下関地域は、北部九州と並んで朝鮮半島・アジア大陸との

交流の玄関口になります

日本は約1万年続いたという縄文時代を経て

稲作と金属器使用に代表される弥生時代へと移行します

この時代は大陸や朝鮮半島から日本列島への大規模な

人口移動が起こり(特に朝鮮半島南部より)

一言で言うなら、渡来人による統一的な政治権力が

日本列島に確立される時代と言えます

下関市豊北町にある『土井ガ浜遺跡』から発掘される、弥生人の人骨は

朝鮮半島からの渡来人のものとみなして間違いないでしょう

事実、九州や西日本で出土する生活用具は、ほとんどすべて朝鮮半島で

出ています

大規模な渡来の波がありました。


下関地域での朝鮮半島からの渡来関連の地名や史跡を

いくつかあげてみます


山口県に長門城(ながとのき)という朝鮮式山城があった(7世紀)

記録にはあるが、何処にあったかは特定出来て居ない
その中で下関の
大唐櫃(おおかろうと)山
狩音(かろうと)山
にあったのではないかという説がある(他にも色々な説はある)
ここの(かろうと=韓人)であると言う


綾羅木(アヤラギ)
古代南部朝鮮にあった加耶(加羅)諸国のうち
安耶(安羅,安那とも書く)に由来するという。
つまり「綾」とは「安耶」であり
「羅」は「国土」の意味, 「木」は「来る」ということで
綾羅木とは「安耶の国から来たもの」


特牛(コットイ)
下関市豊北町の極めてユニークな地名である「特牛」(コットイ)
古代朝鮮南部の加耶諸国中の「喙・己呑国」(トク・コットン)の
「己呑」(コットン)に由来されると言う


幡生(はたぶ)
生野神社は本来幡生八幡宮であった
八幡宮はもともと秦氏の祖神を祭っていた
「幡」は「秦」につうじる。
つまり幡生とは「秦部」の意味
この一帯は渡来人の秦一族の開拓地だった
幡生の北隣りの稗田に「秦屋敷」と呼ばれる豪族跡が
あったという伝説がこれを裏づけている
また稗田には小字名で「畑」の地名が残っている

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