院政について語ろう
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華族や、僧侶階級じゃないと話にならないわけ。
最高神官と 最高法官どちら?みたいな。 近代以前に家格が半家とか地下家で終わった公家や官人は、平成院政で近臣として
召されることで、家格を上げるチャンスになるかも知れない。
久しぶりの院政に期待したい。 そもそも、代表権と実権が同一人物にあると何が問題になるのやら。トップが実権のないお飾りなんて世界では通用しないというのに。 おまえのレス おもろない
自分ではおもろいと思ってるんやろうけど >>522
そもそも日本国憲法に上皇に関する定めはないから、上皇は日本国憲法を
超越した存在となり得る。
また、憲法に反する「詔勅」を排除する定めはあるが、「院宣」を排除する
定めもない。
平成院政の開始は、憲法を乗り越えて、戦後体制を終焉させる端緒となる。 >>524
そんなことしてる意思も体力も寿命も無し >>524
憲法に院宣の規定そのものがないのだから
院宣を出されても国民に実行義務がない
自主的に院宣に従うのはお前ぐらい 近代以前、律令には上皇に関する規定、院宣に関する規定はなかった。
だが、実際には院宣はその効果を発揮していた事実がある。
院宣に従う人もいれば、従わない人もいた。
だから、今の世の中において、院宣が出されたとしても、一定の効果があるかも
知れない。 >>528
法的には全く効力の無い筈の「おことば」で退位規定が一気に出来上がったけどな。 >>532
天皇の退位に関する条項は皇室典範の変更のみで対応できる
日本国憲法に何の影響もないし
上皇は日本国憲法を超越した存在にはなりえない 禁裏様と上皇様が並んでる姿を見たのは
後花園上皇と後土御門天皇が最後かな
あくまで禁裏様が一段高いところにいる >>534
> あくまで禁裏様が一段高いところにいる
やっぱりそうなのか >>533
まあそうなんだけど「上皇は天皇じゃねえ! これからは国政のこと,俺の言いたいこと全部喋ってやるぜ」なんて上皇が現れたらどうなるんだろうね。
>>536
だから国民に上皇の命令に従う義務がない
日本国憲法で国民主権が明記されている 従う義務はないが従う自由はある
そして上皇の政治的発言や行動を制約する規定が無いので「院宣」に基づいた決定を行う政党や内閣が現れても止めることはできない >>538
お前は平成上皇の院宣に従えばいいよw
従うも従わないも国民の自由 法的な話と社会学的な話は別でな。
たとえば国会議員は憲法上は全国民の代表だが,実際には地域代表としての役割を多分に期待されてる。
別に薄汚い利権の話でなくても,地域振興や災害復旧のような正当な利益に関しても国会議員は大きな役割を果たす。
それと同じで,上皇が国政に関する見解や希望を述べて,国政に全く反映しないかといえば,多分かなり反映する。 おまえらみたいな名もなきクズにいちいち院宣が下るわけないだろw >>540
それはお前が国会議員になってから
俺は平成上皇の意見に賛同する、と言おうな >>546
信長や秀吉は独裁者だったわけだが。
足利義満や足利義教もそうだろ。 天皇は憲法の規定や宮中祭祀、国事行為などに束縛される。
譲位して上皇になれば、それらの束縛から自由になり、近臣も自由にお選びに
なることができる。
治天の君として主上を超えるお力を発揮されるのではないか。 >>548
秀吉くらいじゃないのか独裁者は
その秀吉にしても外様大名には気を使いまくってるし
あえて言うなら徳川家斉くらいかな日本の独裁者は
まああまり政治に興味なかったみたいだから
そこまで独裁だったわけでもないが 天台座主の方がいい仕事じゃないの?関白摂政くらいより。増上寺別当とか。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
CLQ >>550
いくら自由な立場になっても近臣を選ぶため、自らの組織を運営するため、
政府を圧倒する発言権を保持するための財力がなければどうにもならぬ。
退位後の院政どうのこうのという議論で多くの人に欠落している視点、
それが上皇としての財力。
国家財政に匹敵する財力を与えられるのか? >>551
徳川家斉は独裁者じゃないよ
江戸幕府は家康の子孫による血統主義のため
将軍が幼児でも馬鹿でも将軍が務まるように官僚政治になっている
将軍といえども独裁はできない
というか家斉は歴代将軍の中でも政治にやる気なかったほう
吉宗とかは独裁できない制度の中でも老中たちと協力して改革しようとしたからな 上皇后だの上皇職だの皇嗣だのアベの俺流なのか官邸の事務屋が考えたのか知らんが、
平成上皇関連のネーミングにはやっぱり違和感あるな。
皇太后、院庁、皇太弟でいいのにな。 退位の礼というのも安直で味も素っ気もない
譲国の儀でいいのに 国の象徴であり主権者たる国民の統合の象徴なので問題なし
象徴している国を譲ると解釈すればよい >>567
歴史的に退位の礼も譲国の儀も行われたことはない
即位する側は即位の礼があるが
退位する側は三種の神器を引き渡すだけだからな
そもそもやる必要があるのか 践祚の礼が「退位の礼」なるものを兼ねるものだと思うが >>574
践祚って三種の神器が次の天皇のところへ運ばれるだけ
そもそも前の天皇が亡くなっていることも多いため
前の天皇が践祚の礼なるものを行うことはない >>573
その2冊、今日買ってきた。
どっち先に読むのがいいかな? 倉山さんは嫌いじゃないが
歴史に口挟むのはやめてもらいたい
史料読めないくせにいちゃもんつける井沢二世やんけ
戦後政治の話だけしてたらいいよ >>581
逆のパターンもあるね。
名前忘れたけど、戦国時代の室町幕府の本で、ケネス・ウォルツとか国際関係論の話をちょいちょい挟む人。
しかもその国際関係論の理解が、20年前の議論だったりする。 >>573 >>577
その2冊、2回ずつ読み終えた。
一言でいうと、倉山本は上皇史、本郷本は上皇論。
なるほど!という記載が多いのは本郷本。 妄想も大概にせいよ。
体力の限界を理由に引退するんだから、あり得ない話をするな。 平成上皇になって今の男系3人が急死したら、女系をたてて院政を? 病院 も院の一つぐらいのぽじょションだから 院政 上皇 の時代に陰りがない事を望みます。 額田王や中大兄王の先師の時代から歴史は進んでいません。後退をとっています。 新院が治天の君として、どのような院政をされるか、今から楽しみだ
院近臣にどんな人を選ばれるかがカギになると思う 院庁に文官を置くのは当然だが、北面の武士を配備するのも大切だな
忠勇無双の烈士は郎党を率いて北面に馳せ参じてほしい 田母神さんか一色さんを検非違使に任命して、北面の武士を統括させるべきだな 独自の税を創設。
憲法外の制度なので国会の議決は不要。 荘園を持っておけばいいんじゃないの?
上皇の直轄領に住める住民はうれしいだろうし、ふるさと納税も集中するだろう
長講堂領を復活するところから始めてほしい 院政期以前の上皇となればマンガなどで最近注目の平成上皇
相当な気分屋だったらしく悪女とされる薬子もむしろ振り回せた方だったりして >>598
ふるさと納税は、上皇の所領にしたいな
返礼品として、上皇から下賜品が届くとうれしい 荘園あっての院政
白河院の時代はまだ本格的ではなかったようだが >>604
堀河天皇はいい人、鳥羽天皇は幼児
自然、白河院に権力が集中
院政の話で欠落しがちなのが荘園の件。
後三條天皇は藤原摂関家の外戚がいなかったから権力を取り戻したと言われるが
それならその後の天皇家は再び摂関家の外戚がいるのになぜ権力の中核にいられたのか。 >>3
足利義満が南北朝を合体させた後でも、まだ蒸し返されてたからな 平成上皇が、私兵集団を雇ったら要注意だ
院政が始まる恐れがある >>465
両統迭立ってのは、「後深草と亀山のどっちが天皇になるか」でモメたんじゃなくて、「どっちが院政をやるか」でモメたんだな? 後嵯峨上皇には、後深草天皇の他にも皇子がいました。
その皇子は、後深草の弟に当たります。
上皇は、兄の後深草よりも弟の皇子を可愛がっていました。
そして、上皇は、弟の皇子があまりにも可愛かったため、後深草を17歳で退位させ、11歳の弟の皇子を帝位につけます。
これが、亀山天皇です。
兄の後深草は、おとなしい性格だったため、父の強引なやり方に反対することができず、言われるがまま弟に譲位したのでした。
その後、後嵯峨は、次の天皇になる皇太子を後深草の皇子ではなく、亀山の皇子にすることを決めました。
さすがにおとなしい後深草もこれには怒ったそうです。 後深草上皇が一番怒ったのは、亀山上皇が八條院領を確保したからじゃないの?
これで院領荘園が統合されると思ったのが水の泡に・・・ 後には亀山も晩年の末っ子に執着して大覚寺統を混乱させる 荘園を2つに分けたから、君主が2人になったわけだな
一種の領邦国家だ 院政といっても病院もその一つだぐらいに束ねてほしいけど。平成天皇美智子。 いや、いや、 皇室と上皇の関係?
株式会社の倫理でもなきゃ 会長残したら社長って、弱いだろ?
日本の場合? 平成以降なら、東亜に利用されないなら、無関係ではないのかな? >>614
白河・鳥羽・八条院と、後白河上皇が別途かき集めたのと初めから2系統あったのだが 白河と後白河という、2人の強力な実力天皇が、荘園に2つの系統を作ってしまったんだな 実力天皇は、後三條天皇のあとは後醍醐天皇になってしまうんだな 白河上皇−鳥羽上皇−後白河上皇の三代、約100年にわたって上皇が政治の実権を握っていた時期を「院政期」と呼んでいます。
この院政期には、武家が力をたくわえて都では保元の乱・平治の乱が起こり、やがて平家一門が武家政治への扉を開いてゆきます。
そのいきさつは、大河ドラマ『平清盛』で描かれたとおりですね 狭義の「院政期」とされるのは、白河−鳥羽−後白河の三代のみ 荘園整理を大々的に行ったのが、後三条天皇(在位1068〜72)という人でした。
後三条天皇の荘園整理令は、かなりの成果をあげましたが、わずか4年で息子に位を譲りました。 こうして、1072年(延久4)に即位したのが白河天皇でした。
白河天皇は、国庫収入が減って天皇家の力が衰えるという問題に、父の後三条とは間逆の解決策で挑みました。
天皇家が私有財産をもつための、法の抜け穴を見つけたのです。
天皇を引退して上皇になってしまえば、政治的にはフリーです。
そのフリーの立場を利用して、利権をかき集めることにしました。
方法はいくつかありますが、一番手っとり早いのは、寺を建てることです。
引退して政治的にフリーとなった上皇が、個人の信心で寺を建てるのは自由。
その寺に荘園を持たせればよいわけです。
早い話、宗教法人を隠れ蓑にした蓄財のようなものですね。
さらに、上皇が出家して法皇となれば、寺を建てても誰にも文句は言われません。 なんで天皇をさっさと引退しなきゃならんのかというと、「天皇は荘園を持てないから」というのが最大の理由
上皇になって寺を持ち、その寺に荘園を持たせるというのが院政システム >>621 >>622
その院政期には後鳥羽上皇も含まれるんじゃないの? >>627
んにゃ、1086年の院政開始から、1185年の平家滅亡まで
後鳥羽は入ってない 後鳥羽上皇の時代は、「院政期」じゃなくて「鎌倉時代」なんじゃないかな?
後鳥羽はその3人をも凌ぐ強烈な個性だけど、それとこれとは別問題 院政3人衆の中でも、印象が薄いのが鳥羽上皇
第72代白河天皇(白河上皇・白河法皇)から始まったこの系統は、次に第74代鳥羽上皇へと引き継がれました。
その前の第73代堀河天皇はお体が弱く、29才で在位中に崩御しており、一代飛んで院政が継承されたのです。 白河上皇はひ孫である崇徳天皇の即位を異様に急がせました。
崇徳天皇が4歳のとき、鳥羽天皇から譲位させてしまったのです。
息子である鳥羽上皇は、絶大な権力を持っていた白河法皇に逆らいきれません。
問題は、白河法皇が崩御してから表面化します。
この時点で崇徳天皇はまだ10歳なので、実父である鳥羽上皇が院政を引き継ぎました。
やっと好きに政治へ取り組めるようになった鳥羽上皇は、白河法皇の方針を否定するような動きを見せ始めます。
そして近衛天皇に皇位を継がせるため、鳥羽上皇は崇徳天皇を強引に譲位させています。
このとき、近衛天皇は2歳。とんでもない年齢で即位しておりますね。 そして近衛天皇が現職のまま16歳の若さで崩御すると、今度はその異母兄にあたる雅仁親王(後白河天皇)を皇位につけさせます。
一方、近衛天皇の前の天皇だった崇徳上皇は、我が子である重仁親王の立太子を夢見ていました。
病によって保元元年(1156年)に鳥羽法皇が崩御すると、崇徳上皇の不満が噴出。
それが保元の乱の要因の一つとなり、歴史に大きな動きをもたらすのです。 院政期の百年は、日本史上でも屈指の激動の時代だった
白河−鳥羽−後白河の3大実力上皇のカゲに隠れた崇徳上皇の鬱憤がバクハツ
保元の乱こそ、武士の世の始まり この鳥羽−崇徳の争いこそ、そもそもの混乱原因と言えるだろう >>632
>崇徳上皇は、我が子である重仁親王の立太子を夢見ていました。
ちょっと違う。
重仁親王を天皇にして院政を敷き院領荘園主となることを夢見ていたのだ。 母系にあたる天皇の外祖父の地位を占めた藤原北家が天皇の職務・権利を代理・代行する摂関政治が隆盛していく。
だが、治暦4年(1068年)の後三条天皇の即位はその状況に大きな変化をもたらした。
平安時代を通じて皇位継承の安定が大きな政治課題とされており、皇統を一条天皇系へ統一するという流れの中で、後三条天皇が即位することとなった。
後三条天皇は、宇多天皇以来藤原北家(摂関家)を外戚に持たない170年ぶりの天皇であり、外戚の地位を権力の源泉としていた摂関政治がここに揺らぎ始めることとなる。 もしも後三条天皇が早死にしなかったら、院政は白河ではなく、後三条から始まっていただろう 平成を終えると院政が久しぶりに始まるから楽しみだね。 昔は戦争しながら上皇になって政治してたみたいだよ。現代も上皇側に
誰かがついて、天皇側と対峙、騒げや飲めやでどんちゃん騒ぎもいいなあ。
病院程度より平成院のほうがよろしいように思いますが。 そもそも、院政ってのは、武士の力をバックにして貴族を抑える政治だからなあ 武士ももちろんだが、下級の公家も文官として院庁に出仕した
今回、平成院政が始まれば、官庁で出世できなくて早期退官した元官僚や、落選した
元議員などが出仕すればいいと思う
警察、自衛隊OBや元警備員が出仕して北面の武士になればいい 「俺たちゃ北面の武士だ! 怪しい奴め! 上皇様になんの用だ!?」
って、いかにも少年マンガに出てきそうな状況だな >>642
院政ってのは、院領荘園の経営に付随する政治 天皇は荘園を持てない
それが、譲位して上皇になる最大の理由 平安初期の嵯峨上皇は、譲位してからも絶大な権力を振るったが、院政とは言われない >>644
んで何の仕事やるの?
誰が給料出すの?
原資は?
法的根拠は?
どういう法人格? >>652
文書の発給とか院庁の警護とか、文官も武士もやることは多くあるよ
上皇の所領から上がる税収が財源となる
院政は律令にも憲法にも規定がないから、法的根拠がなくてもできるところがポイントだ
院宣は実定法以上に権威を持つ 院宣は従わない人もいて、反逆者に返り討ちにあうこともある
だが、院宣の威力が勝れば、政府の法令を上回ることもある >652は>644のいう「平成院政」に対しての疑問なのだが 左翼や朝鮮人は、平成院が安倍首相と対立していると信じている
彼らは、「憲法を変えるな」というような院宣が発せられることを期待している
これは冗談ではなく、真顔でそう言い出す奴がよくいる 天皇が「憲法を変えるな」と発言したら憲法違反だが、上皇なら違反とは言えまい
政治の実権はなくても、精神的な権威がある
左翼は勢いづき、右翼は意気消沈するだろう 左翼には、「君側の奸・アベを討て」という気運が盛り上がってくる
最近はちょっと下火になったが、ひところは左翼と朝鮮人がそれを大合唱しはじめて、危ない雰囲気になりかけた 最近の左翼は、「移民を入れるな」、「ロシアから北方領土を取り返せ」、「アベの弱腰外交」と騒がしい
もう、左翼なのか右翼なのか、わからなくなってきた わりとまじで讃岐典侍日記の藤原長子が堀河天皇亡き後、鳥羽天皇にも仕えたのって、白河上皇が彼女のこと狙ってたんだと思う。
孫の奥さんに手だす人なら、息子の愛妾にも目つけるでしょ。後年藤原長子が狂乱して白河上皇が参内を取りやめさせたのも闇深い。 孫の奥さんに手出すってより愛人を孫の嫁にしたんだよな。
その後も関係続いてるから同じことだけど。 孫と孫の嫁(愛人)と自分で5回熊野旅行にも行ってる。 >夫妻のことにおきては、この世のみならぬことなれば、力なし。
それも、髪をつけて好色の家に名を残しなどせむ事は、返す返す憂かるべし。
ただ世を捨てて後は、いかなるわざも苦しからぬ事なり”
後深草院二条の父の遺言だが、当時の公家社会の価値観では
出家後の方が好き勝手できる認識だったらしい。 補足 当時→鎌倉院政期当時
源氏なんかだと出家後は行い澄ましてみたいな感じだけどな。
やっぱり白河以降かな、出家してしまえば家名とは関係ない
家名に傷がつかないなら何でもあり的な価値観になって行ったのは。 後鳥羽もアレだけど、乱の時点では出家してなかったな。 >承久三年五月、院はついに北条義時追討の兵を挙げるに至るが(承久の変)、上京した鎌倉軍に敗北、
七月に出家して隠岐に配流された。
負けてすぐ保身で剃髪したがそれで済まずに配流だと思ってた。
配流決まったから都にいるうちに剃髪したのか。 仏教の影響が強かったから病気が重くなって出家して崩御までの
わずかな期間法皇という人は多いけど、土御門もそうだったんだな。
>寛喜3年(1231年)10月に出家し、同月崩御。
「法皇になった天皇」なんてヒットしないからそれぞれググってみなきゃ分からんな。 色々と問題はあったけど、元寇の時はちゃんと祈ってくれた(たぶん)じゃないか!
亀山院 天皇たるもの、子孫を残すことが最大の務め
女好きは、仕事熱心と同義語 競馬の世界で良い種牡馬とされるサンデーサイレンスやディープインパクトは、種付けする日は朝から興奮してブヒーッと騒いで暴れるほどの絶倫 表に出せない子ども量産しても話にならん。
出家させたらその系統は父の後嵯峨みたいなのはレアケースで
跡取りになれないしね。 荘園からの年貢を戦乱の京都に運べなくなっては院政も何もあったもんじゃない その時期は上皇自体いないよね。
天皇の大嘗祭や葬式さえろくにでできず、貧乏に耐えて数十年在位
→崩御で新帝即位が繰り返された時代。
詳しくは「一番可哀想な天皇は誰?」など天皇スレを参照。 後奈良天皇は、御所の門が壊れても、おカネがなくて修繕できなかった
しかし、次の正親町天皇になると、織田信長と水面下で暗闘するほどの力を持つようになる 後土御門天皇のとき、応仁の乱が起きる
後柏原天皇のとき、戦国時代に突入
後土御門から後奈良までの3代が、天皇の歴史における大暗黒時代 織田信長は正親町天皇をミコシとして担ぎ上げ、豊臣秀吉は後陽成天皇を担いだため、皇室は一時的に復興した
しかし、次の後水尾天皇になると、徳川家康との暗闘で再び封じ込まれていく 生前退位によって天皇陛下は「上皇陛下」に、皇后陛下は「上皇后陛下」になられる。
皇室典範によって天皇の終身在位が定められた後、日本で「上皇」が誕生するのは初。
江戸時代の光格天皇(1771-1840、院政期間1817-1840)以来約200年ぶりとなる。 江戸時代の光格上皇だって、京都で院政をやっている
平安時代の白河上皇や鳥羽上皇と違って、全国規模での権力が無かっただけだ 後鳥羽や後嵯峨は「院政時代」とは言われないだけだな
院政であることに変わりはない 後鳥羽も宮中政治で満足してればよかったのにな。
学問もできて相撲など武道も強く歌も上手。
ついつい俺なら討幕で親政もできちゃうと思ったんだろうな。 もともと二条が険悪な父後白河への牽制として立太子即位させたようなものだから。
母の出自も低いし。
中宮腹や平家一門の妃腹なら話が違っただろうけど>六条 >>697
まあ、後鳥羽の頃の鎌倉幕府は、まだホントに始まったばかりだったからな
当の鎌倉武士たち自身が、後鳥羽上皇の権威に圧倒され、戦う前から負けかけていたくらいだ >>697
まあ、後鳥羽の頃の鎌倉幕府は、まだホントに始まったばかりだったからな
当の鎌倉武士たち自身が、後鳥羽上皇の権威に圧倒され、戦う前から負けかけていたくらいだ 後鳥羽は、白河・後白河をも凌ぐ強烈な個性
時代の巡り合わせが悪かった どっちにしろろくでもない。
権威のみで実権取り上げた徳川幕府の政策は正しい。 >>702
後鳥羽は歴代天皇でも個人的能力はトップクラスじゃねえの?
時代と相手が悪かった
北条義時、北条政子、北条泰時、大江広元、後出しじゃんけんだけど喧嘩売ったらいかん連中w
この4人が昭和の政治家だったら日本は敗戦国になってねえだろなあw 承久の乱の敗因は後鳥羽院が院宣の効果を過信してた、という事に尽きるが、現在の我々は結果を知っているから後鳥羽院の戦略ミス・甘さを指摘できるのである。
ちょいと妄想であの時代にタイムスリップしてみて、自分が後鳥羽院だったら、と考えてみる。
関東の武士たちみんなが北条側に付いたのは果たして至極当然のことだったんだろうか?
武士の大半は後鳥羽院と北条を瀬踏みして、北条に賭けたということだろう。
可能性としては京方が勝利する可能性もあったと思う。 あれ上皇が先頭で軍を率いていたら降参することになってたんだっけ。
もちろんそんなことはなく、院の御所に逃げてきた軍を門前払いするという
いかにもダメ公家典型のお粗末さなんだが。
少しは頼長を見習ってたら違ったんだろうな。
ほんと今もそうだが責任取ることを知らない奴に権力持たせちゃダメだよ。 仮に後鳥羽上皇が自ら出馬してきても、
「恐れ多くも上皇の御名を名乗る不届き者め!!討ち取れ!!!」と泰時が鎌倉軍に号令して終わりだよ 大内惟信とか藤原秀康とかそこそこ大物が後鳥羽院側に着いたけど、広がりが持てないのが残念だったな。大内惟義が生きていたら、全く違う展開になったかも知れない。 精神的な権威のパワーってのは大きいからな。
中世人にとってのそれは、現代人の想像を超えるものがある。
関東の武士にとって天皇は、遥か彼方におわします神聖なお方。
戦う前からヒレ伏してしまっても不思議はない。 神聖ローマ帝国の皇帝も、ローマ教皇に破門されたら、圧倒的な軍事力を持っているにもかかわらず敗れることがよくあった 後鳥羽って長講堂領は持ってたろうけど八条院領も持ってたの? 八条院→春華門院昇子内親王→順徳天皇→後高倉院→安嘉門院→亀山院→後宇多院→
昭慶門院憙子内親王→後醍醐天皇
長講堂領
後白河→宣陽門院覲子内親王→後深草天皇(以降持明院統へ) >>706
>武士の大半は後鳥羽院と北条を瀬踏みして、北条に賭けたということだろう。
>可能性としては京方が勝利する可能性もあったと思う。
もちろんそうだよ
だから北条政子と大江広元は攻勢を主張した
それが大正解だった
箱根で迎え撃つとかのんきなことしてたら内側からの裏切り者が出かねないからね 所有権は娘息子だけど行使するのは親(治天の君)だからね。
愛人の白拍子に出身地の荘園ぽんとあげるぐらいだから
他にもいっぱいもってたんだろ。 治天の君は皇室の家長だからその気になったら皇室の誰かに所属の荘園取り上げて別の人間にあげるとかできるからね 大河ドラマの平清盛は藤原摂関家の兄弟争い、崇徳と後白河の兄弟争いが詳細に描かれて良かった。
視聴率は低かったが、個人的にはなかなか面白くて最後まで見た最後の大河ドラマ。
しかし、平忠盛(中井貴一)、白河法皇(伊東四朗)が退場してからは少しつまらなくなった気がする。
最初の2話しか出てないが、白河法皇のインパクトがすごかった。 >>719
平清盛は白河院のラスボス感が半端なかったな
その前の江というお花畑全開大河ドラマとの差 >>718
両統迭立になって、そうもいかなくなっちゃったってことだな >>720
死して尚この世を支配する白河院だったな
特に鳥羽院にとっては >>717-718
大宮院の言で治天になった亀山はなぜ後深草の長講堂領を没収して大覚寺統のものにしなかったのだろう。後嵯峨の処置を尊重したの?それとも幕府の意向が強かった?はたまた西園寺の陰謀? 後深草の抵抗と西園寺実兼の折衝の結果。
>時の関東申次で後深草上皇寄りの西園寺実兼が執権北条時宗と折衝し、
後深草上皇の皇子熈仁親王(伏見天皇)を同年中に立太子させることに成功した。
その後、弘安3年(1280年)頃から後深草上皇方による後宇多天皇退位と
皇太子擁立の動きが強まり、ついに同10年(1287年)10月、伏見天皇即位に伴い
院政を開始した。また正応2年(1289年)10月には第六皇子・久明親王を
鎌倉将軍として下向させ、その後しばらく持明院統に有利な体勢が続いた。 亀山院の系統に王家領荘園群を統一しても子孫で分裂しそうだなw >>723
治天の君は、臣下である摂関家領や寺社領なら没収しようとおもえば出来ないことは無いけど、
同じ階級である皇族・王家領の没収は出来ない。 Q.北面の武士、西面の武士の「北」、「西」って何を意味してるの?
A.北面の武士、西面の武士ともそれぞれ院御所の北側、西側に詰め所があったことが名前の由来となったのです。 北面の武士とは、院御所の北面に詰め、上皇の身辺を警備した武士のことを言います。
なぜ「北面の武士」と呼ばれるのかというと、北面の武士の本拠地が上皇の住まいの北側に位置していたからです。
北面の武士は11世紀末に白河法皇が院の直轄軍として、寺社の強訴に対応するために創設したものです。 西面の武士とは鎌倉時代に院御所の西面に詰め、上皇の身辺警護を行った武士です。
北面の武士の名前の由来同様、こちらも院御所の西側に本拠地があったことから「西面の武士」と呼ばれるようになりました。
西面の武士は、1200年頃、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の軍事力に対抗して結成したものです まさか現代において院政が始まる様子を生でみられるとは感無量
とりあえず平成院の院宣第一号は安倍夫妻に見捨てられた籠池夫妻への恩赦令とみた 平成院の院御所はどこになるのかな?
まさかの京都だったら面白いんだが 現在の赤坂御所を仙洞御所としてお移りになるらしいね
敷地が広いから、北面の武士の詰所や番所も設営しやすい いずれは赤坂だけどとりあえずは高輪皇族邸(元高松宮邸)だよ。 >>738
院政にしても、江戸幕府の大御所・徳川家斉公にしても、「退位した元・君主のほうが偉い」という感覚は日本独特で、欧州でも中国でもそんなことはない。
どんな訳語を選ぼうとも、「上皇」の語感を外人に伝えるのは無理。 >>739
創業者のビルゲイツが社長を辞めても、会社の実権を握っているという状況なので、
同じく江戸幕府創業者の徳川家康の大御所政治は理解されやすい でもビルゲイツも家康も創業者だからなあ。
上皇はあくまで継承者の一人だから。
外国王室じゃ近年まで特殊な例は除いて生前退位自体なかったから
分からないだろうな。それも当然のように引退した父が権力ふるうなんて。 >>740
だから後醍醐って終身天皇で親政にこだわってたの?朱子学かぶれだったんだろ。 >>743
そう言われてるけどな
宋の皇帝専制を模範とし、征夷大将軍はもちろん、上皇や摂政関白を置くのも嫌がった 護良親王「あの…。」
建武新政では光厳院は太上天皇扱いじゃなかった? >>743
というより院政の方式では皇室全体どころか大覚寺統だけの家長にもなれないため 後伏見から花園、光厳から光明
兄から弟への院政行使って珍しいよね 後醍醐天皇が吉野に逃げたことで、大覚寺統=八条院領荘園は崩壊。
全国から京都への年貢輸送システムは確立してるけど、
吉野の山中への輸送システムなどありゃせんw そもそも、室町時代は乱世だから、地方に荘園があっても年貢をとるのが難しいよなあ 上皇行きは出世だよ。権力が取り上げられるぐらい女性に嫉妬をきたす。 今の時代でも摂関を置いたほうがいいと思う。
一般参賀・・・上皇
宮中祭祀・・・天皇陛下
国事行為・・・摂関
被災地への慰問・・・左大臣、右大臣、参議など公卿が分担
このようにすれば、ご公務をかなり軽減できる 総理大臣は右近衛大将・権大納言、閣僚は受領くらいの官位を授けるようにすればいいのでは?
一方、国事行為や外国使節の接遇は、左大臣・右大臣クラスの公卿や摂関がするようにすれば
権威を内外に示すこともできる >>752
>被災地への慰問・・・左大臣、右大臣、参議など公卿が分担
それじゃ現地は文句いうぞう それこそ慰問は上皇がされたら?
貞観地震で民を悼む詔を出された清和法皇は
譲位後被災地こそ行かれなかったが仏道修行で
畿内各地を巡幸されたし。
>元慶3年(879年)5月に出家、その年の10月より畿内巡幸の旅に入った。
翌年3月丹波国水尾の地に入り、絶食を伴う激しい苦行を行った。 南北朝時代でさえ、北朝では光厳上皇による院政がさっそく始まった むしろ、光明天皇の即位と、光厳上皇の院政開始をもって、北朝政権の発足と考えられている >>760
ほんの数年だったが、中国で院政が行われた例だな 崩御の3か月後に院政開始みたいね。
後伏見 1288年4月5日(弘安11年3月3日)- 1336年5月17日(延元元年4月6日)
院政開始は1336年8月とある。 光厳の実子をたてなかったのは幼かったからかな?兄から弟への院政って珍しいよね。後伏見花園の先例に倣ったのかな。 光明に正妃が入らず、少数いた子どもも皆出家してるところをみると
初めから中継ぎみたいな扱いだね。 両統迭立だと幼少の帝は立てられないみたいだね。何かあるとすぐ片方からいちゃもんつけられる >>766
幼少の帝だと、上皇の力が強くなりすぎるからか? 両統の時だけかな。後宇多も中継ぎとはいえ壮年の実子の後醍醐を就けて恒明系統にさへ皇位が渡らなければって感じだったのかな。帝にも自統を守る才覚が必要だったと 中国ではあまり院政は行われないんだね
共産国になってから、ケ小平が最も成功した院政の例だろうか >>769
乾隆帝の太上皇もそうだが、
あちらに院がいた例がないため、院政と言うのは不正確。
正しくは訓政。 欧州も中国もそうだな
君主というのは、現役でいてこそ君主
退位したら、ただの人 >>769
共産党の長老支配は、院政とは言えないな、さすがに 中国皇帝なのにオイラート遠征に乗り出した明の第8代正統帝は、あっさりと敗れて捕虜になり、帰ってこれなかった
しかたがないので、北京では、第9代景泰帝が即位した
しかし、その翌年、明とオイラートの間に、講和が成立し、元・正統帝は北京に送還されて、太上皇になったという例はある 上皇となった正統帝は、政治的影響力を失い、事実上の監禁状態に置かれた。
さらに景泰帝は、正統帝の子である朱見深を立太子することを約束しながら、後にそれを反故にしたことで不満を高めた。
景泰8年(1457年)、景泰帝が病床に就いた際に石亨や曹吉祥らによって政変が発生し、
于謙ら景泰帝派の重臣は粛清され、景泰帝も同年に崩御して正統帝は復辟した(天順帝) 院政は、平安四百年の天下泰平の世だから成り立つもの
大陸国家では、上皇と天皇のうち一方が消されて、権力が一元化されるまで闘争が続く 中国史上での太上皇としては、唐の高祖・李淵の例もあるな
・・・618年5月、隋の煬帝が殺されたことを知ると、李淵は、恭帝から禅譲を受けて自ら皇帝となった。
その後、統一戦に著しい戦功を上げた秦王李世民に次の皇帝を期待する秦王配下の者たちが、皇太子の座を狙って策動するようになった。
これに対して皇太子李建成と斉王李元吉はこれを止めるために、高祖李淵に世民の謀士である房玄齢と杜如晦を引き離すよう進言した。
しかし李世民は李建成と李元吉が画策した先制攻撃の情報を入手すると、626年の玄武門の変で李建成と李元吉を殺害した。
高祖李淵はこれを受けて直ちに李世民に譲位することに同意して太上皇となり隠退をせまられた。
その後は政治とは離れた環境で静かに暮らし635年、71歳で崩御した。
対仏教政策
編集 中国だけでなく、大陸はだいたい、こんな感じだな
ムガール帝国のシャージャハーンみたいに、息子のクーデターで無理やり退位させられ、塔で幽閉されたとか、そういう感じ
逆に、明の正統太上皇みたいに、皇帝を打倒して復位したケースもある
このように、大陸では権力が一元化されるまで闘争が続くのが通常 玄宗皇帝も楊貴妃が殺されたあと何もかもやる気がなくなって
子供の粛宗が簒奪同然に即位したんで玉座から追い出されるように太上皇帝に。
当然実権は喪失、ぼぉーっとしたまま6年ほどで崩御。 鎌倉時代後半になると、得宗家は北条一門を含む他の有力御家人を圧倒するようになった。
時頼以後には執権職に就いた後にそれを一族の者に譲って出家し、実権を握り続けるケースが見られる。
このような執権職と得宗の関係は、同時代の朝廷における天皇と治天の君との関係に類似しているとも指摘されている。 天皇よりも、治天の君のほうが偉い
執権よりも、得宗のほうが偉い
結局のところ、日本では、公的な立場よりも家長が偉いってことだな 「将軍よりも源氏長者」って話もあるしなあ
源氏長者(げんじのちょうじゃ)は、源氏一族全体の氏長者の事を指す。原則として源氏のなかでもっとも官位が高い者が源氏長者となる(現任上首)。
源氏のなかでの祭祀、召集、裁判、氏爵の推挙などの諸権利を持つ。一般的には、奨学院・淳和院の両別当を兼任するといわれているが、
自身も源氏長者だった北畠親房の『職原鈔』によれば、奨学院別当のみでも要件を満たす(その場合、次席が淳和院別当となる)と解説している。 得宗(とくそう)は、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。徳崇、徳宗とも。
幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える。
義時流、得宗家という呼び方もある。
史料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。 >>781
自分でコピペしといてなんだけど、足利尊氏じゃなくて、北畠親房が源氏長者だったんだな? 源氏の起源は嵯峨帝なので源氏長者が嵯峨上皇と淳和上皇の所縁のものを管理する別当になるのは当然。公卿に登った義満までは清和源氏は最下級だから長者不適格。 京都の六波羅探題を亡ぼした足利尊氏だったが、仙台から北畠顕家軍が長征してきて、あっさりと敗れ、九州へと落ち延びた
北畠顕家は10代の少年で、大将といってもお飾りだったが、源氏長者の嫡男という権威は絶大で、足利尊氏の求心力を凌いでいた >>791
嵯峨源氏が上級で、清和源氏が下級だったのか
なんか、イメージと違うな? 清和源氏が台頭したころには、嵯峨源氏は中央では衰退して地方武士に過ぎなかった
ように思う
嵯峨源氏の渡辺(源)綱なども、清和源氏の棟梁・源満仲の郎等だった 源頼朝の時代においても、清和源氏の棟梁・源頼朝より村上源氏の土御門(源)通親
のほうが中央貴族としてはメジャーであったように思う
鎌倉時代は中央貴族の村上源氏が源氏長者で、足利義満のころから室町将軍も源氏長者
になるようになった
江戸時代になると、(自称)清和源氏の徳川将軍が源氏長者となった
最後の源氏長者は再び村上源氏の久我(源)建通になった なるほど
鎌倉の清和源氏より、京都の村上源氏の家格が上回っていたんだな
まあ仕方ない、清和源氏は武家だけど、村上源氏は公家だから >>791
院政も源氏も嵯峨天皇から始まったか
嵯峨天皇こそ、その後の日本史の原点だな 村上源氏が最上級というのは朝廷で一定の勢力があったから? >>800
村上源氏は中央貴族として残ったからだろう
幕末明治維新に至るまで一貫して中央貴族として、高い官位に就いていた
維新の元勲・岩倉具視も村上源氏だ
それに対して、清和源氏は初代の源経基の代ですでに地方官に過ぎなかった
清和源氏が村上源氏をしのぐ家格になったのは、室町将軍のころだろう
足利義満は摂関をもしのぐ権門になったから、村上源氏に代わって源氏長者になった >>800
一定の勢力というより、清華家として、摂関家に次ぐ家格を持つ公家だった
摂関家は藤原北家、清華家は村上源氏の系統
清和源氏は武家だから、もともと違う >>804
名前が学術ってやつは世界史板や日本史板関係なくどこにでも出没して、
意味不明なことをひたすら書き連ねる暇人。 霞が関が官邸の家政機関になった今の時代はなんと呼ぶべきか 平成院政が始まったら、治天の君におかせられては、まず最初に眞子内親王殿下を
仙洞御所にお移しになった後、北面の武士を差し向けて、平成の道鏡とも称される
彼の逆賊をお召し取りになっていただきたい
御所の白洲に打ち据えて、院司が随身に命じて厳しく尋問せしめるであろう >>804
出家して法皇になれば、俗世だけでなく仏教界にも君臨することができるからね 南北朝時代って源氏長者や藤氏長者も南北に分裂してたの?一族の祭祀の時だけ京に集まるとかそんなことはないよね? どちらも分裂してないよね。はじめこそ日和ったけど一貫して北朝側。
天皇はどっちが正統だってやってるけど、それを支える公卿たちの
動きをみると北朝の方が正統のように思う。 >>812
源氏長者が北畠親房だったのは動かない
だからこそ、南朝側は北畠顕家を大将にして仙台からの長征を決行し、一時は足利尊氏を九州に追い落とすほどの求心力を持てた 北畠顕家は十代の公家の少年で、大将と言ってもお飾り
実質的に全軍を指揮していたのは結城宗広
「人間の生首が大好きで、日頃から人を捕まえては斬首していた」というほどの残虐な野人 コピペ
時は南北朝時代の幕開け時期―南朝(吉野朝)方の重臣・近衛経忠が、東国に拠点を置く藤原姓の小田・小山・結城氏らに呼び掛けて、
「藤氏一揆」、すなわち藤原氏連合を結成させ、小山朝郷を坂東管領とし、自ら藤氏を束ねる関白(&氏長者)として天下を掌握しよう―という動きを見せた。 後醍醐天皇が即位して以降、近衛経忠は関白&藤氏長者として重用されます。
近衛家の嫡流を争うライバルの近衛基嗣は、後醍醐天皇の皇女を妻としているのもかかわらず・・・。
建武の新政が成って以降も、経忠は再び左大臣&藤氏長者として重用され続けます。
その後、足利尊氏が入京し後醍醐天皇が吉野へ逃れた後に尊氏が擁した光明天皇が即位すると、経忠は関白に任じられます。
経忠は密かに京都を脱出し吉野へ走ります。激怒した光明天皇は経忠を解任し基嗣を関白にします。
南朝(吉野朝)での経忠は内覧・左大臣・藤氏長者を歴任し、後村上天皇の関白を務めています。
とは言っても、村上源氏系の北畠親房の政策面での対立などがあって、一度吉野を出て京都に舞い戻っています。
ところが、京都に舞い戻ったとしても、所領や権限は全て基嗣側が握っており、当たり前の事ですが、京都には経忠の安穏の地では無くなっていました。
そこで、才の溺れた経忠は「藤氏一揆」構想を画策したのかもしれません― >>819
まあ、そうだな
天皇家が南北朝に分かれて争ったのと平行するように、藤氏長者と源氏長者を巡る争いも激化した
これが情勢をさらに複雑化した それにしても、天皇よりも治天の君
将軍よりも源氏長者
摂関よりも藤氏長者
執権よりも得宗
現職よりも、そいつの属する氏の家長が偉いというのは日本独特 >>821
明治から昭和初期でもそうだな
次男三男が東京に出てどれだけ出世しようが
田舎に戻ってきたら当主の長男が一番偉い >>823
後村上は、圧倒的に優勢な北朝から京都を何度も奪回した英雄だぞ 後村上亡き後は長慶の院政?あんまり資料がないんだよね。長慶亡き後は後亀山の親政だろうけど 後付けの天皇っていったら、弘文天皇・淳仁天皇・仲恭天皇だが、長慶天皇もそうなのか? >>827
1926年(大正15年)だって>認定
前の三人(明治三年)より50年も後。 大正生まれの祖父が持ってた「知識の宝庫」なる戦前発刊の本に
長慶天皇追尊の勅令があったっけな。
本は繰り返し読んでいるうちにボロボロになってどっかへ潜ってしまった。 長慶天皇登列の詔書
朕惟フニ、長慶天皇在位ノ事蹟ハ史乘ノ記述審ナラサルモノアリ、
今ヤ在廷ノ臣僚ニ命シ、深究画Iセシメ、其ノ事蹟明瞭ナルニ至レリ、
乃チ大統中同天皇ヲ後村上天皇ノ次ニ列ス、茲ニ之ヲ宣示ス、
御名 御璽
攝政名
大正十五年十月二十一日
宮内大臣 一木喜コカ
内閣總理大臣 若槻禮次カ >譲位後2年程は院政を敷いていた証拠があり、
元中2年/至徳2年(1385年)9月「太上天皇寛成」の名で
高野山丹生社に宸筆願文を納めたが[注釈 7]、
翌元中3年/至徳3年(1386年)4月に二見越後守宛に下した院宣を最後に
史料の上から姿を消している。 >>821
将軍よりも源氏長者
摂関よりも藤氏長者
↑は違うんじゃねえの?
征夷大将軍と関白は令外官だし。長者の影響は受けないんじゃ。 >>833
源氏長者は公家で村上源氏、征夷大将軍は武家で清和源氏
単純な比較はできないが、家格としては村上源氏のほうが上だろう 藤原忠実は嫡男の忠通に関白・藤氏長者を譲った後に、その弟の頼長を寵愛して忠通と交代させようとした。
鳥羽法皇から、藤氏長者はともかく関白を勝手に交代させることは出来ないと命じられたため、
忠実・頼長は武士に命じて氏長者の印たる朱器台盤を剥奪して頼長が藤氏長者であることを宣言した。
これが保元の乱の一因となった。
保元の乱後、忠実・頼長父子は謀反人とされ、忠通が後白河天皇の宣旨をもって藤氏長者に任じられた。
これは天皇が藤氏長者の人事に干渉した最初のケースとみられる。
しかし、鎌倉時代に入って摂関家が分裂し、親子間での継承が行われなくなると、藤氏長者が天皇の宣旨によって任じられる地位になっていった。 朱器台盤
歴代天皇が継承する三種の神器、歴代東宮が継承する壺切御剣のように、代々の藤氏長者が受け継ぐ4つの伝家の宝器がある。
長者の官の渡荘券 - 摂関家所領の証券
朱器 - 朱漆塗りの食器
台盤 - 朱器を乗せる机状の台
権衡 - 革製の秤
上記のうち朱器台盤を1つとして代わりに氏長者印を加えて4つとする場合がある。
また、勧学院の維持管理も藤氏長者の掌握するところであった。 wikiによると
>氏長者のなかでも特に権威と力を持っていたのが、藤氏長者と源氏長者である。
氏の解体とともに名目的地位と化したが、家系の高貴さを誇る称号として存続し、
前者は摂関家のなかで摂政・関白に任じた者が兼ね、
後者は鎌倉時代に村上源氏の独占となったあと、
やがて足利将軍家と村上源氏の久我家などが交代で務め、
江戸時代に徳川将軍家が独占して幕末に至った。 得宗専制(とくそうせんせい)は、鎌倉幕府において執権を務める平氏一門の北条氏の惣領である得宗に幕府権力が集中して専制政治が行われたこと、またその時期を指す。
鎌倉幕府の歴史を3つに分けた場合、源氏将軍・執権政治に続く第3の時期にあたる。 「執権より得宗」というのも、鎌倉時代でも終わり頃のことだな
将軍→執権→得宗と、最高権力者が変遷した その得宗専制も、最高権力者は得宗家当主個人ではなく、得宗家執事である内管領長崎氏へ移っていった >>841
てことは、将軍→執権→得宗→内官領
さらに、京都には天皇・上皇・摂政関白がいる
なんて、ややこしい国だ 長崎円喜・高資父子について少々。NHK大河ドラマ「太平記」では、フランキー堺さんが円喜を、西岡徳馬さんが高資を演じて、片岡鶴太郎・高時と3人、なかなかの好演じゃった。
長崎円喜は北条高時の乳母夫。
得宗家執事(内管領)として高時の父・貞時のおぼえめでたく、安達時顕とともに、高時の将来やら、幕府の行く末やらを託された男じゃ。
父・貞時の死後、9歳で家督をついだワシに代わって政務をとりしきり、ワシが14歳で執権につくと、円喜は内管領の職を息子の高資に譲り、政務を後見する。 「円喜」というのは出家後の法名なので、長崎円喜は出家して役職を退いた後、
家督を高資に譲って後見人になったということ
つまり、後見人の連鎖がさらにひとつ増えたことになる >>846
てことは、将軍→執権→得宗→内管領→円喜
もう意味不明じゃないか 当時の人々も、長崎円喜を見て、「なんで、このオッサンが日本の最高権力者なんだろな?」とさぞかし不思議だったことだろう
野中広務が最高権力者だったときも、「なぜアイツが?」と自民党の議員ですら首をひねってたが、そういうものか よほど制度がしっかりしてない限り、誰が実権を持つかは、役職より政権内部の人間関係で決まることになるという好例
現代の日本でさえ、ここ数十年で実力首相といったら小泉純一郎と安倍晋三、あとは中曽根康弘と橋本龍太郎くらいか 中国だと、遊蕩三昧の無能皇帝ですら、その気になれば大臣を罷免できるほど、明代には皇帝専制が確立された そもそも、当時は「将軍」ではなく、「鎌倉殿」とか「室町殿」と呼ばれてた
全国のヤクザ組織の親分みたいなもんだな 将軍職が機能するからこそ成熟すると地位を追われて幼児に挿げ替えられてたんじゃないの 専制君主の善政というものは、人間の政治意識にとってもっとも甘美な麻薬ではないだろうか、と、ヤンは思う。
参加もせず、発言もせず、思考することすらなく、政治が正しく運営され、人々が平和と繁栄を楽しめるとすれば、誰がめんどうな政治に参加するだろう。
しかし、なぜ人々はそこで想像力をはたらかせないのか。人々が政治をめんどうくさがるとすれば、専制君主もそうなのだ。
彼が政治にあき、無制限の権力を、エゴイズムを満足させるために濫用しはじめたらどうなるか。権力は制限され、批判され、監視されるべきである。
ゆえに専制政治より民主政治のほうが本質的に正しいのだ。 ・・・・・・ ナレーション 平安時代からは、幼少の頃に天皇を何年かやって、退位してから権力を握るというパターンが確立された
天智天皇だけは、この逆だった
若い頃から中大兄皇子として最高権力者だったが、天皇の座についたのは、なぜか晩年の3年から4年程度だけだった 鎌倉幕府の場合は、「得宗と執権」「長崎円喜と高資」の関係は院政の仕組みだが、
「将軍と執権」「得宗家と内管領」の関係は、主君に代わって臣下が実権を持つ
仕組みで摂関政治に似ている。
鎌倉幕府は、朝廷で起こった摂関政治と院政が入り組みながら権力構造が形成された
ように見えて興味深い。 平安時代の摂関政治は、摂政や関白になった者が藤氏長者を兼ねていたので、院政方式の分離は起きてない
江戸時代には、大御所・徳川家斉が、将軍職を退いてからも権勢を振るった 足利義満も、将軍職を義持に譲ってからも権力者だった
ただし、義満の場合は、その後で太政大臣に昇格し、さらに日本国王にも就任した 消費税増税停止の院宣を発してくれ
与党の強行採決で可決した悪法は、院宣で法律としての公布を停止すべき
院宣に逆らう者は朝敵とし、一切の叙勲を認めない
天皇は国政に関する権能を有さないと憲法で規定されているが、
上皇については明記されていないのだから 【新元号に、分合、が適すわけ】 フランス、失明22人、手の喪失5人、頭部p重傷者228人、天皇を打倒せよ
https://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1553910895/l50
君が代、日章旗、元号、の強制やめろ! テレビやメディアには本人は登場しないが皇国に生まれて皇民としての忠誠が
ちかえないのは不幸で、院政を体験できない国民は落ちこぼれてしまっている。
法皇まで続くのにな。 >>859
鎌倉幕府の場合は、源実朝が後鳥羽院の皇子を迎えた後、将軍職を譲り、自分は
右大臣の立場で後見人となる予定だった。
実現すれば、一種の院政になったものと思われる。
(実現する前に、公暁の凶刃に倒れてしまった) 世界の後鳥羽(世界に唯一認められてる世界ランキングにはいっている院) >>868
名前が学術ってやつは世界史板や日本史板関係なくどこにでも出没して、
意味不明なことをひたすら書き連ねる暇人。 >>867
名前が学術ってやつは世界史板や日本史板関係なくどこにでも出没して、
意味不明なことをひたすら書き連ねる暇人。 >>866
名前が学術ってやつは世界史板や日本史板関係なくどこにでも出没して、
意味不明なことをひたすら書き連ねる暇人。 >>865
それが実現したとしても、引き続き「鎌倉殿」と呼ばれるのは源実朝だっただろうな 「室町殿」と呼ばれてた足利義満
隠居して「北山殿」になってからも、権勢は変わらなかった 鎌倉四代将軍九条頼経は隠居後は大殿と呼ばれていたな
前将軍を大御所とする呼称は、足利義満以降だと思う 九条頼経は継嗣の頼嗣に将軍職を譲って、その後見人となっていたから、「院政」と
言えるかも知れない
だが、頼経は京都へ送還されてしまい、頼嗣もその後送還されたから、将軍家の院政は
潰えてしまった 西園寺 寧子(さいおんじ ねいし/やすこ、正応5年(1292年) - 正平12年閏7月22日(1357年9月6日))は、鎌倉時代から南北朝時代の女性。
後伏見上皇の女御であり、光厳天皇及び光明天皇の実母。院号は広義門院。北朝を存続させるため、事実上の治天の君の座に就き、天皇家の家督者として君臨した。
女性で治天の君となったのも、皇室に出自せず治天の君となったのも、日本史上で広義門院西園寺寧子が唯一である。 >>880
鎌倉で独自の勢力を築けばいいじゃないか >>881
惜しいなあ
平安時代だったらインパクトあったのに 令和天皇か
平成院の退位まで、いよいよ秒読みとなった 摂家将軍や宮将軍は嫡流から外れた庶流ばかりだぞ。殺されてもどうでもいい。 >>885
そういえば、メディアの報道も「退位」と「譲位」が混在しているな?
どっちが主流なんだろう? >>881
広義門院って治天の宣告はしたけどその後に院政をやった記録はないんでしょ。
ってことは後光厳帝の親政だったの?
崇光院が帰ってきても譲位しなかったし。 >>888
正式というか法的には退位
>天皇の退位等に関する皇室典範特例法
>退位の礼
ところがネットで生前退位をググると一番上に「譲位」が来る。
退位でググると退位が上に来るが。
譲位としたい勢力があるのだろう。印象が全く違うからね。 そう非常事態とはいえ、皇室に生まれていない人間による唯一の院政。 >>889
そもそも政務が停滞してた非常事態だから治天の君として院政をやってもらった。 義詮やっちまったな。未来永劫非難されるだろうな。
光厳くらいどこかに隠れてればよかったのにね。
そういう点から見ると、後白河って身体が軽いよなw 光明が先に南朝から返されてたけど
光明が治天の君はダメだったの?
一応後光厳の叔父だし 叔父→甥はダメとか、先例がないとか?
北畠親房はそこまで読んでいた!? >>898
そういえば、そうだな
院政時代にも、崇徳上皇は弟の近衛天皇に譲位するに当たって、天皇が弟では院政できないから、なんとか養子にしようと工作して失敗した
このときの遺恨が保元の乱の一因とさえ言われているから、天皇が弟とか甥だと院政ダメなんじゃないかな? >>890
少し誤解しているようだが、政府が「譲位」ではなく「退位」にこだわるのは憲法上の問題。
即ち、譲位だと皇位が天皇家の「家職」となり、国民主権に抵触する。 「位を譲った」という形式は
絶対にアウトなわけだ。 これは今上の譲位希望発表の時にマスコミでも取り上げられた。
それと言葉の問題として「謙位」 ⊆ 「退位」であるので「譲位」の方がより意義に適っているのだが、
上記の理由で「譲位を使いたくない勢力」の意向をマスコミも忖度しているということ。 >>899
兄弟間の院政といえば後伏見→花園の例があるとはいえこの二人は養子関係結んでるんだっけ
そもそも光明にやる気がなかった可能性もあるし
幕府側も認めなかった可能性もあるかな そとそも光厳が光明の院政敷いてた
兄弟間は良くておじおい間はないというのは
保元の乱もあって不例だったのかもしれない 兄弟間の院政が確認できるのは、
後伏見→花園、光厳→光明、長慶→後亀山だけか?
やっぱり一統じゃなくて分裂してると色々例外がでてくるんだね。 将来、令和帝が皇嗣殿下に譲位されたとき、院政を始める可能性があるな
だが、平成院がお元気であれば、二の院にとどまる >>902
叔父と甥だったら、甥の親である弟が院政するのが筋だろう
実際に、両統迭立の経緯を見ると、天皇の位を巡る争いというより、「誰が院政をやるか」という争いがメイン
そのために、自分の直系を天皇にできるかどうかが勝負 昔ならともかく現憲法下で譲位という言葉を使うこと自体おかしい。
>>906
後白河は息子が即位する以上親父が即位してなきゃ具合悪いと言うことで
一躍日陰者から即位したんだよね。それがあそこまで長きにわたって
絶対権力者として君臨した。 最初は中継ぎだったはずの人間が長く権力を行使したのは
白河もそうかな。後三条の本命後継者は弟だった。
悪運が強かったのか?邪魔な存在がどんどん死んでいった。 そう、息子を即位させるなら親父も一応その前に即位させとけって扱い。
同じ中継ぎなら一度案が出た八条院にしとけば平和だったと思うが
崇徳にダメ押ししたかったのだろう。つくづく白河は因業深い。 崇徳も重仁親王を近衛と同様中宮聖子との養子にと
頑張ればと思うけど忠通聖子親子が嫌がったのか
鳥羽がそれに反対だったのか 女房に第一皇子を産ませたこと自体不快だったらしいよ>忠通
それじゃ難しいだろうね。 >保延6年(1140年)9月2日、兵衛佐局が崇徳の第一皇子(重仁親王)を産むと、
聖子とその父である関白・忠通は不快感を抱いたという(『今鏡』第八、
腹々の御子)。 今上天皇は一貫して「譲位」と表現されているね。「譲位」と表現する報道機関もある。
そもそも、帝国憲法も現憲法も天皇の譲位や上皇の存在を想定していない。
したがって、憲法を何ら考慮する必要はなく、古例に従って譲位と呼べばよい。 そうだ
憲法に規定がないのは、退位も譲位も同じ
そろそろ憲法を改正すべき潮時だろう 天皇が立憲君主として政治に影響力を行使しても憲法違反には当たらない。 出家した後何年かして再出家で剃髪ってよほどつらかったんだろうな>皇嘉門院 >>920
第四条 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。
そもそも天皇が政治を主導して、失政したら国民の天皇への支持を失うぞ
建武の親政でも明らか >>922
象徴天皇制下、日本国憲法体制下をであっても、天皇は国政に影響力を行使してもいい。
別に影響力というのは権限がなくても行使できる。その時点で日本国憲法の詐術に引っかかっている。
「国王が、ロボットであることを国民はだれも望まない。」
政治に関する権限は、例えば司法権は裁判所、立法権は議会、行政権は内閣、に移っていって、臣下の者に責任を負わせる形で、国王が口出しをして権限を振るうということはないが、でも言論の自由は国王にもある。
内奏という大臣との密室でのやりとりで、国王が「警告する権利」、「激励する権利」、「相談を受ける権利」、この3つの権利はいかなることがあっても国王に残されている、っていうのがある。
権限っていうのはイギリス憲法用語で言うとパワーオブコマンド、これが日本国憲法になると権能っていう日本国憲法4条の用語になる。
ただし、その3つの権利を行使して、政治的に影響力、この影響力っていうのはパワーオブインフルエンス、政治力と訳してもいい。
何故かというと、責任は臣下が負うから。
大臣こうしたほうがいいんじゃない?っていうふうに国王が言ったとして、それを聞くかはどうかは大臣の責任。大臣は王様なんか変なこと言ってるって聞かないこともできる。
世界の立憲君主国の常識からすれば何の問題もないこと。 そうだな
ウィンストン・チャーチルの映画を見れば分かる
誰が首相になるかを決める権限は、国王には無い。
でも、国王に支持されない人物が首相の座を維持するのは難しい。
国王は、ふだんの細かい政事には口出ししない。
でも、「ナチス・ドイツに降伏するかどうか」というような、
国の運命を左右する決断を迫られたときは、「最後は陛下に決めていただこう」となる。
「戦前の日本より遥かに民主主義が成熟していた」とされるイギリスは、そんな感じだった 平成院は、一切の国事行為からの引退が決まっている
皇太子が空席になるぶん、令和天皇と秋篠宮の負担が重くなる 上皇は天皇に比べればかなり自由に動けるし、治天の君としての権威もある
その政治的責任も補佐する院近臣や武士が負う
だが、失態が大き過ぎると、流罪くらいにはなる可能性もある 譲位後の陛下も大勲位菊花章頸飾を保持されるのだろうか? 個人的にご時世に上皇は如何なものかと思っている。明仁さんの敬称も「上皇」は反対。有識者会議で出てた「前天皇」(さきのてんのう)を支持してたんだけどね。
さて、「今のご時世」に「上皇」が合わない理由を述べると、それは「上皇は天皇より偉いから」つーことだな。
「譲位」が禁句なのと通底するがこれは「国民統合の象徴」の上に位置する印象を与える。
大宝令では儀礼上、上皇は天皇より上位の冷遇を受け、院政時代より前の持統上皇 孝謙上皇 平城上皇は形式的にも天皇の上に君臨した。
院政時代は天皇家の家督(家長)と位置づけられた。
こういう歴史的経緯というか「二重権威」臭がプンプンする称号は象徴天皇制と合わない。
ちなみに「前天皇」号が却下された理由の一つは「天皇が2人いるようで象徴天皇制に合わない」ということだった。
論理的思考を捨て去らないと理解できない世界が存在するわけだ。 >>924-925
でも日本では天皇や皇室の「お言葉」に逆らうことは許されないという空気がある
イギリスでは平気で君主批判男女スキャンダルが起きるが、
日本ではマスコミですら菊の御門タブー
あとイギリスは戦争直前に、「王冠をかけた恋」で国王エドワード八世が退位させられただろ サウジアラビアなんて皇太子が国の実権を握って、
ついには意に逆らう新聞記者を拷問して処刑するほどだ エドワード八世はナチスびいきだった
あのまま国王を続投していたら、国王がナチスと戦うイギリス政府の足を引っ張ることになってた >>930
>上皇は天皇より上位の冷遇を受け、
何を言うてんのw 今 院政やった上皇(後高倉院含む)を数えたら24人だった。 院政時代以前で
権力を握った上皇は持統天皇・孝謙上皇・平城上皇・宇多上皇かな。
これを多いとみるか少ないとみるか人それぞれ。
前にも書いたが大宝律令の儀制令(だったか?)では太上天皇は天皇より格上の待遇を受ける。 長文の奴は別スレでも同じことコピペしてんな。スルー推奨 円融は父院としての権力行使しようとしてたのが
認められるみたいだね
実資道兼辺りは円融の側近的側面もあったとか >>930>>936
勝手に俺のレス コピーすんな。 するなら変換ミスを修正しろ(次レスでちゃんと訂正してたやろがw) 冷遇 →礼遇
しかも、前段の書き込みも抜きに唐突にこのスレに投下するから初見の人は文脈も掴めんがなww
まあ、アホが言うようにこのスレではスルーしてくれていい。
元レス:もしも悠仁さまが・・・スレ
>>937
おまえ、ここにおったんかw おれにスルーされたんがそんなに悔しいんかw 霊元院は、大の幕府嫌い
幕府寄りな東山天皇と対立していた 霊元というのは孝霊孝元から取ったと言われてるけど
ほんとのところは祟りのもとになる因果なことをやったからだよね。
おかげでこれ以降明治まで本当に一代に二人以上皇子が生き残ることが
なかった。 その中じゃ霊元が一番後醍醐臭が強い。次が後水尾。
光格は傍系から入った上に母親が誰それな出身だから
まだ抑えられてたように思う。 身内の公家に顰蹙買うか買わないかがクソかそうでないかのポイントかな。
光格は崩御時に公家衆からその功績を称え漢風諡号復活されたぐらいだから
それなりの人物だったんだろう。 >>947
後水尾が末息子の高貴宮(霊元)を猫かわいがりして即位させるつもりだったから
その中継ぎ扱い。
ついでに霊元の第一皇子をその跡継ぎに決めて死んだが
親父そっくりの俺様な霊元が後にそれを反故にして
「七代祟ってやる」事件に発展。 後西は完全な中継ぎだけど、その兄の後光明は違うか。
たまたま皇子がいなかったから末弟を養子にしたようだ。 霊元院は日本史上最後の法皇なんだな
法皇が複数人存在した時ってあったか? 円融と花山は時期がかぶってるように思う。
一条も崩御直前に譲位して出家したからわずかだけ
花山とかぶってる。
院政時代は白河鳥羽後白河とそれぞれ時期はずれてるよね。 ごめん一条崩御は1011年で花山崩御がその3年前だからかぶってないわ。 後西天皇は後継になる皇子がたくさんいのに末弟に譲位。 >>955
崇光上皇もな。
3人みんなまとめて面倒な奴、と南朝に拉致される。 花山天皇といえば、騙されて無理やり出家させられたことに気づき、「我をば謀るなりけり」と言ったので有名
昔のロボットアニメ風にいえば、「シャア、謀ったな、シャア!」といったところか
大鏡に「あはれに悲しきことなりな」と書かれたくらいだから、院政で権力者になるどころじゃないな >花山天皇
京都人以外の10人中9人は「はなやまてんのう」と読む 今の天皇が譲位した後の御所は先例に倣って名前が仙洞御所となるけど
京都の方の仙洞御所はどうなるだろう? 仙洞御所も通年一般公開されてるよ。
急増した外国人観光客のためだろうけどずいぶん敷居下がったね。
http://www.kunaicho.go.jp/info/kyototsunen-sks-sankan.html
江戸城も再建してテーマパークにするって話を聞いたこともあるな。 先月 仙洞御所行ってきたよ。京都御所とはまた違う趣でいいとこだよ。
一般公開つーても、当日予約(1日3回)・人数制限(30〜50人ほど)があるし、
ガイドさんの指示に従っての集団行動ですう。 とはいえもはや一般観光地だよね。
東京に仙洞御所ができるとなると、京都の方は
京都仙洞御所か、旧仙洞御所とでも変わるかな。 >>964
東京に「観光の目玉を」ってんで、350億円かけて江戸城を再建
外国人観光客の人気は、大阪>京都>東京だからな 仙洞御所は皇族の京都でのやどりとして現役だと聞いていたが
天皇陛下の宿も公開しているのか あるいは迎賓館ができてからはまた変わっているのか
(迎賓館は自動警備装置がついていて、塀に近づいたら、寄るな下郎とスピーカーがわめいた) 京都での宿舎は大宮御所だけど仙洞御所のすぐそこだよね。
さすがに使用されるときは立ち入り規制されるんだろうけど。 >>968
公開はもちろん庭だけですう。 京都御所と同じ。 で、陛下が泊まられる旧大宮御所は建物の近くまで行けますう。ガイドさんも説明してくれる。
>>971
大宮御所は仙洞御所の中ですう。
>>970
京都迎賓館も一般公開してます。入館料1500円。ハッキリ言ってイマイチですう。
ていうか、おれ以外のレス書いてる奴、京都御所 京都御苑 仙洞御所 の区別・位置関係がごちゃごちゃになっとるなw >1867年(慶応3年)以降は仙洞御所との塀を取り払い、敷地と庭園を大宮御所に組み入れた。
もともとは別だったっぽい。 だから、仙洞御所の中に塀があってそれで分けられてたんだよ。
現在も京都御所内に女院御所がある。(塀も残ってる)
江戸城の中に本丸と西の丸があるのと同じ。(こっちは塀ではなく堀だが)
ちなみに京都御所のメインの庭と女院御所の庭は離れているので一体感が無いが
仙洞御所と大宮御所の庭は完全に一体化している。 上皇のお住まいになる部屋だけでなく、院司の執務室や北面の武士の詰め所も
設置しなければならない
承久の乱のような合戦になったとき、防衛しやすいかどうかもよく考慮した上で
どっちの仙洞御所を使うか決めてほしい >>974にある記載が悪いな。
「組み入れた」が1867年以降の大宮御所の住人、使用者視線だから。
もともとは後水尾が自分の仙洞御所の一角に東福門院の御所を
建てさせたのが始まり。 >>976
仙洞御所で防衛するようでは、もう敗色濃厚だよ
宇治・瀬田できれば美濃の墨俣で敵を撃退しておくべき
洛中まで敵に攻め込まれたら、配下の武士を落ち延びさせて、院宣を撤回して
出家するしかない
配流は免れないかも知れないけどね 京都はいまや、世界的な観光地
日本だけの問題ではすまない >>980
言われるとそうだなw
度忘れしていた
次は令和天皇になるわけだな 保守派は伝統ガーとうるさいけど、
天皇の号と元号が一致しているのって、前近代じゃありえんからな >>982
一皇帝、一元号
明と清では、それが当たり前だった スレッド一覧みてビックリ
邪馬台国関連スレで埋め尽くし
どんだけ邪馬台国を議論したいんだよww >>984
あれは単なるアゲ荒らし
昔の2chならあぼーんされるところだが、いまは管理者不在の無法地帯なので >>982-983
しかし大明・大清の皇帝の廟号・諡号は元号とは別。
康煕帝の場合、
廟号:聖祖
諡号:合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝
通称:康煕帝、仁皇帝 それにしても、このスレはここ数ヶ月で急激に延びたな
それまでは何年もかけて細々と続いてたのに 現代の治天の君・平成上皇の院政スタートまであと14時間 庶民救済のため、平成上皇には消費税増税停止の院宣を希望したい 平成上皇とお呼びしたら不敬だぞ
ご存命の間は上皇様だ 上皇后なんて奇妙奇天烈な造語を作る安倍総理が保守とは片腹痛し 増税しないと、潤って戦争起こせないから好景気の特需とかにならないじゃん。
領土が増えればまた、税金が割安になるのに。 上皇ができると、平家物語のような戦争が起こって、上皇方、天皇方にわかれていい意味で歴史が繰り返すと
盛り上がるな。 おい!自称学術!いい加減にしろ!
上皇領、院庁などを持たないで独立権力などできるわけない
なんべん指摘すりゃわかるんだよ! 弟の秋篠宮が皇嗣ってなんだよ
皇太弟でいいだろ
それから幕末の薩摩藩主・島津斉彬は死ぬ間際に、
娘を弟・久光の子の忠徳(後の島津忠義)に嫁がせて次期薩摩藩主にし、
久光を藩主の後見役にするよう遺言した
その例に倣えば、新天皇の次の天皇は悠仁様にして、悠仁様の妻を愛子様とし、
秋篠宮を後見役にすべきである このスレッドは1000を超えました。
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