >>960
いやだからこれ読めよ
煙台島貝塚人は形質的特徴が縄文人と殆ど共通していて他の東アジア新石器人とは異なる
もちろん後の韓国人とは似ても似つかない
https://ir.kagoshima-u.ac.jp/index.php?action=repository_action_common_download&item_id=9202&item_no=1&attribute_id=16&file_no=1&page_id=13&block_id=21 >学会には縄文文化の主流は中部高地と東北のナラ林地帯にあったとする俗説が多いが近年それを否定する研究結果が出ている…
>むしろ旧石器時代以降ずっと照葉樹林帯に位置する関東が東北をはるかに凌駕する遺跡数であり
>また九州も全体的に遺跡数が多く中部高地並である
>本研究でわかってきたのは縄文遺跡の立地性向に重要なのは樹林帯の如何ではなく黒ボク土壌や台地地形の有無である…
>しかしそれでも近畿地方の定住性の低さが否定されたわけではない
>大阪湾周辺を除く近畿地方では殆ど定住が無かったと考えられる…
>瀬口(2003)は,近畿地方の縄文人の居住戦略につ いて述べているが
>それはおおむね定住性の弱いもののように理解される
>概して縄文遺跡は発掘され てはいるものの
>東日本に比べれば貧弱なものであ ることは否めない
>それは二次林の形成に恵まれな いためといえるのではなかろうか
https://i.imgur.com/OPoNPhk.png >>961
縄文弥生を通して、あちらにこちらから入植定着した証拠である在地産の
日本系土器遺構がない
ゆえに土着の朝鮮半島人骨と考えるしかない >>963
安島貝塚人からは縄文固有のDNAが検出されているが
というか土着土着ってどっから来てると思ってるんだよ
煙台島貝塚人は朝鮮半島から生えてきたわけではない上に
縄文・港川を除いた東アジアのその他旧石器〜新石器人骨とは全く似ていない
さらに外耳道骨腫を持っていた北部九州の縄文人と酷似
外耳道骨腫は潜水漁法を行なっていた対馬の縄文人にも見られますがその他の地域では一切確認されたことはない 鹿児島大学歯学部による煙台島貝塚人の骨格初見
・鉗子状咬合
・低身長
・低顔
・彎曲著しく高い鼻根
・中頭
・頑丈な体格
・発達した下肢骨
・強度の外耳道骨腫
諸々の形質的特徴を踏まえると後晩期の縄文人に近い
参考: 対馬の縄文後期人
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-62540630/ >>962
山形山梨山口が無人地帯で草
やっぱ県名に「山」と付くところは地雷だな
和歌山も無人だしな >>964
縄文人自体が元は朝鮮半島から渡ってきた旧石器人が祖先
入植定着した痕跡たる在地産の日本系生活土器がない以上、
土着の朝鮮半島人骨と考えるしかないね 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 モンゴロイドってコーカソイドより肌白くなったの早いの? コーカソイドにあとから黄色い色素がついたのがモンゴロイド ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 中国人でも日本人でも
不特定多数のY染色体を調べれば
特定の男性のY染色体だけ、異様に子孫を増やしたことが分かっている。 >>971
色白コーカソイドはモンゴロイドからわかれたよ
ネネツとかがそう
ロシア人、フィンランド人に多いNもRもみんなアジア人から別れた ヨーロッパ人は最近肌白くなったんでしょ?
Oは分岐した時はもう白かったの? 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具も当時の中国とは全く違ったものが
伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国やら言ってるヤツは中卒だね。 >>946
庶民のY染色体は、一夫一妻制なので、特定の遺伝子が一人勝ちすることなどないんだよ。
だから、多種多様で細分化している。
なのに対して、権力者のY染色体は、一夫多妻制なので、どんどん増殖する。
その場合、多くの庶流、傍流の領主の家系が誕生し、それらも
一夫多妻制なので、更に増えるという感じだ。
そして、その増殖したモノの全部が支配階級にとどまれるわけではなく、
帰農して庶民になるものも出てくる。
よって、一般人にも権力者の血統が多くいる。 白人のあとにでてきたのがモンゴロイドだよね?
南米の人んちってどうやってあっちいっったの? >>979
Y遺伝子でみれば明らかにモンゴロイドから分岐してる
K2があってNO、PQがあってQからRが出てくる
全部モンゴロイドの遺伝子
QはネイティブアメリカンでRも一部いるらしい
だからネネツとかの金髪モンゴロイドがさらにコーカソイド化したのが西方に広がっていて
それがクロマニョン(黒人)とまじってコーカソイド、アラブ系などが生まれた https://alchetron.com/Udmurt-people
赤毛のモンゴロイド、ウドムルト人
遺伝子はネネツなどと同じくハプロN (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは飛鳥時代頃です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は飛鳥時代まで知らなかったのだ。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツは中卒です。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。 中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です。 遺伝子競争はしょせん輪廻から逃れられない弱者が勝つもの 確かにそう言っても過言ではない
俺の知ってる奴でもフィリピン人やベトナム人と
結婚してるし
いや、なんでですか?と
子孫を残せばリスクは増える一方 根無し草の大衆という革命を起こす主体が虚構だとバレて本格的に終わったな 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは全く違ったものが
伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国やら言ってるヤツは中卒です! 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした! このスレッドは1000を超えました。
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