富山から拡がる交通革命
森口将之著
交通新聞社

市長の決断

森雅志市長は1952年富山市生まれで、学生時代に5年半ほど東京にいたものの、その後は再び富山市に戻っている。
つまりこれまでの人生の大部分を、富山市民として過ごしてきたわけで、プロフィールから察すると改革の理由は市内にあったように思える。
しかし本人に話を伺ったところ、発端は市の外側にあったという。
「地方自治の仕事に就くようになったのは、1995年に県会議員に選出されたことが最初だったのですが、そのとき議論されていたことのひとつに、
高岡市と新湊市(現在の射水市)を走る万葉線の経営危機がありました。私は県や市が出資して、経営を引き継いでいく方向を支持していました。
すでに地方の公共交通は、我が国の常識になっていた『単体で採算を求める』という考え方では立ち行かなくなっていたので、どう対処していけばいいかという
問題意識を強く持っていました。公費投入は避けて通れないからこそ、その妥当性をどう理論的に説明していくかが大事だと思っていました」
その後2002年、合併前の旧富山市長に初当選した森市長は、最初の1年間に、あらゆる部分を再検証した。
その結果強く感じたことのひとつに、拡散型では市が持たないということがあったという。
「道路が伸び続けていくと、除雪の距離も伸び続けていきます。人口が減っている、つまり税収は減少しているのに、行政維持管理コストは増大しているのです。
仕方なく基金を崩して、必要な事業の財源に充当していました。貯金を少しずつ食いつぶしていたような状況です。人口が右肩上がりで増えていた時代は
これで良かったのですが、今はそうではありません。現状を見直していかないといけない。そのためには、拡散を止めることが絶対命題と思いました」
つまり富山市の改革は、はじめにモビリティありきではなかった。しかし、すでに拡散している都市なので、規制やゾーニングで
コンパクトなまちづくりを行うことはできない。そこで目をつけたのが公共交通だった。具体的には公共交通の質を高め、沿線に居住誘導をするというものだ。
こうすれば郊外に住む人々にも、最寄りの駅までの足を確保することで、移動が困難な世代になっても充実した生活を送ることができる。
「富山市の交通体系を観察してみると、富山駅が一極の結節点になっていることに気づきます。鉄道や軌道だけでなく、
バスも多くが富山駅から出ており、北陸新幹線もここへ乗り入れます。地方都市では珍しい例です。一度富山駅へ出れば、乗り換えることで、
市内のどこへもまんべんなく移動が可能です。だからこそ、公共交通をブラッシュアップして、クルマも使うけれど電車やバスも使うという暮らしを市民に提案し、
公共交通の沿線に人々を緩やかに誘導していく政策が妥当であると思ったのです」