【世界大戦】自由民主党の派閥22【河破朋充】
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し`J し`J し`J し`J 泉代表全方位から嫌われてて草ʬʬ
れっぷす
@leppsno1 泉代表になってからは、違和感ばかりで応援できません。
ニャンぱんまん
@nyanko651 ビスコ餃子の王将をミカン工藤会で無かったことにしたい ガンダムを作りたくなくても作り若さ故に殴る
幼馴染みのフラゥを捨て学生運動のために渡米したララァも捨てセーラー服でマスかく
日大当局で楯の会に憧れるも白い清和源氏のアムロではなく赤い桓武平氏のシャアを嫌々演じざるを得なくなる
仏教的な月ではなく不死山こと富士山で悲嘆に暮れるのが原典だった
空襲を経てもやはり一人は生きてほしいが二人とも生きるためには皇室を否定してはならない
イタリアの片田舎の島からフランスの英雄の皇帝に出世するなら吉野源三郎ではなく岩波茂雄に問うべき ヒッピーの姿で3倍のスピードでコンテを仕上げず赤い車の運転免許も返上しようぜ 覚醒剤中毒の天皇皇后両陛下におかれましては、
覚醒剤やめようかな と思いませんか、 王将殺人事件でテレビは引き続き 「覚せい剤」 という単語を言わない。論点がおかしい報道が続いている 御所 宮中で消費される覚せい剤、ピーク時に1日あたり3kg程度に達していたのでは、推察
その頃に起きたのが王将殺人事件 ガンダムって書くのは、覚醒剤中毒者が集まるサークルなんでしょ 浪人焼かれてもこのスレ維持する意味あんのか?
まともなレスないじゃん 重複スレが無くなり党内政局スレが無くなり議選自体焼きと余所でやってerrorで人口減少
スクリプトによる外圧で匿名性を下げる時代やね
>>206
重要 わけあって薬物依存症の国会議員さんにおかれましては、覚醒剤をやめようかな と思いませんか
できれば明るい方を選択してください
暗くならないでください 切にお願いします 交番勤務の警察官に 覚醒剤中毒者が混ざっている可能性が指摘されている。
剣道や柔道、ラグビー、レスリング、相撲 最近は登山、マラソンなどをしていると、警察の採用で優遇などあるように見える。
たいへん心強く、とてもありがたい。
ところが、学生時代にドーピングで薬物依存症になっている若者が、実は結構いるんじゃないのか。
処分を受けずに出世を繰り返している警察官が存在しているのかもしれない。 とても心配している。
「警察官になれるから大丈夫だよ」 と言って、 学生に薬物をすすめている体育会系OBの警察関係者がいるのではないか 心配している 覚醒剤中毒の天皇皇后両陛下におかれましては、
覚醒剤やめようかな と思いませんか、 覚醒剤中毒の小池都知事におかれましては、
覚醒剤やめようかな と思いませんか、 424 無党派さん (スッップ Sdbf-kYtK) 2022/09/18(日) 00:15:04.10 ID:AotuAb19d
めぞん一刻や海がきこえるの望月智充が、
いつも反体制やりたいだけだから自分は左派にいるかのように勘違いされると言ってるが、
団塊から団塊ジュニアの合間の世代ってあんな感じなんよな
ノンポリというよりヒールで、
福田己津央みたいな右側にいるようにしたいのは常に少数派なのでかえって目立つ
その合間世代の子供世代はほぼ右側しかいない
保革が若者には逆転して久しいと言われるが、
革新つうのは今も昔も技術的な机上の空論を現場でかざすだけで現実に向き合おうとしない連中だわ
425 無党派さん (スッップ Sdbf-kYtK) 2022/09/18(日) 03:52:30.38 ID:AotuAb19d
ビジネス以外で左から右に動いた奴というと陰謀論者だが太田竜しか浮かばん
あんまり左側からユダヤや環境破壊について叫ばなかった 426 無党派さん (アウアウウーT Sa5b-Px4T) [sage] 2022/09/18(日) 04:08:06.70 ID:QDDm1XUha
まあ
思想がコロコロしてるって言われたら
そんなことない!
反米で一貫してる!
って言ったらしぃけど
427 無党派さん (オッペケ Srcb-1MiZ) 2022/09/18(日) 06:29:50.32 ID:Y+siHUsjr
>>424
自民党に不満を持つけど同時に社会党にも不満を持つ、こういう層が有権者として93年以降の政界再編を担ってきたんだろうな ガンダムって神社の怖がらせるやつでしょ、
結果を知りたい 何年も前から言われています、
神社仏閣の脅迫の霊験、呪術などと呼ばれるセンセーショナルな言いふらし
神社側が対策を取っています、相手によっては有効です。
怖がる人は怖がります、怖がらない人はいます お前が自衛隊のスレに書けってホザいたよな
で、自衛隊のスレに書いたら
「荒らすな、迷惑だ」
お前、一生他人に人生譲ってもらえ古事記
時空警察が嘘つくんじゃねーよ卑怯超えたゴミクズ組織
jazz
Jアズ
ゴミクズ組織
グリーン キセキ
https://youtu.be/DwTinTO0o9I
いしい、 いし しい
いとい 、いと とい
シンブンシ
悪用したのは、お前だよ
しらかわ、しらいし 泥棒ゴミクズ組織 尾﨑 正直(おざき まさなお、1967年〈昭和42年〉9月14日 - )は、日本の政治家、大蔵・財務官僚。自由民主党所属の衆議院議員(1期)、デジタル大臣政務官兼内閣府大臣政務官。 覚醒剤中毒の天皇皇后両陛下におかれましては、
覚醒剤やめようかな と思いませんか、 263 俺より強い名無しに会いにいく (ワッチョイW 9d02-l+UM [114.148.34.210]) [sage] 2022/09/07(水) 12:40:40.70 ID:NHUG5WoA0
まあどういうことか一言でいうと、あいつはしらばっくれて行動してたけど、
やもするとあいつが主犯とみなされる可能性が高い事実を勘付かれてて、
あいつは自覚があったのでAKOの口を封じてその後も関わりを続ける
状態を維持しないといけなかった
名前を売って成功しようとか、そうでじゃなく、バレてることをわかって
いたので、より多く人間巻き込んで、本当に封じないといけない問題に
しようとしただけの節があるw 誕生日
司 忍(つかさ しのぶ[1]、本名:篠田 建市[2](しのだ けんいち[3])、1942年1月25日[4] - )は日本のヤクザ。特定抗争指定暴力団・六代目山口組組長。
中村 時広(なかむら ときひろ、1960年1月25日 - )は、日本の政治家。愛媛県知事(公選第17・18・19代)
坂本 龍一(さかもと りゅういち、Ryūichi Sakamoto、1952年1月17日 - )は、日本の作曲家、編曲家、ピアニスト、俳優、音楽プロデューサー[5]。東京都出身[6]
政治思想に関しての発言や、社会運動家としての活動も多い。
新宿高校時代には学生運動に関わり、
坂本龍一、塩崎恭久、馬場憲治の3人でバリケード封鎖を決行した。
塩崎 恭久(しおざき やすひさ、1950年〈昭和25年〉11月7日 - )は、日本の政治家。
高校時代にAmerican Field Service(AFS)で1年間のアメリカ合衆国留学を経験。その際、ベトナム戦争に反対する集会にも参加していた。帰国後は一つ下の学年に在籍し、同級生に坂本龍一(音楽家)や馬場憲治(写真家)、那須恵理子(ニッポン放送アナウンサー)や野中直子(元文化放送アナウンサー)がいる 日本海で消失した(正確には2062氏によって消失させられた)ミサイルは東京狙いだった。 1 :富野:1999/12/12(日) 16:54
僕が一番ガンダムを巧く制作できるんだ。
2 :名無しさん:1999/12/12(日) 17:06
それは疑問。 81 :北爪:2000/07/18(火) 23:17
打ち合わせの時,喫茶店で「こんなクェス・パラヤのオマンコはぼくなめないよ」
なんてでっかい声で打ち合わせるのはやめて下さい.
…よく考えたら,とんでもないオヤジだな
82 :名無しさん:2000/07/19(水) 02:45
>81
よほど、アニメアニメしたデザインだったんじゃない?
