征夷大将軍っていつから源氏だけになったの?
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いつから源氏じゃないと征夷大将軍になれないってなったの?
鎌倉時代にも摂家から将軍を迎えてるし、
信長を将軍につけようとしたりしてるし。
いつから源氏じゃないと征夷大将軍になれないっていう
不文律ができたのか誰か教えて。 >>15
1597年に足利義昭が没し、征夷大将軍と源氏氏長者就任に文句を言う人がいなくなったため、
その隙間に家康が入り込んだだけの気がするなあ。
義昭が生きていればその養子になるとか面倒な手続きが必要だった気もするが。
秀吉は近衛家の養子になるなど関白就任に当たって面倒な手続きを取ったが、
家康は誰の養子になることもなく偽の系図を源氏にくっつけるだけで済んだ。
摂政に関しては藤原氏以前に就任した例が一つしかなく(伝説の聖徳太子)、
律令に何の規定もないので、関白同様、ほぼ平安時代に藤原氏が始めた役職に近い気が。
摂政が法的根拠を持つにいたったのは明治時代の皇室典範が初めてで、
このときに初めて皇族限定(皇后や皇太子など)の役職になった。
その後、昭和天皇が皇太子時代に就任した例がある。 >>15-16
ちょっと待てよ。
岡野公彦によれば、足利義満以降も
久我家が源氏長者になってるだろ。足利義昭は
源氏長者にはなっていない。 >>3
多聞院英俊の日記は、同時代史料なんだが、いまいち評価されてないな。
秀吉が正親町帝からの将軍任官提示を断ったと書いているんだがな。 秀吉が近衛家の養子になったことからの派生なのかな。
正直、秀吉がどうしても征夷大将軍になりたいのならば足利義昭の養子にならなくても、
徳川家康みたいに出鱈目系図を用意して源氏を自称すれば済むこと。
近衛前久はこの頃明智光秀に協力したとの噂を立てられ隠居に追い込まれていたが、
娘の近衛前子を秀吉が養女として代わりに入内させてあげるなど、
状況打開のために前久のほうから言い出した可能性すらある。
前久唯一の男子には子がなく、近衛前子が産んだ後陽成天皇の皇子が近衛家を継いでいる。 関白になった後に征夷大将軍になる必要てある?
義昭は、88年まで将軍だったし。
仮に征夷大将軍になっても、秀頼の運命は変わらんでしょ。 鎮西大将軍ではダメなのか?
鎌倉、室町の前例にもとづいて征夷大将軍でないといかんのか 征夷大将軍
摂政
関白
太政大臣
偉さ(格式)の序列は? 摂政=関白>太政大臣>征夷大将軍
征夷大将軍自体はそれほど高い官職ではない。
家康は足利義満などの例にならって太政大臣を兼任することで
より高い地位につこうとした(征夷大将軍を辞した後も太政大臣だけを称している)。
江戸時代の将軍でも将軍就任と同時につくのは内大臣じゃなかったか。
すべての将軍が太政大臣を兼任していたわけではない。 >>23
家康の太政大臣任官は死の直前だ。実質上、贈官と変わらない 家康は死の一月前に太政大臣になってるね。
当然、将軍職を譲って大御所だった。
数年太政大臣であったのは秀忠だけ。
他の将軍は太政大臣にまでのぼってすらない。
朝廷に対し、もっとも威勢があったのは秀忠かもね。 >>31
本来は坂上氏だが、征夷大将軍任官前に源氏に改姓してる。それが慣例だったんだな。 >>32
坂上田村麻呂が源氏になったことは一度もない。
>>30
坂上田村麻呂は清和天皇よりもずっと以前の人。 最初に源姓を名乗ったのは嵯峨天皇の子供。
坂上田村麻呂が征夷大将軍のころ、嵯峨天皇はまだ10歳くらい。 >>34
田村麻呂は嵯峨天皇の養子になって源姓を下賜されたんだ。だから、征夷大将軍になれたんだ。 征夷大将軍自体には、摂関同様官職としての格があるわけじゃないんで、
単にその時々の力関係で上下が変わる。
室町時代の摂関は、将軍に伺候し裾を取ったり、将軍の機嫌次第で解官、
追放されたりという立場にあったから、公家社会も含め
将軍>摂関
という序列だね。 征夷大将軍はそもそも令外の官、いわば称号みたいなもの。
あ、それとどこかで話題になっていたが、
息長はソナ(ヌ)カが元の音、イキナガとは学者と称する方が勝手に言っているだけ。
歴代征夷大将軍
大伴弟麻呂→坂上田村麻呂→文屋綿麻呂
そもそも源氏が征夷大将軍になったのって、源頼朝が初めてなんだよな。 >>37
将軍自体の序列は摂関>将軍だよ。
将軍だけじゃ序列が低いので左大臣や右大臣などを兼務して
公家との序列のつりあいを合わせているんじゃないか? 源氏長者と源氏の征夷代将軍って全く別の物なんだが・・・
源でも足利でも源氏長者に付かない征夷大将軍っていっぱいいる 武家の棟梁が征夷代将軍
公家の棟梁が源氏長者
信長は天皇を越えようとしたが
家康は天皇の下のトップを目指したんじゃないか? >>42
そもそもどちらにも序列を規定する根拠が存在していないんだよ。
で、宰相の将軍でも、平気で大臣や摂関を伺候させたり首を飛ばし
ていたのが、室町以降。 >>45
それはみんなわかっているだろうよ。
事実上の権力者ではなく、制度上の序列の話をしているんだろう。
現在のイギリスに似ているかもな。
イギリスでは君主の国王は別にして、現在でも組織としては内閣より
枢密院の方が上位だし、序列も核ボタンを持っている首相は大法官や
カンタベリー大主教よりも下位。 信長が天皇を超えるためには、海外進出が必要では?
海外領土も含めた大日本帝国のようなものを新たに建国し皇帝を名乗る。
天皇は山城の国の大神主のような存在に。 国内の統一さえできない奴に、
どうやって海外進出ができるのか。 いや、秀吉は唐入りのあと天皇を北京に遷すつもりじゃなかったかな 家康が藤原から源に変えたから、将軍は源氏ってイメージになったのでは?
でも、家康は将軍より源氏長者を見据えて源氏に名乗りを変えた気がする。 山名豊国を交代寄合に取り立てたのも、新田源氏だったから? 源氏であればいいってもんではないな。
清和源氏正嫡といえば頼光の系統になるんだろうが、
将軍はやはり鎮守府将軍だった頼信〜八幡太郎〜頼朝の武門の系譜。
実際、武家政治の仕組みを頼朝が確立したこともあるが。
百歩譲って、義為よりわかれた新田、足利。
結局は足利と新田得川(実際は偽の徳川)が将軍となっている。
佐竹、武田あたりだと弱い。
八巻正治さん
山上の説教は、人に自分が不完全で
有る事を自覚させる事が目的なんだそうだ。
例えば、敵を愛しなさい、と言う戒めは
人が敵を愛せない不完全な存在だと自覚させる
為の言葉だそうだ。
愛についての説明は、有ったけど
敵についての説明は、無かったね。
八巻正治さんよ、アンタにとっての敵とは誰かね?
敵を愛せない自分を愛してくれる神の愛が
無条件の慰めなのだそうだが。
八巻正治さん、わかるかな?
問題は、敵を愛せない事より
敵をつくってしまう人間に問題が有るんじゃないか。
敵を作らないようにすれば
敵を愛する必要は無いんじゃないか?
コレは簡単、信長と秀吉はイエズス会の手下及び協力者だったから。
南蛮人と連帯してた人間が征夷は無い。
一方の家康は明らかに反イルミナティであり征夷大将軍が相応しい。 >>53
初代山名氏 山名義範は、実は三河生まれだからです
矢田義清(山名義範の実父)
・愛知県西尾市上矢田に本拠を構え、矢田義清と号する
・矢田郷が皇嘉門院領だった縁で、新田義重の娘を室にする
・水島の戦いで戦死、義範は祖父新田義重の養子となり初代山名氏に
蛇足だが、兄弟の義実は、豊田の広沢に移り住んで広沢義実に、義実の息子義季は岡崎の細川に移り住んで初代細川氏に
>>59
江戸幕府歴代将軍は第2代徳川秀忠一人を除いて全員
源氏長者に任命されている。
徳川慶喜の辞官納地まで、慶喜が源氏長者だったはず。
よって、幕末の源氏長者は徳川慶喜ということになる。
ちなみに慶喜が官職を辞した直後、一時期、
源氏で最上位となった久我建通が源氏長者だったともいうが
史料には書かれておらず不明らしい。 秀吉が将軍にならなかったのは
単に公家政権を作りたかったからでは?
頼朝以来の軍事政権幕府を自分の代で廃止して
それ以前の清盛のような存在になりたかったんじゃ 時代の端境期には、一時的に朝廷を中心とした政体が現れる。
院政→清盛政権→鎌倉→建武新政→室町→秀吉関白政権→江戸→明治太政官政 >>57
信長は兎も角秀吉がイエズス会の手下なら
「サン・フェリペ号事件」は起きないと思うのだがw >>68
坂上田村麻呂や文屋綿麻呂が征夷大将軍になってるんだから
関係ないだろ >>70
平氏を名乗っていた織田信長に対して三職推任、
すなわち征夷大将軍にならないかと朝廷が持ちかけているから
足利以降も問題なかった 家康が三河守への任官を望んだ時、先例から氏を源から藤原に変えたと何かで読んだ
だから、任官するには同じ氏の者や先祖が任官した先例は必要だったのではないでしょうか?
東京人ですが、今日は、大津市(膳所・石山)を周ってきました。
今井兼平の墓、義仲寺(木曽義仲や松尾芭蕉の墓所)、和田神社(石治少を繋いだ伝えのある大銀杏)などです。
楽しかったです。iPadできれいな写真も撮れました。 いや、そうじゃないんだよな。
そもいわゆる源氏史観、平氏史観ってのも実在の歴史と違う。
むしろ多分足利あたりが作り始めた歪曲史観
そして 歴史上常に無教養で水準低かった西日本の連中 (3けつともいうなw)
が権威づけてうそついただけで、
そもそも歴史学上10〜15世紀あたりの資料上の歴史もかなり懇意的なうそが相当入ってるし、
そもそも事実関係資料ではない。空想資料などを基にしてるから、相当なうそがある。
そもそも歴史でも歴史学でもない。ぶっちゃけ10〜15世紀は相当懇意的なうそ(今ではわかってるが)
が織り交ぜられたが、実は古代史並み、ないし以上に歴史にうそがある。
かつその都合で、
無分度∞無教養∞田舎もの≠フ西日本の酸欠が権威づけのためにうそついちゃったのが大きい。 征夷大将軍職そのものが本来大した役職じゃないのに、
なぜ天下人の代名詞のようになったのか、
教えてごじゃれ 戦時下の非常事態の時に
軍の最高司令官として
天皇の考えを逐一聞かなくても良いという職権を
過大解釈したから
>>76
電話もメールもないような時代に長距離遠征を行えば
遠征軍の最高司令官がいちいち朝廷のお伺いを立てながら戦うことは物理的に不可能である
だから遠征軍の最高司令官たる征夷大将軍は出陣すれば朝廷に相談せず自分の意思だけで行動できる特権が与えられる
そこで征夷大将軍になって今出陣中ですということにすれば何でも思いのままの事実上の独立政権が作れるから天下人の代名詞となった
よく比較される関白や太政大臣にはこのような特権は存在しない >>76
頼朝が征夷大将軍という名前の響きに漬かれたからとしか言いようがない
ただの将軍だけより、ずっとサマになるからな
別に征夷大将軍にならなくても既に政権の体をなしていたし 違うよ
義仲が征東大将軍になったからだよ
征東ってのは頼朝も含めた東を征伐する事だからな 家康って、上杉謙信みたいに
さっさと吉良の養子にでもなっておけば、後世
「偽源氏乙www」って煽られずに済んだのにな・・・・
家康の残した業績は多大で、正直、信長や秀吉よりもずっと偉大な人物だが
この点だけは、残念に思う。 >>82家康の悪いイメージは維新政府によってつくらたものだから何やっても悪く言われたと思う 信康なら母は源氏だな。
信康が跡継ぎになればまだマシだった。 桓武天皇(平氏)→清和天皇(源氏)→
平将門(平氏)→源頼義・義家(源氏)→
平清盛(平氏)→源頼朝(源氏)→ 松平信光の嫁は一色詮範の娘
松平氏は貴種だと何回ゆーたらわかるんや
養子縁組でもない限り、母系で貴種でも貴種とは見なされない。 家康が血統マニアなのは、貴種をサンプル的に収集してることから証明済み。
その上、謙信という著名な実例が同時代にあったわけだから、
同様に源氏の血統を「正統に」乗っ取って、正真正銘の源氏として血筋を残したい、
という考えも、もちろんあっただろう。
(源氏を詐称することで後世を騙せるとは、さすがに全く考えていなかったに違いない。
後世どころか、同時代人でさえ、徳川家が実は源氏などでないことはみんな知っていたはずだから)
吉良、今川はもちろん、足利、斯波の名をもつ家も断絶すれすれで沢山残っていたから、
やろうとさえ思えば簡単な話だったのは確実。
では、なぜそれをしなかったか。
恐らく家康の場合、自分の父祖への恩義、というのがあったのではないかと思う。
例えば吉良に養子に入って吉良家康になった場合には、松平家自体はただの土豪にすぎず、
自分の父や、尊敬していたであろう祖父は、田舎の、どこの馬の骨ともわからぬ小領主に過ぎないわけだからね。
父祖までをも格上げするためには、自分が養子に行ってしまってはダメで、
松平家自体を無理やり格上げする他になかったのだろう。 一色詮範
足助重範
楠木正成
家康は信長(過大評価の田舎猿)と比べたら貴種ですなw
松平信光つーのは凄いな、同時期の三河権力者と言ったら足利義満、細川頼之、斯波義将なんだからw
家康の先祖は、世良田の願人坊主あたり、ってのは
本当だろうか。 >>85
国津神族→天津神族→
出雲→百済・温羅→
邪馬台国→出雲→
大伴氏→新羅→
大和朝廷・吉備真備(吉備氏)→藤原仲麿=恵美押勝(藤原氏)→
嵯峨天皇(源氏)→中臣氏(藤原氏)→
桓武天皇(平氏)→清和天皇(源氏)→
平将門(平氏)→源護(源氏)→
孝元天皇(安倍氏)→源頼義・義家(源氏)→
平清盛(平氏)→源頼朝(源氏)→ 源氏がカリスマ性を有したのは事実。ただ、源氏将軍に絶対性はない。
源氏が絶対というのなら義仲が征夷大将軍を欲したとき、前例がないと一蹴されなかったし、
時代が下って藤原氏や宮将軍が誕生したり、信長に三職推任の話もでなかった。
足利が源氏将軍神話を作り出した説は一票投ずる。
ただどこまで作為的なのかは不明。やはり、摂家将軍の時代でさえ、頼朝連枝の
阿野氏や吉見氏は滅亡の憂き目を見ているし、甲斐源氏ながら門葉の平賀朝雅は殺害されているし。
前例主義がものをいう日本で、一度、源氏から将軍を出したという前例はやはり重いんだろう。
太平記の時代、白河結城の結城親光あたりが武門の棟梁=源氏という風潮に反発しているという事績を、歴史物シリーズでよんだ事ある。 >>97平氏も源氏も天皇の臣下、桓武天皇から始まる。 実際のところ>>91が何をいいたいのかサッパリわからんな >>98
桓武天皇自身は源氏でも平氏でもないだろってことだよ
嵯峨天皇(源氏)とか清和天皇(源氏)も
>>101
順序がめちゃくちゃ
桓武天皇の息子の嵯峨天皇が先になってるw
>>102
あっそれねW
最初の源氏の源融を基準にして、将門の乱の際の平氏が融死後だから
融=光源氏・・後に、平氏が桓武平氏名乗ったのかと思ってねW
違うのん?
融の源姓名乗りよりも、桓武平氏名乗りの方が早かったのけっ? 桓武平氏は、桓武天皇皇子より数代後に、平氏の名乗りと聞いてたし、清和源氏も、清和天皇から数世代後に名乗りだからね。
皇子でありながら、源氏と最初に源姓を賜り、名乗った光源氏=源融に、憧れ、触発されて、桓武平氏や清和源氏と自ら名乗ったと認識してるがね。 清和皇子筋源氏・桓武皇子筋平氏共に共通していたのは、武士が朝廷権威を支配しようとした歴史的経緯・・。 春休みだからか知らんけど
低能キチガイが各スレに湧いているよな いや、ここで暴れてるのは松浦厨とか松浦バカとか呼ばれている御仁で自称オサーン
春休みになる以前から源氏や安倍氏に関係するスレでとんちんかんなカキコをしてるよ 松浦厨だけじゃあ無いのに、イメージ貼り付けて揶揄とかそっちの方が幼稚な行為だぞW 足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0 ■元弘の変(1331〜1333年)当時の後に室町幕府の支配層(西三河武士団)■
【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期(1310年頃)は尊氏の母方の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高氏(足利被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉氏(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持氏(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木氏(足利一族、幕府執事、守護職)の城(仁木城)
・細川氏(足利一族、管領家、守護職)の2つの城(細川御前田城、細川城山城)
【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生氏(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と屋敷(梅藪屋敷)
【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地氏(足利一族、細川氏分家)の城(上地城)
・上地氏(足利一族、仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野氏(足利一族、奉公衆)の屋敷
・中条氏(足利被官、守護職、奉公衆)の城(金谷城)
【岡崎市西部、豊田市南部地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波氏(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷(跡地に永源寺)
・石橋氏(足利一族、将軍御一家、守護職)の屋敷
【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良氏(足利一族、将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良氏(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色氏(足利一族、四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川氏(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)の城(今川城)
・荒川氏(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職)の城(戸ヶ崎城) 松浦厨なんて知らんし
低能キチガイは低能キチガイだろ
目障りなことに変わりはない >>113
本人も、そんな知識ないと、認めてレスしてるのに、ダメダシ繰り返すお前が、一番・・ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています