征夷大将軍っていつから源氏だけになったの?
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いつから源氏じゃないと征夷大将軍になれないってなったの?
鎌倉時代にも摂家から将軍を迎えてるし、
信長を将軍につけようとしたりしてるし。
いつから源氏じゃないと征夷大将軍になれないっていう
不文律ができたのか誰か教えて。 北条は出自が低いから、権威を持つまでの時間が必要だった。 >>146
織田は傀儡将軍を自ら追い出してるから
さすがにそんなもんなる気は更々なかっただろう >>143
ないだろ。徳川家綱後継問題で、宮将軍擁立計画が
出たぐらいだから。 じゃあ近代以降の後付けによるってことでFA?
まるで都市伝説だね
誰が最初に言い出したのかなぁ >>151
天皇家は清和源氏の元の桓武平氏の本家だからOK? >>152
磯野家のマスオさん状態だよな
もっとも磯野家でのカツオはいないけど >>152
成人して用済みになったら京都に返されるから >>152
源氏より藤原摂関家のほうが格式が高かったからだと言われている
幕府が担ぐだけの将軍なら格式はなるべく高いほうがいい >>156
生まれたところで年頃になったら処分されて終わりじゃね? 清和源氏以外の源氏を担ぐという発想はなかったのだろうか? 別に源氏にこだわる理由がない。
というか源氏にはこだわりたくないだろw
足利やら新田がいるんだから源氏にこだわるならその辺を無視できなくなりかねん。
北条としては武門の将軍任官は絶対避けなきゃならんわけで。 ユ籠眥?,ヨアスモヒオフ?サハヨサマ゙ヤエハマオ」ネホコテタイ,オツエィスォセ?シメハヌマ?ヒオ,ヨサモミヤエハマイナモミラハクウヨホネユアセ >>159
後鳥羽上皇の乳母で権力のあった卿二位局(藤原兼子)が
後鳥羽の皇子を将軍に迎えてはどうかと北条政子に持ちかけたらしい(愚管抄)。
兼子が持ちかけたのは自分が養子にしていた頼仁親王(源実朝正室の甥)。
しかし、当の後鳥羽上皇が「日本を二分する」と反対しておじゃん。
親王がダメならということで摂関家からもらうことにした。
最初から天皇家→摂関家と朝廷からもらうことばかり考えていたみたいだね。
源氏のルーツは大阪
日本が天皇を中心にしたのが難波京(仁徳天皇などの皇居)(現在の大阪市)で行われた大化の改新 それは大化元年〜平成24年の今も続いている 結果論としてだが足利尊氏以降だな。
それ以降は源氏以外で征夷大将軍になっている氏族はいない。
平清盛が実権掌握して実質上の武家政権が確率した以降、
奇しくも平氏(系)と源氏(系)が交代で実権や政権を持ち回り担当。
>>165
宗良親王は?
李花集の詞書に「征夷将軍の宣旨など給はりしも」とあるということだけど。
もっとも、同じ自選歌集でも新葉和歌集では征東将軍になっているという
話だそうだが。(「皇子たちの南北朝」)
どちらも同じような時期に編まれているようだから、親王自身は対して区別
を重視していなかったんだろうね。 コ川将軍家の正史である「徳川実紀」に
将軍家綱が死んだあと大老酒井忠清が有栖川宮家から幸仁親王を将軍に迎えようとしたが
堀田正俊らの反対で実現しなかったと書かれてある >>175
家門に制限あるのは、臣下での話であって、皇族は基本、
どの官職にも就けるんじゃない?(摂関でも大臣でも)
>>165
厳密に言えば、徳川幕府以降だろう。
徳川家康が足利義満の征夷大将軍、源氏長者、淳和奨学院両別当の補任を
先例として、以後慣例化と言うことだろう。(秀忠の例外があるが) >>179
お前こそ幕府なんてのは江戸中期以降の呼称であるって事を知らなかっただろ? >征夷大将軍≒幕府 だと勘違いしてるやつ
などと下らん馬鹿げた事で突っ込む奴の方がアホすぎ なぜ秀吉は征夷大将軍になれなかったORならなかったのか? >>183
関白になって公家と武家の融合政権を作ろうと思ったから
征夷大将軍って武家のトップでしかないんだよね 摂関も公家のトップでしかないけど。
「鎌倉幕府」成立から秀吉までの間に、摂関が公武のトップになった
時期はないね。 まあ秀吉が征夷大将軍になりかったってのは林羅山の嘘だから >>185
将軍不在時には摂関がトップでしょ
摂関不在でも将軍が公家のトップに立つことはないが >>188
将軍が京にいなかったときやら空位だったときやらといろいろ
あるが、摂関が武家のトップに立ったことなどないね。
摂関が「武命に違う」等々の理由で追放、解官されたりといった
事例はあるけど。 >>189
「室町殿」は極官が太政大臣
摂関になったことはなく公家のトップに立ったことはないよ >>191
豊臣秀吉は摂関でありながら武家のトップだったじゃん >>192
「室町殿」の権威そのものが摂関を超越していたということだろ?
摂関が無条件にトップでという前提を立てているけど、そもそも
そういう官位を超越した形での摂関の権威そのものが、実力と
伝統以外に裏付けをもたないもの。
将軍家・武家の力と財力に圧倒され、摂関自身が実質的に家
礼として伺候する状態であり、将軍家の意に反するものは公武
問わず解官・追放される状態だった以上、摂関も含めた公家の
上に立っていたと評せざるを得ないだろうね。 >>194
「権威」で話をするなら江戸時代の将軍は摂関はおろか
天皇すら超越してたんだがw
太政大臣が摂関を超越した地位とされたことはないよ
武力を背景に摂関や天皇に疑似させることはできたけど
義満の子は皇太子と同待遇だったしね >>194
それをいうなら鎌倉幕府の執権は摂関を超越していた
鎌倉時代のただの執権を自称する(朝廷に執権などという官位はないので)
朝廷から見たらただの東武士が摂関を自在に罷免し
天皇を廃帝とし上皇3人を島流しにしてたんだよ?
鎌倉時代以降、幕府が朝廷権力を超越していたことなど教科書レベルの話じゃん
なにも将軍じゃなくてもよかったわけ
執権でも摂関の任命権や天皇の罷免権を持てたわけだし 得宗権力が確立した後の時期には、得宗が五位、北条他家が四位なんていう
状況が普通になったというな。
それはともかくとして、さすがに執権なり得宗のところに摂関が伺候したり、裾を
取ったりということは起きていないね。
室町将軍のところには年始の挨拶に伺候したり、裾を取らされたり、外出時に
付き従ったり、偏諱を拝領したりというようなことをしているけど。 >>199
任命権・罷免権があっても「権威」とはいえない、
「権威」とは「年始の挨拶に伺候したり、裾を取らされたり、外出時に付き従ったり、偏諱を拝領したり」?
そりゃ、京都にいた室町将軍の特権だわ。
東国にいた江戸幕府将軍に対して摂関は一切そんなことしてないからな。
室町幕府将軍だけが摂関に超越し、江戸幕府将軍は摂関を超越してなかったわけか。
こじつけすぎたな。 北条氏や足利義満はちょっと例外だと思うけどね
源氏も平氏も元は皇室から出た家系で、先祖をさかのぼれば必ず天皇に辿り着く
だから自分達も天皇の血を引く子孫だというマインドを強く持っていたし
それ故に、天皇に対しても公然を牙を剥く事が出来た
誰か昔の王孫ならぬ(=祖先が天皇家につながらない者がいるだろうか)
これ有名な言葉じゃん
承久の乱の時、帝に背けば天罰が下ると言われ、そう言い返したって有名な逸話だけど
義満にしたって、自分を単に武家の棟梁で源氏長者と考えていたわけでなく
自らも天皇の血を引く子孫で、天皇になる権利を有していると考えていた
まあ実際には源氏の血を引かない徳川家には、そんな権利はなかったけどね スレタイから脱線する事はどのスレでもよくある事だ
少々の事でガタガタ言うなボケ!!!! >>201
諸外国では皇帝や王を滅ぼして全く血縁関係のない奴が皇帝や王になっているのだし
別に源平でなくても天皇になどなれただろ
逆に源平は天皇の血を遠い先祖で引いていることを誇りにしていたので
本家本元を滅ぼせなかったんだと思うが
まあ、日本人の3分の2程度が天皇の血をどこかで引いているらしい
そう考えると徳川にしろ信長・秀吉にしろ絶対に天皇の子孫でなかった
保証はどこにもない >>204
何が言いたいのか全くわからない
>諸外国では皇帝や王を滅ぼして全く血縁関係のない奴が皇帝や王になっているのだし
>別に源平でなくても天皇になどなれただろ
>逆に源平は天皇の血を遠い先祖で引いていることを誇りにしていたので
>本家本元を滅ぼせなかったんだと思うが
前段と後段で内容が矛盾している事すらわからないのか?
日本は天皇家が倒れた歴史を持たない国であり
王家が攻め滅ぼされて王朝交代があった諸外国とは土壌がまるで異なる
承久の乱の時の言葉を見れば、源氏や平氏が自らも皇位継承権があると考えていた事が読み取れるだろう
鎌倉幕府の執権や、将軍足利義満が天皇の権威を超越し、し放題出来たのも、その血ゆえだ
>まあ、日本人の3分の2程度が天皇の血をどこかで引いているらしい
>そう考えると徳川にしろ信長・秀吉にしろ絶対に天皇の子孫でなかった
>保証はどこにもない
源平のようにきちんとした系譜を引き、子孫である事がはっきりしている家柄と
偽系図で源平を称した連中を同列に扱うとは傑作だね
馬鹿なのかあんたは? 【政治】 石原都知事 「東京と大阪をリニアで結び、画期的なマンモス都市に。東京の過度集中を分散」…世界都市サミットでスピーチ
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1341206973/
115 名前:名無しさん@13周年[] 投稿日:2012/07/02(月) 15:16:15.63 ID:uqVrOteyO [1/3]
下品で下劣で臭い大阪人は、東京に来て欲しくない
というのが日本人の正直な気持ちです
133 返信:名無しさん@13周年[] 投稿日:2012/07/02(月) 15:25:24.93 ID:uqVrOteyO [2/3]
>>121 違うよバカだなあw
大阪人は生まれつきなのさw
彼は生まれつき臭くて、下品で下劣なんだ
そして大阪弁はそれらに拍車をかけている。
大阪支店から出向してきた大阪人を、みんなでノイローゼ→鬱に追い込んで
退職させたのは今でも笑い話さ
141 名前:名無しさん@13周年[] 投稿日:2012/07/02(月) 15:32:00.10 ID:uqVrOteyO [3/3]
>>136 違うよバカだなあwww
大阪人というゴキブリ・ダニを殺すのにバルサンを焚いたとしても
誰も非難はしないだろ
おーい大阪人の鬼畜ども 関東には絶対に来んなよwww
>日本は天皇家が倒れた歴史を持たない国であり
王家が攻め滅ぼされて王朝交代があった諸外国とは土壌がまるで異なる
でも古代は謎のアマタラシヒコとか近江天皇の林太郎天皇暗殺とか
天武天皇の近江王朝強奪とか 王朝交代の可能性大だけど?
>>163
じゃ、何でw
安倍晴明を祀る神社が、大阪府と京都府にそれぞれ存在しているの?
教えてケロ
共に御神体があり、初代安倍晴明公神社は墓地でもある
掘れば人骨が出てきた筈だ
調べてミソwww
>>209
アメタラシヒコは、小野妹子が天皇の名前を問われた時に、
間違って自分の先祖の名前を言ったものだよ。
単純な間違いに過ぎないのだが妙な解釈をする馬鹿が増殖して困ったもんだ。 松平信光の室
幸手一色氏
一色時家の娘
一色公深→範氏→直氏→氏兼→長兼→時家
【神奈川】源頼朝を支えた「三浦一族ゆかりの地」を情報発信
…神奈川県がモニターツアー開催へ、地域の歴史文化資産を掘り起こし観光振興
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/femnewsplus/1352197553/
ソース(MSN産経ニュース)
http://sankei.jp.msn.com/region/news/121106/kng12110619020007-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/region/news/121106/kng12110619020007-n2.htm
写真=三浦一族の武将が弔われた満昌寺
http://sankei.jp.msn.com/images/news/121106/kng12110619020007-p1.jpg
地図=三浦一族の主なゆかりの地
http://sankei.jp.msn.com/images/news/121106/kng12110619020007-p2.jpg
4 :やまとななしこ:2012/11/06(火) 21:44:02.59 ID:tZbJV+Ao
三浦一族は、『鎌倉源氏五代』のうち、源義朝、義平、頼朝、頼家ら四代は、確かに支えた。
しかし北条系の源実朝は、事実上三浦氏の指令で公暁(頼家子息)が暗殺しているぞ。
河内源氏の中の義朝流は、房総半島や相模が、勢力圏なので三浦氏が支えているが、
義朝流末代5代目の実朝は、執権北条家により擁立されている為に三浦氏とは縁が遠い。
というか敵対関係。
実朝と三浦氏は、キューバ危機のJFKとCIAみたいな関係。 公暁が実朝暗殺犯だったかについてはとても疑問がある。
実朝暗殺は暗がりの中、しかも同時に源信ら京都からの公家が殺害されている。
公暁は事件直後、外に出歩いた形跡すらないまま、屋敷を北条の兵に囲まれ自害させられている。
事態はこの後、京都の上皇と鎌倉の北条との決戦(承久の乱)という形に発展する。 (~)
γ´⌒`ヽ
{i:i:i:i:i:i:i:i:}
( ´・ω・`) 北条義時は、国家のためには、不忠の名をあまんじて受けた。
/ >‐ 、-ヽ すなわち自分の身を犠牲にして、国家のために尽くしたのだ。
/丶ノ、_。.ノ ._。) その苦心は、とても軽々たる小丈夫にはわからない。
. 〈 、〈Y ,ーiー〈ト 頼山陽などは、まだ眼孔が小さいわい。おれも幕府瓦解のときには、
\_ξ ~~~~~~Y せめて義時に笑われないようにと、幾度も心を引き締めたことがあったっけ。
|__/__|
|、,ノ | 、_ノ やる夫が鎌倉幕府の成立を見るそうです
の北条義時はヘタレだったな 初心者スマソ。征夷大将軍って蝦夷討伐の官職なんですよね?
坂上田村麻呂は平安時代の人なんだが鎌倉幕府を開く時
にはその役目はあるのかなぞについて。 つまりすでに奥州
は平定されていたのか、頼朝の時に
まだ 蝦夷なぞにも、反攻勢力はあったのか? >>221
「大将軍」という地位に「朝廷の軍事最高司令官」という意味合いがあったので
頼朝はこの称号を欲したと言われている。
尚、頼朝に何の大将軍称号を与えるかは議論されたようで、当初、
頼朝が鎌倉に本拠地を置くことから「征東大将軍」が検討されたが
就任後すぐに滅ぼされた木曽義仲が朝廷から受けた称号であることから
縁起が悪いとして征夷大将軍になったらしい 違うよ
頼朝の場合は先祖の義家が征夷大将軍を望んだにも関わらず
実現できなかったから
先祖の悲願を果たす意味合いもあったからなんだよ >>224
義家は蝦夷征討(安倍氏は蝦夷)やった人だけど、
頼朝は就任時に蝦夷地を攻めたことはなかったよ
だいたい、征夷大将軍につくことが武家源氏の悲願ならば
同じ義家の子孫である木曽義仲が就任しないのがおかしい 秀吉が征夷大将軍を望み、それには源氏になる必要があって、
足利義昭に養子縁組を願ったが拒否されて、仕方なく関白に…
とか、まったくの捏造。家康・家光と御用学者林羅山、極悪だな。 家康が源氏を名乗ったのは、先祖が源氏を名乗っていたこともあるけど、
それよりも、源氏長者を獲得することによって
諸国の源氏を名乗る大名の任官で主導権を握るためだと思う。
藤原氏だと、五摂家ともかぶるから、
藤原氏長者を維持するのは難しいだろうし、
豊臣氏も藤原氏を名乗っていた経緯から、それを避けるためだと思うね。
家康は豊臣氏から独立した存在に徐々に移行しようとしていたから。 征夷大将軍は令外の官。
真の武門の最高の官職は、左近衛大将、または、右近衛大将。
でも、これらは、朝廷で務めないといけない官位。
一方、征夷大将軍は、朝廷から離れた場所で、幕府を設置できる。 そういえばサザエさんの磯野家も本姓は源氏だったな。
おはぎをたくさん食べて殿様に褒められた磯野藻屑源素太皆。 >>230
頼朝も実朝も左近衛大将または右近衛大将になってたと思うけど? >>228
別に極悪とは思わんけどw、
そういうイメージが流布してるのは徳川氏の思惑なんだろうね。
実際に秀吉は喜連川の姫君を犯して側室にしてるし、
もし、そこに婿入りして足利氏継ぎたい!って言ったら
ホイホイ喜んで継がせてくれただろうけどねえw >>230
家康も任官してるけど朝廷で務めてないじゃないか そういえば実朝って、朝廷で大将の職を務めるどころか
鎌倉で生れて、一度も上京してないよね?
鎌倉近辺、せいぜいが伊豆までしか行かない生涯だったんだろか?
それで宋まで行こうとしたんだから無謀すぎるw >>82
それはそうだすね。御一家衆の養子なら征夷大将軍に正当になれるわけだし。 本題に戻すと、上でも言われているように徳川が幕府を開いてからの近代の後づけじゃない?
そう考えると、鎌倉幕府で摂関・皇族将軍がいたこととも矛盾しない。
室町幕府以降と考えると、織田・豊臣がなりかけたことに説明がつかない。
だから、徳川幕府ができてから。それと、家綱の死後、摂関家から将軍を迎える計画があったからそれよりも後。
要は、徳川綱吉以降と考えるのが妥当。それで、じゃあ、なぜ摂家将軍じゃあダメなのかという話になって、「征夷大将軍は源氏に限る!」っていう理屈ができたんではあるまいか? いや>>88読んで尤もだと思った。
本当にそうだったのかどうかは誰も知る由もないが、
確かにどこかの養子に入るのは簡単だったはずで、
それを家康が考えなかったはずもない。
でも入らなかったからには、>>88かどうかは別として、何か理由はあったんだろね。 源、足利、徳川しか長期政権を作ってないから
源氏だけってにもサンプルが少なすぎるよね 徳川が源氏ってのもちょっと怪しいからなぁ
徳川が「得川」の末裔を称したのっていつ頃だっけ? >>243-244
このスレ10回ほど読んで出直してこい >>241
>摂関家から将軍を迎える計画があったからそれよりも後
っていう部分だが、軽々に首肯はできない。
藤氏が征夷大将軍として幕府を統治したことがある、というのは
前例としては認識されていたはずで、それが綱吉以降変化したとも思われない。
例えば現在の日本で、女性天皇が皇室の伝統に即してどうなのか?って議論と同じで、
基本的には「天皇は男性がなる」もの。
でも、女性天皇の前例があることも、誰もが知っている。
なので、どうしても女性天皇を作り出したい勢力は、それを前例として主張する。
それと同じだろ。
なので、やはり江戸前期には、「征夷大将軍は基本的に源氏がなるもの」という
認識があったとしても、おかしくはない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています