>>884
馬鹿丸出しwww
それとも平気でうそをつく工作員かな?

1754年(宝暦4年)松前藩によって家臣の知行地として開かれた国後場所に属する。当初、国後場所の領域には択捉島や得撫島も含まれていた。

ロシア人の足跡としては、1766年(明和3年)にウルップ島のイワン・チョールヌイ(Иван Черный)が、同島アイヌからサヤーク(毛皮税)を取り立てているのが、文献上でのロシア人最初のものである。
さらに、その10年後には、ロシア商人シャパーリンも同島アイヌからサヤークを受け取っている。

1771年(明和8年) - 「択捉島のアイヌ」と「羅処和島のアイヌ」が団結し、得撫島と磨勘留島でロシア人を数十人殺害する。

1786年(天明6年)に最上徳内が同島を探検した際の上陸時に、ロシア人同士のトラブルにより取り残された3名の在留ロシア人がおり、アイヌの中には正教を信仰するものもあったことが確認されている。

ただし、在留ロシア人たちは1791年までに帰国した。

つまり、1855年の日魯通好条約の何十年も前に実効支配は日本に移ってんだよ、嘘つきの糞馬鹿やろう