【Y-DNA】ハプログループで語るスレ44【mtDNA】
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ハプログループを学術的に議論するスレです。
スレの内容とは無関係な政治的言動、形質と文化の関連への排除的言動は控えてください。
次スレを立てるときの注意
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↑をコピペして2行以上になるように書き込んでください
●日本人Y-DNAハプログループ比率
D1b--32%
O1b2-32%(旧表記O2b)
O2---20%(旧表記O3)
C2----6%
C1----5%
O1b1--1%(旧表記O2a)
O1a---1%
N1----1%
D1a,Q1--1%未満
(2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)
自分のハプロタイプが調べられる機関
https://genelife.jp/genesis2.html?_ga=2.118042889.1091383604.1503315419-1291393617.1469780480
https://genographic.nationalgeographic.com/
https://www.familytreedna.com/
https://www.23andme.com/
最新ツリー -ISOGG、YFull
https://isogg.org/tree/
https://www.yfull.com/tree/
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1511869257/
VIPQ2_EXTDAT: checked:vvvvvv:1000:512:----: EXT was configured 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:0be15ced7fbdb9fdb4d0ce1929c1b82f) >>865
で、BC10の菜畑より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)は?
早く出せよサギサギ華南ブタチック黒人形質原人。 >>867
>>859>>865>>868を読んで
糞して寝ろ >>869
で、BC10Cの菜畑より前のイネの証拠現物(稲籾、籾殻、炭化米)は?
さっさと出せよサギサギ華南ブタチック黒人形質原人。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
長江の稲作部落の住居をそのまま使ったからだろ 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>876
日本から出土した熱帯ジャポニカのプラント・オパールは約5500年前 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=越式鼎&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa 5000年前に漢民族が長江を征服
稲作民が逃げた先が沿海州、インド、雲南省、タイ、日本
だから日本の弥生集落は雲南省やタイのとそっくりなんだ >>881
時代にそぐわない例のコピペで
楽しんでますね〜 >>879
日本人なら史記に従って「殷」でしょ
「商」は殷代後期の都の名で現代支那人が歴史用語として命名
ちなみに殷代に自称した王朝名はない
天皇家のように紀元21世紀も続いていると思っていたんだろうな
で、あなた支那人?
Y-DNAハプロはなに?
mtDNAハプロはなに? 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>884
>天皇家のように紀元21世紀も続いていると思っていたんだろうな
天皇がソウルから日向に来たのは2世紀だよ >>886
天皇の起源云々の話ではないよ
>殷代に自称した王朝名はない
に対して
天皇家の天朝(朝廷)名もない
ってことが言いたかったの
何故か?
例えば、イザナギ王朝とかアマテラス王朝とかゴールデンバウム帝朝などなど名付けることができるのにさ
「苔のむすまで(君が代より)」永遠に天皇が続くから朝廷名を付けるまでもないと
殷を構成した王たちも同じことを考えていたんだろうな、と
つまり
>殷を構成した王たちは(天皇家のように)現代(紀元21世紀)も続いていると思っていたんだろうな
という感想になったわけ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >.887
>「苔のむすまで(君が代より)」永遠に天皇が続くから朝廷名を付けるまでもないと
君が代は古今集の読み人知らずの歌で天皇とは何の関係もないよ >渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
長江の稲作民は元々寒い所にいたんだろ 温暖化の始まった18,000年〜15,000年前に、寒冷地仕様の体形になった北方型モンゴロイドは、
優れた道具と技術を持って、食料となる大型動物を追って。四方へ移動開始
北方型モンゴロイドの中で、東へ向かった一族は、サハリンから北海道へ。
長江中流へ移住した北方型モンゴロイドが、稲作耕作と帆船の技術を確立し、人口を増やし、
上流、下流へ拡散移住を行う。
◇下流へ移動した者は、海岸沿いに北上していた南方型モンゴロイドに遭遇し、
稲作技術が伝播される。海沿いに北上し、山東半島から現黄河流域へ広がる。
◇一方、長江上流へ向かった北方型部族はの四川省、雲南へ。雲南に北上していた南方型モンゴロイドに稲作技術が伝播。
◇北方型モンゴロイドの一部族は、雲南から怒河沿いに南下しビルマ・ミャンマーへ。/一部は、
メナム河の流域に入りタイへ/一部は、海岸沿いに西北へ上がり、インド大陸へ/西は現パキスタンのインダス文明へ起した。(インダス文明は稲作の文明と判明)。/インド南部からセイロン島へタミル文化を築く
稲作技術を持った南方型モンゴロイドが、ランツェン河・メコン河を南下し
カンボジア・南ベトナムへ/ホン河を下り、北ベトナムへ/紅水河を下り、中国南部(広西チワン族自治区)へ
北方型モンゴロイドは、長江流域で稲作技術と共に、優秀な帆船・ジャンクを開発、
インドでは、海のラクダと云われる帆船・ダウを開発。カヌー・カタマラン(双胴船)は
タミル語(タミル人:日本人と同じ言葉と文化を持つインドへ移住したモンゴロイド)
雲南地方を南下し、海洋に出た北方型のモンゴロイドと遭遇した南方型モンゴロイドは、帆船技術を持つ至った。 >>889
話の主題は飽くまでも
日本人なら「商朝」ではなく「殷代」とすべき、ね
念のため 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>893
「殷」ではなく商を使うあなたは支那人?
Y-DNAハプロはなに?
mtDNAハプロはなに? 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>895
で、あなたの
Y-DNAハプロはなに?
mtDNAハプロはなに?
あなたは支那人? ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimFEhQrlbtGwAJkGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 当時の三足や耳の付いた中国系生活土器、土壁の中国系住居、石刃の中国系耕作用農具、
銅鼓や貯貝器などの中国系青銅器、そして中国系言語。
何もかも何もかも登呂遺跡と全く違っている。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>901
>当時の三足や耳の付いた中国系生活土器、土壁の中国系住居、石刃の中国系耕作用農具、
銅鼓や貯貝器などの中国系青銅器、そして中国系言語。
何もかも何もかも登呂遺跡と全く違っている。
だから雲南やタイの稲作部落にもそんなものは無いんだよ >>903
ふつうに出とるやんかウソコキ
較重要的有銅鼓、銅釜、扣飾、矛、戈、劍及陶鼎等
https://www.itsfun.com.tw/雲南省博物館/wiki-3547855-5991535
これ全部、雲南から出た物な。
https://kknews.cc/zh-tw/culture/rmz6mn.html 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>904
>これ全部、雲南から出た物な
それは昔の遺跡だろ
現代の雲南の稲作部落は登呂遺跡と変わらない 長江の稲作民は元々シベリアに居たから、沿海州の北方民族に近いだけだろ 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
タイや雲南省の現在の弥生部落にも伝わってないよ
登呂遺跡と全く同じ村落だ >>909
渡来したのは縄文晩期だぞ。
頭湧きすぎてねえか。
東南アジア華南の黒人とブタの中間みたいなクッサイ醜悪な造形の顔面をした方。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>873
馬鹿だな。こればっかり。
王族が貴族も引き連れて日本に遷都したのとは違うからねw 丸木舟で外洋航海か 3万年前の人類
nhk
鳥取の遺跡の人骨 弥生時代後期に渡来か DNAで判明
nhk 左翼革命家「アイヌが先住民だー!日本人は侵略者だー!アイヌに国を返せー!」
左翼革命家「せや、アイヌ先住民法制定を迫ったろ!」
アイヌを先住民と規定する法律が完成すると…
アイヌの主要Y染色体ハプログループはD1b系であり
琉球王朝のY染色体ハプログループもD1b系であり
皇統のY染色体ハプログループもD1b1a2系なので
皇統と北海道から沖縄まで全ての人が縄文人から同祖だという学術的功績と合わさり
先住民と規定する北海道のアイヌや、沖縄の琉球王朝は、どちらも皇統の枝ということが示され、
天皇は約4万年前から土着している最古の新人の血統だということをアイヌを使って間接的に法律化し、
法律「アイヌは先住民」
分子人類学「皇統とアイヌと琉球王朝は縄文人から同祖」
遺伝学「全ての日本人は縄文人の遺伝子を受け継いでいる」
神道「全ての日本人はどこかしらで皇統の血を引いている。帰化人も日本人と混血するから同様」
纏めると「全ての日本人は日本列島の先住民」
となり、「先住民」という言葉を使って国家転覆を謀る革命の芽そのものが摘まれる。
これによりロシアが狙う北海道と中共が狙う沖縄の日本帰属は盤石となる。 >皇統のY染色体ハプログループもD1b1a2系なので
天皇は O2 だよ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RCL6WAQsxbu3kAXBGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
現在のタイや雲南省やインドの稲作集落にも伝わってないだろ >>920
ふつう伝わってるが何か?
較重要的有 銅鼓、銅釜、扣飾、矛、戈、劍及 陶鼎 等
https://www.itsfun.com.tw/雲南省博物館/wiki-3547855-5991535
これ全部、雲南から出た物な。
https://kknews.cc/zh-tw/culture/rmz6mn.html 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
オロチ、ギリヤークなどの沿海州の北方民族のY-DNA は C
日本の弥生人と長江の稲作民のY-DNA は O1
日本の弥生人 = 長江の稲作民
は証明されている >>923
で、長江の稲作民が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と中粒種のイネと龍信仰と亀卜と、
渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、長江の稲作民が渡来定着したとウソブいている頭の湧いた考古学者の
氏名と所属団体は?
早く言えよおまえ。 長江は漢民族ではないから、中国とは文化が違う
弥生遺跡と長江は全く同じ文化だ 新参者が突然ですが、西武ライオンズの外崎修汰選手の顔が
日本人にしては違和感があるというか、
日本で青森にだけ多い遼河系遺伝子のような気がするんですが
皆さんはどう思われますか? 確かに乾隆帝似てる
弱そうな見た目で派手な事やってのけるところも
清だから漢民族系も遼河系も弥生系に近いタイプも
全部考えられるな ふつうに弥生系。
沿海州南部がルーツ。
ウデヘ、ナナイと祖先を共有している。 乾隆帝の直系子孫の愛新覚羅溥儀がC2b2
日本で発見されたタイプらしいが 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 社会的インフラがないし、難民では発言力がないから
そんな高等建築は無理だろ
そもそも有能な大工なら逃亡する必要ない
渡来人が来ていないのではなくて、
渡来人にはその能力が無かったのだろう 詭弁。
その論理だと何も伝播せず、いまだに世界は原始社会のはず。
クッサイ汚らしいブタ広鼻半ニグロはブタ広鼻ランド華南に帰るように! 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVRd.tRb9nMAQCuU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江%E3%80%80%E3%80%80鬲&search.x=1&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=-1&oq=長江&ai=7W3vOQw9TzO6LHmvKNKsgA&ts=7202&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RimVxm7uBb_DoA9j.U3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 田道間守(Tajimamori)のY染色体は、ハプログループO1b2a1a2a1a(O-CTS7620)。
田道間守の男系子孫には、
小野妹子、織田信長、平賀源内がいる。
この系統は、Y染色体ハプログループIになるという意見もあり、要塞調査を依頼したい。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>949
>田道間守の男系子孫には、
>小野妹子、織田信長、平賀源内がいる。
ホラ厨が沸いてきたな。
小野妹子→小野氏→皇統
織田信長→平氏→皇統 (斎部氏→太玉命 説あり)
平賀源内→平賀氏→源氏→皇統
で、異説があるにせよ、田道間守には繋がらない。
さらっと嘘を言えるところは、あの半島の人と同じだよ。 >>949
>この系統は、Y染色体ハプログループIに
>なるという意見もあり…
ハプログループIは、日本列島ではゼロパーセント
なんだから、マトモな研究者からはそんな意見出る訳ないんだが。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 長江稲作民もオロチ、ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す 天皇陛下は二重まぶたを隠しているだけだよ。
皇太子様も二重。
皇室はアイヌと韓国の混血からできているので、
今更京都になど帰らなくていいと思う。
お忍びでチンタラ大手町のコンビ二によく行っているようだ。
皇室は極めて普通の家庭。 警察と同じ。証拠がなくても容疑で引っ張れる。
それ相応の証拠と自論で動いているよ。
いい加減社会人になってね。
その分だと医学書は読めない。
あれは透視するものだから。
書いてあるとおりにやったら患者を死なせる。
そこまでの想像力がなければやはり、A型AB型頼みの
O型としか思えない。彼らだって完璧じゃないんだよ。 大学でそのコピーマシンを提出してみ。
赤点くらうだけだから。 https://www.recordchina.co.jp/newsinfo.php?id=115854&ph=2
英紙タイムズはかつて日本政府が学者の天皇陵に対する調査を厳しく禁じた理由について、「天皇が中国や朝鮮半島から来たという証拠が見つかるのを恐れたため」と報じている。
つまりそういう事だ タイムズなんて当てにならない労働者用の糞ペーパーだよ。
読むならガーディアンやインデペンデントをどうぞ。 >>956
頭湧いてるな。
西日本にアイヌなどいないし、一重の弥生人は沿海州南部。
弥生人が韓国なら、朝鮮土器で弥生時代が幕開けしなきゃおかしいだろ。
縄文人と沿海州ツンギーデの混成が我々日本人。
天皇も目は弥生だが、鼻は縄文。 日本の近くで一重瞼は漢民族だけだよ
天皇は漢民族だ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 長江稲作民もオロチ、ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す >>963
で、漢民族が渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる三足や耳の付いた中国系生活土器と土壁の中国系住居と
石刃の中国系耕作用農具と漢服と木沓と漢字の金石文と龍信仰と亀卜と、
日常食の蒸し餃子とワンタンと、渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
で、漢民族が渡来定着したとウソブいている頭の湧いた考古学者の
氏名と所属団体は?
. レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。