所感派
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%80%E6%84%9F%E6%B4%BE

所感派という派閥が形成された発端はコミンフォルム論文への反発を表明した「所感」論文であり、
彼らは日本共産党の多数派を占めた。逆に、国際派という少数派は
コミンフォルム論文に一部理解を示した事をもって「国際派」とされるのである。

また、コミンフォルム論文は所感派筆頭の野坂を名指しで批判している。
ところが直後に暴力革命論を支持する中国共産党もコミンフォルム同様に
日本共産党の所感派を批判する論文を出すと、所感派は「国際派」には秘密に
非正規の党指導グループを結成して、手回しよく日本共産党中央委員会を骨抜きにした。

そして、所感派は中国に亡命してスターリンの指示を仰いで、
当初は反発していたはずの暴力革命路線を日本共産党の路線だと決めて
日本国内で数々のテロを起こした[2]。逆に当初のソ連や中国による
暴力革命路線命令への理解を示した国際派の宮本顕治ら少数派は日本国内に留まった。

しかし、当時を知る富田武成蹊大学法学部名誉教授によると、
国際派は50-60年代にはソ連のシベリア抑留で日本人返還に取り組んだ所感派に対して、
ソ連に忠実だったと述べている。元国際派が主流となった再統一後の日本共産党は
1960年代前半には中国共産党寄りで、その後はイタリア共産党の構造改革論や
ソ連のフルシチョフの対米平和共存政策を批判するなどしていた。
冨田は暴力革命路線が主流だった時代を隠して、
反主流派の行いだったとしている日本共産党について、
「独善的で、指導部の無謬性を維持している点は根本的に反省してもらいたい」と批判している[4]。