ロシア人とアイヌとの最初の接触は1697年に始まる
その頃カムチャツカ半島に勢力を張っていたカムチャダール族の圧迫に耐えかねた北千島アイヌが、アナディール城のロシア人に窮状を申し出たのが最初の接触だ
ロシア人はヤクーツクから北極海経由でアナディールに達しており、そこから南の情報はこのとき知ったのが最初である
すぐにウラジーミル・アトラソフ率いる約120人の軍勢がカムチャツカ西岸を南進し、カムチャダールとの戦闘が起こった
このときカムチャダールに拘束されていた多くのアイヌがロシア軍によって開放され、なかには日本から漂流して流れ着いていた日本人もひとり、このときロシア軍に開放されている
この日本人が大坂出身の伝兵衛であり、アトラゾフは伝兵衛を伴い、ロシアの首都ペテルブルクに帰還した
伝兵衛はロシアの文献に初めて登場した日本人であり、日本語学校の校長として生涯を終えている
1706年頃にはカムチャツカはロシアによって占領され、1713年頃には約500名のコサックが居住していた
1713年、ロシア人のダニラ・ヤコヴレヴィチ・アンツィフェーロフとイワン・ペトロヴィチ・コズイレフスキーが幌筵島に上陸して武力で制圧。以後、課税など実効支配を強めていった
その後ベーリングによってカムチャツカ半島が南から訪問され、ここが北米ではなくアジアであることが判明、その後ベーリング海峡が発見される
これを受け、地理学者のステファン・クラシェニニコフらの第2次探検隊の別働隊は1738年(元文3年)西岸のボリシェレツクから日本に向け航路の調査をおこない、日本では元文の黒船として記録が残っている
以後、千島列島はロシアの実効支配に置かれ、1745年(延享2年)春に千島列島の温禰古丹島に漂着した南部佐井村・多賀丸(竹内徳兵衛ら18人乗組)の漂流民10名が、同年5月、徴税人スロボーチコフに見つかりカムチャツカ半島に送られ日本語学校教師にさせられる

>>885のいう1754年(宝暦4年)の国後場所の設置というのはこのような動きをうけて対抗としてなされたものであり、松前藩が家臣の知行地とすることでここに歴史上初めて日本人を常駐させ、実効支配を目指したものだったが、その時点ですでにいたロシア人を追放しているのをみても、既にここがロシアの実効支配下だったことがわかる
さらにその後、1778年にはロシア人シェパーリンがクナシリアイヌの首長ツキノエの案内で、根室半島のノッカマップに来航、日本との交易を求めており、この時点でもまだ国後島がロシアの実効支配化にあることがわかる
当時国後場所を管理していたのは松前藩の家臣ではなく、商人である飛騨屋であった
松前藩は、飛騨屋に借金があったため、借金返済のためにクナシリなどとの交易権を飛騨屋に与えていたわけであり、実効支配を伴わない、単なる商売の機関に成り下がっていた

国後島に関して言えば、その後、日本の支配が確立することになる

飛騨屋はシェパーリンの件を受けて実効支配をロシアから奪い、自ら実効支配を行うことになったが、その権限を利用して、過酷なアイヌ使役を行った
毒殺などの脅迫で魚肥製造に駆り立て、越冬食糧の準備の暇も与えないほどに酷使し、アイヌの生活は飢餓に瀕した
飛騨屋使用人によるアイヌ女性への強姦も多発し、大規模蜂起が発生した(クナシリ・メナシの戦い)
蜂起したアイヌは松前藩ではなく飛騨屋に対して蜂起したことから、松前藩の兵力の前に恭順の態度で臨んだが、松前藩は中心的なアイヌ37人を死刑した
アイヌ蜂起の責任を取らされ、飛騨屋は蝦夷地からの撤退を余儀なくされたが、このとき以降、道東・クナシリ島での、松前藩の支配が確立し、この地域のアイヌはほとんど絶滅させられることになる