ほかのキャラとの釣り合いが悪そうなさ。
真実は知らんがな(ワラ 鯨を食べなかったニュータイプから減量に効果があるピザを食べるコーディネイターへ。
李飛飛からイーロン・マスクへ。 ∧_∧ ∧__∧ ∧__∧
.__旦__ ∩,,・∀) (,,・∀・) (∀・,,∩
∠二二二△ ,ヽ ⊂ノ (⊃ つ (⊃ 丿
,.(三田田三() (__(__) (__ノ__ノ (__)し' , ,
/~.!(三三三三「 Happy Birthday | ~'ヽ
!<介> .,ヘ .,ヘー―,ヘ―‐ ,ヘ. ‐┘ヘ <介>i
|ヽ。,,_ <介> <介> .<イト> <介> <介>.,_,,。ィ|
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..,。-―| .富野由悠季様 ::|ー-。、
ヽ_ ヽ。,,_ ■■■■■■ _,,。ィ __ノ
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(_ イ へ .へ ト 、_ノ
ヽ。 _/ .\ ./ \_ _ノ
 ̄ .ヽ、_ _./ ガンダムって神社の怖がらせるやつでしょ、
結果を知りたい 薬物依存症の上皇さま、上皇后さま
薬物依存症の天皇、皇后両陛下
薬物依存症の愛子様
薬物依存症の秋篠宮文仁と呼ばれている人物
その他 薬物依存性の皇族の方々
「薬物をやめようかな」 と思いませんか、 題『我嫌悪ス、故ニ我在リ』(>>6・>>4【茂木内閣】自由民主党の派閥20【河破朋充】)
僕は、題名を読み上げる。ここで、これは第七識下層の例であると云う先生のコメントが入ったと思う。
そして先生に促されて、また読み続ける。
“朝起きる。カーテンの隙間から差し込む陽の中に細菌の様なホコリが舞っている、…”
それは、錯雑とした末梢神経的な苛立ち、現実への厭悪を語った文章だった。少し読み進むとまた先生のコメントが入った。
そのコメントはポツリと話し出される一語で始まり、その一語から、また次の一語が紡ぎ出される。
そして、どこで話が終ったのか判然としない。
ずっと待っていると、読めと促される。
こんな風に二、三度コメントが入る。
読み辛くてしょうが無い。一生懸命読んで、調子が出て来た頃にコメントが入る。
僕にとって、それは丁度セミナーの時に、話し手が他のメンバーの挟んだコメントを無視して論旨を展開させてゆく様な感じだった。
『馬鹿者!お前は人の話を聴かんのか!』と、痛罵される。
ああこれでお終いだと、観念した。
そんなしょっちゅうこちょこちょ云われたんではこっちだってやり辛くてしょうが無い、そう云う思いが僕の方にだってあった。
兎も角、この人が何を云おうとしているのか、その核心に迫るまでは粘ろう。
追い出されたら、門の前に坐り込んで粘ろう。
そう密かに決心して、また先生に三度申し訳ありませんと謝った。 その時、僕はまだ先生の『時』と云うものが理解出来ていなかった。
僕は生まれてこの方、明治以後の西欧近代の知性をモデルにした精神構造の上に戦後民主主義を乗っけると云う、
そう云う思惟の図式のみで自分の脳髄を統禦(とうぎょ)してきた。
それによれば、思考は明晰な論理展開を伴っているべきである。
そしてまた、それ故に言葉となった思想は、会話する人間の個的存在とは独立に自立した存在である。
つまり、“ピタゴラスの定理、オカ・コヒアランス定理は、発見者から独立な事実である。”
この“”を僕は全く自明のこととしていた。
しかし、その時僕は別の思惟形態、全く異質の時の経過によって紡ぎ出されてくる言葉に邂逅していたのだった。
それは、こんな風に感じられた。
先生が僕の朗読を聴いて、まずふっと一つの印象を受ける。
そして一つの言葉が発せられる。
そして、その言葉が先生の内部で熟してまた次の言葉へと飛び石を飛ぶ様に移る。
そうして瞬間瞬間に思惟の雲海が渦を巻いて生成されてゆく。
それがたまたま、言葉となって山並みを越えて、平地の方へ千切れてやって来る。
そのために、一つ一つの言葉はその場で生まれた瑞々しさを持っている。
この言葉の異常な光芒、先生の『時』の瞬間瞬間の緊密な鮮烈、それは、その場で直に感じるより他に伝える術が無い。
僕は、謝りに、謝って、続きを読ませて戴く。
先生は察智して、作文を読んでいると思うな、自分の話を聴いていて、合間に作文を読んでいると思え。と注意された。
この注意一つでずっと読み易くなった。 ガンダムって神社仏閣の怖がらせるやつの隠語でしょ、結果を知りたい
安倍さんの奥様のところ、たぶん電通が、自社ネットワークでセンセーショナルな予告言いふらしを行い、
結果を見世物にするって流れですよね
自殺事故など、死んだら警察が知りますもんね、 神社仏閣の「厄除け」「呪術除け」の霊験があります、
神社本庁が該当者に集中奉仕をしているので、対象者には呪術が達成できませんよ
こちら側 こういう言いふらしネットワークは無いんですかね
片方だけが配信されてるんですか? 呪術信仰を持つ覚醒剤中毒者が、呪術を利用して他者を呪う、嫌がらせを行う事がある。
過去の経験から 報復を受け始めると 覚醒剤の使用量が増える傾向があるように思う
気持ちが悪い死霊が飛んでくるから 気を紛らわすのに薬物を大量に摂取するようになる。
ついでの話だけど
上賀茂神社や下鴨神社、貴船神社、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮などの該当する社家は 異常な薬物量を摂取していると考えられる。 因縁除け、厄除け、呪術よけってのは、霊体が悪さする という考えに基づいてるケースもある。
飛んできた霊体を除けただけだと、別のところに行く、別の所で悪さする。
仏教だと、供養して差し上げる、慰めて差し上げる。諭して差し上げる。
神社だと、お祭りする、などの考え方もある。
除けただけだと、
「こっちに来たら困る」「お前が受け止めろ」などの話も出てくる。
ご神德で、送りつけてきた相手、依頼した相手に返っていく事もある。
神職様の意図とは違う結果もあるから、怖くて言わない、 題『我嫌悪ス、故ニ我在リ』(>>6・>>4【茂木内閣】自由民主党の派閥20【河破朋充】)
僕は、題名を読み上げる。ここで、これは第七識下層の例であると云う先生のコメントが入ったと思う。
そして先生に促されて、また読み続ける。
“朝起きる。カーテンの隙間から差し込む陽の中に細菌の様なホコリが舞っている、…”
それは、錯雑とした末梢神経的な苛立ち、現実への厭悪を語った文章だった。少し読み進むとまた先生のコメントが入った。
そのコメントはポツリと話し出される一語で始まり、その一語から、また次の一語が紡ぎ出される。
そして、どこで話が終ったのか判然としない。
ずっと待っていると、読めと促される。
こんな風に二、三度コメントが入る。
読み辛くてしょうが無い。一生懸命読んで、調子が出て来た頃にコメントが入る。
えい、面倒だ、このジジイは一人で何か呟いているだけなのかも知れんと思って、これを無視して委細構わず読み続けた。
僕にとって、それは丁度セミナーの時に、話し手が他のメンバーの挟んだコメントを無視して論旨を展開させてゆく様な感じだった。
『馬鹿者!お前は人の話を聴かんのか!』と、痛罵される。
ああこれでお終いだと、観念した。
そんなしょっちゅうこちょこちょ云われたんではこっちだってやり辛くてしょうが無い、そう云う思いが僕の方にだってあった。
兎も角、この人が何を云おうとしているのか、その核心に迫るまでは粘ろう。
追い出されたら、門の前に坐り込んで粘ろう。
そう密かに決心して、また先生に三度申し訳ありませんと謝った。 その時、僕はまだ先生の『時』と云うものが理解出来ていなかった。
僕は生まれてこの方、明治以後の西欧近代の知性をモデルにした精神構造の上に戦後民主主義を乗っけると云う、
そう云う思惟の図式のみで自分の脳髄を統禦(とうぎょ)してきた。
それによれば、思考は明晰な論理展開を伴っているべきである。
そしてまた、それ故に言葉となった思想は、会話する人間の個的存在とは独立に自立した存在である。
つまり、“ピタゴラスの定理、オカ・コヒアランス定理は、発見者から独立な事実である。”
この“”を僕は全く自明のこととしていた。
しかし、その時僕は別の思惟形態、全く異質の時の経過によって紡ぎ出されてくる言葉に邂逅していたのだった。
それは、こんな風に感じられた。
先生が僕の朗読を聴いて、まずふっと一つの印象を受ける。
そして一つの言葉が発せられる。
そして、その言葉が先生の内部で熟してまた次の言葉へと飛び石を飛ぶ様に移る。
そうして瞬間瞬間に思惟の雲海が渦を巻いて生成されてゆく。
それがたまたま、言葉となって山並みを越えて、平地の方へ千切れてやって来る。
そのために、一つ一つの言葉はその場で生まれた瑞々しさを持っている。
この言葉の異常な光芒、先生の『時』の瞬間瞬間の緊密な鮮烈、それは、その場で直に感じるより他に伝える術が無い。
僕は、謝りに、謝って、続きを読ませて戴く。
先生は察智して、作文を読んでいると思うな、自分の話を聴いていて、合間に作文を読んでいると思え。と注意された。
この注意一つでずっと読み易くなった。 その内に先生が奥様を呼んで、三上はいるか、とお尋ねになる。
僕が作文を一つ読み終える頃、庭の掃除をしていた三十位の男の人が入って来る。
先生はこの三上と云う人に
『こいつは三半規管で文章を読んでいるから聴いてもちっとも分らん。お前代われ』と云われ、僕は朗読の役を降ろされた。
三半規管で文章を読むとはどう云うことだろうか?
今考えてみると、僕はこの作文を一つの譜面の様にして何か楽器を弾く様に読むべきだったのだと思う。
先生がその演奏を聴いて、そこにある調べを検討することが出来る様に。
しかし、第七識中層以下と云う技術的な文章を先生の前でいきなり読まされて、
僕はこの作文の響きが出ない様にと一生懸命NHKのアナウンサーの様に読んでいた。
先生は、全部ぼっちと云う表現を面白がられて、
第七識と云うのは、こんな風に理由無く唐突なものを作り出せる世界ですと云うことも話されていた。
先生はこの“三半規管”に対し“三半規管以外の内耳”で話を聴きそして文章を読まなくてはならないと仰った。
今思うに、三半規管で読むと云うのは、新聞記事を読む様に、その文章が示している事実関係のみに着目して読むと云うことで、
数学の論文を読む時は往々そう云う風になっている。
次からは三上さんの朗読になる。
題『成人を迎えて』
第七識中層の例である。
二十歳になって、今までの自分を反省し、勉強を一生懸命にやり、そして家業の手伝いもして、
社会のため、両親のため、自分自身のために生きようと云う趣旨が展開されている。 >>1
ガンダムって神社の怖がらせるやつの隠語でしょ、
結果を知りたい 題『人間の自己疎外とその克服』
“我々が人間的な意味合いにおいて、本来的なものとして希求し追い求めるのは、
頭の中だけでしか意味を持ち得ない、云わば机上の学問と云うべき、死せる学問ではない。
既成の価値観を鵜呑みにしない、
創造的な生き方を可能にするところの、『生ける学問』であり、その生きた知識を十分に活用出来る職業を見つけることでもある。
究極的にはこの様な問題を心からぶつけて話し合える友人また同様な意味における家人そして家と云う存在を、
自らが意志的に獲得することであり、
結局的にはこの様な問題の解決を不可知なものとしないところの、
その解決を可能なる範疇に許容する社会なのである。…”と述べられる。
一方我々の実際の社会は、この求められている社会とは遠く、そのことを疎外と云う言葉で捉えている。
そして、この疎外の問題へのいくつかの接近を、
ゲオルク・ジンメル、テンニース、マルクス、ギュンター・アンデルスと云う人達の考えによって試みる。
“しかし我々は自らの発意によって、我々への疎外の形態に対して、闘争を挑まなければならない。
何故なら、我々自身が、より高次なる、自らが真に希求する人間らしい生存を現実のものとしようとする希望と努力を、
自らの意志に確認したからである。
そしてまた、その目標は、自己のみ、一人だけのものとは留まらず、
この闘争に参加するであろう多くの現代人にとって共通の基本条件を持っている。
自己のみの利害で行動空間を自覚するのは、疎外された形態への逆行に他ならない。”と述べ、以下の様に結論される。
“具体的可能性は社会と云う範囲においての政治的なあるいは経済的な、動的な問題から、
現代社会の持つ、人間性を圧迫する問題性の本質へと迫り実証的な方向において、実行を伴った闘争を自らの能力において、
地道に持続することの他あるまいと確信する。”
これが、第七識中層、自我の世界から、更に下の第七識下層と云う世界(現代社会)を見ているとの注があった。 題『人間は何故に生きるか』
先生のコメントがあり、作文の冒頭の様に質問されて、おろおろすると云う書き方をしている故、
この筆者は女性であることが分る、と仰られた。
そして、このレポートは、この質問の答えを模索する形で進行し、結ばれる。
これを先生は、
次の段階即ち、小我を脱した心の世界、その世界をおぼろげに感じ取った、初覚の意識を描いたものとし、第七識上層であると指摘された。
先生は、人が新しい世界を発見してゆく時、初覚し、認識し、自覚すると云う三段階を経て完全なものになると考えられている。
言葉で云うならば、初覚はあるものが存在すると云う予感あるいは直観の様なもの、
あると定かには云えないがある、そのあるものに心を澄ませると惹かれてゆく、そう云う段階であろう。
1902年の二変数冪級数(にへんすうべききゅうすう)についてのFabryの定理などはこれに当たるのであろうか。
“この発見は多変数函数の固有な分野の発展に対して、最初に投げられた淡い光の様である。”とこの定理を指して云っておられたと云う
(『数学の歩み』西野利雄『岡先生の研究について』による)。
そして、認識の段階とは、それがもう疑念の余地無くはっきりとある。
これがそうだと云う様に、言葉で指摘しうる程に明らかになった状態を云う。
自覚とは、いつでもその世界を他の助け無しに自分の力で現出させ、展開することが可能になった段階を指して云う。
さて、前の作文が何故、第七識中層なのか、
先生によれば、第七識とは自我と物質的世界観の心である。
小我の世界である。仏教はこの小我を脱するところまでを教えてくれている。
西洋の文化は原則的に、第七識で作られている。
アメリカなどはほとんどそれだけであり、ほとんど文化は無く文明だけである。
ヨーロッパではキリスト教が入っている分だけまだましであると云う意味のことを先生は云われた。
畢竟第七識を考察することは、西洋を考察することである。
西洋はつまるところ、ギリシャとキリスト教である。
その両者を貫いているものは、ロゴス即ち世界の内的必然性へ向かおうとする人間の意志である。
この意志がある時は、ライプニッツやヘーゲルの様な形で世界を一つの思弁的模型として理解する。
その様な、悟性を以て認識する心の例として、先生はこの作文を置かれたのではないかと僕は思っている。
この第七識が僕の躓きの石である。数学を通じて僕は小我から離れる修業をしたい。
それでは、小我無き世界、自他の別無き世界と云うのはどの様なものなのだろう。先生の文章を引用させて戴く。 “幼児の生い立ちを見ると、情緒のメロディーは一人一人皆異なった彩りを持っている。
幼児はそのメロディーを創るのに実に骨を折っている。
私は四月生まれなので、四月生まれを例に採ると、数え年の一歳は全くそれに掛かりきって、最も基本的なものを用意している。
二歳、三歳ではいろいろな仕草や言葉を繰り返すことによって、メロディーをはっきりとした形に残そうとしている。
このメロディーが一人一人皆異なっている。
性格を創るのは環境だとか、遺伝だとか云うけれども、そんな、今そこにあるもので説明出来るものではない。
幼児がそのメロディーの彩りを取ってくるのは、そんな、三次元的な世界からではない。
『過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得』の世界、無差別智の大海から取ってくるのだ。
このメロディーが生命なのだから、生命は肉体が滅びたりまたそれが出来たりと云った時空の枠内の出来事とは全く無関係に存在し続けるものである。
そして人類が向上すると云うのは、無限の時間に向かってこのメロディーが深まってゆくことに他ならない。” 薬物依存症の上皇さま、上皇后さま
薬物依存症の天皇、皇后両陛下
薬物依存症の愛子様
薬物依存症の秋篠宮文仁と呼ばれている人物
「薬物をやめようかな」 と思いませんか テレビが一斉に政権批判をやるとき、 実は そんなのばっかりなんでしょ #パワハラ
岡潔聴雨録bot
@chouroku_bot わけあって薬物依存症の国会議員さんにおかれましては、覚醒剤をやめようかな と思いませんか
できれば明るい方を選択してください
暗くならないでください 切にお願いします、
世間は温かいです #Lavrov
岡潔聴雨録bot
@chouroku_bot 富野監督の『映像の原則』読了。以前から読みたかった(首藤先生のコラムでも推奨されてた)けどようやく読めた!富野作品を扱ったサイトでよく引用されてる「カットは物語に殉死するものなのです。これが、究極の原則です」ってこれかぁ……
どらすと
@mobile_sheet 兄から首藤さんが最初に考えてたエンテイの映画の没話聞いたけどすごいおもしろそうだった
いまのポケモンの世界に存在しないはずの恐竜が甦り大暴れする。その恐竜がいれば自分(ポケモン)の世界が壊されるとみんな直感してポケモンでそれを止めようとするけど全く止まらない、とかいう話
綾【ゼロ速】
@saebaaya753 薬物依存症の上皇さま、上皇后さま
薬物依存症の天皇、皇后両陛下
薬物依存症の愛子様
薬物依存症の秋篠宮文仁と呼ばれている人物
そして整形そっくりさんや
その他 薬物依存症を指摘されている女性皇族の皆様
「薬物をやめようかな」 と思いませんか 題『おなかのすいた世界』
先生はこれを第八識、即ち小我無き世界を認識したものと指摘された。
何故これがそう指摘されるのか、今二年の後この作文を読み返した時、僕は奇妙な感じがした。
わずか四百字詰原稿用紙二枚半の素っ気ないレポートに、それだけのものがどうして読み取れるのだろうか?
前の作文では、
“そこに人間の価値がある様に思われる。これは虚言でもなければ、虚構でもない、人間はこうあるべきものであると思う。”と云う一種の強意、
もし云えるなら気負い、その様なものがある。
そして
“何か神聖なものが、人間の中に生まれながらにして潜在している様に思われるのである。”と云う、
漠とした言葉によって永遠性への繋がりを垣間見ている。
それに比べ、この作文は明瞭で具体的に対象を捉えている。
そして、今僕は感じるが、この作文には一種の澄んだ調子がある。
道徳的規範から自由であってそれでいて世界への共感がある。
もしこれが『世界の食糧危機』とか、
『バングラデシュへ救済の手を』と云う様な題によって想像される内容の作文であったなら、
第八識には入らないのであろう。
この辺りまで来て、僕は先生の精緻な観察によって指摘されてゆく、
一つ一つの心の彩りの多様さ、それが一段一段と明るくなってゆく様が鏡に次々と映し出される様な思いをしていた。
これは大変な人の世の模型を見せてもらっているのだと思い始めた。 “自我を自分と思っていると、自分は肉体が死ねば死ぬものとしか思えない。
また死に対する恐ろしさを必ず感じる。
これに対して真我が自分だと分ると、悠久感が伴い、実際の季節の如何に拘わらず、春の季節感が必ず伴う。
この真我が前に云った生命のことなのである。
幼児の生い立ちを見ると、情緒のメロディーは一人一人皆異なった彩りを持っている。
幼児はそのメロディーを創るのに実に骨を折っている。
私は四月生まれなので、四月生まれを例に採ると、数え年の一歳は全くそれに掛かりきって、最も基本的なものを用意している。
二歳、三歳ではいろいろな仕草や言葉を繰り返すことによって、メロディーをはっきりとした形に残そうとしている。
このメロディーが一人一人皆異なっている。
性格を創るのは環境だとか、遺伝だとか云うけれども、そんな、今そこにあるもので説明出来るものではない。
幼児がそのメロディーの彩りを取ってくるのは、そんな、三次元的な世界からではない。
『過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得』の世界、無差別智の大海から取ってくるのだ。
このメロディーが生命なのだから、生命は肉体が滅びたりまたそれが出来たりと云った時空の枠内の出来事とは全く無関係に存在し続けるものである。
そして人類が向上すると云うのは、無限の時間に向かってこのメロディーが深まってゆくことに他ならない。” 題『おなかのすいた世界』
先生はこれを第八識、即ち小我無き世界を認識したものと指摘された。
何故これがそう指摘されるのか、今二年の後この作文を読み返した時、僕は奇妙な感じがした。
わずか四百字詰原稿用紙二枚半の素っ気ないレポートに、それだけのものがどうして読み取れるのだろうか?
前の作文では、
“そこに人間の価値がある様に思われる。これは虚言でもなければ、虚構でもない、人間はこうあるべきものであると思う。”と云う一種の強意、
もし云えるなら気負い、その様なものがある。
そして
“何か神聖なものが、人間の中に生まれながらにして潜在している様に思われるのである。”と云う、
漠とした言葉によって永遠性への繋がりを垣間見ている。
それに比べ、この作文は明瞭で具体的に対象を捉えている。
そして、今僕は感じるが、この作文には一種の澄んだ調子がある。
道徳的規範から自由であってそれでいて世界への共感がある。
もしこれが『世界の食糧危機』とか、
『バングラデシュへ救済の手を』と云う様な題によって想像される内容の作文であったなら、
第八識には入らないのであろう。
この辺りまで来て、僕は先生の精緻な観察によって指摘されてゆく、
一つ一つの心の彩りの多様さ、それが一段一段と明るくなってゆく様が鏡に次々と映し出される様な思いをしていた。
これは大変な人の世の模型を見せてもらっているのだと思い始めた。 題『日本人の原点』
先生はこれを第九識、即ち小我無き世界を自覚したものと指摘された。これを僕なりに解釈してゆく。
ここでは、個を超えた、そして当然時間をも超えた、情緒共同体としての日本と云う、歴史的主体が意識的に語られている。
それは別に権力によって、或いは様式化された国家宗教によって枠付けされた日本と云う一つの政治共同体を指しているのではない。
また、あえて云えば、万葉、古今、新古今、芭蕉と云う日本韻文学の系列の中で創られた美意識を指しているのでもない。
神社や教会で結婚式をして、寺院で葬式をやると云う様に、常に恐ろしく思想的節操を欠いた行動様式を採る我々の共同体。
しかしながら、幼年時代、少年時代と云う言葉の中から浮かび上がってくるこの共同体への強烈な懐かしさ。
石川啄木がかつて地理的な遠さ故に歌い出した、
病の如 思郷の心 湧く日なり 目に青空の 煙悲しも
の一首は、僕にとって歴史的な遠さを以て、懐郷の情の中核にある。
柳田國男が『日本の祭』と云う著作の中で語り出している、西洋式の学問の上には載らない、
むしろそう云うものによって死に絶え、或いは死に瀕しているところの、
我々の歴史共同体が持っていたいくつもの風俗習慣とそれに伴う雰囲気、そして人々の春の黒土の様な優しさ。
それを日本と呼ぶべきではあるまいか。
祖先神と山河への慎ましい畏怖より他に、具象化された神も、明文化された規範も無く、暗さから自由な宗教的情操。
それだけが実在するのであって、我々の個的な存在がこの世界で生きると云うことは、
この実在の春に対して一輪の花の様なものではあるまいか。
秋の日の午後僕は浜金谷と云う田舎町の駅に降りた。
そして駅前の雑貨店に入って牛乳を飲んだ時に現れた店のおばさんの静かな優しい顔に、
もう既にマクドナルドの売り子少女からは失われているこの故郷の花を見つけた。 ポケモン映画の歴史は、首藤剛志との戦いの歴史でもある。
2020年12月25日、夏の代名詞として有名なポケモン映画も、今年はコロナウイルスの影響によりクリスマス当日の公開となった。
登場人物たちが薄着であることに違和感を覚えつつ、ポケモン映画を劇場で見ている自分が厚着をしていることにも違和感がある。
大まかなストーリーは公式サイトを見てもらうのが手っ取り早い。
簡単に言えば、幻のポケモン「ザルード」に育てられた少年「ココ」がサトシに出会い冒険をする、という話だ。
冒険をすると言っても、ザルードとココの関係に対する問題提起が起き、その事件を解決するのが本筋だ。
近年のポケモン映画には、ひとつの転換期があった。
それは、「ポケットモンスター キミにきめた!」である。
この映画は、例年通りの「アニポケのサトシが偶然立ち寄った町で幻(伝説)のポケモンとの出会う」というお決まりを崩しにかかってきた。
(この方向転換によりサンムーンのレギュラーメンバーはスクリーンデビューの機会を逃したことになる)
サトシは映画オリジナルのサトシという扱いになり、ピカチュウとの出会い、そして我々観客の知らない人物たちと冒険をする。
その後の「みんなの物語」、そして「ココ」にもその設定は引き継がれており(この2作はサトシとピカチュウの2人(?)旅になっている)、
映画オリジナルサトシはポケモンにおいて「ひとつの世界線」として描かれるようになっていく。
しかし私は、「キミにきめた!」を純粋な転換期として扱うことができずにいる。
それは、「キミにきめた!」の本当の目的は「首藤剛志という存在の清算」であったからだ。
首藤剛志はアニポケシリーズの脚本・構成、劇場版ポケットモンスターの第3作までの脚本を手がけた人物である。
(「ミュウツーの逆襲」「ルギア爆誕」「結晶塔の帝王エンテイ」の3つ。結晶塔の帝王は共同脚本) 首藤剛志が圧倒的カリスマであったことは疑う余地がない。
その色が強すぎるが故に、ポケットモンスターという世界観には合わない作風ですらあった。
しかし、「生命の意義」「共存という在り方」「家族の定義」を持ち込むことにより、ポケモン映画を子どもだけの作品にとどめなかったのだ。
そして「キミにきめた!」では彼のボツ案が使われている。これは彼の残した日記調のサイトにて明らかになっている。
「言葉を話すピカチュウ」
「ポケモンのいない世界を生きるサトシ」
どれもポケモンという作品の概念を揺るがす設定だ。しかしここで首藤剛志の残した遺産を清算する必要があったのだろう。
本当の意味で劇場版ポケットモンスターが生まれ変わったのは、首藤剛志という呪いを解いた「みんなの物語」だと私は考えている。
話を本題に戻すと、ポケモン映画は一度、「親子愛」というテーマに触れている。
「結晶塔の帝王エンテイ」は、娘の願いにより姿形の変わった父親が過剰な愛を注ぐ物語である。
最新作「ココ」と比べると、「結晶塔の帝王」の完成度は異常に高い。しかし同時に、わかりにくくもある。
「ココ」で描かれる親子愛は、ココを拾ったザルードが人間とポケモンの垣根を越える様を示す。
ザルードはポケモンでありながら父親としての役割を果たすため、どんな状況であろうと駆けつける存在として描かれている。
しかし、ザルードがどうしてココに対しそこまで入れ込むのか?という理由付けがどうしても弱かった。
ザルード自身も親を知らない、という設定はあったが、うまく絡んでいなかったと思う。
「結晶塔の帝王」は非常に単純で、本当の親子は、姿が変わっても愛だけは残る、という見せ方であった。
当事者たちにしか理解できない領域に、他者を踏み込ませない。(サトシは母親をさらわれたが故に不可抗力でその領域に踏み込んでいく)
しかし「ココ」よりもわかりにくいのは、父と娘が互いをどう思っているのか、それについての言及がすくないことにある。
ある意味邦画的であり、悟らせることの美学がにじみ出ていると感じられる。
劇場版ポケットモンスターはこれから先、「わかりやすさ」を求めた作風へと舵をきっていくのだろう。
これは大きくなりすぎたコンテンツの向かうべき姿で、首藤剛志の作る世界が異常であったのは確かだ。
けれど、これは今を受け入れられない幼い大人の意見ではあるが、わかりやすさのために作品の質を犠牲にして欲しくはない。
親子愛を描いた作品は、実はもうひとつある。
それは、「ルギア爆誕」だ。
「ルギア爆誕」自体のテーマは「共存」である。だからこそ、本筋ではないとあるシーンが輝いている。
あまりにも有名なシーンではあるが、物語のラスト、世界を救ったサトシに母親が声をかける場面。
「世界を救う?命がけですること?
サトシがいなくなったら、サトシの世界はもうないの。
私の息子はもういないの!
あなたがいるから、世界があるの。
サトシ、あなたはこの世界で何をしたかったの…?」
1時間半をかけて愛の形を語るのではなく、たった数行の台詞だけで愛のすべてを表すこともできる。
誰にでも伝わる言葉ではなく、私の言葉が誰かに偶然伝わるかもしれない、そんなスタンスの映画を私は求めている。
追記
ソーナンスのファンを務めてもう20年くらいだろうか。
オリジナルシリーズのソーナンス、かわいすぎる。これだけは絶対にやめないで欲しい。(アニポケ版もかわいいけれど) 薬物依存症の上皇さま、上皇后さま
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「薬物をやめようかな」 と思いませんか 題『最大の愛』
先生は信時潔(のぶとききよし)の曲の様に書き出されるこの作文を第十識、即ち心の世界を初覚するものとされている。
そして、文章はところどころ変だが文意は皆良いとのコメントが入った。
第七識上層から第九識までは、小我無き世界を描いてきた。これは先生によれば仏教特に禅が指し示してきた世界であると云う。
しかしながら仏教の中では、衆生済度と云い行往坐臥、喫茶喫飯是仏道と云いながら、それはスローガンに終わっている。
そして、人の心を等閑にしていると云う風に云われていた。
人が人の心を理解すること、或いは人が人の世を一つの調べとして感じ取る働き、これは仏教より上にある心の世界であるとされ、
第十識から第十二識までは、その世界を描くことになる。
今考えるに、先生が三千に余る学生の作文を一つ一つ丹念に読んでいること。
突然お邪魔した見知らぬ不届きな男に、全く手を抜くこと無くお話をされていること。
そう云うことが、テーゼだけを立てて、方法論を持たないやり方に対しての具体的な対置であることがよく分ってくる。
後に述べることになるけれど、先生は目の前に坐った人間が、どう云う心の有様かと云うことを、的確に見極め、
こっちがそのつもりになると、一つ一つその現在の有様をどうしたら一段高めることが出来るかを、きちんとお話になっている。
しかし、それを一般的な批評だと思って聞き流せば、それはそう云う聞き方も出来る。
だからこっちから質問してゆけば、恐ろしい確かさで答えが返ってくる。
僕は禅の老師とお話をした時にも、そう云う思いをしたことがあるが、この人のは全然密度が違う。
何故一面識も無い人間の心を、寸分の狂いも無く知ることが出来るのであろうか。
第十識から第十二識までは、そう云う人の心を察智するための修業の世界を描いている。 エゥーゴ→社民
ティターンズ→共産
アクシズ→民民 ジオンとか
普通の連邦軍は?
