>>323
毛沢東がケ小平や劉少奇ら実務派に対抗して行った「大躍進政策」で
シナ大陸は凄まじい飢饉になって大勢の餓死者が出たのは、
前スレでお前も認めていたな。約2000万の餓死者が出たと言われている。

「大躍進政策」の失敗で、実務派に権力が移り、失脚した毛沢東が
起死回生で打ち出したのが文革。文革で劉少奇や林彪も殺され、
紅衛兵による大虐殺や内ゲバによって約6000万の人が殺されたと言われている。


◇『ある紅衛兵の告白』より抜粋

私の学校においては、先ず校長がフルシチョフ的人物(毛沢東を批判する人物)
として 摘発され受難した。
私たちは、校長に、いちばん高い三角帽子をかぶせた。私たちは、校長に
いちばん重い札をかけた。頭を虎刈りにして、顔に墨を塗りつけた。
私達は延々と校長批判を続けた。批判演説で私たちの感情は異常に昂ぶっていった。
何人かの革命的生徒は興奮して、ついに、校長を棒で叩きのめし、足で踏みつけた。
さらに彼らは校長を足で踏みつけただけでは飽き足らず、校長の首に縄をくくりつけ
台の下に引きずり下ろし、犬のように吠えさせ、犬のように運動場を這い回らせた。
紅衛兵は自分たちの教師たちを軟禁し、毎日10時間以上の重労働を課した。
わずかな時間も休むことを許されず、少しでも動作が鈍いと、すぐさま木刀や革靴で
殴りつけた。夜になると、夜通し、教師たちの尋問とリンチが行われた。

◇エスカレートした紅衛兵の暴力行為

紅衛兵の暴力行為が際限なく広がるなかで、訴えるすべもなく、
本当に悲惨だったのは、「地主」や「資本家」という搾取階級の肩書きを
つけられた人々だった。
手に重い物を持たされた彼らは、膝を剥き出しにしたまま、石炭ガラや
ガラスの破片の上にひざまずき、少しでも動けば殴る蹴るの憂き目にあった。
文句を言おうものなら、袋だたきにあうのはまだましな方で、ひどいときは、
その場で殴り殺された。事実、殴り殺し事件は、頻繁に起こっていた。
凶暴だったのは、男子ばかりではない。女子紅衛兵も凶暴だった。
サクランボウのような可愛い唇をした、女子大生や女子中学生が、
布を巻いて胸を押さえつけ、髪を短く切り、粗暴な言葉を吐き、じつに凶暴だった。

◇文化大革命の本格化

紅衛兵による無差別大量虐殺が頻発した。1966年8月、紅衛兵は、地主、富農、
知識人階級など、良識ある人々とその家族たちを殺害すべく、北京市大興県を襲撃し
325人を虐殺した。1967年8月、湖南省道県では4,139人を虐殺した。
1967年から1968年にかけて、内モンゴル自治区ではモンゴル族に対する
大量虐殺が行われた。34万人が逮捕、監禁され、少なくとも5万人が虐殺された。
虐殺は、紅衛兵が無実の人たちを虐殺するというパターンに留まらなかった。
紅衛兵は分裂し、互いに相手を、反革命分子と罵って激しい殺し合い戦争を行った。
1967年3月から6月にかけて、江西、青海、浙江、湖北、山西、河南、安徽、
内モンゴル、陝西、復建、広東、寧夏などで、凄まじい殺し合い戦争が行われた。
殺し合い戦争は中国全土に広がった。紅衛兵、労働者、農民、さらには、軍隊をも
巻き込んだ、主導権争いのための、激しい殺し合い戦争展開された。
まさに中国全土が中国人同士の殺し合い戦争状態であった。