京都産業大学1975年度日本民族講義で年度末に作文を提出した3025人の内訳は、
第七識下層219人、第七識中層1259人、第七識上層1254人、
第八識257人、第九識22人、第十識5人、
第十一識3人、第十二識2人、第十三識2人、第十四識1人、第十五識1人です。

第十識より低い識の作文を読む価値はほとんどありません。
ところが大多数の人は第七識より高い識の作文を読みたがらないんですね。試験の影響でしょう。馬鹿です。

昼は視覚型で夜は聴覚型の子は、昼は認識者が第二種マナ識で夜は認識者が第十一識の子です。

人には認識者と統覚者があるんです。
認識者が第十一識で、統覚者が第十識なのが普通の日本人です。
前者が情操(懐かしさ)で、後者が情緒(喜び)です。

第十三識で帰趣、第十四識で外宮、第十五識で内宮。第十六識以上は「心そのものとその上の命そのもの」。
心そのものが至微宮のT、命そのものが超微宮のA。
造化の二尊がT-A。教育庁長官である第二蓬来宮がτ-α。司命庁長官である第一蓬来宮がt-a。

男性は認識者である耳がτ、統覚者である眼がα。女性は認識者である耳がα、統覚者である眼がτ。

神々の目標は人の心を向上させてすべての生物がこの唯一つの心の中に住めるようにすることで、
これが「八紘一宇」である。
そのための政治の仕方が「祭政一致」である。
因みに人がこの世で持って生まれた識の高さは生涯変わらぬから、よく修業した人は死んで生まれ変わる時一識上がるのである。

一識上がるには平均一万年を要しますが、
初覚・認識・自覚・確認・実践・捨の旅路のサイクルが速ければ、
一生で一識上がることや、生前何識も上がることが可能になります。旅路も変わります。
勿論、捨の修業により生前出来るだけ多くの各識を正しく使い分ける様にすることが一番大切ですが。

うちの学生、認識の旅路の第十五識って云うのもあれば、自覚の旅路の第七識って云うのもありますから、非常に進んでいる。

僕は捨の旅路にいるんです。

あなたのどんな仔細な心の動きでも僕には寸分の狂い無く分りますよ。

10年前の僕と今の僕とじゃめくらとめききくらい違う。
随分続けましたからね。
なにくそと云う気持ちでは続けられずいつまで経っても一緒、だって寝てる時は皆素直ですからね。

根本から変えよって最初云ったのが『春宵十話』、それから云い続けた訳だけれど決して聴かん。
それで、もうこりゃ徹底的に皆云わないかんと思って今書いてる。

何するにしてもお伊勢さんにお参りなすってりゃ、造化はいいようにしてくれます。
外宮、天の月読の尊をお祀りせにゃいかんけど。

僕は学生の作文読ましてもらって知ったんですがね、
草薙剣の初代は須佐之男尊が大蛇の尻尾から取り出したって伝えられてる。
それから静岡県の焼津で霊験を顕しましたね。それが初代の草薙剣。

二代目は安徳天皇が御入水なすった時、一緒に持って行かれた。
行方知れず、どう捜しても出て来なかった。
それから三代目は伊勢の神宮が神のお告げで京都へ奉納した。
今宮中にあるのがそれで、非常に大切にされてる。それが三代目ですね。

三代目は義経の化身ですね。じゃあ二代目は安徳天皇の化身です。

建礼門院と安徳天皇、母子になってますが、あれが一つのサイクルではっきり云えばτ-αですね。
と云うと植物界の司です。それで萩に行った。
それで松陰も安徳天皇の化身、晋作も安徳天皇の化身、植物界の長です。
それで萩で松下村塾と云うのを作ってるでしょ。