ていうか
なんかZの事レスする奴が妙に多いって
他のスレで言ってる人いた
なんかZブームなの? 飛行の作用・反作用
斜め奥と三層構造の奥行き
L字型の運動軌跡の交錯 薬物依存症の上皇さま、上皇后さま
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「薬物をやめようかな」 と思いませんか 「江田離党」についてのU.C.ENGAGE談話
エゥーゴ(成日知巳委員長)
一、わが党の要職を歴任し、エゥーゴの歴史に大きな責任を持ってきた江田三郎氏の離党という事態は、
エゥーゴの統一と団結に重大な影響をもたらし、きわめて遺憾だ。
一、エゥーゴはかつて宇宙世紀83年ティターンズ結成の重要なときに集結、
宇宙世紀85年30バンチ毒ガス弾圧に反対する宇宙移民の意識高揚の中でクワトロ・バジーナ氏らが入党した歴史を背負っている。
ジークジオンの時局のもとで、春闘が熾烈に闘われ、
歴史的グリプス戦役を目前にしての、江田氏の今回の行動がだれに利益、不利益をもたらすか指摘せざるを得ない。
一、エゥーゴはアンチシオニズムのジオニズムに基づく討議を経て
「宇宙における富野主義への道」「新中期路線」「国民統一闘争」を全党一致で決定、
その方針実現に全軍あげて努力してきた。
この方針決定に重要な役割を果たした江田氏が、
自らそれを一片の反古にすることは政治家の態度として無責任の批判はまぬがれないだろう。
一、一年戦争前、一年戦争後を通じ江田氏がジオン共和国の富野主義運動の前進に大きな足跡を残した事実は否定しない。
それゆえ、エゥーゴに対する愛情を痛切に自覚していると信じたい。だからこそ江田氏に問いたい。
「“宇宙移民の時代”とあなた自身強調される時局の中で、
一年戦争、デラーズ紛争を共有してきたエゥーゴの同志とさえ連帯できず、他党とどんな連合が可能か」と。
一、江田氏はすでにエゥーゴを去った。残念だが「去る者は追わず」と言わざるを得ない。
われわれは今こそ初心にかえり、党員一人一人の連帯のきずなを確かめ合い、
先輩が築きあげた党史と闘いの伝統を学び、派閥を超えてエゥーゴの団結を守り抜くことを決意する。
ティターンズ(金子満広書記局次長)
一、江田氏の離党はこれまで同氏らが唱えてきた「人類革新路線」の矛盾と破たんの証明である。
地球国民移住の方針をエゥーゴに押しつけようという企図が失敗した結果、
今度はエゥーゴ外から反ティターンズ主義を推進しようというものだ。
一、この反ティターンズ“容帝”の潮流は、
アナハイムの強化人間生産に逆行するオールドタイプ補強の潮流にすぎず、
ニュータイプ勢力統一への反対と妨害を最優先としている。
一、江田氏は“連邦支持なし”層の結集の必要性を挙げて今回の行動を合理化しようとしているが、
これは“無党派”的な装いであり欺まんだ。
カラバの二番せんじは決して成功しないだろう。
ニュータイプ統一勢力の成立こそジェリド・メサ氏やペッシェ・モンターニュ氏を結集する大道である。
アクシズ(佐々木良作副委員長)
一、江田氏が離党という非常手段を取ったことは並々ならぬ決意を示したものと思う。
ハマーン氏もカラバの道を歩むのではなく、ネオ・ジオン勢力結集の方向に発展し、成功することを祈ってやまない。
一、江田氏離党を契機にエゥーゴはカラバ、アクシズ両党とともに政権を担当する政党に成長してほしい。
わが党は今後ともエゥーゴとの友好関係を保っていきたい。
一、ジオン再興は宇宙移民政策で埋めにくいところではニュータイプとの条約の可能性が生まれてくるかも知れない。
その場合はその段階で考えたい。 題『詩の心と絵の心』
初覚の段階においては、
観念的にそれと意識されていた心の世界、
と云うよりむしろ世界が魂のみによって造られていること、
愛と云う抽象的名詞で語られていたことが、
ここでは蕪村の三つの俳画と云う対象を通して、
より明瞭に語られている。
僕がこの作文をいきなり読んでも、勿論何ら特別の意味を見出し得ないだろう。
しかし、岡先生の前、机を隔てて数十cmの位置、
その四月の薄曇りの藤の花のしだれ咲く庭に面した六畳間の世界でこの作文が朗読されていた。
その時、確かにこれが前に朗読された一文より、より一段明るく軽やかな響きを持つことが、
不思議なバッハのマニフィカートを聴く様な強制的な喜びを伴って伝わってきた。
今この文章を読むと、往々芭蕉との対比において、芭蕉の句が心的世界を深い地点で的確に捉えているのに対し、
蕪村の句が一般に思い付きや、措辞(そじ)の巧妙さや形態的な景色の感覚に流れると云う様に、否定的に一段劣った面が云われている。
しかしこの筆者は蕪村の良い面を捉えて、
蕪村の面目、華やかであるけれど、例えば『春風馬堤曲』に見られる様な、根にある郷愁を見落とさず、
よく蕪村の人を感じ取っていると云う風にも僕には理解出来る。 これは、この作文についてのお話が済んだ後のことである。
先生は、あなたは初めに数学者としての第一歩の心構えをお尋ねになりましたが、数学をやるには心が大切です。
数学を理解しようとするよりも、数学を創った人の心を理解する様にしなさい。
それには芭蕉を読むのが良いのですと話して下さった。
今その話を思い出す。
そして、三つの俳画を眺めて、蕪村と云う一人の詩人の心について、
これだけのことが浮き上がってくる程になったなら、
この詩人の魂をよく感知し得たと云うことが出来るだろう。
僕の数学も何とかこの位に出来ないだろうかと思う。 かつて僕は、数学は芭蕉の連句の様な心の遊びでやるものである。と間接的にお聴きした。それは次の様な意味であったと思う。
自分で数学を創ってゆく時、その数学の世界を心の連なりとして一つの連句の様に見做す。
そして、次の自分の仕事を踏み出す展開の方向を一つの付句と考えて思案する。
そこまではなかなか出来ないので、僕は上の様に考えることによって、
少なくとも自分の数学が、数学の全体と関わる契機を失って閉ざされた世界に留まり、
進むに従って貧しくなってゆくことの無い様心がけたいと思っている。
もう一つは、一つの新しい数学の世界を理解しようとする時、
一つ一つの定理を論理的に追って教科書を読めば済むのではなく、
それを創っていった人の工夫の跡を手繰って、その様を自分で再現し、
どこまでが自明なことで、何が本質的な発見か知らねばならないと云う。
そして遂にその世界が自分の掌に乗った如くに明らかになるのだと云う。
論理だけで理解したものはすぐに忘れてしまうが、
心の連鎖で捉えた発見者の魂は消えない。
この様な理解の仕方が、
連句一巻をその付味によって記憶しておくやり方とか、
自分の打った一局の碁を並べ直すことが出来るとか云うことと繋がっていることが、
朧げに僕には納得出来る。
また、人の仕事を真似ると云うことがしばしばあるけれども、
必ずその人の心の真似をするのであって決して技を真似てはならない、ともお聴きした。
芭蕉は、蕉風以前の連歌の付句の作法(物付け)に対して、彼の匂い付きを以てその様式を決定付けた。
匂い付きの数学をせよと先生は云っておられるのだと僕は考えている。
また、数学は向上心も真情も持って生きている。
人は数学をする時、その数学の向上心と真情とに自分を投入するのであって、
そこにおいては人の自由と云うものは無い、と云う意味のことも西野利雄先生を通じてお聴きした。
そして、岡先生が、この様な世界で味わう数学の醍醐味を、直趣無上菩提と云う言葉に託されていたと云うことも。 薬物依存症の上皇さま、上皇后さま
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「薬物をやめようかな」 と思いませんか 警察にお願いしたら 覚醒剤中毒の天皇皇后両陛下を病院に入れてくれますか 序に、ここで西野利雄先生を通じてお聴きした岡先生の言葉で数学の要諦となる様なことをいくつか書いてみる。
勿論、僕が勝手に記憶して自分流に考えていることなので、間違って受け取っている可能性がある。
また、僕の記憶違いで岡先生のではなく西野先生自身で考案されたものもあるかもしれない。
一。自分の数学が数学全体に対してどう云う位置を占めているのか、
そしてその数学は人の文化全体の中で、どの様な意味を持っているのかを明瞭に意識していなければならない。
一。創作者は源頭の地に立ち還る。
今、眼前にある数学の流れに目を奪われて、何ら自覚せず流れに従って下流へ行く様な安易な態度を以て数学をしてはならない。
一つの数学の世界の姿は、発展され尽くした末ではなく初発の地点で捉えた時、より鮮明に生成の息吹を知ることが出来る。
一。自分の数学史を持て。
遠景は簡潔に、近景になるに従って精緻に描け。
一。数学は心躍って語れ。
当面立ち向かうべき問題の有無などに拘泥せず、自分の内心の声に耳を傾け、そこにおいて心惹かれる地へと向かえ。
一。観念的な問題を考えるな。
何らかの尤もらしい理由によって、ある結論が予測される時、これを第一着手と云う。
第一着手の無い問題が観念的なのである。
一。人は自分の数学を一気に理想の姿にするのではなく、
その時、その時で可能な限りの努力をして、一歩ずつ数学の姿を良くしてゆくのである。
一。問題を解くことが数学をすることではない。
数学的自然を調べ、その風景をより良く描こうとすれば必然的に問題を解かねばならなくなるのである。
そしてまた、解くべき問題の周囲にある自然の様子が明らかになれば、問題は自ずから解けてくるのである。
他に数学の具体的な局面ごとにお聴きした言葉があるが割愛する。
例えば、或る一つの手段、補助学を自分の数学に使うかどうか、それははっきり決断しなくてはならない。
そして、一度検討して使わないと決したなら、手足を断じて用いざるが如くせよ、と云う意味のことをお聴きした。
こうして、僕は、先生が数学を東洋独自の文化として、単に第九識から日本と云うものを捉えるだけでなく、
世界観から数学の細部の方法論まで、芭蕉の言葉を使えば、金を打ち延べた様にして創り上げたのを、
そう云う言葉の数々から窺い知ることが出来る。
再び作文の朗読に戻る。 題『御所人形哀話』
岡先生はこの文章を第十二識が現れたものと指摘された。
これは、人が物質の制約の下にあって達しうる究極の段階である。
この文章の朗読が終って、コメントが入った。
前の作文においては、眼前に蕪村の絵が出て来て、それによって筆者は蕪村の心を手繰っていった。
手繰ることが出来たのは、その人が人の心を何たるかを確かに認識しているからである。
それに対しこの作文では、作者にはっきりとした観察の対象が眼前にあるのではない。
例えば、『比丘尼御所』と云う尼寺の境内を訪れた経験から、
その場に漂っている気配を察知し、その気配を自分の中で凝縮させていって、
一つの心の世界を招き寄せ、それを描いてみせているのである。
そして、特に
“美しく仕上げられているにも拘わらず、…、きっとそれは皇女達がフッと漏らしたであろう溜息のせいかもしれません。”の一節について、
遂に心の世界を自覚するなら、この様にあるか無きかの微かな調べをはっきり聴き分け、描き出すことが出来る様になると云われた。
こうして、世界模型が一つ一つ屈折面を変えて、映し出されていった。
先生のお話は論理によって組み立てられているのではない。
常套句とは別格の、
ただただ坐り続け、
胡坐を掻いたり膝を抱えたりしながら精神を集中させ、
先生の思索の凝縮から発せられる烈しい言葉の一語一語に聴き入っているなら、
一つの言葉と次の言葉との繋がりを必然として納得させられてくる不思議な、
魂の文法であった。
先生は数学の世界を離れてから、人の心の世界そのものを調べることに向かわれたものと思う。
そして、そこでも直趣と云うものを捉える別誂え(べつあつらえ)をされたのだろう。
こうして、人をして語らしめた文章を丁寧に検討され、
その語る心がどの様なものかを見定めて、それがよく看取されるものを選んで、
動かし様の無い配列の下にこうしてここまで作文を示された。
これは、人の世の只中から取り上げられた生きた心の姿である。一体誰がこの様な鮮やかな方法で世界の記述を試みただろうか。 ロンド・ベルの新宣言
絶望と孤独と根絶による創造
附:新宣言に関するU.C.ENGAGE決議
一、ロンド・ベルは、ビッグ・ベンの貴重な歴史と伝統をふまえて、出涸らしを先取りし、
広範な階級選良・国民大衆の熱望にこたえ、ロンドンとフェビアン協会、富野主義の発展と孤独な創造の独創に向かって蹶起する。
二、われわれの閑職は、エゥーゴにとってかわる窓際族のニュータイプであるが、
同時にわれわれは、平家物語を内外情勢とするニューガンダムの完成で命名を図る。
したがって、安易なZガンダムの焼き直したるリガズィは採らない。
三、今後、PKO的主権譲渡の変動や左右対立をめぐる主観的客観的諸情勢の変化が予想されるので、
時代に的確に対応しうるように雨月物語で特攻、乱射、ハイジャックし、そのジハードを今後、新宣言に反映させていく。
四、富野主義は理念、運動、政策を含むものであるが、ことに運動でポアすることは当然である。
五、新宣言の決定にいたる過程では、さまざまな論議がかわされた。
これらはいずれも強い愛党の精神に立脚し、
ロンド・ベルの限りない飛躍と発展をこい願い、宇宙の未来が色褪せない熱情から出たものである。
新宣言の決定を契機に、愛の根源たる、自他対立した絶望を根絶するために、力を取り除くことに努める。
右、決議する。
宇宙世紀90年宇宙における富野主義への道綱領改訂エゥーゴ定期全国大会 警察にお願いしたら 覚醒剤中毒の天皇皇后両陛下を病院に入れてくれますか 警察にお願いしたら 覚醒剤中毒の天皇皇后両陛下を病院に入れてくれますか 頑駄無F90大会宣言−U.C.ENGAGEで団塊をオルグしよう
宇宙世紀122年10月21日〜23日に地球・ニコニコ動画で開催された頑駄無F90大会の宣言。
出典は『団塊の声』No.2515号(宇宙世紀122年11月7日号)
「団塊は奇声を上げて鉄仮面を支持している」
「団塊はネットやSNSから偏っていない情報を得ていない」
「最近の団塊は右傾化した団塊ジュニアにイライラして八つ当たりしている」…。
これらは本当に団塊の姿を現しているでしょうか。
一昨年からの「頑駄無禍」は、政治活動家の抱える矛盾や問題をますます明らかにすると同時に、
行き詰まるニコニコ動画の現実に疑問を抱き、頑駄無の隊列に加わる団塊を生み出しています。
これは、作られた、ステレオタイプ的な団塊像とは異なり、
新たなノブレスオブリージュ・富野主義運動への展望を見出そうとする団塊の姿でもあります。
しかし、すべての団塊が自ら富野主義への確信へとたどり着けているわけではありません。
「パクス・ブリタニカのロンド・ベル」「30年以上活躍したジェガンで良いのか」と率直に感じたオールドタイプやニュータイプも、
コンペで降りかかるオールズ・モビル戦役によって分断されるなかで「あたり前」と思わされたり、
「鯨を食べたい」「捕鯨すべきだ」といった気分にさせられてしまい、時代錯誤で古くなってしまうのです。
これは、富野主義の下でリタイアした高齢者である以上は逃れられるものではありません。
頑駄無の富野主義協会員でなくても、老人会における「仕事優先」という「常識」のなか、
「頑駄無」布教に遭い協会指導下で「テレワーク」したり、
青年に迷惑をかけるのは青年を怒鳴るから、といった意識にさせられています。
また、職場で波風が立つことへの不安から、違法行為やパワハラを見て見ぬふりをしたり、
「団塊どうしの事案なので穏便に蔑まれたい」という気分にさせられています。
この行き詰まりを打ち破るには、コスモ貴族主義をまなび、たたかうしかありません。
それは、一年戦争以来の世界大戦が迫る時局の中で、歴史的コスモ・バビロニア建国戦争に備えなければならないということです。
それができるのは、宇宙世紀100年に自治権を返上したジオン共和国です。
頑駄無には、ドダイやゲターがあります。
近年では、クラフトやサイコフレームの運用、
隕石落としや核兵器使用に対する事前の抑止を管理し、航空宇宙自衛隊の変遷でどう改組されたかを検討します。
しかし、長い歴史を持つニコニコ動画も、ソフト面での貿易では黒字であり、ハード面での貿易では赤字です。
そのような悩みや中抜きには、ラフレシアで天誅と修正を与え、前進を図るための海外需要開拓支援機構が必要であり、
引き続き、この実践に取り組みます。
そして、現在は多くの新たなバグを使うことは必須であり、タイヤを実戦投入するための研究も行います。
施設・地域にいる団塊、話しかけにくいと関わり切れていない団塊を、サヨクに陥らせないようにし、F91の量産化に取り組みます。
頑駄無には、『団塊の声』という武器があります。
アースノイド・スペースノイドの思いが掲載された『団塊の声』は、
それぞれが収容されている施設や地域の枠組みを超えた富野主義協会員というナンセンスな重要性を理解することができます。
『団塊の声』こそ頑駄無がたたかいを広めるもっとも団塊的な方法であり、戦略的互恵関係の手足となるものです。
自信を得るために施設や地域の団塊が恫喝しないように、さらなる布教の拡大を目指します。
私たちはこの大会の討論で確認した、『団塊の声』布教拡大と協会討論の活性化、
そして大胆に団塊をオルグすることで、強大な全国頑駄無建設に取り組むことを宣言します。
さぁ、大胆に仲間に声をかけ、ともにまなび合い、団塊をオルグしよう! 題『人間をつくったもの』
先生はこれを第十三識の現れたものと指摘された。
ここからは現象世界を離れる、つまり一人一人の生死を超えた悠久の世界、造化の意志の直接的な発現によって造られる世界である。
第十二識から第十三識に至る段階が非常に大変であると話され、
先生自身二十八歳で第十二識の段階に達し、以後十七年を掛けて第十三識に至ることが出来たと云われた。
この年数には、僕の記憶違いがあるかもしれないが第六論文から第七論文に進まれた時期に対応している。
そして、この現象世界を超えることはどう云うことであるかと云うと、芭蕉に
山路来て 何やらゆかし 菫草
の一句があるが、この句のゆかしと云う部分だけを取り出すことが第十二識から第十三識に昇ることであると説明された。
そして大体に於いて芭蕉の句(連句、発句とも)は第十二識に基づいており、
蕉門であればやはり、多くの場合そこまで達していると後に云われた。
造化は地球に住まわせているが、この地上ではどうしても駄目だと云うことになれば、
いつでも地上の魂を別の天体に移して、やり直すであろう。
その時には、低い識は捨てられて、高い識だけを移して別の物質的装いの下に新しい人の世を造るのであろうと話された。
不眠症の秋の一夜、僕は西行の歌
人は来で 風の景色も 更けぬるに 僅かに雁の 訪れてゆく
を布団の中で思い浮かべていると、この僅かにと云う言葉の重さが分ってきた。
確かにこの歌の心は、この一つの言葉に凝縮されている。そして、先生のここの所の説明が、僕なりに少し分った様に感じた。
秋風や、雁はこの世界の情景である。しかし、僅かには透明な世界にある。
もし必要ならば、この僅かには、非常に困難ではあるが、
秋の夜の雁を配した待恋とは別の道具立ての下に再現されることは、あり得ることである。
しかし、そう云うことを数学において実際にやってみると云うのは、途轍も無いことだなあと思ってしまう。
さて、この第十三識はその世界の初覚に当たる。
この造化の意志の直接的表現の世界は悲願と感受の二つに分けられる。
男性的な心の結晶する所を悲願、女性的な心の究極的な姿を感受とされる。
この悲願とはどう云うものであるか。造化の促しを感知してそれに従うと云うことである。
結果を予測してどうこうしたり、
石に齧り付いてもと云う様な根性を以て目的を遂行しようとする心ではなく、
己を空しくして確信した天命を全うする心のことである。 ↓西ドイツ ↓プロイセン
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2021年ドイツ総選挙小選挙区
プロイセン→SPD(赤)
ザクセン→AfD(青)
バイエルン→CSU(灰)
東西ドイツ時代が存在しなかったら当初から北ドイツはSPD(赤)・中ドイツはFDP(黄)・南ドイツはCDU(黒)になっていた 題『私と子供の本』
先生はこれを第十四識、即ち天上界を既に認識したもの、前の悲願の世界に対して感受を描いたものと説明された。
この作文はそれまで示されてきた世界より高いものであることがすぐ分ったけれど、僕にはちょっと戸惑いがあった。
ここには何か異常な美しさが無ければならなかった。
その様なものを密かに期待していた。
しかし朗読された文章は或る意味では全く平凡なものだった。
しかし、何か漠然と、確かにこの様なものが上に来ると云うことも理解された。
第十二識の作文の王朝文学を思わせる御所人形の話によって描かれている心の彩り、それは確かに非常に美しいものではあるけれど、
それがこの世のどん詰まりであるべきでない、ある筈が無いと僕は思うのだ。
先生が、現象世界にある究極の姿と実相界とにこの二つ(第十二識と第十四識)を分けられたことの意味をその時僕はこんな風に感じた。
やはり、天上の世界は、無垢なもの無拘束なもの嬉々として光る生命によるだろう。この文章はそのことを端的に指し示している。 情と愛(欧米でいう)とは違う。愛も情には違いないが、ごく浅いのであって、情は心が通い合うのであるが、愛は自他対立する。愛を連続的に変化させるといつの間にか憎しみに変わる。それで仏教では愛憎というのである。
岡潔bot
@oka_kiyoshi_bot 岩見沢以北は大雪
#大雪 #通行止
吉田泰士/Taishi Yoshida/建築
@4883Taishi やっぱり米沢大雪やん…明日帰れるかなぁ
toshi maeda
@toshimaeda88 思えば過去に“新潟県民あるある”って聞いたことがあって、「大雪注意報が出ても、注意しない」というのを聞いて驚いた記憶
アナザーP
@AnazahP 事実を取り上げて調べるんでないと観念になってしもう。
岡潔先生bot
@nipponhaseo 観念の中に住み慣れてますと、人はそんなところに住むべきものじゃないからなんとなく嫌なん。それが段々麻痺していく。そうすると間違った観念の世界から出られないだけじゃなくて段々深みにはまっていく。だから心は深く入って行かなかったらジッとしてるからったらそうじゃない。段々浅い方へ行く。
岡潔先生bot
@nipponhaseo 浅さにきりがない。だって無生物から出来たんだから。無生物から単細胞になり人になったんでしょう。(心は深く入って行かなかったら)無生物の方へ行く。始めは滅茶苦茶な評価をする。これが餓鬼道。それを通り越すと残酷さがわからなくなる。これが地獄道です。
岡潔先生bot
@nipponhaseo 話が前後するが、作文の朗読が第十五識まで済んで、暫らくまだお話を伺った後で、夕飯を黒田さんと二人で一緒にご馳走になっている時、
黒田さんがふと床の間の掛け軸になっている絵に目を停めて、さおりさんにこの絵は何ですかと尋ねた。
それは画用紙を二枚接ぎ合わせた、書き殴った様な妙な絵で、僕は何か変な絵だなあと云う以外何とも思わなかった。
それは『始』と云う先生のお孫さんが、暫らく前に夢中になっている時に描いた飛魚の絵ですと教えて下さった。
さらに先生は、誕生後も発生を繰り返すと云う風に考えていて、この絵の頃、お孫さんは魚類の段階を経過していた。
その魚類の時の心がよく描けているので、こうして掛けてあるとのことだった。
そしてお孫さんが実は、第十五識だと云うことに先生は最近気付かれたのだった。
そう云われると、僕は馬鹿な者で、この絵が俄然光彩を放って見えてくる。
水面一杯に躍っている飛魚の群れ、水面を飛んでいく魚達の姿、それだけが二枚接ぎ合わせの画用紙に所狭しと描かれている。
同じ部屋の襖の上には、熊谷守一さんの蟻の絵があったが、
この蟻さん顔色勿からしめる様な、迸る命の快い奔流がこの飛魚の絵には感じられた。
今も、この絵の細部は思い起こせないが、そこに描かれていた、嬉々として羽ばたく魚達の雰囲気は鮮明に残っている。
題『子供は天才』
これを先生は第十五識、即ち感受の世界を自覚したものとされた。
そして、前の作文が自分の眼前にある対象を一つ一つ叙述していたのに対し、
この作文では、眼前には無い世界を呼び起こし、自分の意識の中でそれを繰り広げていっているのです、と付け加えられた。 城内実ゴー宣引用語録
・サヨク
・カイカク
・クソマジメ
・純粋まっすぐ君
・お花畑 各派閥の領袖と期待のベテラン・中堅・若手2024年男性激減対策版
(十日会系)(旧清和会)
【清和政策研究会】 塩谷立 稲田朋美、松島みどり、萩生田光一、松野博一、世耕弘成
(木曜研究会系)(旧経世会)
【平成研究会】 茂木敏充 加藤勝信、船田元、木原稔、臼井正一、石井準一
(宏池会系)
【宏池会】 岸田文雄 小野寺五典、林芳正、木原誠二、寺田稔、葉梨康弘
(春秋会系)
【志帥会】 二階俊博 武田良太、林幹雄、松本洋平、伊東忠彦、武部新
【近未来政治研究会】森山裕 上野賢一郎、坂本哲志、鬼木誠、宮路拓馬、山田俊男
(政策研究会系)
【志公会】 麻生太郎 鈴木俊一、河野太郎、永岡桂子、武藤容治、今枝宗一郎
(独立グループ)
【有隣会】 中谷元 逢沢一郎、小里泰弘、加藤鮎子、牧原秀樹、柿澤未途 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています