松平嫡流の血筋を追う
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
乞食が普通、そこそこの土豪の松平家の養子に入れるわけないだろうw?
何が何でも、徳川家を源氏にしたいために、そういう系図を偽った。
そのせいで、明治になって、長州のやつらから
徳川家は被差別民の末裔だとか言われ放題。
第二次大戦後の天皇家の境遇に似ている。
天皇家も出自のこと、あることないこと言われまくった。
崇神天皇の大叔母が卑弥呼なのに、中国の皇帝に朝貢したことが許せなくて
邪馬台国はヤマト朝廷と無関係だと宣言してしまって
そのせいで天皇家の系譜が崩壊、その結果
三王朝交代説だとか、騎馬民族征服王朝説だとか、出るわ出るわ。
やること完全に裏目だわなw
ちなみに、徳川家は源氏ではないが、元の出自は、地祇系の賀茂氏。
この系統は、大国主の末裔を名乗る三輪氏族系の大田根子命の系譜で
平安時代には陰陽道の名家として君臨、安倍清明の師匠でもあった。
鎌倉時代には、持明院統の天皇の近臣としても活躍、
その一族のもので三河に下って現地の松平家の養子に入ったのが
徳川家康の御先祖様。 賀茂在盛-賀茂在氏-賀茂在信-賀茂在久-賀茂在親-┐
┌-------------------------------------------┘
└松平親氏(徳阿弥=松平信重の婿養子にはいる) 徳阿弥は部下の石川孫三郎を従えて諸国を流浪し、三河国加茂郡松平郷に流れ着き、在
原氏あるいは賀茂氏の血筋を引く同地の領主松平信重(太郎左衛門少尉)の客人となっ
た。信重は徳阿弥の和歌に通じた教養と武勇を評価して婿養子としたので、徳阿弥は還
俗して松平三郎親氏(次郎三郎とも)と名乗ったという。 親氏は関東(あるいは信濃国浪合村)で鎌倉公方(あるいは斯波氏)の軍勢に敗れ、足
利氏の追捕を避けるために父・有親とともに相模国の時宗総本山清浄光寺に入って出家
し、徳阿弥(とくあみ)と称したとされる。「乞食僧」「一種の賤民」と表現される場
合もある。しかし、清浄光寺での落髪が語られるようになるのは「武徳大成記」成立後
の元禄期以降であることが、煎本増夫により明らかにされており、後世になってから作
られたものと考えられる[4]。実際には、諸国を遍歴する職人であったという見方もある。 >>98
それら、wikiの情報だろう?
地方を遍歴する職人ごときが豪族の婿養子に入れるわけない。
>>99
じゃあソースを明示して編集してきたらどうだ?w >「乞食僧」「一種の賤民」と表現される場合もある。
>「乞食僧」「一種の賤民」と表現される場合もある。
>「乞食僧」「一種の賤民」と表現される場合もある。 >>100
松平信重は、在原氏の流れの荒尾氏の出身だった?
彼が松平を名乗ったのは、賀茂氏の流れの松平信盛の養子になったから?
そこで、在原氏系の荒尾氏の出の松平信重は男子がいなかったので
松平信盛の兄弟の孫である賀茂親氏を婿養子に迎えた。
賀茂氏系に戻そうとしたんだな。
この人物が松平親氏である。
しかしながら、松平信盛は、もう一方で
清和源氏新田流の世良田泰親も婿養子に迎えた。
松平泰親のことである。
よって、松平親氏と松平泰親の兄弟は義理の兄妹で
どちらも、在原氏系の松平信重の婿養子である。
家康は松平親氏の男系子孫なので、賀茂氏系なのだが、
彼が欲しがったのは、清和源氏の世良田氏の家系だったんだなw
また、この松平親氏と松平泰親の義理の兄弟の経緯もあったのか、
松平親氏の男系子孫の当主たちには、世良田氏の女性を妻にむかえ、
女系で世良田氏の血を受け継いでいたので、このことを意識していた。 >>98 >>103
徳阿弥(得川氏)の話は代々松平家に仕えてきた譜代大名大久忠教が
松平家歴代史を描いた「三河物語」にある。
で、賀茂氏の系譜はどこから引っ張ってきた?
史料の提示が一切ないんだが。
まあ、血よりイエの方が大事だ。
イエの系譜が賤民でないのだから、ある代の養子が賤民だろう何だろうがどうでもいい話しよ。 江戸時代、水戸徳川家の家臣に
本当の新田系の徳川家(得川家)の人がいたそうだ。
で、三河の徳川家(松平家)とは別系統とし、
徳川を名乗ることを許されていた。 わが酒井家は、東照神君以来の休診。徳川家の忠誠には、一点の曇りもございませぬ 家系を背伸びして、後世、逆に悪く言われるのは
徳川家だけじゃなくて、皇室や豊臣氏もそうだなw
豊臣氏も、本当は貧農なんかではなく、
尾張中村の庄屋レベルで
近江の浅井氏の庶流らしいしな。
源氏でもないのに天皇家をないがしろにした徳川はどう見ても左翼だよな。
ちなみに松平春嶽の五男で尾張家へ養子に入った義親は日本社会党の産みの親になってる。 「松平氏と世良田氏」
というサイトに
江戸時代に徳阿弥親氏の墓が武蔵国で
発見された出来事が紹介されている。
教授は偽墓碑であると
論じられているが
みなさんの見解は如何に。 ちなみに徳阿弥の時代、
古代や源平以来の名家が
素姓のわからない輩に
乗っ取られたり
すり替わったりする例は
他にもある。
国が二つに割れた
南北朝のカオスは
室町〜戦国へとむしろ
地方や庶民にまで
広がり続けていたのであった。 松平太郎左衛門家の
家老神谷家に伝えられた
「松平由緒書」は
松平一族の由緒を記した資料である。
この文書には
親氏自身が
「自分は東西を定めずに
旅する牢浪の者」と
語ったとある。
この「牢浪の者」とは
すなわち「道々の者」
「公界人」などと呼ばれた
中世の漂泊の民である。 どう見ても、陰陽道の地祇系の賀茂氏の末裔だな。
松平信重は、在原氏系の荒尾氏の出身で
賀茂在信の次男の松平信盛の養子に入った。
その松平信重には娘しかいなかったので、
ここは賀茂氏系に松平家を返すべく
婿養子に、賀茂在親の子供の賀茂親氏をむかえた。
賀茂親氏は、松平信武に名前を変えた。
この人物が、徳川家康の祖先。
他方、松平信重は、もう一人の娘にも婿を取って養子に迎えている。
こちっは、清和源氏新田流の末裔である世良田泰親。
松平康親に改名する。
このことが、家康の家系が清和源氏を偽称する切欠になったと思う。
松平家には世良田氏から養子が入ったのだが、結局、
家康のほうは、賀茂氏系の親氏のほうで、世良田泰親の子孫ではない。
このへんが、系図の乱れの要因にもなっている。
実際に、親氏と泰親の関係を、兄弟といったり、親子といったり、系図がまちまちだが
実際は、二人は義理の兄弟で、奥方が姉妹だっただけである。
松平信武(賀茂親氏)は、長男の信広に本家の太郎左衛門家を継がせ、
次男の信光に岩津松平家をおこさせ、この家系がやがて十八松平につながる。
この十八松平家の一つが家康の家系。 では、家康の先祖の賀茂氏とは、どんな一族かというと
賀茂氏には大きく分け二系統あり
天神系(ヤマト朝廷譜代)賀茂氏と、
その婿養子に入って賀茂氏をなのった地祇系(ヤマト朝廷外様)賀茂氏の
二系統がある。
家康の先祖の賀茂氏は後者のほうであり、これの先祖は
西暦3世紀、三巻入彦(崇神天皇)の時代に
三輪山の祭祀を行っていた大田田根子命まで繋がる。
それよりも先は、出雲の大国主まで繋がるらしいが
そのへんは大田田根子命の自称で本当のところは分からない。
この家系は、平安時代は陰陽道の名家になり、
安倍清明の師匠でも有名な家系だ。
家康が陰陽道に詳しかったのも、彼の家系がそうさせる。
その後、北朝の持明院統の後宇多天皇なんかにも使えていたが
この一族の一人が宮中祭祀に必要な酒造りの位についていて、その米を得るためにも
三河の松平郷に領地をもっていたらしい。
それが松平家の祖先だ。
そんな家系だったから、京都に非常に近い一族で
足利幕府の執事だった伊勢氏の被官として
松平信光が活躍していたのも、うなづける話だ。 >>115-116
普通に考えて、諸国を放浪していた出自の怪しいものが、
そこそこの地主の婿養子に勝手に入れるわけない。
親氏は、松平家だけじゃなくて、酒井氏の婿にも入っていたらしいからw
あつかましいも何もw
でも、親氏が陰陽道の賀茂氏の出身ならば、驚くことはない。
また、婿養子に入ったあと、名前を松平信武にかえたのも、
その後の名前の付け方に繋がってくる。 >>116
親氏、泰親が
兄弟であることを示す
根拠となる資料を教えていただきたい。
また賀茂親氏なる
名称が出ている資料も。 >>117
婿養子の件が
「普通に考えて
〜なわけない」
と断じてしまうのは
中世の日本をわかってないから。
酒井氏の婿養子の件、
名前を武氏としたも
はじめて知りました。
どの資料に載っているのか
学術的に教えてください。 >>117
の出典はWikipediaに
適当な推測を混ぜて
書いただけだな。
ソースはこれだろう↓
http://keizusoko.yukihotaru.com/tokugawa_zakkan/tokugawa_zakkan1.html
松平親氏の別名は、松平信武。
まあ、普通に、もともとは親氏が本名だったけど
松平信重の婿養子になったので、信武にしたのが本当だろう。
息子には、信広、信光がいる。
松平泰親は、親氏の子供ではなく、兄弟だと思う。
>>122
のサイトの人も書いてるように
徳川系図は嘘だらけなので
賀茂とか在原とか
名族につながるなんて
まともに考えること自体
おかしい。
松平一族が勢力を
拡大していく途中で
創作した嘘てのが定説だろ。 >>123
いや、そんなこと言ったらキリがないんだけど
一番可能性ありなのは、賀茂氏の出身だろう?ということ。
その火とも言っているだろう?
あと、通じの付け方なんかでも、推測しているのは、おもしろい。
だいたいだな、そこそこの地方の豪族に
わけのわからない男が婿養子で入れるわけなかろうということ。
そりゃ、その地方では、有力者同士が養子縁組するもんだよ。
あと、徳阿弥の伝承で、信武という名前で伝承が残っているのは、おもしろい。
親氏ではなく、信武でだ。
どちらかというと、こちらが本名だろう?と。
あるいは、松平家の養子に入ったので、信武に改称したとも推測できる。 陰陽道の賀茂氏だから、源氏よりも歴史が長い旧家だ。
しかしながら、源氏は平安末期に誕生した皇別氏族の名門。
陰陽道の賀茂氏は、
崇神時代(おそらく、卑弥呼ぐらいの時代)の大田田根子命から続く
古い家系だけど、中世の武家にとっては、何の得のない下級貴族。
そりゃ、賀茂家康よりも、源家康のほうが、官位任官でも圧倒的に有利でしょうにw
この時代、身元不明な
武将が世に現れるのは
不思議なことではない。
時の将軍を殺し
東大寺を焼き討ちした
松永久秀も
また身元不明の武将であり、
四国の出身だとも、
京都西南郊の西岡の
商人だったともいう。
松平一族が現れたのも
この旧来の常識が
覆った特異な時代で
あったということを
理解して考えねばならない。 当時の西三河に賀茂氏の有力な一族は他に見当たらない。
また有力な賀茂社も見当たらない。
賀茂社の神領だったという説はある。
鴨郡の音から賀茂氏を
連想し、賀茂氏の流れと自称したのが真実だろう。
よって
松平氏が賀茂氏の流れというのは
かなりあやしい説だと
考えられる。
>>127
京都では陰陽道の名家だったけど
家康の先祖は、その中でも支流の家系で、松平郷に来る前は
天皇の宮中祭祀の時の酒造りを任されていた家系らしいし。
政治的には完全に弱い立場。
だから、豪族としての勢力は非常に弱く、
初期の松平氏は、あんな山奥の狭い地域で、酒造りの米をつくって
祭祀に使う酒造りに頑張っていた。
宗家をついだ松平太郎左衛門信広の家系なんて、ずっと田舎の庄屋みたいな存在だったし。
だから、賀茂氏とは三河で有力になるはずもなかった。
松平家が勢力を拡大するのは、岩津で分家した松平信光の家系のほう。
次男坊のほうが、平野にでていって、そこで勢力を拡大していった。
その時は、もう賀茂氏など名乗っていない。
なぜ、勢力を拡大できたかは、京都も関係が深かったのもある。
足利幕府の有力者だった伊勢氏の被官をしていたぐらいだし。
>>124
>だいたいだな、そこそこの地方の豪族に
>わけのわからない男が婿養子で入れるわけなかろうということ。
>そりゃ、その地方では、有力者同士が養子縁組するもんだよ。
この認識は現代か
近世では妥当かもしれませんが
この混沌とした日本史上
でも特異な時代では
あまり妥当ではなく、
この時代の日本のダイナミックな
歴史の動きを取り逃がしてしまい
日本史を矮小化してしまいかねません。
先に挙げた松永久秀や
油売りから身を興したともいわれる
斉藤道三、針売りから
身を興したとも言われる
豊臣秀吉など
日本史上の有名人だけでも
この時代あたりの人物の出自、正体不明さは
際立っています。
>>117
江戸幕府将軍の母親ですら庶民出身者がいたんだ
ましてや三河の豪族の跡取り娘を放浪する男が寝取っても
不思議はない
婿入りでこそないが諸国を放浪していた秀吉は
清和源氏の流れと言われる浅野家の養女ねねの婿となり
同じく諸国を放浪したといわれる斎藤道三は
美濃源氏土岐氏の流れと言われる明智氏の婿になっている ところでスレタイが
微妙に変。
スレタイだと代々の
松平太郎左右衛門家を
語るスレになるわけで
かつて存在した
「徳川の源流と三河十六松平家」
みたいな名前のスレのが
よかった。
スレ主の勉強不足が
スレタイににじみ出ていて
恥ずかしい。
やはりどこの馬の骨か判らない乞食坊主が徳川の始まりという事実からは、一歩も出られないのかppppu もっと当時の時代を
リアルにどっぷり
浸かって語って欲しい。
ネット検索以外の資料や
事実も出てこなければ
掲示板の意味もない。
漂泊の民、道々の者として流れ歩く徳阿弥。
この漂泊の民には
商人や手工業者、芸能民がいたが
徳阿弥は阿弥号と伝承から
連歌をする芸能民だったと考えられる。
彼らは各地や都の最新情報とその芸能から
旅先で厚遇を受けた。
またこの時代、
日本の各地域には
旅人を厚遇し、夜に
娘に伽をさせる風習が
あったことを忘れてはならない。 ちなみに俺の祖先は14世紀には藤原氏の親類になってるよ。
和歌は詠めないし文章もろくに書けないんだが、紫式部の血が入ってる。
松平氏は14世紀にやっと松平邑を興したばかりで歴史的に言えば新参だよな。 >>134
下手な擁護はやめとけ。芸能民はヒニンだぞ。全国の松平さんに怒られても知らんぞ。
この『漂泊の民』、『風習』の二つの
当時の事情から松平太郎左衛門信重
のもとに諸国遍歴の
徳阿弥が入婿したことは
当時としては奇異なことではなく、
事実として充分にありえることである。 当時、室町時代あたりに
創られたと推定される
木製の『松平親氏坐像』を見たことが
ある人はいるだろうか。
個人蔵のためなかなか
機会がないかもしれないが
端正なフェイスにギラリと光る
玉製の眼は、この人物の
異能異才をよく現している。
このイケメンと当時の最先端ポップカルチャー
たる連歌の才能に
田舎成金の太郎左衛門が
入れ込んでしまったのは
無理からぬことであり、
この「たらしこみ」の才こそ
じつはこの人物の最大の芸能であり才能であったのである。 以上の書き込みは
ネット検索しても出て
こない貴重な記事であるが
2ちゃんねるのルールに
従い、その著作権を
2ちゃんねるに帰属せしむものであるが、
願わくば転載の際には
我が母校國學院大學の
名前とともに転載されたし。 >>131
男と女とでは全く異なる、この時代。
身分の高い男性が、庶民の女性を妾にすることはあっても
身分の高い女性が、庶民の男性と結婚することは、なかった。
身分の高い女性の結婚相手は、自分以上の身分の高さか
自分より身分が低くても、そこそこ家系がしっかりしたものしかダメだった。
だから、適当な相手がいない場合、生涯、独身も珍しくない。
松平家が清和源氏というのは偽称かもしれんが、
だからといって、名もなき家の者が婿養子に、はいれるわけがない。
松平家は、三河の松平郷という山奥のド田舎で庄屋をしていた一族で
その本家は、京都で陰陽道で有名な地祇系の賀茂氏で
その中でも支流の一族、宮中祭祀で使う酒作りをまかされていたのが、
三河に所領をもって、そこで松平を名乗るようになる。
長男の信広の太郎左衛門家は、ずっと山奥の松平郷の庄屋のような存在で続き、
一方、次男の信光のほうは、
分家して、平野部で出て戦国大名化し、その末裔が家康の一族たちである十八松平。
信光の後胤たちは、どの家系も戦国大名として戦力をふるったけど
信広の家系は、松平家の創成期のまま、田舎の庄屋風情として、細々と存続していた。
>>140
だから
なぜ木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)は格上のねねと結婚できたの?
なぜ斎藤道三は格上の小見の方と結婚できたの?
「三河物語」に徳阿弥が放浪の末入り婿したことが書かれ
それが徳川家の起源として普通に受け入れられていたこと自体そういうことは普通にあったんだろ
徳阿弥が「我はこそ清和源氏の流れ・・・」と言えばそれが通ったかもしれんし
自称「落胤」などそれこそ腐るほどいただろうしね >>142
実在の新田源氏である世良田有親の系譜はごまかせず
松平親氏を世良田有親の落とし子として系図を繋いだからだろ この近年発見されたA級資料を参照ください。
☆『松平氏由緒書』☆
「通読して、徳川家康の祖先松平氏発祥地である
松平町に伝わる口伝書に、
江戸時代の凡ての徳川家の歴史書に
定着している『新田源氏末裔説』の痕跡が全く見当たらぬことに驚いた。
しかも所蔵者は、
交代寄合旗本松平太郎左衛門の家老の家柄の子孫である。」
>>141
実際は、豊臣秀吉と斎藤道三の出自について
これまでの通説が疑わしいけどな。
両者の出世物語って、
身分が固定されていた徳川時代に増幅されたものだろうし。
秀吉の家系は、近江浅井氏の分家の尾張浅井氏の末流で、
宇多源氏の木下氏に婿に入ったのが、木下国吉。秀吉の曽祖父。
だからこそ、近江浅井氏が滅亡した時に、そこの所領を与えられたという説もある。
斎藤道三も親父は、松波左近将監基宗。
代々、北面の武士になっていた家系らしいしな。 秀吉の出自
ttp://www.kakeiken.com/report001.html#秀吉の出自
豊臣秀吉のルーツ
ttp://www.kakeiken.com/report001.html#豊臣秀吉のルーツ 徳阿弥は時宗の遊行僧で非人層出身説があるくらいだもん。
松平一族の団結力もそういう出自から来てるのかな。 >>143
蜂須賀だって源氏にしてんだから
松平も強引に源氏に繋げればいいんじゃね
信長だって 藤原氏と言ったり平氏と言ったり >>147
松平氏は、大田田根子命を祖とする賀茂氏の末裔。
この家系の本家は、平安時代以降は、陰陽道の名家であり、
その中でも傍流で、祭祀の酒造りを任されたのが、三河の賀茂氏。
そんな名家だといっても、中世以降の貴族社会では、源平藤橘以外は
出世の可能性が低い。
とくに源氏と藤原氏か、そうではないかで出世の道が違ってくる。 織田信長の家系は、忌部氏な。
忌部氏の家系も複数系統があるが...
織田信長の忌部氏は、タカミムスビを祖とする忌部氏で、
その嫡流に近い家柄だったはず。
まつては、宮中祭祀において中臣氏と双璧をなす一族だったけど
その後、どんどん衰退していった家系だな。
ttp://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02122.htm
一方、徳川家康のほうは、大田田根子命を祖とする賀茂氏で
陰陽道系の賀茂氏。
ttp://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02106.htm#001
まあ、どちらも古代豪族の旧家なんだけど、
中世以降の社会では、源平藤とそれ以外では、雲泥の差の扱いだから。 >>150
松平って女系だろ?
親氏が松平に婿入りしたから家康の男系はそれ以前の松平とは違う。
松平が賀茂氏だというのも後世の創作らしい。
松平信光が名乗ってたらしいが。
親氏が源氏、その嫁が賀茂氏って名家を適当にくっつけたらしい。
>>152
親氏が松平に婿入りする以前は、
つまり、松平信重は、男系で見ると在原氏。 江戸時代に整備された
大名旗本の家系物語をガチで
信じてる信者はよそで語れ。 ろくな家系でもない徳川が血筋のいい戦国大名を、いたずらに世を乱したとして断罪するのは許せない。
大日本史を書いて南朝を正当化した光圀だって、結局は源氏政権を否定したかったんだろ。
追い出した佐竹は源氏だからな。
賀茂氏とか言ってるやつ
詳しく論証してみろ。
人名を挙げて。 源平藤原の戦国大名がやった戦は、言わば身内の頂点を決める決戦で骨肉の争いだ。
何で徳川のようなよそ者が上から目線で平定してやったとか自慢をするのか理解に苦しむし、不快で仕方がない。
544 :日本@名無史さん:2012/07/01(日) 07:38:28.22
>>542
地元のテレビ局にCBCというのがあるんだが
そこのニュース番組が、10年くらい前に番組内でミニ特集を組んだ事があって
松平家は奥三河で代々林業を営んできた富裕な家柄だと土地の老人がはっきりと言っていた
記憶違いでなければ
>奥三河には松平郷というところがあるらしい。
>現在は豊田市に属しているそうだが、司馬氏の「覇王の家」はそこを訪問したところから始まっている。
>山間部にあったこの地方では林業やひえ、あわなどによって生活していたが、
>松平家の始祖の親氏という人物が現れてから戦闘集団化していったという。
>この松平親氏は本来「ささら者」と呼ばれる階級のものだったらしい。
>旧名は徳阿弥と称し三河に流れ着いて奥三河の松平、
>西三河にそれぞれ自分の子供をつくりそれをまとめて軍団化していったという。
http://youyou8.cocolog-nifty.com/app/2011/04/post-d84f.html
奥三河には松平郷というところがあるらしい、じゃなくて、実際にあるんだけどねw
豊田を走り続けると、切り立った山壁が現れて、どんどん山っぽくなったところに松平郷はある
とんでもない山の中で、まさに奥三河といった雰囲気の場所(奥三河は信濃と接するので、どこも山)
またこの「山間部にあったこの地方では林業やひえ、あわなどによって生活していた」というのは
土地の古老達が今も語り継いでいる口伝で、作り話ではない
『松平親氏は本来「ささら者」と呼ばれる階級のものだった』というのも確か口伝のはず
まあ、隠された歴史、という奴ですね 561 :日本@名無史さん:2012/07/01(日) 23:23:28.95
>>560
不都合な史実を闇に葬るには最適のロジックだよね
徳川家の作り話なんか、奥三河や南信濃に残る落人伝承を利用したものでしかないのに
562 :日本@名無史さん:2012/07/01(日) 23:31:21.01
>>558
南信濃でも伊那郡は南北朝時代の戦地の一つで、落人伝承が残っている特殊な土地柄
古戦場なども残されてる
実際、信濃坂部には新田義貞の子とされる熊谷貞直が落ちのびて定住してる
つまり徳川家の「新田義貞の子孫」云々の家系創作話は、それらが根源になってるって事
あの辺は多分そのせいだろうがきちんとした史料が残ってないんだよ
触れられると徳川家に都合が悪いって事だろうけど、詳しい史料編纂がきちんと行われてない
563 :日本@名無史さん:2012/07/01(日) 23:45:31.89
親氏がささら者かどうかは別として、少なくとも徳川家が平民の家系だったのは、疑いの余地はないよ
秀吉と同じく、出自が国の古代豪族や武家ではない、そういう意味では本当に平民の家系だったと言える
第一、徳川家が本当に由緒正しい家系なら、その証拠が奥三河にきちんと残ってる
奥三河はとんでもない山の中だけど、旧家が普通に残ってる地域なのでね
俺は思うんだが、平民出の家系が征夷大将軍になって天下獲っちゃいけないのか?
ただこの話題は触れるとよくないようなので、やめるけどさ
(この辺の話に興味ある人は奥三河や伊那郡の歴史について調べてみるといいよ) 568 :日本@名無史さん:2012/07/03(火) 16:12:29.78
>>565
まあこの言い伝えを全否定するという事は何らかの動機があるものと思うので
これ以上は意味がないから避けるけど
一応、補足しておくとだね
徳川家がはっきりした由緒ある家系なら、奥三河にその旨が確実に伝わっているし、そういう文章も残されてる
あなたはきっと、奥三河がどんな場所だか全然知らないと思うし、だから言い伝えの信憑性がわからないのだろうが
あの山深くて人が暮らす事が難しい土地で、後から余所者が入り込んで武家として自立するなんてまず無理
ああいう場所では、どの土地も古くからの武家が治めていて、人間関係もガッチリ押さえてるので、付け入る隙自体がない
余所者が何も言わずに入ってきたら、古くから奥三河に土着した武家に潰されるよ
仮に余所から財力を持ち込んで武士化したなら、やはりその記録がきちんと残る(その場合は偽系図を作る必要性がない)
現にすぐ近くの信濃国新野を治めた小名・関盛春は伊勢平氏の出と出自が明らかになっている
下伊那郡の城 〜阿南町・下条村〜
http://www.geocities.jp/sisin9monryu/nagano.simoinagun.html
>日差城
>城を築いたのは伊勢平氏の末裔・関盛春で応仁の乱で住処を失い各地を流浪して行き着いた新野の地で民に家柄を見込まれて領主になりました。
松平家は、松平郷で古くから林業を行っており、林業等で徐々に財力を蓄え、勢力圏を少しずつ広げて武士化したという言い伝えの方が、現実味がある 570 :日本@名無史さん:2012/07/03(火) 23:47:59.10
>>568
いや、言い伝えってものの信憑性なんてそんなものって程度の意味であって、特に動機があるわけじゃないよ。
松平家の祖先が古くから由緒のある名家だったとは思わないさ。
ただ、他の値域の場合も含めて、
>仮に余所から財力を持ち込んで武士化したなら、やはりその記録がきちんと残る(その場合は偽系図を作る必要性がない)
という想定には反対だね。
後世に名前が伝わらないような下級官人が土着して武士化する例は想定異常に多いと思うけど、
その多くは明白な記録なんて残ってないだろう。
特に疑わしいのは、
>林業等で徐々に財力を蓄え、勢力圏を少しずつ広げて武士化した
あたりかな。
ホントは財力を蓄えたことによるのではなく、動乱に便乗して成り上がったんだろうって意味。
三河は室町時代中期から一色氏と細川氏の争いがあったし、それ以前にもそれなりの動乱はあったからね。
たまたま当時の松平家当主が軍事的に有能だったとかで、
うまく勝ち馬に乗れたとかそんなとこじゃないの。
周囲の武士の多くが一色方についてるなかで、いち早く細川方に転身して勝ち抜いたとか。 >>158
>源平藤原の戦国大名がやった戦は
戦国大名の出自なんて怪しいもんだよ
ニセ源氏、ニセ平氏、ニセ藤原氏の山であって、成り上がり者達による狂乱の宴に過ぎない
その中でも最高に胡散臭い部類に入るのが徳川氏だったってだけの話で >>158
>>源平藤原
もしかして源平藤橘?
それとも橘姓を自称する戦国大名が少ないからそういう呼び方があるのか 徳川家重って将棋に興味があったの?
著作もあるってwikipediaではないwikiの一ヶ所だけ
記載を見つけたけど、
将棋に関する著作もあるってかいてあるけど
タイトルも出てこないんだよね
その子供の家治の話は有名だけど家重の話は有名なの? ttp://gline.zapto.org/log/read.php/dataroom/1324189253/l50 松平氏の出自は、古代貴族の地祇系の賀茂氏。
その中でも傍流の傍流で、三河の松平で庄屋やっていた家系。
ここには途中、荒原氏系の荒尾家から信重が養子に入ったりしているので
松平家の家系は混乱している。
本家の太郎左衛門家は、山間の庄屋のままだったけど
分家の信光の子孫が平野部に出て、戦国大名化した。
家康は、その信光に子孫。 文明9年10月17日(14770100170) 3条
【綱文】 松平道慶、其買得せる京都の屋敷地を安堵せんことを、幕府に請ふ、
【区分】 大日本史料 ttp://nishiokikaku.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-cc3f.html むしろ家康嫡男である信康の血筋を探るのが賢明だろう
つまり小笠原 ttp://nishiokikaku.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-9151.html ttp://www.geocities.jp/minasemode/april/apriltop.html ttp://nishiokikaku.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-8f60.html ttp://logsoku.com/thread/kohada.2ch.net/otoge/1233734581/l50 ttp://mimizun.com/log/2ch/charaneta/1245946550/ ttp://logsoku.com/thread/toro.2ch.net/sfx/1338291767/l50
ttp://logsoku.com/thread/ikura.2ch.net/dataroom/1324189253/l50 昨日の夕方関西テレビ、アンタデアンカー特集で大阪の全国の渡辺さんの氏祖、御伽草紙の源綱よりの武家屋敷解体で特集組まれてた。
二年前の所有者他界して、土地の税金未納2億に達していて、税務署が今の所有者に一日課税延滞金だけで
2、30万と言われ、解体以来し、近隣住民や市が気付いた時には、時既に遅しで解体開始・・
前の所有者のは、子も居なかったので、こんな事に成ったそうだ・・。
屋敷の文化財は、解体前に、市か府が保管保全したそうだ。
渡辺氏なのだから、早く、気付いていれば、2億なんて直ぐ、集まったろうに・・
分家の俺だけでも知ってれば、カンパ呼びかけでも出来たのに・・心痛に無念ッ フランコ「まさに夢のカードってやつだな、俺もこいつは楽しみだったぜ」
アクセル「お互いまだまだ全力出し切っていねえな、次までまた力つけねえとな」 香緋「ふーん、テコンドーねえ、まあ多少は修行にはなるかな」
チェ・リム「子供だと思ったらなかなかやるな、よし、今日からおまえもマブダチだ」 溝口誠「ワシがいない間好き放題やってくれたのう、ここらでシメたるわい」
城所剛「ナニ言うとる、そちらこそ人のナワバリ入りおって、吹き飛ばしたるわい」
溝口誠「ナニワ最強、いんや世界最強の座はワレごときにゃ渡さんでえ」 嵐山長官「やぁ星川君、久しぶりだね。お子さん達は元気かね」
星川博士「実は近々一家で宇宙開拓の旅にでる計画でして、住居にもなる宇宙船を設計しています。
そこでご相談なんですが、以前私が地球平和守備隊に所属していた時に設計したサンバルカンロボの
技術を一部流用したいのですが…」
嵐山「ああ、平和利用なら大歓迎だよ…しかし、君なら大丈夫だろうが気をつけてくれたまえ。
過去にジャガーバルカンの設計図が異星人に盗まれ星間戦争に使われたという未確認情報もあるからな」
星川「わかりました」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています