松平嫡流の血筋を追う
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>>1での松平嫡流は、家康の血筋(安祥松平家)を指してます。
語弊のある書き方をしてしましすいません。
私の思う嫡流の血筋は、
家康-秀康-忠直-(光長)-(綱賢)-永見長良-綱国-安藤国近-安藤近倫
--------松平(永見)国忠 だと思います。
ご意見ちょうだいできれば幸いです。 なぜに秀康?養子にいっとるがな。先に生まれただけでは嫡流とはいえんぞよ。 >>5 マジですか><ググっても小寺氏の流れだということしかわからんです>< 本家 宗家 嫡家の使い方が難しいよな。
久松松平家でもどの系統を宗家にするか議論があるらしいな。 そもそも松平ではなくなった徳川家康の子孫で「松平嫡流」というのがよくわからん。
(信康は松平のままだったとも考えられるけど。)
無理矢理選ぶなら、改めて松平を与えられた越前家か会津家のどちらから選ぶのかな。
一般的に「松平嫡流」と言ったら太郎左衛門家か岩津家じゃないのかな。 >>8 一理あるね。現在の宗家当主は会津松平家の血筋な訳で、
秀忠以来の男系直系だからね。良いんじゃないの 松平三河守の家系が正統松平宗家
よって、親氏から始まる宗家の血筋は、家康以降は
松平秀康・忠直が三河守を歴任したことからも越前家へ
松平宗家の流れが移ったと考えられる。
肝心なのはそのあと、庶子忠昌流(福井家)か長子忠直流(津山家)のどちらが
松平宗家であるか。
>>10
会津って水戸系の養子が入ったんじゃないの
秀忠の男系は絶えてる >>2
秀康は家康自身が出生を疑い、信康が無理やり父弟対面させるまで
長らく家康と父子名乗りできなかったんじゃなかったっけ?
そのために信康没後もさっさと秀吉の養子に出され、
秀康は実父の家康よりも養父の秀吉に懐いていた。
将軍にもなれなかった。
家康の子じゃなかったのならば嫡流も何もない気がする・・ >13
確かに本家のという意味では女系ですけど、本人もれっきとした家康の
血を引く男系の二男だか、三男ですよ >>19
現在の徳川宗家当主恒孝氏は会津松平家の分家から迎えられた。
会津松平家も何度も断絶し養子が取られているが
恒孝氏の男系は遡れば紀伊徳川家に行きつくらしい。
恒孝氏の男系を遡ると水戸徳川家だよ。
恒孝氏の母の男系を遡ると紀伊徳川家に行き着く。 会津松平家の庶流筋が本家を名乗るなんて
江戸時代だったらあり得なかっただろうな。
将軍家ではなくなったからどうでもいいけど
どこが宗家なんだという意見も無理はない。
時代錯誤的なことを言うと思われるかも知らんが、
歴史板で「恒孝氏」はやはり、やめてほしい。
(せいぜい「恒孝さん」、くらいか)
「・・氏」というのは姓につけるものであって、名につける尊称じゃない。
徳川家でいえば、現在では田安家当主だけが、八代将軍吉宗系統だと聞いているが。
松平嫡流は、津山松平家でしょう。 「松平嫡流」という定義自体がおかしいがな。
松平家嫡流であった家康は松平を辞めて徳川家を起こし、
自分の異母弟や養子、庶子など徳川を継ぐに値しない傍流に松平を名乗らせた。
御三家や将軍の子息でも庶子は松平を名乗らされ、どんどん松平は増えた。
将軍家は「徳川宗家」として徳川家と松平家の上に君臨していたが、
松平家だけの上に君臨する筆頭松平家「松平宗家」は存在しない。 たしか、現在の津山松平家は、徳川家斉の男系子孫だったよな? >>27
現在の津山松平家は徳川家斉の男系子孫だね
戦前生まれの現当主には娘しかおらず絶える予定 >>「・・氏」というのは姓につけるものであって、名につける尊称じゃない。
ただ、私の記憶が正しければ
貴乃花親方はお兄様の花田勝さんのことを
「花田優(まさる)氏」と呼んでおられましたが? >>29
それは単に、その親方とやらが
正しい日本語を知らなかったってだけの話だろ? ○細川さん ○護煕さん ○細川護煕さん
○細川様 ○護煕様 ○細川護煕様
○細川氏 ×護煕氏 ×細川護煕氏
○細川殿 ○護煕殿 ○細川護煕殿
こう見ると、「氏」だけダメなんだな 氏名というぐらいだから、本来そうでしょう!
でもニュースとかでも、普通にフルネームでも氏をつけることは一般化している。 氏を名前につけることは一般化しているでしょう
天皇から頂いた本姓にしかつけてはいけない
とは言ってみても現在ほとんど本姓を名乗っている人はいない
本姓にしかつけてはいけないという主張のほうが
現代日本語にあってないでしょうね >>33
>天皇から頂いた本姓にしかつけてはいけない
え??
そんなことは誰も言ってないだろ・・・ 細川さんを「細川氏」と呼んじゃいかん、なんて誰も言ってないよね。
「姓名」に「氏」をつける」ことが現代ではある意味「一般化」している、というのは
言うまでもなくそうだけど
元々の日本語として間違っているのは明確だし、
そもそも、それなりの歴史的感覚のある人から見れば
ものすごく違和感ある、っていうのも事実。
だからせめて、歴史板ではそれは避けたいね、っていう気持ちはとてもよくわかる。
まあ、過去の歴史なんてどうでもいい、って考える人と
現在は過去からの蓄積の上に成り立つものであり、従って歴史は尊重すべき、って考える人とがいて
両者は決してわかりあえないものだから、
>>32-33さんみたいな人に話が通じなかったら、それはもう仕方がない。 >>35
日本史板では平安時代の言葉しか使っちゃいけないと言ってる人がいるなw
こういう人はどうしようもない、というのはこっちのセリフでは? >>35
もともと間違ってると言っても、新聞表記で統一されていて
女性にだって普通に使われているわけで、
現代表記としては正しいものと言えるのではないかね。
ただ、徳川家康氏、徳川家達氏、みたいに故人に対して
氏をつけるのは違和感ありありだわな。 教科書に載っているような過去の人物には
氏も殿も様もあらゆる尊称がついていないのが普通
教科書や新聞に徳川家康殿、徳川家達殿とかないから
尊称がつくのは原則生きてる人だよね この場合、確実に言えることは↓こんな程度か。
・少くとも明治・大正頃までは、「姓名」+「氏」という用法は誤用であった。
・現在、マスコミは普通に「姓名」+「氏」という用法をする。多くの人もそう。
・一方で、特に国語に対する一定水準以上の知識をもつ人の中には、
このような言い方を決してしない人もそれなりに存在する。
・少くともこの用法が行われ始めた時には、それは無知から来る誤用に基づいていた。
・それが「正しい用法」であれ「誤用」であれ、いずれにせよ
ある人の言語の使用を第三者が規制することはできない。
だからまず、
>日本史板では平安時代の言葉しか使っちゃいけないと
平安時代の古語は、今話していることとは状況が全く異なる、ということは明らかだね。
それから、この用法は
「一部の人にとっては正しい表記であり、別の一部の人にとっては明確な誤用である。
それ以上でも以下でもない(普遍的な「正」でも、普遍的な「誤」でもない)。」
ということも言えると思う。
そして、多くの場合その両者は、わかりあえない。 要は、「ら抜き」言葉と同じなわけだ。
「ら抜き」言葉は良くない!と(自覚的に)言う人は、言葉の<美意識>を問題にしているのであって、
そういう人に向かって「でもみんな使ってるから正しいんだよー」「言語は変化するものであります」
とか言っても、説得力を持たない。
言語が変化するものだなんてのは当り前の話だが、変化する中でも
より「美しい」方向に変化すべき、と考えている人のみが、今どき「ら抜き」言葉に対して
否定的な意見をもっていると思う。
今の場合もそれと同じで、論理的な整合性も含めた広い意味での美意識を主張したい人が、
「姓名」+「氏」というのは誤った用法である、と主張しているわけだね。
で大抵の場合、この両者は、わかりあえない。
だから、「旧守派」(とあえて言っておく)の可能な態度としては、
「いや、それなりの国語と国史の知識を持ってさえいれば、そんな言い方気持ち悪くてできないでそ。
違和感ありありでそ。」って言って、どの程度の人が賛同してくれるか、反応を見ることだけだと思う。
逆に、「革新派」(とあえて言っておく)の可能な態度としては、
「いや!こういう用法こそが美しいんだよ!なぜなら、・・・」と積極的に主張を展開するか
(ちょっとそれも想像しにくい気もするが)、
または「俺らは生活のことで手いっぱいなんだ。<美>だの何だのなんて、どうでもいいんだお」って
プロレタリアートな主張をしてみるか、
他にもあるかも知らんが、まあそんなところじゃないかと思う。
いずれにせよ、「新聞にも使われてるから、正しいでしょ」ってのが、もし現状を肯定するだけの、
単なる盲目的な体制順応しか示していないのであれば、
知識人として、そんな態度ありえねーだろ・・・・・とまあ、俺個人的には思う。
(もちろんそういう態度を取る人が多数いることは知っているし、そういう人を否定はしない。) 氏名=姓名というのも違和感ある。
氏・源
姓・朝臣
名字・徳川
諱・家康 いわゆる中下級武士(足軽)は武士ではない
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/history/1287805800/425-525
>521 :日本@名無史さん:2011/05/26(木) 20:17:17.19
> 足軽=賎民
> もともと朝廷の警察権力であった武士は戦闘にあたって土民を徴発できた
> 農民を動員しすぎると農業生産に障害が出るから山地や川地の賎民を狩り出すことも多かった
> 賎民は原住民系、渡来系双方あったが朝廷権力から捨てられていた階層が室町時代、初期戦国時代の原動力となった
> 応仁の乱でも足軽層の位置付けは、生きた盾であって正規戦闘員でない
> 住民皆兵に近くなるのは戦国後半である
> 信長は弾正つまり賎民監督官、豊臣秀吉と徳川家康は自身が賎民出であったから江戸時代にいたって古代の貴賎は逆転したとも言える
> やくざ文化が武士文化の影響を強く受けているのは
> 武家に付属した賎民が江戸時代に博徒となり武家屋敷で賭場を開いて武士の裏経済を支えていたからだ
> 系図は偽造と思ってよく江戸時代のほとんどの武士が戦国勝者になれた賎民の末
>
> したがって足軽も立派な武士である >>2のいう嫡流の定義が、家康の子孫のなかで、より年上の血筋を追って
いった場合こうなることは納得できた。この定義があってないというのもわかる。
もし、>>2の系譜の人々が「我こそが嫡家筋ではないのか」という悔しさ、のような
ものはあったんだろうか、と考えるのはおもしろいな。
安藤近倫なんて、津山藩主になれそうでなれなかったんだからかわいそうだよね。
いろいろ思うことあったんだろうなーって考えると歴史はおもしろいね。
松平家嫡流なんだから、松平郷1000石の松平太郎左衛門流を語るのが筋だろ。
なんで家康家系の流れを語るんだ?家康の家系は松平でも代々三郎を名乗る家なんだから、松平としては嫡流ではない。 >>1だが、私の言いたかった松平嫡流は安城松平嫡流のことみたい。
乞食坊主・徳阿弥の血の入っていない、純・松平家もあろう
徳川家康ー結城秀康ー松平忠直ー永見長頼ー松平綱国ー安藤国近
以後津山藩城代家老安藤氏が嫡流。 >>50
永見長頼は松平忠直が配流後に生まれた子だろ
松平の姓を許されずやむなく結城秀康の母方の姓永見を名乗った
松平忠直が藩主時代に儲けた嫡男で長男の松平光長が忠直の嫡流
光長の母は忠直の正室で徳川秀忠三女の勝姫 賀茂社の立ち葵紋は、本多の家紋で、
松平の葵紋はそこから派生したんと違う?
松平氏が賀茂氏を名乗っていたというのは、
何かで見た気がするな。 スレチかもしらんけど松平が酒井氏の祖と聞いたのですが、なんで他の松平氏のように松平を名乗らなかったのですか?同様に尾張の平手氏も 嫡流とは本家を継いだ系統を指し
みなさんが論議していらっしゃるのは
嫡流の話ではないですよ!
長兄系とでも呼んだらどうでしょうか?
>>60
それもひとつの解釈に過ぎんでしょ? いくらでも異論が出ると思うよ
永見なんとかってひと、少なくとも嫡子じゃないでしょ
嫡子なら松平を名乗ってるよね! >>62
嫡子でないのは当たり前
松平忠直が藩主を廃されて流された先で侍女との間に儲けた子
幕府から松平の名乗りを許されず父の母方の養子にされた 4年前に亡くなった当主の弘久さんは松平郷のある豊田市在住だった
ところで今の太郎左衛門家当主って誰? >>50 :徳川家康ー結城秀康ー松平忠直ー永見長頼ー松平綱国ー安藤国近
以後津山藩城代家老安藤氏が嫡流。
ご自分で書いていておかしいなというかむなしくなりませんか?
なんで松平の嫡流が城代家老で安藤姓なの?
殿さまでなく苗字も違うんだから嫡流なわけないでしょ!
あなたは嫡流と長系をはき違えている!
結城秀康の子孫で最後まで大名であり続けたのは津山ぐらいだが
そもそも結城秀康自身家康から「嫡流ではない」と運命づけられて
豊臣秀吉やら結城晴朝やらの養子に出されている
結城秀康の血筋を辿ること自体が嫡流を辿ることではなくて
他家へ養子に出された庶子の血筋を辿ることに他ならない
徳川家康の血筋といえども庶子を辿れば大名から転落した家もそれは出てくる 平野明夫『三河松平一族』って読んだ?
仮説ばっかだけど
なかなか興味深い内容で読み応えあった >>67
その安藤家は後に永見に改姓してる
ちなみに養子が入ってるから男系で忠直の血統は続いてないはず >>73 それって本当?どの代で養子が入ったのですか? >>74
徳川家康ー結城秀康ー松平忠直ー永見長頼ー松平綱国ー安藤国近ー安藤近倫
近倫が11歳で夭折して断絶、美山松山藩から松平長熙(結城秀康の五男松平直基の系統。忠直の系統ではない)
が養子に迎えられるも16歳で子がないまま一代でまた断絶。
その後出雲広瀬藩から迎えられた松平長孝の系統が幕末まで続く。
松平直政は結城秀康の三男松平直政の系統。
松平忠直の血は引いていない(忠直の弟の系統)。 松平の本家は松平の松平家だが、
「嫡流」というには違和感が。 むしろ社会的に見ると、ドラマ部の松平容の方が迷惑なんですが このスレでは
家康流松平(徳川)氏の嫡流と言う定義でOK? >>82
他家へ養子に出された結城秀康が松平氏嫡流というのもおかしい話だけどな
秀康の系統もどんどん苗字が変わっていってるし
ここの人らは松平嫡流というより家康の長男系(松平を名乗る必要全くなし)
という意味で使っていると思う >>79
「プライベートな意味の本家」と「社会的地位の高い家」の違いかな。 こんばんは。松平です。
松平宗家は越前藩→高田藩→津山藩に決定しました 松平嫡流には「広義の松平嫡流」と「狭義の松平嫡流」の二つ意味がある。
広義の松平嫡流については、広く松平一族の嫡流を指すものであり、源流でもあり、江戸時代も引き続き三河国松平郷の領主でもあった松平太郎左衛門家を指すのであり、これには異論のないところと解される。
問題は、狭義の松平嫡流であり、これはすなわち徳川家康を発祥とする徳川一族の内における松平のトップは誰か。
すなわち、徳川一門の中で、にもかかわらず徳川の姓を名乗らず、松平の姓を名乗った者の中で、そのトップにすべき家はどれか、ということであろう。
会津松平、光長流越前家、忠昌流越前家をはじめ、各候補をめぐる意見対立が生じたと見るべきであろう。 家康の息子たちの男系子孫で藩祖の男系血統を維持しているのは水戸だけ?
紀伊は断絶、尾張も何度も他系統から養子が入っているし越前はどうなんだろ? 小藩は知らんが越前松平の主だった所は徳川宗家の近親から何度も養子入っているな。
>>88
紀伊の茂承は藩祖からの系譜だね。だいぶ飛んでるけど。
>>90
ほとんどが家斉の子供だね。
歴代将軍は跡継ぎ不足で余裕が無いw
徳阿弥って乞食坊主が松平家へ養子に入ったのが始まりだよね。
源氏はもちろん平家も元は天皇の子孫だから、血統だけでも偉いが、
徳川の起こりはどこの馬の骨かわからない一介の坊主にすぎないわけで
それを崇めろとか言うのは無理がありすぎる。
乞食が普通、そこそこの土豪の松平家の養子に入れるわけないだろうw?
何が何でも、徳川家を源氏にしたいために、そういう系図を偽った。
そのせいで、明治になって、長州のやつらから
徳川家は被差別民の末裔だとか言われ放題。
第二次大戦後の天皇家の境遇に似ている。
天皇家も出自のこと、あることないこと言われまくった。
崇神天皇の大叔母が卑弥呼なのに、中国の皇帝に朝貢したことが許せなくて
邪馬台国はヤマト朝廷と無関係だと宣言してしまって
そのせいで天皇家の系譜が崩壊、その結果
三王朝交代説だとか、騎馬民族征服王朝説だとか、出るわ出るわ。
やること完全に裏目だわなw
ちなみに、徳川家は源氏ではないが、元の出自は、地祇系の賀茂氏。
この系統は、大国主の末裔を名乗る三輪氏族系の大田根子命の系譜で
平安時代には陰陽道の名家として君臨、安倍清明の師匠でもあった。
鎌倉時代には、持明院統の天皇の近臣としても活躍、
その一族のもので三河に下って現地の松平家の養子に入ったのが
徳川家康の御先祖様。 賀茂在盛-賀茂在氏-賀茂在信-賀茂在久-賀茂在親-┐
┌-------------------------------------------┘
└松平親氏(徳阿弥=松平信重の婿養子にはいる) 徳阿弥は部下の石川孫三郎を従えて諸国を流浪し、三河国加茂郡松平郷に流れ着き、在
原氏あるいは賀茂氏の血筋を引く同地の領主松平信重(太郎左衛門少尉)の客人となっ
た。信重は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を評価して婿養子としたので、徳阿弥は還
俗して松平三郎親氏(次郎三郎とも)と名乗ったという。 親氏は関東(あるいは信濃国浪合村)で鎌倉公方(あるいは斯波氏)の軍勢に敗れ、足
利氏の追捕を避けるために父・有親とともに相模国の時宗総本山清浄光寺に入って出家
し、徳阿弥(とくあみ)と称したとされる。「乞食僧」「一種の賤民」と表現される場
合もある。しかし、清浄光寺での落髪が語られるようになるのは「武徳大成記」成立後
の元禄期以降であることが、煎本増夫により明らかにされており、後世になってから作
られたものと考えられる[4]。実際には、諸国を遍歴する職人であったという見方もある。 >>98
それら、wikiの情報だろう?
地方を遍歴する職人ごときが豪族の婿養子に入れるわけない。
>>99
じゃあソースを明示して編集してきたらどうだ?w ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています