もし平家が源氏を滅ぼしていたら…
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
日本全国で何万人殺したら源氏滅亡になるんだよ。
平清盛はポルポトかよ。 ふつう「平家」というのは相国入道の一門のことなんだが? このスレ主の言いたいのは、「平清盛が、源義朝の息子や兄弟などをすべて根絶やしにしていたら、
その後の頼朝・義経・行家などの反乱はなく、平家の天下は続いたのでは?
あるいは、別の誰かが関東の武士の求心力となり、やっぱり平家と対峙したのか。
そのあたりを議論したい」ということではないのか? 義朝の一族近親を根絶やしというのがまず現実的ではないが、例えそれが出来ていたとしても平家政権が安泰だったとは思えないな。
摂津源氏や秀郷流藤原氏などの他の軍事貴族もいるし、
後白河によってそれらの軍事貴族諸氏の中から有望な物を引き立てて、承久の変みたいなのが前倒しされてそれも頻繁に起こっていた(起こされていた)んじゃないか?
治承寿永の乱(源平合戦)蜂起勢力
伊豆→南坂東 源頼朝 (河内源氏義家流)
甲斐→駿河・遠江 武田信義・安田義定他甲斐源氏 (河内源氏義光流)
信濃→越後 源義仲 (河内源氏義家流)
尾張 源重隆他尾張源氏(清和源氏満政流)
美濃 源光長他美濃源氏(清和源氏頼光流)
近江 山本(源)義経他近江源氏(河内源氏義光流)+園城寺
若狭・越前 反平家在庁官人勢力(当初は義仲とは無縁に挙兵)
大和 興福寺他寺社勢力
紀伊 熊野三山のうち湛増など反平家勢力
伊予 河野通信ら河野水軍(源平両氏に関係なし)
土佐 源希義(河内源氏義家流)
肥前・筑後 菊池氏など反対平家勢力(源平両氏に関係なし)
主な蜂起勢力は上記の通りであるが
北陸及び畿内以西は源平という氏に関係ない勢力の蜂起が目立つ。
(寺社勢力、在地勢力)
平家の敵は源氏それも義家流に限ったことではないし、
仮に彼等を全て殲滅した後最反乱を防ぐ手立てを講じなければならない。 なお、各地に平家に従う勢力もあった。
坂東 大庭、伊東などの親平家勢力
新田などの動向不明勢力
信濃 菅冠者、笠原氏などの親平家勢力
越後 城氏
駿河 目代橘氏、長田入道
筑前 原田氏 ちなみに義仲上洛までの各地の状況は
頼朝
石橋山敗戦→富士川勝利→南坂東制圧→対佐竹氏勝利(ただし実は長期化との説あり)→
新田氏屈服→対藤姓足利氏、志田氏に勝利(野木宮合戦)→義仲との和睦
義仲
市原→横田河原(城氏屈服、越後進出)→頼朝と和睦→都へ進撃
武田信義・安田義定
波志田山→信濃進出→鉢田(駿河進出)→富士川勝利→駿河・遠江進出
近江・美濃・尾張
1180〜1181年初頭にかけて平家に制圧されるが、三河手前で平家進出停止
若狭・越前
在庁官人ら反平家運動継続
1182年の平家北陸侵攻も跳ね除け
1183年には上洛する義仲軍に同調する。
大和
1180年末に平家の焼き討ちにあうる
紀伊
熊野で反平家方の湛増が親平家方を追放する
伊予
河野氏一旦失地するが、再び伊予に戻る
土佐
源希義死亡
肥前・筑後
1183年まで反乱勢力健在る1183年に追討使平貞能が反乱勢力を屈服させる。 各地で武士や寺社が挙兵していて、平家は仮に源義朝の息子たち、とくに頼朝を殺していても、各地の挙兵を未然に防止することはできまい。
一方、頼朝がいなかった場合、関東の武士をまとめる役割を果たしえた人物はいたのだろうか。
もし誰もまとめ得なかったとすると、各地で群雄割拠のような状態が続いたのではないか。
源義仲のような勢力が一時的に都を陥れたかも知れない。
しかし、頼朝のような強固な勢力がなければ、平家を短期に打倒することはできず、
平家は西日本を拠点として存続し、都を奪回する場面もあったかも知れない。
平家・奥州藤原氏などが、もっと長く存続したのではないか。 戦国時代がもう4世紀ぐらい早く到来していたわけですね。 源氏が東日本、平家が西日本を支配する二重構造になっていたかもしれない。 頼朝が存在せず、鎌倉政権が成立しなかったとすると、志太先生義広、上総介広常などの有力豪族が残り、それぞれの所領を拠点として自分の独立圏を築いていったのでは?
平家の派遣した討伐軍・在地の親平家勢力と戦闘する場面もしばしばあっただろう。
各個撃破される場面もあっただろうが、現地の目代を殺したり、荘園を奪ったりする事件が頻発し、平家や中央の統制は次第に効かなくなっていったと思う。
中央では後白河法皇などの反平家勢力が平家打倒のために、そうした関東の武士を利用しようとする場面もあっただろう。
一方、後白河法皇や以仁王を逆に利用はしても、中央には関心を示さず、関東に独立圏を築くことに力を注ぐ勢力もあったと思う。
奥州藤原氏は中央と協調しながら、自身の勢力を温存しようとしたのではないか。
そんな状況がどれだけ続いて、いつしかある勢力のもとにまとまっていくのか、なかなか想像はつかない。 >>17
志田義広をスレタイの源氏に含めるかどうという問題はあるが
含めないなら中心勢力のひとつになっていただろうね。
坂東平氏は貴種性を主張できるかということはあるが
院がお墨付きを与えれば、上総、千葉、三浦などは十分中心勢力
になるだろう。
いずれにしても所領安堵を保証するに足る実力と権威(貴種なり官位なり)
をもつリーダーが出てくるまではまとまらないな。 奥州藤原氏や坂東平氏は独立勢力になっただろうな。
以仁王みたいな出世コースから外された中央貴族は
出続けただろうし、それと結びつくことも考えられる。
源平争乱を生き抜いたとしても平家政権はあまり長続きしなかったのでは。 ぶっちゃけ九州と中国に総動員かければどうにかなる
むしろ平家なら私掠倭寇を国家戦略に取り込みそう もし群雄割拠の状態で元寇に突入したら、やはり西日本の覇者である平家が主体となって蒙古・高麗軍と戦うのだろう。
総大将は史実と同様、九州の有力武士・小弐氏が務め、平家傘下の水軍がこれに加わるのだろう。
史実で元寇を契機に鎌倉幕府が弱体化したように、元寇によって平家は打撃を受けるのか、
それとも水軍を主体として、大陸・半島に向けて新たな戦略を描くのか、興味を感じるところだ。
平家の水軍が15〜16世紀ごろまで存続し、さらに海外に覇権を伸ばして、
スペインやポルトガルに伍してフィリピンや南米にまで至り、現地に一の谷や屋島のような堅陣を築く。
安徳天皇の末裔の乗る御座船が浮かぶ中、夕暮れ時には平家の公達の奏でる笛の音色が聞こえてくる。
そんな展開も悪くはないだろう。 少弐は鎌倉殿に言われて大宰府入りしたクチだから
元冦で主導的な立場にたつのは大蔵・松浦・菊池あたりだろう 元や宋の調略にはまる豪族が出てこなければ良いが。
相手方は当然それを狙ってくる。 むしろ元や宋にいろいろ援助して貰える豪族が列島内に居るなら
中華が秘匿する技術の獲得や貿易経済面はむしろ好ましいし
長期的にみたら日本にとって得
そうなると元宋に平家が頭を垂れる事も考えられるか 平清盛が源頼朝や源義経を成敗していたとして、頼朝が存在せず鎌倉政権が成立していなければ、
平家や奥州藤原氏を倒せる勢力は存在しないように思う。
そうすると、平家と奥州藤原氏はしばらく残ったと思うが、平家と奥州藤原氏は、
どんな形で、いつごろまで存続したのだろうか?
中央には冷淡な態度で自分の所領を拠点として独立勢力を築く武士と、
朝廷から官位をもらって武家貴族のように振る舞う武士が混在する形で、
とくに決め手となる指導者が現れることなく、武家社会は推移したのであろうか? そうか。
源氏(河内源氏)がほろんでたら、少弐氏も大友氏も島津氏も九州に誕生していないことになるのか。
中国の毛利氏も誕生してないんだな。 >>27
清盛没後にはどっちみち平家政権は衰退するから
院の権力が復活して、北面西面から新しい武家の勢力が湧いてくるんでない? 頼朝も義仲もいなくなるってことは越後は越一族のものになるってことか。 越後の城氏も、常陸の佐竹氏も背後の奥州藤原氏と誼を通じながらじわじわと版図を拡大して行きそうだな。 東北の開拓は活発化して↑
関東の開拓は鈍化して↓
で鎌倉末期辺りからの日本の人口増加は多少鈍化かな
地域間のバランスは多少改善されそう ここでいう源氏って義朝一門のいわゆる源家のことだよな
源家が滅んだら足利家、武田家、新田家などの河内源氏の名門が台頭するだろう
もしくは摂津源氏が勢力回復 >>34
いや、頼政とか義仲、行家なんかも源氏に含んでるんじゃない? しかしなあ、源頼朝直系の源氏宗家そのものが、
平清盛直系の伊勢平氏宗家滅亡から、わずか30年も経たないうちに滅亡しているわけで、
「鎌倉源氏政権」と言ったところで、辛うじて3代継承しただけで、
関東地方自体が、むしろ 「平氏の王国」 になっているわけだからねえw
平家物語の影のテーマは、
「おごる平家も3代で滅んだが、源氏もまた3代で滅んだ。諸行無常である。」ということにある。
後の「徳川三百年」とは、様相が異なる。
>1に戻れば、関東は結局「坂東平氏が卓越する勢力圏」ということで、
関東南部の状況は、意外にもそんなに史実と変わらない気がする。
むしろ、すでに出ているように、
西国などの勢力が一変してしまう。「後に続く家」が、史実と総入れ替えに近くなる可能性が高い。
鎌倉幕府の影響力というのは、坂東よりも西国西海(中国四国九州)のほうが大きかったのかもしれないな。
平氏政権に関しては、「京都と神戸で距離をどう保つか」が浮沈の鍵を握るだろう。
神戸にどこまで独立政権を築けるか、あるいは六波羅に戻ってしまうか?
朝廷の権力機構のうち、どこまでを手中に収めるか?
こちらは後世の豊臣政権の課題とよく似ている。
そういえば、豊臣秀吉も、当初は「大坂にまるまる遷都する(御所は天満におく)」つもりだったらしい。 関東の平氏は出自がどれも怪しいからな〜
北条は完全に黒だし・・・
源家では頼朝の弟範頼の家系が吉見氏としてはっきり残っている。
皇室典範のように将軍が継承され続けていたら、現在の将軍様は吉見○○さん
希義の吉良家は家系図がどうもあやふやだ 北条、千葉介、上総介、三浦等みんな平氏だよね。
源平合戦で平家方に付いた源氏っている? >>37
皇位継承と同様の理屈なら、頼朝の系統が絶えても、
範頼の系統の吉見氏、阿野全成の系統の阿野氏などが残っているのだから、
鎌倉殿は源氏で継承していけるはずだよね。
だから、自分は「実朝が殺されて源氏は絶えました。以下は摂家将軍、
宮将軍になりました」という歴史の本の説明が不思議でしかたなかった。
でも、頼朝は範頼や全成の系統を、自分の系統が絶えたときのスペアとして
考えていたようにも見えない。
また、御家人たちも頼家の遺児・竹御所に「故右大将家の孫」として思いを寄せる一方、
どうしても源氏将軍を継承しようという御家人たちの意思は感じられない。
むしろ「源氏将軍はもはや用済みだ」という意思さえ感じる。 >>37
もし源希望が実在なら、将軍家嫡系に最も近い人物だから
担ごうとする勢力がいてもおかしくないわな >>38
>源平合戦で平家方に付いた源氏っている?
義高(木曽じゃない方)やその子息たちがそうじゃないかい? >>38
佐竹氏も源氏だけど平家方だね。
挙兵から間もない頼朝(実質上総介、千葉)に金砂城で討たれるけど
その金砂城の戦いの時当主の佐竹隆義は健在で在京中
その後佐竹氏の生き残りは「玉葉」や「延慶本平家物語」によると時折常陸国に戻っては
佐竹氏は抵抗を繰り返していたらしい。
また、奥州合戦の時も頼朝に佐竹氏のなかでも頼朝についたものと
奥州についたものに分かれていたようだし。 それから、坂東おいて無視できないのが「秀郷流藤原氏」(自称も含む)。
坂東に於いて「平氏系」の豪族が力を持っていたことは確かだけど
藤原系の豪族もかなり存在していた。
小山、下河辺、足立、山内首藤、藤姓足利など。 佐竹は平氏源氏というより、相手が機内を地盤にした勢力か、東国を地盤にした勢力かの方が大きそう
足利の時は周りを南朝方に囲まれても北朝方
豊臣ときも元気一杯
徳川の時は見ての通り
後北条の時もこれに当たるかな
ようは東国での、他の有力勢力の強大化や全国政権化を拒否して
機内政権との友好をって政治、外交姿勢なんでは?
こう考えたら平家方なのは当然なんじゃ 源氏は関東では新参者だな。
坂東平氏や秀郷流諸氏と違って。
所領も大きくないし。 佐竹秀義、志太先生義広などは、自分の領地を根拠地として独立勢力を築くことに関心が高かったように見える。
だから、源頼朝の構想とは違いがあり、なかなか臣従しなかったのではないか。
頼朝は源氏一門といえども、特別扱い・独立性を一切許さず、他の御家人と同様、
自分の家人にしなければ気が済まないという面があり、勢力の強い源氏であるほど、
頼朝とはうまくいかなかったように見える。 平家が幼少の頼朝を殺していたら・・・・・
平家が魏・董卓で奥州が呉で義経軍が蜀で坂東平氏が涼州軍で蝦夷地が南蛮
最終的に反平家連合が結成されて西国を朝廷 東海道を源氏 奥州と新潟が藤原家 平家は蝦夷地で開拓し後に石狩幕府が誕生
元軍の侵攻が原因で各地の武士が力を持ち恩賞が少ないことにより史実+αに
この時期って治天の院宣が、最高の旗印ってことだよね。 >>5
平氏の清盛の一族が「平家」と呼ばれるようになったのは清盛が公卿に
なって家令が設置できるようになったからではないかと
>>43
藤原秀郷の息子千晴は直系だろうけど、満仲によって失脚させられたんだよな
その満仲の子孫の頼義や義家、義経と関わることになるんだからわからんもんだ 源平合戦のとき、義忠流の稲沢氏は平家と源氏方の板挟みで大変だったろうなw
スレタイ通りになっても、義忠流は坂東の押さえには使えないだろうな
義国流と上手くやれればいけるか? 頼朝を除けば、河内源氏だろうと、他の全ての清和源氏だろうと、
関東諸豪族の利害対立を解決したり調整したり一時サスペンデッドして、そのトップに君臨できた人物はいないよ。
源氏も悪源太や佐竹や足利のような地方豪族がいくつか存立していただけ。
それはつまり、関東の他の平氏系豪族や藤原氏系豪族と同じということ。
いや、むしろ規模からいったらそれらより下。
よって源氏による関東の支配・統率というような前提を設定するのがそもそもナンセンス。
>>43
でも、なんとなく北関東(あるいは東関東)に偏るんだよね>藤原氏
あくまで大雑把な傾向としての問題で、截然と区切られるわけではないが、
南関東・西関東の平氏(および右大将家)/北関東・東関東の藤原氏(基本は秀郷流だが)と
関東平野が二分して分かれる傾向がある。
そして、右大将家の「源氏」という「符号」が、なんとなく南関東の覇者の符号として生き永らえ、
「関東といえば源氏だろ?」という「常識」となって、
足利氏、上杉氏などが使った挙句、最終的に徳川氏が江戸開幕に利用する一方、
北関東の「藤原氏」という符号は、本来は別系統の奥州藤原氏の追憶と渾然一体となりながら、
「奥州といえば藤原だろ?」という、(関東=源氏よりは弱いが)一つの符号と化して、
最終的に、仙台の伊達氏が使おうとした一つの符号に結実した気がする。
現在の利根川(昔の流路で言えば途中から鬼怒川)あたりを境にして、
関東というのは、北東側と南西側になんとなく二分されるのが、歴史的伝統に見える。
南西側は、東海甲信の延長に近い。井沢元彦は、源頼朝を「伊豆頼朝」と言ったが、けだし名言だ。
北東側は、東北南部の延長に近いところがある。
この考えは、「関東を分断するとは何事だ?許さない!」と昔、この板で猛反発を食らったことがあったが、
歴史から方言に到るまで、利根川線の分断は無視できないと思う。 坂東平氏とか桓武平氏で江戸幕藩体制下まで残った大名っている? >>53
本郷和人氏は
南坂東四カ国(相模、武蔵、駿河、伊豆)に対する鎌倉幕府の統制力と
そのほかの坂東に対する統制力は違うと主張しているね。
坂東内部でも見えない境界があるのかもね。 >>61
>南坂東四カ国(相模、武蔵、駿河、伊豆)
それって「鎌倉幕府の統制力」というより「北条氏の統制力」の強いとこでしょ >>58
途中まで将門流だが、千葉常胤の子が養子に入って、鎌倉以降は千葉一門。 伊勢氏
新編岡崎市史20(総集編) 足利家の根本被官で室町幕府政所執事などを務めた武士。ふつう桓武平氏で平季衡の子孫とする。
『滝山寺縁起』にみえる足利家被官の藤原俊経(肥前前司)・藤原俊継(伊勢前司)は「伊勢系図」にのる同名の人物と官途が一致するので伊勢氏の先祖にあたるとみられる。
とすると桓武平氏というのも必ずしも信をおけないことになるが、もとは藤原姓であったのを事情あって後に平氏に変えたのかも知れない。
『縁起』に登場する伊勢氏は、俊経・俊継父子のほかに、俊経の兄弟に滝山寺僧円辰、その子に同じく増恵がおり、鎌倉中期の滝山寺の隆盛に尽くしたひとが多く出た。
鎌倉時代の伊勢氏について知りうることは少なく、上総で足利貞氏の守護代を務めた伊勢九郎宗継がいるが系図にはあらわれない。
康暦元年(1379)に尊氏の近習であった貞継(俊継の孫)が政所執事に任じられ、以後伊勢氏がこの職を世襲した。ほかに将軍右筆や御番衆になった一族もいる。
明徳2年(1391)伊勢貞行が御料所額田郡山中郷の代官に任じられ、以後山中郷は伊勢氏の所領となった。寛正6年(1465)当時、山中郷代官は伊勢氏被官の蜷川親賢であった。
伊勢俊経
新編岡崎市史20(総集編) 鎌倉前期の武士、足利氏被官。『滝山寺縁起』に肥前々司藤原俊経(法名願仏)と見える人で、足利氏被官伊勢氏の先祖とみられる。
弟相模法橋円辰と円辰の子大進法眼増恵は滝山寺僧侶であった。滝山寺に持仏堂を建て、古市場御油畠などを寄進した
伊勢俊継(初代伊勢氏)
新編岡崎市史20(総集編) 鎌倉中期の武士で足利氏被官。『滝山寺縁起』に伊勢前司藤原俊継とある人で、肥前前司俊経の子。
滝山寺に足利義氏追善のため檀那として法華堂を造営し、田畠3町8段をこの堂に寄進した。
また碧海荘青野・宇祢部の料田畠も足利(斯波)家氏に働きかけて寄進させた。そのほか滝山寺の諸造営にかかわって財政的な援助を惜しまなかったのは、
叔父の円辰や従兄弟の増恵が滝山寺僧侶であったからであろう。
伊勢俊経 (藤原俊経、初代伊勢氏)と同時代の滝山寺関係者
・藤原範忠■二代目藤姓熱田大宮司、源頼朝の母の兄、滝山寺領を確定するなど、最高責任者の立場であったもよう
・藤原寛伝■滝山寺僧侶、藤原範忠の息、源頼朝の従兄弟
・三河祐範(藤原祐範)■滝山寺僧侶、源頼朝の母の兄、頼朝(伊豆時代)の支援者
・三河仁憲(藤原仁憲)■滝山寺僧侶、三河祐範の息、源頼朝の従兄弟、吾妻鏡に登場
・粟田口長暹(藤原長暹)■滝山寺僧侶、源頼朝の母の兄
・野田朝氏(藤原朝氏)■初代野田姓熱田大宮司、室は足利義兼の娘(3代目足利義氏の姉もしくは妹)
・足利義氏■本堂造営
・足利頼氏■一切経蔵の経会料所寄進
・斯波家氏(足利家氏)■初代斯波氏、足利義氏の法華堂造営、田畑寄進、足利義氏の骨が埋め込まれだ大日如来奉納
・吉良義継(足利義継)■初代東条吉良氏、出家し滝山寺にて僧侶、高野山より足利義氏の骨が埋め込まれた大日如来を受け入れる
・世良田頼氏■初代世良田氏、足利義氏の娘婿として、短期間三河守護代を努めたもよう
・大平惟行■滝山寺常行堂の造営、料田3町8段を寄進、法華堂へも藤原俊継と秘計して田畠を寄進した
じゃ、その藤原氏が受領の任期中か任期を終えた後に、在地豪族化してた平姓伊勢氏に婿入りして、姓は母方の方の伊勢姓を名乗ったことが考えられるね。
同地域で藤原氏が伊勢氏を名乗った事例
藤原惟康(伊勢惟康もしくは高橋惟康)
大森葛山の祖・維康(惟康)について、「伊勢新二郎大夫、成高橋殿、三河国高橋庄領主故号、母実範三位女、外戚伯父伊勢権守令養育之」と上記「姉小路系図」に註記される
高橋庄は高橋郷(現豊田市高橋辺り)を中心に豊田市域の北部中央、矢作川中流を挟む一帯から尾張国境に及ぶ庄域をもった大荘園であり、十一世紀頃の開発とされる。
安元二年(1176)二月日の八条院領目録に庁分御荘として参河国高橋・参河国高橋新庄があげられる。
■藤原道隆(藤原道長の兄)→伊周→忠頼→惟康(伊勢惟康)
http://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/fujiwara/fujiwara_hoku/fujiwara_hoku12.html
■藤原実範(三河守)→女子(兄は藤原李兼(伊勢権守令、別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住))→伊勢惟康 空華集「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
実は足利家氏(初代斯波氏)は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠地とした
滝山寺における足利義氏一周忌関係者
・足利家氏(斯波家氏)
足利義氏の法華堂造営、田畑寄進、足利義氏の骨が埋め込まれだ大日如来奉納
・足利義継(吉良義継)
初代東条吉良氏、出家し滝山寺にて僧侶、高野山より足利義氏の骨が埋め込まれた大日如来を受け入れる
・藤原俊継(伊勢俊継)
初代伊勢氏、、叔父と従兄弟が滝山寺の僧侶、田畑寄進
室町幕府の政務執事で著名な伊勢氏であるが、三河国額田郡の伊勢神宮領に由来が濃厚
藤原俊継の父である藤原俊経は、滝山寺に持仏堂を造営し、足利義兼と真福寺に法華堂を造営
足利一族と伊勢氏との繋がりは、三河国で足利義兼の代まで遡る 伊勢氏が藤姓ということなら、
平氏 → 源氏
になった畠山氏と同じようなパターンということだな。 ある足利みたく 父方源氏 母方平家みたいの おるやろ どないすねん
もちろん 父方平家 母方源氏も ぎょうさんおったやろ これが歴史の複雑さやねん >>72
母方の藤原南家の また母方に平家がいるはず 伊勢俊継(藤原俊継、初代伊勢氏) は鎌倉で死んだらしいから、父と共に三河で生まれ育って、足利義氏に鎌倉に連れてかれたのだろう
鎌倉では理由不明ながら伊勢平氏と仮冒し、俊継の孫が足利尊氏に仕えた伊勢貞継
三河にいた藤原氏が仮冒した事例
上杉氏
上杉−勧修寺家支流と称するが疑問が大きい。丹波国何鹿郡上杉庄より起り、上野を本拠として、越後や関東各地等に分る。『東鑑』を含め確実な史料には、先祖重房の下向記事が見えず、
足利家家人の上杉三郎入道(頼重)より前は不明。その出自は難解であるが、三河の日下部(穂国造一族か)と関係をもった場合も考えられ、その場合は、同国の足利被官で藤姓を称した杉山氏や大草氏と同族か
事実上の始祖である上杉三郎入道(頼重)の日名屋敷
新編岡崎市史20(総集編) 鎌倉末期に額田郡日名にあった上杉氏の屋敷。足利貞氏室となり尊氏・直義を産んだ上杉頼重の娘清子が、暦応2年(1339)10月15日に丹波国光福寺(現綾部市安国寺)へ日名屋敷を寄進、
翌年4月5日に清子の甥上杉重能がこの屋敷を光福寺雑掌へ渡すよう岩堀右衛門三郎に命じている。
頼重は額田郡を含む足利氏所領群を管理する奉行人のひとりであったから、現地支配の拠点として上杉氏がこの屋敷を所領とし、頼重から女子清子に譲与されたものであろう。日名屋敷跡伝承地の近くの墓地に14世紀後半の宝塔の笠1個がある。 藤原範忠
藤原 範忠(ふじわら の のりただ、生没年未詳)は、平安時代末期の公家、神官。藤原南家の出身で、熱田大宮司藤原季範の長男。生母は源行遠の娘。妻は美福門院女房上総。足利義康室(義兼母)などがある。
範忠の一女は祖父季範の養女として足利義康に嫁ぎ、義兼・義房らを産んでいる。この縁もあり、子孫の多くは足利氏と行動をともにしている。
かつて「足利スレ」で書いたが、源姓足利氏の母系一族は諸状況から鑑みて藤姓足利氏とする方が蓋然性が高い。
だが今は気力が無いのでもう落ちる。
太政大臣 源氏長者 擬太上天皇 藤原北家西園寺家別邸金閣寺住まい 源義満の御母上さま 藤原南家さらに平家繋がり? 高師直
高氏(こうし)は高階氏流で右大弁高階峯緒の末裔である。大高大夫惟頼が実は源義家の四男であったと言われるがこの辺りから源氏との結びつきが強くなったのであろう。
その曾孫惟長が三河の守足利義兼に仕え、額田郡日志賀・菅生郷司職に補任され足利家執事となった。それ以降、惟重、重氏、師氏、師重らが代々執事を務めている。
鎌倉政権下で足利氏は有数の名門として遇され、家督の下に三番編成の中央奉行所があり高氏(こうし)や上杉氏が務めていた。その下に地方公文所があり、命令は「袖判下文」により伝達されていた。
この袖判下文は将軍家のほかは北条氏、足利氏にのみ許されたというから幕府内部での足利氏の家格の高さが窺える。
徳治三年(1308)に高師行奉書が、元亨二年(1322)に師重奉書が出されており、執事が家督からの命令伝達に大きい役割をしていたのがわかる。
高階惟長→惟重→重氏→師氏→師重→高師直・高師泰
『梅松論』新田義貞の下向
去程に数万騎の官軍関東に下向するよし聞えければ、高越後守(=高師泰)を大将として大勢を差し添へて海道に遣さる。
師泰に仰せられけるは、「先づ三河国に下りて矢作川を前に当て、御分国(三河国菅生郷、高師直の領地)たる間、駈け催して当国の軍勢を相待つべし。
努々(ゆめゆめ)川より西へ馬を越すべからず」と将軍の命を請けて、
総持寺(総持尼寺)
瑞生山 曹洞宗 新編岡崎市史20(総集編) 中町字小猿塚37にある曹洞宗寺院。深恩院瑞生山と称し、本尊は大日如来。もと籠田総門南の総構え内側に所在。古くは天台宗という。創建時より明治8年(1875)まで尼寺で、そのため総持尼寺の名で一般的に呼ばれる。
高師泰の娘で同族師冬の妻であった明阿が一族の菩提寺として所領菅生郷の築山(高氏屋敷地か)に建立した。
夫・父をはじめ一族の多くを観応2年(1351)に殺された明阿は、文和4年(1355)将軍尊氏に申請して姪の「いち」を住持として総持寺を建立し重代相伝の地菅生郷を寄進することを許可された。2、3年後には完成か。
応永6年(1399)足利義満が高氏所領であった額田郡比志賀郷を塔頭の深恩院に寄進した
寺領菅生・比志賀郷は、歴代将軍から手厚い保護をうけ段銭以下臨時課役に免除されて守護不入地とされていた あなたが高一族末裔なら今の政治でもがんばってよ歴史に名を残すくらい勉強せにゃ
清和源氏がんがれ 正統派貴族流平家末裔も >>80
藤原範季(藤原南家)と平教子(平教盛の娘)の娘、藤原重子(修明門院)の皇子が84代順徳天皇→善統親王(四辻宮…順徳源氏の祖)→尊雅王(四辻宮2代)→智泉尼(義満外祖母)→紀良子(3代将軍家清和源氏足利義満の母) >>83
参照高氏分脈
26代継体天皇の孫の孫、第40代天武天皇→高市皇子→長屋王→桑田王→磯部王→石見王→峯緒王(高階峰緒 、高階家初代)→高階茂範→高階師尚→高階良臣→高階敏忠→高階業遠→高階成佐
→高階惟章(源義家、源義国の家来、在下野国)→高階惟頼→高階惟真→高階惟範→高階惟長→高階惟重→高重氏(高家初代)→高師氏→高師重→高師直(足利尊氏の側近)、兄は高師泰、弟は高師茂と高師久…子孫は 広がる? 桓武てんのう→葛原親王→高見王→たいら高もち→たいら国か→たいら貞盛→たいら惟将→たいら惟時→たいら直方→
たいら聖範→たいら(北條家初代)時家→たいら時方→北條時政…源氏将軍3代でほろぼし京摂家・皇族将軍をたらい回して ニポンを 130年も支配(源頼家サマ潰滅1203年〜北條本流潰滅1333年まで)!!! >>89 >たいら聖範→たいら(北條家初代)時家→たいら時方→北條時政
ソースは? 阿多美聖範前後の系図は尊卑分脈、群書類衆、続群書類衆、系図纂要などによって微妙に違っているな。
けど逆にとると、重なる部分も多い。
まあ程度の差はあれ系図なんてどこも似たようなもん。
平維方の息子あたりで良いと思うよ。 俺の高校の教師が兄弟仲が悪いのが源氏、
仲が良いのが平氏って覚えればいいとかいっていたな。 >>90
分脈 その他 ヒ・ミ・ツ? 系図総攬とかじゃね 執権となった時政の父親さえ系図によってまちまち・・・これって変じゃない?
田舎武士で歴史に埋もれたような人間の父親ならまだしも・・・
熊谷直実レベルの武士でも父親ははっきりしてるんじゃないの? 源氏を滅ぼすって新田も足利も武田も佐々木もみんな滅ぼすってこと?
それともいわゆる源家を滅ぼすってこと? 笹木は宇多天皇子孫 宇多源氏
ここでは藤原北家 特に頼長さま(*_*)以来 身も心もガチンコ一体で 藤原公家権力番人やってきた 〇●源氏本隊じやね >>98
最初からそこがあいまいなわけだが、
義朝の息子に限定しても、反平家の旗頭には
義仲や頼政が立ったわけで状況は変わらないし。
でも頼政や義仲では(鍵となる)関東をまとめられない。
義仲の父は私闘で殺されていて、義仲の敵討ちの相手は義平だが
その相手の義平は既に死んでたし坂東が基盤ではない
頼政は坂東に基盤がなかったからな 常陸には志田三郎先生もいたしな。
逆に、頼朝が処刑されていていなかったら、
志田三郎がかつぎだされて、反平家で動くってことは
あったのかな? >>104
志田庄は池禅尼の斡旋で八条院領になった。
義広は頼盛とのつながり深いのでは?
それに野木宮合戦の経過を見るといつか小山氏、八田氏と衝突する可能性があったかも。 105補足
志田庄立荘当時は美福門院領。
本所美福門院、領家藤原宗子、当時の常陸介は平頼盛。
ちなみに常陸国は1148年頃平家盛が常陸介になって以来、
平家一門や関係者が常陸介になっている事が多く
平治または治承三年以降平家の知行国となった他の坂東諸国とは、
治承寿永以前の状況が違うものがあったと推測される。 >>109
その場合は源氏が京都で「源氏にあらずんば人にあらず」と権勢を誇り
清盛の子供が反源氏の挙兵し幕府を創る。 平成政治でいえば 源氏は…? 平家は…? て入試にでないよねワラ >>111
平治の乱といっても源氏と平家だけが戦ったわけじゃねーし。
その背景ってもんがあるだろ
ポッと出の河内源氏ふぜいが権勢誇れるわけねーべさ 経基以来の連綿とした歴史があるよね。
ヘタレとしてのw >>111
平治の乱は源氏vs平家という図式では現在語られていない。
信西派、信頼派、天皇親政派、中立派など色々な政治勢力が絡まった中で起きた戦い
として現在は評価されている。
義朝の立場は信頼の部下的な立場と評されている。
清盛は中立派で乱勃発当初は一連の戦いの圏外にいて後に天皇親政派の誘いに乗って
乱に加わったという経緯を持つ。
ちなみに、平治の乱勃発の政治的勢力や地位としては
信西=信頼=天皇側近≧清盛>>>>>|越えられない壁|>>>その他軍事貴族≧義朝
軍事的な力も
清盛>>>>>>>|越えられない壁|>>>源光保>>義朝
という図式で義朝は乱の後政治権力を握るという立場には立てない。
もしも平治の乱で義朝が属する信頼派が勝利するには下記の条件が必要である。
信西排除後
1.信頼が清盛を仲間に引き止める
2.信頼が天皇親政派との提携を深めつつ後白河を取り込む
ということが前提条件となり
その場合は
信頼を中心とした不安定な政局が数年続き、その後分裂か誰かが其の中から頭角を現す
という結果となるだろう。
そうなった場合頭角を現すのはやはり平清盛となるような気がする。
そしてその政局の中で義朝は足元をすくわれないように上手く渡り歩かないとどこかの時点で失脚するだろうし、
失脚しなくても源頼政のように一軍事貴族として過ごすようになると思う。
失脚したら不平皇族の令旨もらって関東で兵上げりゃいいじゃん。
関東で育ってるし、自前の兵力もあるし、官位も持ってるし、頼朝より断然有利じゃん。 仇討ちという大義名分があるのが大きいからな、頼朝は
清盛の先祖平貞盛は父の国香が将門に攻められて自殺した時、親の仇討ちは
気が進まなかったけど親族から説得されて蜂起したというけど
単なる私怨の私闘よりは、親の仇討ちという大義名分がある方が
やり返しやすい >>120
仇の名分より令旨の力のほうが大きいと思うんだが 義朝が坂東武士団を編成できたのは、前半では摂関家、後半は院といった権門の家産機構に
乗っかったうえで、その権威を利用することができたから。
頼義・義家以来の源氏の権威なんてものは絵空事で、自前の兵力といえるものはわずかしかない。
だから失脚した途端に兵力は激減する。
その状態で、令旨をいくらもらっても意味が無い。だいたい「不平皇族」ってなんだよ?(笑)
頼朝のほうが有利だったという理由はいくつかあるが、最大の理由は「同時多発的に反乱が勃発」したこと。そのために平氏は多方面作戦の展開を余儀なくされ、兵力を分散せざるを得なくなった。
頼朝の挙兵はその中の一つに過ぎない。
>>117は結局は平家政権になるって言ってるんだろ。だったら史実と同じ事じゃん。
義朝が生きてるから関東の棟梁が頼朝でなく義朝になるだけ。
流人の頼朝より現役の義朝の方が断然有利。 >>125
木曽義仲の上洛の際には頼朝よりも義仲の方が実力的に上だったとの見方もある。
なお義仲上洛の時、近江の山本義経、美濃の源光長、義仲の叔父の行家、志田義広が一緒に上洛した他
甲斐源氏の安田義定も一緒に上洛している。
彼等は義仲上洛直後離反したものが多く、義仲とは「同盟軍だった」とみなされている。
この時期駿河、遠江は甲斐源氏が制圧していたが、甲斐源氏はある時期まで
頼朝の傘下に入ったわけではなく「同盟者」の立場だった。
安田義定は自分の判断で義仲に加わったので甲斐源氏もこの時期までは頼朝の傘下には
加わらず独自の立場にいたと思われる。
義仲上洛の直前においては
頼朝は都の貴族の間ではもっとも有名でおそらく最も有力な「反乱軍」だったが
他に挙兵したものたちから見れば、頼朝はまだ「同盟者」の存在であったと見るのが妥当であろう。
>>118>>126
義朝や頼朝が従えたとされる坂東の豪族は無条件には義朝や頼朝には従わない。
保元においては国衙の指示に従って軍を出動させたとの説もあるし、
平治においては義朝や義平頼朝にごく私的に近い身内的なものしか出兵しなかったとの見方もある。
また、治承時に坂東の武士達が頼朝に味方した理由も平家方に近い豪族に抑圧を受けていた坂東の豪族が頼朝の挙兵を
自分に敵対する勢力を掃討する好機と考えて挙兵したという見方が最近は強い。
例
上総国 平家方 藤原忠清 vs 上総介広常
下総国 平家縁者 千田判官 vs 千葉氏
相模国 平家家人 大庭氏 vs 在庁官人系 三浦氏、中村氏(土肥・土屋)
坂東の豪族の基本的要求は自分の所領の安堵や坂東国衙における地位の確保であって
それを保証してくれるものを主として自分から選び取っていた。
つまり、坂東の豪族は自分にとって必然性を感じなければ誰が何を呼びかけても
(国衙からの呼び出しは例外だが)従わない。
つまり、もし義朝が生き残っていて出兵を呼びかけても、坂東の豪族側に出兵する必然性や出兵した後のメリットがなければ
義朝の求めには応じないどいうことが予測される。
頼朝の成功の原因の一つは時代の波に上手く乗れたということがある。
すなわち、清盛が治承三年のクーデターを起して、知行国を大量に増やした結果
坂東の従来の豪族の力関係に変化が起きて平家に近いものが優遇され、そうでないものが冷遇された。
その結果冷遇されたものが、平家方に反撃の機会を狙っていた
という当時の状況が頼朝の挙兵を成功させた というのが坂東の豪族を従えさせるのに成功した一つの大きな要因であると思われる。
「治承三年のクーデター」という事件がなければ
頼朝の成功はなかったし、たとえ義朝が生きていたとしても成功はむずかしかっただろう。
そうだね。
この時代においては、武士の「主従関係」というのを、江戸時代なんかのそれとは一旦切り離して見てみるということをしないといけないんだよね。
古代‐中世初期の武士の「主従関係」は、それはドライでルーズなものだよ。
>>128
だから、清盛が政権とったら結局は「平家にあらずんば」状態になるから
関東の反平家の勢力が、義朝を旗頭に反乱ののろしを上げるといってるの。
流人でさえ担ぎ上げたのに、現役の軍事貴族を担がないわけないじゃん。 >>129
江戸時代の主従関係もドライだよ。家臣が主君を「押し込め」たり。
家臣の多くは主君個人に忠誠を誓っているのではなく、主家に忠誠を誓っている。
だから主家にふさわしくない主君だと平気でお家騒動を起こす。
まあ、追い腹を切るなど個人に忠誠を誓った家臣もあるが全体から見れば少数派。 所詮「もし」の話だからな。義朝を担ぎ出す可能性はある。
ただ、反平家勢力が蜂起に至る過程しだいでどうなるかはわからんな。
意外と米俵を担ぎ出すかもだぞ。 >>130
流人だからこそ頼朝は担ぎ上げられたって側面があるのだと思う。
義朝だと大庭御厨や相馬御厨への濫妨事件の件などで、関東の中には義朝に恨みを抱く有力豪族も多い。
そして、そういった部分は必ず敵の平家は突いてくるはずなので、
関東諸勢力を1つに纏めあげるという観点から見た場合、「現役軍事貴族」だからという理由によって義朝の方が有利などとは全然言えない。
第一、「関東にいた軍事貴族」(関東に所領を有するものの、五位以上の位階を有し、京に籍を置き、衛府や北面などの京における武官職に任官している者)ということなら、
関東には義朝の他にも、源義広や、源義康、源義重他の源諸氏や、波多野義通や山内首藤経俊といった藤原氏秀郷流諸氏など他にも数多く存在しついる。
だがそんな彼らは関東の在庁系などに長年に渡る敵対勢力をそれぞれ抱えており、そうした在庁勢力と度々合戦などにも及んできている(上で述べたように義朝も同じこと)。
つまりこれは、軍事貴族だからという理由それだけでは関東の諸勢力は彼らに靡いたりはしないということを意味している。
>>1 屋島・藤戸・一の谷・長門壇之浦がその魅力を失い
福良・備後沼田・西宮沖・吹井・備前今木・備前壇之浦の、いわゆる六ヵ度
の戦、が注目される。
義経に代わる剛の者としては、平教経あたりが有望。
ちなみに福良(南あわじ市)・沼田(広島県三原市)・西宮(兵庫県西宮市)
・吹井(大阪府泉南郡岬町)・今木(岡山県瀬戸内市邑久町)・壇之浦(岡
山県倉敷市下津井田之浦)。
この六ヵ度戦の段階で、源氏が劣勢にならないと、>>1の状況は無い。 おっ、調べると色々出てくるな。スレ主ありがとうな。
六ヵ度の戦い、の前に行われた、水島合戦(岡山県倉敷市水島)は、木曽義仲の
西国侵攻を止めた戦の一つ。
北西風と日食を上手く使った平家の圧勝だったらしい。
六ヵ度戦の前年だから、この段階で頼朝・義経が兄弟喧嘩をはじめると、>>1
になりそうだ。 いや、ていうか、平氏が源氏ほろぼしたようなもんじゃないか?
源平合戦→実は平氏、平氏の乱、平氏の乱で、平家が源氏を支援して戦う
源氏がなくなる、平氏、源氏の足利がマジギレ
源氏足利 平氏がマジギレ ていうか、平氏以外もマジギレ
伊達以外源氏はほぼ滅亡、信長、秀吉、家康はほぼ農民武士
平氏は権力おわれるけど、それから民間になって、場合によっては残って子爵とかになる。
平氏は東日本作ったしな。
源氏はほとんど何もやらないで乱ばっかだよね。
平氏
東日本をつくった。
あるものは医者になった、あるものは漫画家になった、あるものは剣術家になった(千葉)
あるものはししゃくになった。
東日本なんて、平氏と農民でかってに作ったんだぞ。
紅白歌合戦は、「祝八百長・源平合戦」。
http://s1.shard.jp/deer/0204/44/291_1.html
終戦直後、紅白歌合戦は始まった。
これは、八百長戦争で莫大な埋蔵金を手にした徳川一族が、
「源平合戦」を題材に、一大忘年会を企画したものだった。 清盛の伊勢平氏自体、祖父の正盛の代から
河内源氏と関係深かっただろう?
たしか、家督を継承した源義忠は、伊勢平氏と関係が深かったはず。
源頼朝の系譜は、必ずしも河内源氏の嫡流ではなかったしね。
河内源氏の諸勢力の有力候補の一人程度でしょう? 義忠は正盛女と婚姻してるね。
頼朝が河内源氏の嫡流とみなされてたのは、
平治の乱に挑むにあたって父義朝が頼朝に、源氏重代の家宝である「源太が産衣(=鎧)」や「髭切(=太刀)」を相伝させたことや、
平治の乱で「一旦」成功を収めた直後に、頼朝をわずか13歳で右兵衛権佐(“佐殿”の由来はここから)に任官させた事実からも確実とは思う。
ただその後の義朝の敗死で頼朝も流罪となったので、
例えば武田信義が「(頼義の系統ならば)一門更に優劣なし」とのたまったりとか、
新田義重が「故陸奥守(義家のこと)の嫡孫をもって自立の志を挿む」と言って頼朝の元へ参じなかったりとかいう状況を許すこととなる。
だから頼朝もそのあたりからは、先祖頼義の故事を忠実にトレースしたりとか、自らの源氏の嫡流性を示すために必死のパフォーマンスを演じることとなる。
ただし(頼朝がモデルとした)頼義の故事ははっきり言って「フィクション」だけどね。 平氏は、壇ノ浦で滅亡する所を、嵯峨源氏勢の清盛側近だった松浦氏に落ち逃れさせられ滅亡を免れ、今日に至る。
杉浦千畝の命のビザは、コレに習ったと分かる。
以前どこかのサイトで観たが、杉浦氏も嵯峨源氏の末裔のようだ。 日本とアメリカ
悟空とピッコロ
連邦とジオンの関係 >>146
「平家落人」って平家家臣の武将のことだからね
実際に清盛の子息や孫が助かったわけじゃないから
ちなみに清盛の娘たち(女系)は公家の妻になって
源氏の世になっても都で平穏に暮らしていた
だからこっちの系統は残っているけど >>148
安倍元総理の先祖も平の家に嫁いだらしいが、落ち逃れるのに、嵯峨源氏松浦氏姓ではなく、御先祖高俊のルーツ、奥州安倍宗任(鳥海三郎)の安倍姓名乗って、安倍だから、本来は、岸でも安倍でもなく、平だな。
永井→大江→毛利は、将門と血肉の争いをした将門の叔父、平良兼の末裔。
平野も良兼の末裔。 平家が公家から武家への權力移転を推進するような政策をとれば安定するだろうけど、
そんな様子は微塵もなかったわけで、
結局、あちこちの武家が騒乱を起こして戦乱の時代になるんじゃない?
どこかが頼朝と北条がやったような武家政権の樹立まで辿り着けばいいけど、
そうはならずに時間切れで元寇で日本中大混乱って流れになりそう 平家が残っても遅かれ早かれ貴族政治に飲み込まれてたよねきっと >>156
それはない!
良民が成長して、中世の扉はすでに開かれちゃってるし、
朝廷も院も、政治機構としての機能は衰退してる。
「軍事貴族」として、あるていど武家の棟梁としての地位を保つか、
文弱貴族化すればまた別の武家が台頭するまでのこと。
富士川の戦いで、平家側が大勝して頼朝を討ち取っていたらどうなっていただろうかね?
948 :名無しさん@京都板じゃないよ:2011/05/22(日) 08:27:45.81
そういえば
昨日 5月20日は
成田空港開港33周年
「
歌舞伎が衰えたのは
成田山の封印が 衰えたから
歌舞伎の成○屋は
表にもちあげられてるだけ
本当はその4つくらい裏に 黒幕がいた
成田山は平家の力の源泉
源氏に敗れたふりしたけど
表に立ち続けるよりも
実際は操縦源に近づいて
この国を 操作するのを選んだ
能力は源氏や橘より
はるかに上
だって裏で動かしていたんだもの 」(Mちゃんの言葉)
947 :名無しさん@京都板じゃないよ:2011/05/22(日) 08:27:21.99
追伸
エカシと高○古墳に行ってから
しばらくして
夢で
赤い線の 受話器から
「 成田山からぬし 抜けた 」
という電話がかかってきた
(・・;)9・・・・・・・
どういう意味だろう?
941 :名無しさん@京都板じゃないよ:2011/05/20(金) 16:42:50.71
「
現実の序列と違い
潜在意識を動かしてる序列がある
どんな座に付いていても
潜在意識を動かせないと
人を操縦はできない
ヌシの潜在意識を動かせるものは
貧民街に居ようと 遊郭に居ようとも
実質的に 世界を操縦する
普通の人なのに
周囲がその人の想い通りになってしまう人がいる
そういうこと 」(Mちゃんの言葉)
942 :名無しさん@京都板じゃないよ:2011/05/20(金) 16:43:20.67
「
血筋を見抜ける血筋は多い
でも ヌシを見分けられる血筋は少ない
今 ヌシ達にべったりとはりついてる
「 道化師 」も
それが力のヌシと教えられるまで
その存在に気づかなかった 」(Mちゃんの言葉)
ちなみに
「 くくり 」とは
日本書紀に描かれた名称
「 くくり姫 」という名前を
このブログでは 用いていますが
ぶっちゃけって言えば
古代のヌシと 支配層の血筋の間に生まれた巫女的形質の存在
巫女の中でも最高峰的な巫女の存在です
943 :名無しさん@京都板じゃないよ:2011/05/20(金) 16:43:44.18
Mちゃん曰く
(ノ゚ο゚)ノ
実は夢殿の操縦権者達 道化師的存在の
さらにその上に 彼らに情報伝達する存在がいて
それが夢殿最高峰の巫女
「 くくり 」のような存在なのだとか
(・・;)・・・・・
「 情報こそ神 」
実は彼らが 情報を重んじるのは
世界を操作するのに必要な想いのヌシ達の情報が
世界を維持する生命線と知っているからだそうな
φ(・・;)・・・・・・
疑問なんだけど、平家滅亡後,各地に平家の落人の里とか、残ってるでしょ
そういって落ちて行った人たちは、平家再興とか、全く考えなかったのかな?
源氏 も頼朝没後はてんやわんやになって北条氏の世になってもめてるんだし、そのチャンス派かならずあったとおもうんだが
その後の武士たちは源氏の血筋を正当化することによってステータス上げてるけど、平家のまつえをアピールした武将は居ないよね
なんで? そこが平家の美学なのれす。
直方流の北条氏や熊谷氏、繁盛流の大掾氏など名門平氏は生きてるからそれでいいのれす。 源氏は結局北条氏の外来にすぎなくなって行く訳で実際には平家の世か
表立って名乗れないけど
でもやはり平家の本流は西国だよね
伊豆の田舎の北条氏の天下でも落人たちは納得できたのかな? >>165
平家の落人といっても、家人郎等がほとんどだから、
再興を図るには、平家の血統が明らかなる人物と、
スポンサーを探さないといけないから、一苦労だよ。 別に平家じゃなくったって良いじゃん。
平家以外にも軍事貴族系の平氏はいるんだから。
軍事貴族と武士の協会線というか、ちがいってなに?
源氏も、平家も、血筋たとっていくと皇族とつながるんでしょ? >>172
軍事貴族を筆頭(盟主)に、彼らと主従関係や姻戚関係で結ばれた地方の郡司富豪層の総称、と見て大きくは外れていないんじゃないかな。
始まりは9世紀末から10世紀初頭頃(寛平・延喜期)。
>軍事貴族を筆頭(盟主)に、彼らと主従関係や姻戚関係で結ばれた地方の郡司富豪層の総称、と見て大きくは外れていないんじゃないかな
↓
軍事貴族を筆頭(盟主)に、彼らと主従関係や姻戚関係で結ばれた地方の郡司富豪層の総称が「武士」、と見て大きくは外れていないんじゃないかな 北條氏って桓武天皇のご子息桓武平氏でしょ?天皇の血が少しまじってるってことだよね?
北條氏に限らず鎌倉時代の武士はそうだが。 >>156-157
もし、福原京時代が続いていたら、
「平安時代」とは多少なりとも異なる
政治体制が始まったと思う。
その場合、院は平安故京のままで、
福原は鎌倉幕府みたいな武家統治が
中心になる。
鎌倉は御家人たちも進んで集まってきたけど、
福原は皆嫌々ながら付いてきた印象だし、武家だけでなく、貴族や院まで移住だから
鎌倉みたいになれたかどうかは微妙じゃない?
清盛自身は,公家と一線をひいた政治態勢のかくりつ目指したんだろうけど、周りはそうは考えてなかったみたいだし どうでもいいけど、平家物語の出だしに
秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の禄山とか出てるのがすごいよな
今の人が鎌倉や、室町・戦国、もしくはそれ以前を想像してるのと同じ感覚なのだろうか?
ローマ時代のエジプトに関する記述と同じくらいノスタルジー
グーグルに任せてたら梁の周伊になってるな
間違いじゃんこれ >>186
単に俺らが菅や小沢を他国の馬鹿で例えるようなもんじゃね
日宋で民間貿易が盛んだった時代だからその辺の知識も豊富だったろうね 平家で「カツラエギ」?または「カツラエジ」と言う方はいましたか?
私の先祖らしく,知りたいのですが…
平家の資料館に,手紙が残っているそうなんですが >>165
織田信長公が居るよ。
信長公は揚羽蝶の紋も用いていたし、
敦盛の歌も愛唱していたようだから、不思議なもんだよね。
そしてかつての平家一門と同じく、広く海外に目を向けておられたし。 金屋子神。
字面が示す通り元は製鉄の神。
物部氏を構成する1グループ >>186
「平家物語」に続く軍記「太平記」には「三国志」の諸葛亮や司馬懿の話も引用されてるよ。 新撰姓氏録(815)に「身狭村主は呉の孫権の子孫」とか書いてあるぐらいだから 坂上田村麻呂は後漢霊帝の子孫だしな
史記〜三国志あたりは日本人の先祖となる人物が結構いる 羽田元首相はもともと秦氏で始皇帝の子孫ってことになってる
家への取材で立派な真新しい系図が出てきてたw ああ、羽田だから秦氏って事なのか?
なんとなく、多田氏の方が信憑性が・・・あまり変わらないか。 スレ違いかもしれないけれど、平家から派生した苗字や家来の苗字について詳しく書かれた文献ってありますか?
うちは先祖を辿れば確実に桓武平氏の一門なんですが、具体的に先祖の名前を文献で見てみたくて。 >>201
先祖の名前ねぇ…姓名大辞典や郷土史の類をみたほうがいいかもよ。
かなり珍しい名前だけど、そう言うのに乗ってるもんなの? 外交巧者で風流ざむらいが多かったハプスブルク家みたいな
平家嫡流有力の西日本がオーストリア的、
武断派で質実剛健なホーエンツォレルン家みたいな
源氏傍流有力の関東方面がドイツ的、
って感じの勢力圏になっていったかも。
藤原氏奥州は・・・スウェーデンかロシアみたいな位置づけかな? 平家は海洋国家だったスペイン風の方が合ってる
スペインハプスブルグ >>206
「日の沈まぬ音戸の瀬戸」
ってわけですな 平知盛の武将としての偏差値ってどんなもんなんすか? 清盛が義朝の男児を鏖殺しても、次は木曽系が担ぎ出されて来ただろう。
源氏と平家は二大政党の関係と同じで、相手が無くては自分の存在価値が出ないからだ。 戦国時代の瀬戸内あたりの武将って、やっぱり平家とつながりあるの?
たとえば、大内氏とか、ああそこらへん
それとも全くつながりなし? >>212
本姓は多々良氏。百済の聖明王の第3王子 の後裔と称していた。 平家について負け組になったやつの子孫なら沢山居そうだけど >>212
平家と言うより、敵対していた、征伐対象の少弐水軍連合内の高野氏=河野氏とルーツを同じくする、百済系の家柄。
蘇我氏的家柄が左翼の血筋なんだろう。
平家が桓武天皇筋母方高野氏族よりの百済崇拝していた左翼系の家柄だから、平家落武者かも知れないね。 >>210
「源平」なんて概念は後世に創作された幻想だよ。 というか、もともと平治の乱に参加した源義朝、義平軍の坂東の連中って
平氏でしょ。頼朝の幕府でも中枢は平氏ですから。立場によって有利な方に立つ
ってことでしょ。 >>218
中核てっ言うか・・源義朝を顎で操って、弟まで討伐させたのが、平貞盛の子孫の北条氏、嫁:北条政子だしね。
桓武平氏の平貞盛の末裔を伊勢平氏と呼ぶ訳で、頼朝に属したから、源氏に属した平氏=伊勢平氏と言ってる。
源義朝死没後に、朝廷に従わなかった理由が、そもそもが、桓武平氏だからだったんだろう。
源義朝死没後の鎌倉は、第2の平氏政権でした。
順番が間違ってるよ。義朝の息子の頼朝の妻が北条政子。 こういう間違いをすると、日本史の知識少ない
知ったかと思われて、損するよね。 単に、源義朝と頼朝の名前が似てるから間違えて、レスしただけだろう。
源義朝とは、源頼朝のこと 小泉純一郎も伊勢平氏の末裔だから
平貞盛の血が入った、ただのナンパ野郎 安倍氏の金山を受け継いだ平泉の奥州藤原氏、藤原清衡
逃げて鎮守府将軍となった・・平貞盛
源頼朝は、弟の義経の活躍で、鎮守府将軍と成った兄:頼朝
源頼朝死で、鎌倉幕府を手に入れた北条政子・・北条氏
元軍に神風で勝利した鎌倉武士団
織田信長の死で、全国制覇し太閤と成った豊臣秀吉
太閤秀吉の死で、棚ボタ受けた、徳川家康
太平洋戦争に負けて、GHQ権限で地位逆転、民族改造で財閥化し、日本を支配してきた同和官僚閨閥
鎌倉幕府って、坂東八平氏が屋台骨で、源頼朝は神輿ですから。 足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
西条吉良
東条吉良
今川
一色
仁木
細川
斯波
戸賀崎(荒川)
畠山
桃井
渋川
岩松
石塔
上野
鹿嶋
粟生
倉持
高
上杉 保元の乱で足利義康は参戦してるよね。義朝や清盛とともに。
北条政権下でも足利家と北条家は嫡流で縁戚関係結んでる。
このあたり、源氏の足利、平氏の北条が敵対しない配慮がお互いに働いてたの
だろうか? イミフ
むしろ滅ぼしたろ。
あの戦いは
坂東千葉平氏←平
対
伊勢平家
の戦い。
その戦いの中
源家が坂東平氏について
源氏なんかはほとんど滅ぶだろ。
石橋山の戦い→坂東千葉グンが一方的にボコル。考え方いかんでは戦力の8割千葉である。
坂東復古の戦い→坂東平氏が源氏末裔をぼこるという。足利とか源家なんかは源氏のメインだろうと、少数だぞ。大半の源氏なんか敵にまわったんだぞ。
兵力、とかみればわかるけど、源家は、源の1〜2割以下だぞ。ほかの大半の源はあのとき滅ぶ。
で最後に伊勢平をボコボコにするんですな。 そもそも平 源
で語るとかにわかだろう。
アレ平 源じゃなくて
坂東平氏と
伊勢平
の戦い
で、勢力的に
奥州藤原
坂東千葉平氏
武蔵常陸源氏
伊勢平
しかない。で河内源流なんて、超極少数派だぞ。アレエライ少数だぞ。
どっちかってーと
坂東千葉平氏が、河内源をひきつけて、で適当な位置におしあげた感じだぞ。
内閣総理→河内源
防衛省→坂東平氏
みたいな関係 >>230
>>84
>河内源流なんて、超極少数派だぞ。アレエライ少数だぞ。
下記>嵯峨天皇は皇子と皇女を合わせて32人の臣籍降下を行ったが、これら全てに「源」の名字を与えた。
って理由も、その辺に原因あるんだろうね。
名字の由来
http://office-maeta.jp/office/contents/060828.htm
■ 嵯峨源氏の起り
桓武天皇の次の嵯峨天皇は皇子と皇女を合わせて32人の臣籍降下を行ったが、これら全てに「源」の名字を与えた。
これが嵯峨源氏の始まりであるが、ではどうして源という名字を与えたか?
それは中国の北魏の太武帝が同族の河西王の子「賀」を西平侯に任じた時に、「卿(あなた)と朕(わたし)とは家系の源が同じである。
そこで今より源を氏とせよ」と言って源姓を与えたのに倣った。
佐賀源氏を遠祖する名字: 渡辺(摂津国西成郡渡辺村)・松浦(九州肥前)・宇久・五島(長崎五島列島福江島)
北魏の太武帝は、桓武天皇の母:高野氏族の先祖の一人
共産党は平家の赤旗
http://2nd.geocities.jp/jmpx759/02/6/71.html
もともと、共産党と平家の役割は、「全く同じ」だ。
権力組織の体制維持のために、「反面教師」を買って出ることだった。
要するに、
「体制を批判する者には、アホが多い。」
「やっぱり、昔の体制組織がいい。」
などと、しみじみ、つくづく思わせることに意味がある。
この点で、
蘇我一族、平家、豊臣、薩長同盟、日本共産党、日本新党、民主党・・・・・・などなど、全て同じだ。
「白旗」は敗北の旗だと思う人が多いが。これは誤解で、
「白旗」は、「超支配者」のシンボル。だから、絶対に白旗に攻撃してはならない。
もちろん、「白旗」は、源氏・天皇・徳川のシンボル。 平氏は海洋国家を目指しただけ
源氏白旗は農耕民族的なだけ
平氏も源氏も元は桓武天皇から臣下、源氏は曾曾曾孫位後だろ
アンタ日本人か?工作員か、
織田信長は平朝臣、明治維新以降宮内庁(朝廷)より太政大臣に
徳川家康は源朝臣
織田、徳川は親戚関係だよ。
秀吉は論外w 平清盛は実は善政してたっていう話を聞いたことがあるんだけど
もし、していたとしたら具体的にどんなことをしていたの? >>234
嵯峨天皇、 源氏長者が、(源)融〔嵯峨源氏へ〕 、兄が(源)信〔嵯峨源氏へ〕
嵯峨天皇の嫡子が、仁明天皇・・
嫡子が・・文徳天皇、清和天皇、貞純親王、(源)経基〔清和源氏へ〕
弟が・・光孝天皇、宇多天皇、敦実親王、(源)雅信〔宇多源氏へ〕
だから、嵯峨源氏は、孫。
清和と宇多は、曾曾曾曾孫。
嵯峨源氏、光源氏モデル融は、枕創始の渡辺綱や松浦氏の祖。
八幡太郎の義家が頼朝と義経の祖←後、頼朝死後の末代は、平貞盛を祖とする伊勢平氏、北條政子の命により暗殺され滅亡。
賀茂二郎の義綱が新田と足利の祖←足利は、新田と仲違えし、新田は、楠木と共に足利に破れ、足利幕府の祖。
新羅三郎の義光が佐竹、逸見、武田の祖。
>八幡太郎の義家が頼朝と義経の祖←後、頼朝死後の末代は、平貞盛を祖とする伊勢平氏、北條政子の命により暗殺され滅亡。
八幡太郎の義家が頼朝と義経の祖←後、頼朝死後の末代は、平貞盛を祖とする伊勢平氏、北條政子の命により暗殺され頼朝末代は、滅亡。 賀茂二郎の義綱が新田と足利の祖←足利は、新田と仲違えし、新田は、楠木と共に足利に破れ、足利幕府の祖。
徳川幕府も、賀茂二郎の義綱の末裔。 嵯峨天皇の弟筋、桓武平氏は、桓武天皇の第6皇子、葛原親王。
桓武天皇─葛原親王─高見王─【平】高望王─国香─貞盛
平氏始祖の【平】高望王は、曾孫。 結局は
将門公が最初に、平家、源家
と戦って
その末裔が平家、源家滅ぼしただけだろう。
頼朝もアレ絶対暗殺だろう。
平家、源家ってただの軍事貴族で、坂東武士団こそ武士だろう
日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府◆
【勝者】源頼朝:清和源氏、藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府◆
【勝者】足利尊氏:清和源氏、三河守護
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→義兼→義氏→のちに足利尊氏
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国幡豆郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱◆
【勝者】細川政元:清和源氏、細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮司)→女子(足利義康(初代足利氏)室)→義清→義実→細川義李(初代細川氏)
・”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆関ヶ原の戦い◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府◆
【勝者】徳川家康:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:清和源氏、本貫地/三河国加茂郡松平 金を売って銭を買うって、両替かよと思ったことがあった >>246
今度の銅銭は以前の10倍の価値だよ〜って
改鋳を繰り返した歴史があるので
日本の貨幣は信用無かったんだろうな。 >>249
してたね。
だから、呪うような心残りは無いだろうね。 平将門は、源護の系譜まで親筋に疎まれ消させてるからね。
存在しなかった事にされてる。 嵯峨源氏の融筋とか言われてるけど、案外、清和源氏の出だったりしそうW 家に古い家系図(1700年位から)があるけど、それの最初に
多田家嫡流末葉 とか 信п@とか書いてあるけど、よく分からない。
ちなみに苗字は多田ではない。 >>253
多田家嫡流の分家って事で、姓が又、そこから、枝分れしてるから、どんどん、苗字が増えて行ったんだ。 源氏は滅ばなくても清盛がもう少し生きていたなら西国を治める武家政権となっていた可能性はあると思う
西国:平氏、京:院・朝廷、東国:源氏、奥州:奥州藤原
のような勢力配置になっていたと思う
>>80
確かに足利からは平家が感じられるな
特に義満からは 清盛存命中に富士川から逃げ帰り、死後は木曽に芸術的大敗
清盛が生きようが死のうが、遅かれ早かれ消えゆく運命 私は八幡太郎義国流(河内源氏)の石原家ですが、若しも、そういう事になったら河内国で細々と土いじりや軍事訓練をしていたと思います。 院政なるものがなぜ始まったのか、長らくその理由は不鮮明だったのですが、最近注目されているのが日宋貿易との関連です。
かくして、対中貿易を通じて宋銭をどんどん日本国内に流入させ、農業と物々交換に立脚した古代経済を一新し、
かつ荘園性に立脚した既存の貴族から実権を奪い取っていく。この、科挙以外の貨幣経済の部分で、
宋朝中国のしくみを日本に導入しようとした革新勢力が、後白河法皇と平清盛の強力タッグ、西日本中心の平氏政権であったということになります。
ところが、こういう市場経済中心の「グローバリズム」に反動が伴うのは今も昔も同じで、猛反発したのが荘園経済のアガリで食っていた
貴族や寺社の既得権益勢力(権門)と、国際競争に適した主要産品がなく、没落必至の関東地方の坂東武者たちでした。
この守旧派貴族と田舎侍の二大保守勢力が手を組んで、平家一門を瀬戸内海に叩き落し、難癖をつけて奥州藤原氏も攻め滅ぼし、
平氏政権下では使用が公認されかけていた宋銭をふたたび禁止して物々交換に戻し、平家に押収されていた荘園公領を
元の持ち主に返す代わりに、自分たちも「地頭」を送り込んで農作物のピンハネに一枚噛ませてもらう
―かように荘園制に依拠する諸権門に雇われた、よくいってボディガード、悪くいえば利権屋ヤクザ集団が源氏であり、
彼らの築いた「反グローバル化政権」こそが鎌倉幕府だったわけです。
(與那覇潤『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』) NHKの大河ドラマもよく分からないバカだから源平合戦のイメージが全然わかりません。
もともと関東は源氏より平氏が有力だったわけでしょう?
時代はさかのぼるが平将門なんて今でも関東で人気のある武将だし。
NHKドラマでは平氏がついに滅亡したと大喜びで叫んでいる政子の北条氏は
平氏を名乗っていたわけだし。
源氏対平氏の対決なら平氏につけばいいじゃないかと思うんだけど
関東平氏はいったい何をしてたんだ? 源氏対平氏という捉え方がそもそも間違っていると思う。
たまたまトップが源氏と平家だっただけなのでは。 関東だけじゃなく九州でも源氏は勢力が強かったですよね。
源為朝は鎮西八郎だし。
とすると源平対決は東西対決とも言えない。
清盛一門は公家みたく荘園から搾取したり日宋貿易で富を得たりして都会的
だけど地べたを血みどろで取り合ってた地方武士には人気なかったんだな。 坂東平氏は冷や飯を食わされてたから、親戚の清盛流に不満だったんだよ。
>>1
もしも何も北条は関東平氏だし義朝流源氏は滅ぼしているよ 数学的に言えば
平家⊂平氏
だろ。平時忠も含めて清盛に連なる一族を言うんでないの? >>41
源季貞(飯富季貞)
清和源氏(甲斐源氏)の一族でありながら平家の侍大将
平清盛の側近でもあり、平盛澄とともに石川源氏を壊滅させるなど
壇ノ浦の戦いで捕虜となるまで第一線で戦った。
子孫に武田二十四将の飯富虎昌がいる。
あまり知られてない人物だけどもっとドラマとかでも
とりあげてもらいたい。 物理的にありえないな。
派兵力、物資、規模が桁違いだった。
もう普通に采配以前にかてないんだよ。
また平家領は
九州隼人、北部欧州、東部坂東
に囲まれた、地で、簡単に再度からつぶせるんだ。 >>271
それは「平家は源氏を滅ぼせたか?」だろう。 >>273
徳川は徳阿弥の時代に家も土地もなく
放浪する乞食僧になっていたという設定なんだろ 義経がいなければ平家は西国の一勢力として存続していたかもしれない
それほどまでに義経はチートだった
義経は政治的センスが皆無だったのが命取りになってしまった 義経が居なかったら義仲と鎌倉は敵対しないし
義仲が平氏やっつけるだろ >>276
義経じゃなくても頼朝には範頼とかほかの弟たちがいるじゃん 高麗の崔氏執権政権と似て異なるか。やっぱり元寇に対応できず? >>259
石原都知事は、平氏方と聞いていたのですが・・ >>273
家康の父は、多田嫡流大河内氏だからね。 >>269
安倍晋三の祖先の平貞盛って、平氏系譜に載っていない・・
平氏の誰流? 足利義清 (矢田判官代)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E6%B8%85_%28%E7%9F%A2%E7%94%B0%E5%88%A4%E5%AE%98%E4%BB%A3%29
>なお、矢田庄、矢田御厨、矢田郡などの呼称の所領は当時足利氏の所領に存在していないと言われており、矢田判官代なる義清の通称は誤りであり、根本所領の梁田判官代とされるのが正しいと思われる。
↑
まちがい
三河 矢田郷前城(愛知県西尾市)
http://www.geocities.jp/shiro20051212/Yada-Gomae-jo.html
矢田郷後城(愛知県西尾市)
http://www.geocities.jp/shiro20051212/Yada-Goushiro-jo.html
矢田熊子城(愛知県西尾市)
http://www.geocities.jp/shiro20051212/Yada-Kumako-jo.html
>足利一門の矢田判官義清、義実が居住した地と云う
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den056.htm
>「高階系図」には、高惟長(こうのこれなが)・惟信(これのぶ)兄弟が義清に従いこの戦いで討死したことを記している。
寺津八幡社(愛知県西尾市)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E6%B4%A5%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A4%BE
>建久年間(1190年 - 1199年)に大河内氏の初代、顕綱(あきつな)によって創建されたと伝えられる
何故、初代大河内氏の大河内氏顕綱が三河に逃げてきたか
三河国菅生郷(現在の岡崎城周辺、地頭職は足利義兼と推定)の郷司だった高階惟長
三河国矢田郷を本拠とした足利義清
源頼政の同盟者であった足利義清と足利義清と行動をともにした高階惟長からみだったんだね
大河内氏顕綱が、矢田郷と目と鼻の先にある寺津の地に寺津八幡社を建てたのも、矢田義清が関係している
平家政権の元寇対策が見たい。
あ、北条執権は平氏か? 平家は自由貿易推進派だから
戦争自体やらないんじゃないか まったく関係ない。
平家の織田信長でも、比叡山、一向一揆の抹殺でも変わらない、神社寺院の既得権かw
現代も日蓮、比叡山、公明、幸福、統一、アーレフらの変態宗教。 >>281
荒川義広の子供って家康妹市場姫の子供? >>290
市場姫(家康の異母妹)は永禄4年に荒川義広に嫁いだが
永禄6年には夫義広が兄家康を裏切ったため離縁となっている
義広の子は市場姫の子じゃないんじゃなかったか
ちなみに市場姫はその後別の大名と再婚している 源義兼の年表
1153年、父:源義康、母(源頼朝の母と姉妹):藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の娘(実父は藤原季範の長男:藤原範忠)の間に生まれる
1155年、母方の祖父(血縁は曾祖父):藤原季範死去、父方の祖父:源義国死去
1157年、父:源義康死去
1159年、姉(血縁上は叔母):由良御前(源頼朝の母)死去
1160年、源義朝暗殺、源頼朝伊豆に配流
1161年、藤原範忠(実の祖父)周防国に配流
母親(頼朝の母と姉妹)の所領(父親からの化粧料)である三河国額田郡乙見に、異母兄弟2人(源義清、源義長)と共に移り住み、三河の藤姓熱田大宮司家の庇護を受ける
1167〜1168年頃、八条院蔵人、三河国碧海郡碧海庄(三条女御領)の庄司に任じられる(碧海庄司時代、熱田神宮祭典の大宮司代理に補された)
異母兄の源義清(細川氏・山名氏の祖、室に新田義重の娘)は、三河国幡豆郡矢田(皇嘉門院(崇徳天皇中宮)領)に拠を構え、矢田義清(矢田判官代)と称する
1174年、三河国碧海郡碧海庄で長男、源義純(源姓畠山氏の祖、新田義重が養育)が生まれる(その所縁か、室町時代に畠山氏流和田氏が碧海地域の奉公衆になる)
1176年、三河国碧海郡碧海庄で次男 源義助(桃井氏の祖)が生まれる
1180年、以仁王挙兵、源義清(矢田義清)、源義長、源義兼は三河国から参戦、義清と義長は源頼政(頼政死後は木曽義仲)と、義兼は源頼朝と行動を共にする
1181年、北条時政の娘を正室に迎える
1183年、異母弟2人源義清(矢田義清)と源義長は、水島の戦いで戦死
1184年、源範頼(後に三河守)軍の一員として九州平定
1185年、上総介に推挙される
1187〜1190年頃、三河国碧海郡碧海庄内に薬師寺を建立(義純、義助の母である白拍子を菩提)、三河国額田郡乙見の真福寺に法華堂建立(母親を菩提)
1189年、源頼朝軍の一員として奥州合戦に従軍、嫡男足利義氏(後に足利氏として初めて三河守護)誕生
1195年、東大寺で出家
1199年、死去
アフリカにも源氏一族が
http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0202/3/123.html
ボンゴのような小国の大統領さえ、「源氏」だ。
独立記念日は、源頼朝が伊豆で挙兵した日付に合わせている。
(仮説を含む) 藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)の年表
1090年、父:藤原季範(三河四郎、季範と三河に住みながら尾張目代)、母:松御前(尾張員職の娘)の間に生まれる
1101年、父:藤原季兼死去
1114年、神のお告げで熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
1130年、母:松御前三河国設楽郡稲木で死去(新城市城ヶ峰の山頂に墓あり)
1137年、神のお告げで大宮司職を息の範雅に譲る
1140年、夫妻で菩提寺である滝山寺(三河国額田郡)内に蓮華寺建立
1145〜1150年、娘(幼女):由良御前が源義朝の室になる
1147年、娘(養女):由良御前が源頼朝を産む(生誕地は京都もしくは三河)
1151年、長男の藤原範忠、菩提寺である滝山寺の本堂を再建(滝山寺として2度目、3度目は足利義氏、4度目は足利義満)
1155年、死去
藤原季範(額田冠者、初代藤姓熱田大宮司)の年表
1090年、父:藤原季範(三河四郎、季範と三河に住みながら尾張目代を務める(尾張守は父親の従兄弟の藤原資良))、母:松御前(尾張員職の娘)の間に生まれる
藤原保相(三河国司、碧海郡志貴荘立券)→藤原資良(尾張国司)
藤原能通→藤原実範(三河国司)→藤原季兼→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)
1101年、父:藤原季兼死去
1114年、神のお告げで熱田大宮司となる(大宮司職の簒奪)
1130年、母:松御前、三河国設楽郡稲木で死去(新城市城ヶ峰の山頂に墓あり)
1137年、神のお告げで大宮司職を五男の範雅に譲る
1140年、夫妻で菩提寺である滝山寺(三河国額田郡)内に蓮華寺建立
1145〜1146年、娘:由良御前が源義朝の室になる
1147年、娘:由良御前が源頼朝を産む(生誕地は京都もしくは三河)
1150〜1152年、娘(養女、実父は長男の藤原範忠)が源養康(足利義康)の室になる
1151年、長男の藤原範忠、菩提寺である滝山寺の本堂を再建(滝山寺として2度目、3度目は足利義氏、4度目は足利義満)
1153年、娘(養女、実父は長男の藤原範忠)が源義兼(足利義兼)を産む
1155年、死去
源範頼(蒲冠者、三河守)の年表
1150年、父:源義朝、母:池田宿の遊女の間に産まれる
藤姓大宮司一族が養育、藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の弟(勘解由丞季成(藤原季成))が宮司を務める蒲神明宮(遠江国蒲村)で養育され、蒲冠者と呼ばれる
乳母父は当麻貞稔(勘解由丞季成の息)夫妻、息に吾妻鏡に出てくる当麻太郎
1159年、父:源義朝暗殺、源頼朝伊豆に配流
1161年頃、藤原範季(藤原季範の従兄弟の息)が養父になる
1180年、以仁王挙兵、遠江の甲斐源氏と行動を共にする
1183年、野木宮合戦に援軍
1184年、木曽義仲追悼軍の大将として、宇治瀬田の戦い、一ノ谷の戦い
1184年、三河守に推挙される、本拠を形原城(三河国宝飯郡形原)に構える
1184、九州進軍の大将として九州平定
1185〜1187年、安達盛長の娘(吉祥子、母親は丹後内侍)を室に迎える
1185〜90年、上地八幡宮(三河国額田郡上地)創建、茂松城(三河国宝飯郡茂松)築城1193年、伊豆に幽閉、暗殺される
源範頼(蒲冠者、三河守)の年表
1150年、父:源義朝、母:池田宿の遊女の間に産まれる
・藤姓大宮司一族が密かに京都で養育
・その後、藤原季範(初代藤姓熱田大宮司)の弟(勘解由丞季成(藤原季成))が宮司を務める蒲神明宮(遠江国蒲村、蒲御厨)で養育され、蒲冠者と呼ばれる
・乳母父は当麻貞稔(勘解由丞季成の息)夫妻、息に吾妻鏡に出てくる当麻太郎
1159年、父:源義朝暗殺、源頼朝伊豆に配流
1161年頃、藤原範季(藤原季範の従兄弟の孫)が養父になる
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→娘→源頼政→源広綱
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→由良御前→源頼朝
1180年、以仁王挙兵、遠江の甲斐源氏と行動を共にする
1183年、野木宮合戦に援軍
1184年、木曽義仲追討軍の大将として、宇治瀬田の戦い、一ノ谷の戦い
1184年、三河守に推挙される、本拠を形原城(三河国宝飯郡形原)に構える
1184、九州進軍の大将として九州平定
1185〜1187年、吉祥子(安達盛長(三河国小野田荘地頭、後に三河守護)と丹後内侍の娘)を室にする
1185〜90年、上地八幡宮(三河国額田郡上地)創建、茂松城(三河国宝飯郡茂松)築城
1193年、伊豆に幽閉、暗殺される
鎌倉殿がいなくても東国で反乱起きて平氏政権が滅亡するのは時間の問題でしょ?
源氏=義朝系だろうが義朝系以外の源氏も東国で元気だしね。 平重盛
∧,,∧
r( ´n 平清宗
./ > ,/ ∧,,∧
関東武士だあーーーーっ > 〜'oー、_) r( n)
.> `/ く_
逃げろーーーーーーっ! .> 〜'し -一┘
.> ∧,,∧
/∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨∨\ ( ´・ω)
〜、/ っっ
∧,,∧ └ー-、ぅ
r、´・ω・)) 平宗盛
∧ ,,∧ > _/´
n__n (´・ω・`) 〜'し-一┘
∧,, ∧ノ c' っ 平盛嗣
c('・ω・`)っ 〜(_,'ーo'
平維盛 伊藤景清 渡辺氏さん、
皇子から臣籍降下して源氏を賜った源融(とおる。光源氏のモデルとも)の孫、源綱が淀川下流域の水運を掌握して盤踞していた渡来系豪族の母方の利権を継承して渡辺を名乗り渡辺綱と号した云々。
の生粋の源氏。
ワタ/ハタは海。ナは国、領域、所領等。ベは民。
=海部族 ああん?源氏の末裔の俺が消えるだろーが。ばーか、ばーか。 もし、平家が広く人材登用システムを構築出来れば
アジア地域に通商王国を築く事すら可能だったとは思うが 平家じゃなくても人だよ〜 って言っておくべきだったわけだな 現代日本語の「人」とニュアンスが違うからなぁ
時忠「平家じゃなくとも朝廷で取り立てるよ」
とか言っちゃうと、これはこれで反発受けるわけだし 通商が活発になって富が増えて行けば分配に与る者も増えて不満も少なくなるって
吸い上げるばかりだから反乱も起きる訳で、平家の中にも上手く考えてやる奴も出て来るよ >>313
通商活発化して貿易赤字のリスクはないのか?
また、一旦通商が走り出すと経済が平家の手に負えなくなるかも。
経済支配するのは博多在住の宋商人と
意外と経済に明るい寺院だと思う。 >>314
物々交換のようなもんだから、そもそも貿易赤字というものが存在しないと思う。 >>317
平安末期に通行税だの関税だのがあったっけ? >>317
それから、平安時代に商売を専門にやっている人って日本人にいたっけ?
市はあったけど各個人の直接取引がメインだし
寺社が座の走りみたいなもんをやってたけど
生産者が余剰品を空き時間に売りにくるというレベルだぞ。 >>318
「中間搾取」と言えば理解出来るか?
>>319
実力者が貿易を行っていただろう。
それを商人と呼ぶかは微妙だが、
市で直接取引をしてたとしても、それが本業であるならそれは「商人」と呼ばれる類の者だろう。 >>320
だ、か、ら、
その「中間搾取」が行われた実態が平安末期にあったのか?てこと。
具体例をあげてほしい。 >>320
> >>319
> 市で直接取引をしてたとしても、それが本業であるならそれは「商人」と呼ばれる類の者だろう。
だからその取引すれのが本業な人は平安時代にはいなかったという話をしたんだけど。 関税が無けりゃどうやって平家は食ってたんだよ・・・
まぁローン会社とかもやってたみたいだが。 >>323
おもな収入源は荘園、国司収入、知行国主収入。
それより、平安時代に関税が徴収されていたことを示す史料出してよ。 >>323
ついでにローン会社やってた史料もよろしく。 >>326
このリンクじゃどれみりゃいいのかわかりくにいなあ。
もう少しわかりやすく貼ってくださいまし。 源氏を滅ぼしたとしても跡継ぎが宗盛じゃな…
後鳥羽にいいように操られただろう。 ナムコの源平討魔伝と言う名作ゲームが生まれなかった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています