古代出雲王朝は実在した
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「古代出雲」 日本の歴史において、まだ学術的に不確かな古代王朝。 西日本を中心に支配した大和王朝の以前に、西日本を支配していた最古の王朝である。 出雲が日本の古都のひとつである証拠に、日本神話の八百万の神々は、十月、神無月に出雲に集まり、出雲地方では、十月を神在月と呼ぶ。 歴史 出雲は、もともと、小さな国にすぎなかった。当時の西日本には、渡来した中国系盗賊団が住み着いており、先進的な武器を背景に、日本の先住民を支配し、搾取していた。 そこに、出身地不明の旅人スサノオがやってくる。スサノオが出雲に来た時、渡来系盗賊団ヤマタノオロチが、出雲の領主の娘を生贄に差し出すように要求していた。 それを聞いて、出雲の領主の娘クシナタ姫を救うために、スサノオは十握の剣を武器に旅に出る。 そして、なんと、スサノオは一人で渡来系盗賊団ヤマタノオロチを退治してしまったのだった。 なお、スサノオは、渡来系盗賊団ヤマタノオロチの跡地から、製鉄された剣天の叢雲の剣を手に入れている。 この偉業によって、スサノオは西日本先住民の英雄となる。出雲の領主の娘クシナタ姫と結婚したスサノオは、西日本の盟主として、出雲王朝の開祖となる。ここに、出雲王朝が始まる。 西日本は、出雲を盟主に六代、時代を重ねたが、スサノオから六代後の大国主の時代に、政変が起こる。 西日本の盟主である出雲の王、大国主に、属国で新興国である大和が盟主の座を明け渡すように要求したのである。出雲の王、大国主は、大和に服従することを誓い、降伏する。 出雲の王族、建御名方だけが反乱し、大和の軍と戦うが、敗れ、諏訪の地に逃げのびた。 こうして、西日本の支配は、出雲から大和王朝へと移ったのである。俗にいう「国譲り」である。 大和王朝の王は、日本神話の最高神である太陽神天照の子孫を名のり、出雲の建国の王スサノオを天照の弟とした。 これにより、大和王朝の王家、いわゆる天皇家がスサノオの子孫(現代にも出雲千家として伝わる)よりも権威ある存在として認められ、君臨した。 なお、出雲王朝のスサノオは出身地不明の旅人だが、大和王朝の王家である天皇家は風聞ではY染色体が縄文系だといわれており、日本の先住民が、日本の支配権をとり戻したことになる。 スサノヲが息子とともに農業を教えて回った話はあるので、それに近いことはあったのかもね。 荒神谷遺跡は筑紫に負けた出雲の国譲りだろう。 大国主だけが死んで(隠れて)、あとは降伏したらしいから。 ただ、記紀は筑紫から畿内への政権交代を隠しているんだよ。 どのスレッドだったのか覚えていないけど 日本は負けたんだよw ちゃんと仕事をしろよw という書き込みがあったよ 『日本は負けたんだよ』 マケマケ様にカチカチ山、泥船・・・ウサギ・・・その他 あのザ・モモタロウという作品は、 どう考えても日本昔話 筑紫から畿内への政権交代? 邪馬台国王権は魏使を返した266年以降、400年まで中国交易が無い。 魏が滅びた事も有るけど、司馬氏への移譲なんだから、 邪馬台国が挨拶朝貢しないのは、邪馬台国王権も終ってると思うんだけどね。 270年以降、対馬貿易が無いか、と言うと任那設立、半島進出を始めて 馬の移入と鉄の国内生産化の富国強兵政策への転換を達成している。 馬の生産は甲斐に勅営御牧、鉄も生産は中国地方や琵琶湖周辺。 これは、九州勢力に出来る事では無くて、関東北陸に勢力が有った 征東の大和朝廷と海運王国出雲の勢力が対馬航路を独占したって事だと思うけどね。 魏使に援助求めるようなヘタレ王権が半島進出なんてできないでしょw 400年以降、倭の五王時代は、建康=南京に半島利権交渉に行ってる訳で 出雲は済州島から、長江への航路も知ってたんじゃないかな。帰り早いし。 卑弥呼は倭国の女王で、倭国は白村江の戦いがある7世紀まで存続しているけど? 卑弥国(卑彌國)や不弥国(不彌國)ってどこでしょうか?w 倭人在帶方東南大海之中、依山㠀爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者。今使譯所通三十國。 が、魏の倭国認識であって、 近隣20数国をまとめた7万戸ほどの九州の国邑、邪馬台国の王を時の倭王とした。 邪馬台国の王権は共立で世襲ではなく、魏使と言うか帯刀郡の下級武官の干渉に 隣国との軍事的衝突の解消を依存してるような王権であって、持続可能性はほぼ無い。 4〜500年に存続している継続王権の倭の5王は平定したとする朝鮮半島利権の交渉で 邪馬台国当時の倭国と無縁な南朝に渡海していて邪馬台国では有り得ない。 王統が入れ替わっている可能性はあるけれども、筑紫の主が変わっているだけで、筑紫倭国としては7世紀までは一貫しているのだろう。 筑紫倭国が有ったとして、 半島は冊封なので百済同様に 九州は冊封だった可能性が高い。 邪馬台国当事の九州が中国史で明らかな以上、 日本神話九州起源に意味が無いのは判るだろ? 邪馬台国は記紀を否定している。 判らないならレスしないでね。 大和朝廷は九州筑紫を筑紫の君に統治させてるんだが、これは、冊封と何が違うんだ? この時、日本王朝は間違いなく古代中国系の立憲君主制に移行しようとしている。 まあ、記紀のおかげで現代まで継続してるのは日本だけだけどね。 おれも、韓も九州も外国とは言わん。 チベットウイグルに独立を! 繰り返しますが崇神が4世紀初頭〜前半の時点で邪馬台国論争は終了です。 約60年前の台与が判明し、卑弥呼も判明、帥升も判明します。 ■2世紀から4世紀まで スサノオ(帥升)107年 ・ ・ ・ ・ ヒメ踏鞴 (3世紀初)神武 ヒメ踏鞴 綏靖 ヒメ踏鞴 安寧 トヨ津 懿徳 孝昭 トヨ津 孝安 磯城の台頭 孝霊 孝元 開化 崇神(4世紀初〜前) 反論は対抗軸として別人物を出してください。 多分いないと思います。 さて本居たちはこれを知ってたのではないかと思います。 (続く) 「熊襲の女酋説」 「本居宣長、鶴峰戊申、那珂通世らが唱えた説。本居宣長、鶴峰戊申の説は卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」である。 本居宣長は邪馬台国を畿内大和、卑弥呼を神功皇后に比定した上で、 神功皇后を偽称するもう一人の卑弥呼がいたとした。 ニセの卑弥呼は九州南部にいた熊襲の女酋長であって、 勝手に本物の卑弥呼(=神功皇后)の使いと偽って魏と通交したとした。」 帥升がスサノオと仮定すると卑弥呼は分かります。 彼らは気づいてます。 神武東征が女王国を隠蔽するため、わざと大げさに記述し、男王国に見せかけたことも分ります。 日清戦争に勝つ前はまだ中国への劣等感が払しょくされてません。 そんな時代に公に出来なかった。 そういう事でしょう。 知らない方が良い事実もある。 知らない方が幸せである。 本居たちはわざとヘンテコな説を提起して知らない方が良い事実を隠した。 そういうことでしょう。 国を譲ったことになっている大國主之命は、結局ころされてしまったの(・ω・`)? お隠れになった、と表現されているのは、亡くなったということだね。 >>768-769 レス有り難うございます。その辺の事情が良く分からないとこなんです。 天津神に帰順したように書かれているのに何故、死ななければいけなかったのか?(・ω・`) 大将首を差し出せぱ、民の命は助けてやる。 拒否するなら血の雨が降るぞ。 こういう感じ。 >>766 古代出雲帝国の第6代オオナモチ(主王)が八束水臣津野命。 出身は西王家の神門臣家。御子には九州統治を委任される形で分家独立して宗像王家を建てたカタアタス命。 そのカタアタス命の三人の娘がいわゆる宗像三女神。 この第6代オオナモチ、八束水臣津野命の時代に領土、勢力を北陸から九州迄一気に拡大したらしい。 古代出雲帝国の制では東西2つの王家が主王(オオナモチ)と副王(少彦/スクナヒコ)を代替わり毎に交代して就任する慣わし。 >>767 いわゆる大国主命とは、第八代オオナモチの八千戈命。 また、御子とされた事代主命は、実際には第8代の少彦(副王)の八重波津身命で出雲の東王家、富/向家の当主で在られた。 お二方共に渡来人(秦国人某)ら一味(日本史のアンタッチャブル)に拉致誘拐〜岩屋に幽閉殺害された。と微かに伝わります。 >>770 秦帝国からの渡来人一味は出雲帝国に許可を取り付け(ホヒが事前の工作)、石見国五十猛海岸に着岸、上陸。 最初こそ始皇帝の勅命を奉じて配下を全国的に遣わして不老長寿(不死)の妙薬探索を行います(多分、この時に得た各地の様々な地勢、情報等が後々貴重な原資料になった?)が、 、、、(んなモノ実際に無いのは明白)、、、次第に目はこの列島の大部分を支配下に置く出雲帝国の乗っ取り=簒奪に向いていき? 渡来人の首魁何某は王家の娘と婚姻して王族となり、 御子も産まれて出雲側の警戒心が緩んだ頃合いを逃さず、岳父のオオナモチ、八千戈命を巧妙に誘い出して(現在の長浜神社辺り)拉致誘拐。 猪目洞窟に幽閉して殺害(地元では黄泉の国の入口。近づくと×) オオナモチの行方不明(この段階では真相不明)を伝え聞いた(三保の早船神事が遺風を伝える)三保の別邸(後の三保神社)に 逗留していた少彦(副王)の八重波津身命(東王家、富/向家当主)が探索に出かけるところを族ら一味が得意の弁舌で巧みに誘引、拉致誘拐。米子市の今は干拓地となり陸と成っている粟島の志都の窟(洞窟)に幽閉殺害。 八重波津身=少彦名(役職の少彦を改ざん)/粟島神=事代主(「積歯八重」事代主命に改ざん。ヤエハツミをひっくり返してツミ・ハ・ヤエ)=大物主神(子孫らが大物主神として三輪山に祀る) 崇神、垂仁天皇らが三輪山の神を祭祀出来なかったのは血筋が違うから。 反対に太田田根子命が三輪山の神を慰嘸して鎮祭できたのは八重波津身命(大物主神)の御子の天日方奇日方命の直系の子孫だったから、。 (根子(彌子)は王者の称号。何となれば「大倭根子とは天皇陛下の称号の一つに他ならない」) >>774 渡来人一味らは事が順調に進んで支配を拡げていると安堵したのも束の間、 出雲帝国の制に則り、殺害された八重波津身命(東王家、富/向家)の御子の鳥鳴海命が敢然と第9代オオナモチ(主王)に即位、 併せて、殺害された八千戈命(西王家、神門臣家)の御子、味耜高彦が少彦(副王)に就任して 早急かつ適切な善後策を施行して一旦は屋台骨が揺らいだ出雲帝国も態勢を盛りかえして磐石となり、 国を引っ掻き回され二人の王(イザナギの国生み、ヒルコと淡島に比喩)を弑逆して国の簒奪()を謀った大逆無道の大悪人どもは出雲兵に捕遂、付け狙われ僅か?に得た丹波国を放棄、妻子を置き去りにして秦国に逃げ帰った。 (イザナギの国生みの失敗。スサノオの高天ヶ原での乱暴狼藉。火之神(渡来人)を生んで死亡したイザナミ(出雲)を黄泉の国に訪問して、約束を破った(法令違反)事から追撃される行、ら) 文明を発明したのは縄文人 古代エジプト王国(邪馬台国)を作ったのは縄文人(シュメール人) >>771 成る程。レス有り難うございます。(・ω・`) >>772-775 詳しいレス有り難うございます。血塗られた歴史ですね。 そのあたりの史料は、どんなものが有るのですか(・ω・`)? >>私は探しました。 >>崇神の少し前にトヨ、その少し前にヒメがいます。 >ひょっとすると、すごい発見かもしれません。 >その二人は、皇室の系図にいらっしゃるのでしょうか? >そうであれば、どのあたりにいらっしゃるのでしょうか? います。初代皇后と4代皇后です。ヒメ踏鞴と天トヨ津です。 そう言うと必ず反論が来ます。卑弥呼は独身だが?という反論です。 【年已長大、無夫壻】 ・歳すでに長大である。夫はいない たったこれだけです。にも関わらず卑弥呼は生涯独身であったかのようにいう人たちがいます。 ちなみに今現在、私の母親は【年已長大、無夫壻】です。 しかし子も孫もいます。卑弥呼に子がいてもいいし孫がいてもいい。 そのヒメ踏鞴の夫である神武が初代天皇です。 この天皇・皇后という称号は7世紀に出来ました。 創った理由は大王(おおきみ)ではなかった神武を新称号・天皇に繰り上げるためです。 実は神武の時代が女王国だった。 日本書紀の神武東征の大げさな記述は女王国であった事をごまかすためでしょう。 ではなぜごまかすのか。 ヒメ踏鞴・神武夫妻の5世代100年前、自ら海を渡り後漢の皇帝・安帝に朝貢しようとした日本の王がいました。 スサノオです。 日本の歴史が中国への土下座朝貢から始まるなんて惨めにもほどがある。 だから分らなくさせようと神武の時代をBC660年というトンデモない時代にずらし、 この史実(スサノオの朝貢)を封印したのだと思います。 弥生時代に皇后もへったくれもない。 神武は複数の奥さんとたくさんの子供がいた。 >>778 スサノオって、普通に須佐之男、じゃないの? ルーツは知らないけど須佐に住んでたんでは そもそもそれは当て字だし、当時は現代語の「の」には「つ」などを用いていたから。 宇佐にいた菟狭津彦とかみたいに。 高天原(海の国)のアマテラス(海の王)は、親戚の大国主が治める稲穂が豊かに茂る陸上(豊葦原中国)が欲しくなった。 そこで船で軍勢を送り脅し、降伏した大国主を殺して国を取った(出雲の国譲り)。 そして孫のニギハヤヒを関西に、孫のニニギを九州に王として派遣した(天孫降臨)。 奈良盆地には大国主の一族(三輪山の神、富美の一族)が生き残っていて、ニギハヤヒを王として迎えた(後の物部大連家)。 九州に降ったニニギの末裔であるイワレヒコは、九州倭国の戦乱(倭国大乱)で九州を逃れて、奈良にいた親戚のニギハヤヒ一族を頼って落ち延びてきた(後の天皇家)。 蘇我大臣家がいつ頃奈良盆地に来たのかは分からない。 古代のヤマト王権はこれらの家系により共同で運営されていた。 蘇我大臣家と天皇家は物部大連家を滅ぼした(物部戦争)。 次に天皇家が蘇我氏を滅ぼした(乙巳の変)。 こうして天皇家が畿内の覇者となった。 >>779 >神武は複数の奥さんとたくさんの子供がいた。 何処にいたんだ嘘ぬかすな。 神武が大王なら先妻のアヒラツヒメも幼いキスミミも九州から呼び寄せるだろう。 しかしそんなことをしていない。 彼は大和では妃はいない。 平気で嘘を言うな。 各地に妻がいた。 ちなみに弥生時代に妃という制度はない。 >>787 自分で書いているだろ。 >>785 >神武が大王なら先妻のアヒラツヒメも幼いキスミミも九州から呼び寄せるだろう。 先妻という意識もないだろう。 妻問婚の時代なんだから。 単に各地に通う姫がいたというだけ。 あと、神武亡き後に実権を掌握したのはタギシミミに思えるね。 だからイスケヨリを娶るという無茶が通ったのだろう。 タギシミミは殺されて、殺した方の末裔が天皇家になったから、長男でありながらタギシミミは神武の後を継いだことにはされなくなったのだろう。 ヤイミミとヌカカワミミの兄弟がその後を継ぐけれども、この二人は実際には兄弟相続だろう。 しかしヌカカワミミの末裔が天皇家になったということで、ヤイミミも実質的には相続しなかったことにされたのだろう。 つまり綏靖天皇は異母兄と同母兄に続き、実は神武から数えて第四代なんだ。 ただ、記紀が書かれた頃の価値観と合わなかったから、そうならなかった。 何度も言うようだが、弥生時代の歴史を後世の価値観で解釈すると、本質を見誤るんだよ。 あと、タギシミミについてはイスケヨリをめぐるやり方が当時の人たちの目にも余ったのだろう。 亡き父の妻を娶ることは、当時の倫理観からもギリギリアウトなんだよ。 まあ、源氏物語を思い出すけどね。 当時は九州の方が発展していたから、キスミミだって田舎は嫌だし、妻問婚の時代だからアヒラツヒメが実家を出る意味もない。 九州説なら、神武がいた筑紫日向は邪馬台国7万戸、アヒラツヒメが宮崎の方なら投馬国5万戸で、奈良盆地よりよほど都会だからね。 イスケヨリも三輪山の神の家だけど、それはかなりローカルな勢力だよ。 イスケヨリは記紀のこの時代の登場人物の中では特に人間臭いエピソードに溢れた姫だね。 大久米との問答は、奈良盆地に刺青の風習がなく、邪馬台国畿内説を否定する根拠だよ。 魏志倭人伝には邪馬台国では皆が刺青をしていたとあるので、大久米の出身地である九州が邪馬台国と考えられる。 >>788 宮崎にアヒラツヒメを残し、大和でヒメ踏鞴と結婚した状態が、 なんで「各地に妻がいる」になるのかアホ。 なぜヤマトで複数の妻を持たなかったのかと聞いてるのだ。 中国の皇帝は後宮に美女3千人だ。 なぜ神武はそれをやらなかったのかと聞いてるのだ。 ズレた事言ってんじゃねぇやハゲ。 >>792 >奈良盆地に刺青の風習がなく、邪馬台国畿内説を否定する根拠だよ。 久米の入れ墨をした大きな目に驚いただけ。 >>789 >あと、神武亡き後に実権を掌握したのはタギシミミに思えるね。 だからイスケヨリを娶るという無茶が通ったのだろう。 アホか。 熟女マニアではあるまいし何でオバハンと結婚するねん。 しかも義理母。 タギシミミがヒメ踏鞴と結婚したのはヒメ踏鞴が【女王】であったから。 男の最高位に就くには女王と結婚するのが近道だ。 >>795 王権の権威が 皇后の血筋にあったということだろう。 >>793 >中国の皇帝は後宮に美女3千人だ。 >なぜ神武はそれをやらなかったのかと聞いてるのだ。 後世に天皇と呼ばれるようになったが、実は神武らは奈良盆地の一部に住み着く小勢力に過ぎなかった。 >>796 その通り。 皇后の血筋とは大和にいた出雲系鴨族。 鴨とは神だ。 つまり神族。 大和にいた出雲系鴨族なら2世紀前半からいた「其国」の男王も説明できる。 大物主、そしてスサノオに遡れる。 高天原(御所市高天)が存在するわけだから。 >>796 奈良盆地の真の支配者は、イスケヨリの実家の三輪山の神だった。 だから皇后という概念は正しくない。 >>793 >実は神武らは奈良盆地の一部に住み着く小勢力に過ぎなかった。 神武は小勢力であり、生口のいる柏原の俘囚郷を束ねるのが仕事であっただろう。 しかし神武が「婿入り」した先は大王家だ。 >>798 せいぜい奈良県に引っ越してきた末裔の一人。 決して西日本を支配する卑弥呼ではない。 当時の奈良盆地に、周辺地域を支配することができた勢力があった痕跡はない。 >>800 トーテムなんてねぇよ。 くだらない本を読みすぎ。 >>801 婿入り先も地域の豪族。 大王ではない。 >>802 >当時の奈良盆地に、周辺地域を支配することができた勢力があった痕跡はない。 2世紀末から畿内発祥の土師器が九州をはじめ全国各地に拡散する。 その震源地である畿内に女王がいた証拠だ。 九州説なる虚構をいつまでも信じてる様だが往生際が悪い。 失せろ。 >>804 >婿入り先も地域の豪族。 >大王ではない。 アホか。 事代主神の娘だ。 神だ。 だからヒメ踏鞴の息子も 長男 神八井耳命(カムやいみみのみこと) 次男 綏靖「神渟名川耳天皇(カムぬなかわみみのすめらみこと) となってる。 おまえのように「地域の豪族」などと言ってたら首チョンパされるぞ。 >>805 葛城なんて、邪馬台国とは関係ないよ。 語感からして、邪馬台国なんていかにも九州で、葛城なんていかにも関西だろ。 別物だよ。 いまどき九州説者なんて幸福の科学と変わらない。 あいつら大川隆法の言う事が真理であり絶対なのだからな。 九州か畿内かまだ確定したわけでもないのに、確定的に語るものこそ カルト信者ではないの?(・ω・`)? >>812 考古学的には畿内に確定。 あきらめきれないしつこ〜い九州説が頑張ってるだけ。 >>813 >考古学的には畿内に確定。 証拠が何もない。 >>811 いやいや、大川先生は信者の意見を聞いて考えを変える事は多いんですよ >>813 >考古学的には畿内に確定。 根拠なし。 出雲に海洋拠点、古代集落が有ったことは確定であって、 それを古代王朝と言うなら、出雲も九州も各地の大規模縄文遺跡だって王朝だろ。 倭人伝によって大和朝廷の九州統一が250年以降なら、 年代偽証または年号不定の記紀起源のスサノオは物証が出ない限り史実に不要。 継続王朝の正史が偽造なら、埋葬古墳出土以外の物証は出ないぞ宮内庁、あん? >>821 倭人伝では、倭国大乱前に男王の時代が70〜80年あったとあり、少なくとも1世紀には倭国に王権が存在した。 後漢書には、倭奴国がその代表として金印を受け取っている。 だから250年ということはない。 出雲王国も宮崎の邪馬台国も吉備国も尾張国も奈良国も同時期に各地に存在していた。 その中で出雲は吉備・奈良・尾張・信濃・その他東北までの集落国家の連合王国の 盟主だった。だから出雲王は大国主の尊と呼ばれ、全国の王(神)は出雲に集まった。 邪馬台国の神武はもう一つの戦国時代の織田信長だったのではないか?信長は途中で 殺されたが、邪馬台国の神武は統一に成功したという見方もできるのではないか。 >>822 九州北部なら、中国から倭国の王権と認められたことを示す内行花文鏡を副葬された王墓が紀元前の前漢の頃から作られていた。 畿内では倭国大乱の前の政権の痕跡がなく、矛盾してしまう。 >>824 >畿内では倭国大乱の前の政権の痕跡がなく、矛盾してしまう。 畿内には普通に弥生時代の遺跡があるが? またその弥生時代の遺跡は2世紀末に環濠が埋まり須恵器や古墳時代が始まる。 これは倭国大乱の痕跡である。 この時代の北部九州は畿内系土器(土師器)を受け入れてるわけだから、 その大乱から女王擁立の震源地は畿内である。 遺跡だけならどこにでもある。 何の根拠にもならない。 >>826 >>824 ただ遺跡があるという事ではなく、 倭国大乱から卑弥呼擁立という一番重要な時期2世紀末に、 九州は畿内土器を大いに受け入れている。 一方、畿内に九州土器はほとんどない。 これはその波の震源となる王権が畿内にあった証拠だ。 しつこい、あきらめろ。 土器とか交易で運ばれてただけでしょ 王権が畿内にあった証拠とか理論が飛躍しすぎでしょ。 >>828 高地性集落は外部からの襲撃に備えたもので攻撃に曝されていた証拠 九州からの植民地者と先住民との闘いの跡。 >>831 土器と王権の関係の証拠を示さずに結論だけなんて 空想ですよね。 >>830 >土器とか交易で運ばれてただけでしょ 胎土分析により、土器が運ばれたのは事実として、重くて壊れやすい土器でなにを運んだんだろうか? 土器そのものを運んだんだろうか? だとしたらなんのために? 何か入っていたかもしれないし 税として徴収されたとかもあるな。 >>829 >九州は畿内土器を大いに受け入れている。 別に畿内からのだけではない。 九州は畿内だけでなく、西日本全域からの産物を受け取っていた。 それは富と権力が集中する都だったから。 >>832 九州から来て山の上を占拠して支配民として振る舞った可能性は? >>829 土器と王権の関係の証拠を示さずに結論だけなんて 空想ですよね。 >>837 >税として徴収されたとかもあるな。 土器を? 土器ばっかり徴収しても仕方がないのでは? >>844 土器に食べ物とかを入れて運んだんだよ。 博多には全国の産物が集まっていたのだろう。 >>829 >一方、畿内に九州土器はほとんどない。 畿内は納税するだけの植民地。 >>844 交易の為に持ち込まれた可能性もありますね 鉄を手に入れる為に大量の土器が必要だったとか 鉄斧1つに土器1000個とか。 >>845 >土器の広がりは王権の広がりは空想ですよね。 軽量薄型土器製法の広がりは、拓殖地域の広がりですね。 @阿波 北部九州は倭国大乱の2世紀末から畿内土器(土師器)を受け入れはじめ、 やがて在地の西新土器が終わり、すべて土師器に変わる。 簡単に言えば畿内に屈服した。 つまり卑弥呼は畿内。 >>849 便利だったから採用したんでしょう。 土器の流れは九州への権力の集中を示しています。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.0 2024/04/24 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる