征夷大将軍っていつから源氏だけになったの?
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いつから源氏じゃないと征夷大将軍になれないってなったの?
鎌倉時代にも摂家から将軍を迎えてるし、
信長を将軍につけようとしたりしてるし。
いつから源氏じゃないと征夷大将軍になれないっていう
不文律ができたのか誰か教えて。 >>97平氏も源氏も天皇の臣下、桓武天皇から始まる。 実際のところ>>91が何をいいたいのかサッパリわからんな >>98
桓武天皇自身は源氏でも平氏でもないだろってことだよ
嵯峨天皇(源氏)とか清和天皇(源氏)も
>>101
順序がめちゃくちゃ
桓武天皇の息子の嵯峨天皇が先になってるw
>>102
あっそれねW
最初の源氏の源融を基準にして、将門の乱の際の平氏が融死後だから
融=光源氏・・後に、平氏が桓武平氏名乗ったのかと思ってねW
違うのん?
融の源姓名乗りよりも、桓武平氏名乗りの方が早かったのけっ? 桓武平氏は、桓武天皇皇子より数代後に、平氏の名乗りと聞いてたし、清和源氏も、清和天皇から数世代後に名乗りだからね。
皇子でありながら、源氏と最初に源姓を賜り、名乗った光源氏=源融に、憧れ、触発されて、桓武平氏や清和源氏と自ら名乗ったと認識してるがね。 清和皇子筋源氏・桓武皇子筋平氏共に共通していたのは、武士が朝廷権威を支配しようとした歴史的経緯・・。 春休みだからか知らんけど
低能キチガイが各スレに湧いているよな いや、ここで暴れてるのは松浦厨とか松浦バカとか呼ばれている御仁で自称オサーン
春休みになる以前から源氏や安倍氏に関係するスレでとんちんかんなカキコをしてるよ 松浦厨だけじゃあ無いのに、イメージ貼り付けて揶揄とかそっちの方が幼稚な行為だぞW 足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。
19家とは
01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職
太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0 ■元弘の変(1331〜1333年)当時の後に室町幕府の支配層(西三河武士団)■
【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期(1310年頃)は尊氏の母方の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高氏(足利被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)
【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉氏(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持氏(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木氏(足利一族、幕府執事、守護職)の城(仁木城)
・細川氏(足利一族、管領家、守護職)の2つの城(細川御前田城、細川城山城)
【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生氏(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と屋敷(梅藪屋敷)
【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地氏(足利一族、細川氏分家)の城(上地城)
・上地氏(足利一族、仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野氏(足利一族、奉公衆)の屋敷
・中条氏(足利被官、守護職、奉公衆)の城(金谷城)
【岡崎市西部、豊田市南部地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波氏(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷(跡地に永源寺)
・石橋氏(足利一族、将軍御一家、守護職)の屋敷
【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良氏(足利一族、将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良氏(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色氏(足利一族、四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川氏(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)の城(今川城)
・荒川氏(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職)の城(戸ヶ崎城) 松浦厨なんて知らんし
低能キチガイは低能キチガイだろ
目障りなことに変わりはない >>113
本人も、そんな知識ないと、認めてレスしてるのに、ダメダシ繰り返すお前が、一番・・ 知識がないことと嘘を平気で書くことは違うのだがな
それすらも区別がつかないのか? >>116
知識がないから間違った情報を判別できない、ということだろう
嘘を嘘と見抜けない(ry) >>103
桓武平氏=825年、桓武天皇の孫王たちが平氏を受けて臣籍降下したのに始まる
嵯峨源氏=814年、嵯峨天皇の皇子たちが源氏を受けて臣籍降下したのに始まる
微妙に桓武平氏より嵯峨源氏のほうが桓武平氏よりも成立が早い
ちなみに天皇の子孫で臣籍降下した者は源氏か平氏ばかりというわけではなく
桓武天皇の皇子たちには良岑姓、長岡姓をもらって臣籍降下した者もいる >>123でうれしそうにレス番つけているが
そのなかで>>122で指摘された源氏と平氏の賜姓順に言及しているのは
どれだけあるのかな?
ほんとにアホだねえ >>127
どおあっても、ブーメラン頭に刺さって瀕死でも、上から目線の真正Sを貫きたいんだね?
はいはいドSですね・・彼方は、立派なドSです。
これでいいか? >>127
>そのなかで>>122で指摘された源氏と平氏の賜姓順に言及しているのは
どれだけあるのかな?
識別アンカー付けずに、連続でID表示すらない板で揶揄ってる方が自ら事故してるだけ。
まぁ・・慣れてる奴は、理解あるし、それ俺のアンカーでこのレスへのレスと、訂正レスするだろうしね。
慣れた奴なら、一々、騒がんよ。
2ちゃんでは、良くある事・・ 思考回路が飛躍してますよ
あなたが喜んでアンカーつけてるレスはあなたをやゆしてるであろうことは明らかだけど
レスの内容からはやゆしてる対象が源姓と平姓の賜姓順のことだとは特定できません
実際にあなたも賜姓順を確認した上で書き込んだものではないことを白状している訳で
たまたまあて推量が史実と一致したに過ぎないとしか見えません
あなたの書き込み自体がほかにもツッコミどころが満載なものでして
そんな状況で鬼の首を取ったごとくはしゃがれても痛々しいだけですよ >>1
本題に戻すと
近現代の後付けじゃね?
江戸時代の文献で
「征夷大将軍は源氏に限る」
って記されているものはあるのかな?
教えてエロいひと! 鎮守府将軍が清和源氏だけ大量にいるからじゃねーの?
そんで頼朝で確定みたいなさ。
それに比べて藤原、平氏は臨時に適任者がいればみたいな扱い? >>133
逆に言うと、京の公家からすれば、辺境の蝦夷を狩ってる野蛮な田舎侍の頭に過ぎないのだろうがね・・。 足利尊氏以降だろ
その前は護良親王、守邦親王とか親王将軍が続いてるし 頼朝が征夷大将軍になりたかった理由って、奥州藤原氏討伐のためかと思っていた。
>>135
しかし、朝廷が信長に対して将軍就任を打診したという話もあるぞ >>136
もう藤原氏が退治された後だから、別にならなくてもよかった
ただ義家がなれなかったので、その悲願を果たそうと思っただけ
だが、それが結果的に武家棟梁の政権開始と後世に認識されるようになっただけ >>137
信長とかっ・・
江戸時代手前の武将出して来て・・・何なんだか・・? 早稲田の校歌ってイェール大学のパクリなんだって?
本当なら恥ずかしい事だね。 >>137
さんしきのうちからなんでも選べってやつだろ?
信長は平氏を自称してたからな。 まぁ要するに信長の段階では
平姓の者が将軍になってかまわないと
朝廷が判断したってことだわな
果たして将軍=源氏なんて不文律は存在していたのか? 平家も北条も織田もあれだけの権力を握りながら将軍になってないからな 北条は出自が低いから、権威を持つまでの時間が必要だった。 >>146
織田は傀儡将軍を自ら追い出してるから
さすがにそんなもんなる気は更々なかっただろう >>143
ないだろ。徳川家綱後継問題で、宮将軍擁立計画が
出たぐらいだから。 じゃあ近代以降の後付けによるってことでFA?
まるで都市伝説だね
誰が最初に言い出したのかなぁ >>151
天皇家は清和源氏の元の桓武平氏の本家だからOK? >>152
磯野家のマスオさん状態だよな
もっとも磯野家でのカツオはいないけど >>152
成人して用済みになったら京都に返されるから >>152
源氏より藤原摂関家のほうが格式が高かったからだと言われている
幕府が担ぐだけの将軍なら格式はなるべく高いほうがいい >>156
生まれたところで年頃になったら処分されて終わりじゃね? 清和源氏以外の源氏を担ぐという発想はなかったのだろうか? 別に源氏にこだわる理由がない。
というか源氏にはこだわりたくないだろw
足利やら新田がいるんだから源氏にこだわるならその辺を無視できなくなりかねん。
北条としては武門の将軍任官は絶対避けなきゃならんわけで。 ユ籠眥?,ヨアスモヒオフ?サハヨサマ゙ヤエハマオ」ネホコテタイ,オツエィスォセ?シメハヌマ?ヒオ,ヨサモミヤエハマイナモミラハクウヨホネユアセ >>159
後鳥羽上皇の乳母で権力のあった卿二位局(藤原兼子)が
後鳥羽の皇子を将軍に迎えてはどうかと北条政子に持ちかけたらしい(愚管抄)。
兼子が持ちかけたのは自分が養子にしていた頼仁親王(源実朝正室の甥)。
しかし、当の後鳥羽上皇が「日本を二分する」と反対しておじゃん。
親王がダメならということで摂関家からもらうことにした。
最初から天皇家→摂関家と朝廷からもらうことばかり考えていたみたいだね。
源氏のルーツは大阪
日本が天皇を中心にしたのが難波京(仁徳天皇などの皇居)(現在の大阪市)で行われた大化の改新 それは大化元年〜平成24年の今も続いている 結果論としてだが足利尊氏以降だな。
それ以降は源氏以外で征夷大将軍になっている氏族はいない。
平清盛が実権掌握して実質上の武家政権が確率した以降、
奇しくも平氏(系)と源氏(系)が交代で実権や政権を持ち回り担当。
>>165
宗良親王は?
李花集の詞書に「征夷将軍の宣旨など給はりしも」とあるということだけど。
もっとも、同じ自選歌集でも新葉和歌集では征東将軍になっているという
話だそうだが。(「皇子たちの南北朝」)
どちらも同じような時期に編まれているようだから、親王自身は対して区別
を重視していなかったんだろうね。 コ川将軍家の正史である「徳川実紀」に
将軍家綱が死んだあと大老酒井忠清が有栖川宮家から幸仁親王を将軍に迎えようとしたが
堀田正俊らの反対で実現しなかったと書かれてある >>175
家門に制限あるのは、臣下での話であって、皇族は基本、
どの官職にも就けるんじゃない?(摂関でも大臣でも)
>>165
厳密に言えば、徳川幕府以降だろう。
徳川家康が足利義満の征夷大将軍、源氏長者、淳和奨学院両別当の補任を
先例として、以後慣例化と言うことだろう。(秀忠の例外があるが) >>179
お前こそ幕府なんてのは江戸中期以降の呼称であるって事を知らなかっただろ? >征夷大将軍≒幕府 だと勘違いしてるやつ
などと下らん馬鹿げた事で突っ込む奴の方がアホすぎ なぜ秀吉は征夷大将軍になれなかったORならなかったのか? >>183
関白になって公家と武家の融合政権を作ろうと思ったから
征夷大将軍って武家のトップでしかないんだよね 摂関も公家のトップでしかないけど。
「鎌倉幕府」成立から秀吉までの間に、摂関が公武のトップになった
時期はないね。 まあ秀吉が征夷大将軍になりかったってのは林羅山の嘘だから >>185
将軍不在時には摂関がトップでしょ
摂関不在でも将軍が公家のトップに立つことはないが >>188
将軍が京にいなかったときやら空位だったときやらといろいろ
あるが、摂関が武家のトップに立ったことなどないね。
摂関が「武命に違う」等々の理由で追放、解官されたりといった
事例はあるけど。 >>189
「室町殿」は極官が太政大臣
摂関になったことはなく公家のトップに立ったことはないよ >>191
豊臣秀吉は摂関でありながら武家のトップだったじゃん >>192
「室町殿」の権威そのものが摂関を超越していたということだろ?
摂関が無条件にトップでという前提を立てているけど、そもそも
そういう官位を超越した形での摂関の権威そのものが、実力と
伝統以外に裏付けをもたないもの。
将軍家・武家の力と財力に圧倒され、摂関自身が実質的に家
礼として伺候する状態であり、将軍家の意に反するものは公武
問わず解官・追放される状態だった以上、摂関も含めた公家の
上に立っていたと評せざるを得ないだろうね。 >>194
「権威」で話をするなら江戸時代の将軍は摂関はおろか
天皇すら超越してたんだがw
太政大臣が摂関を超越した地位とされたことはないよ
武力を背景に摂関や天皇に疑似させることはできたけど
義満の子は皇太子と同待遇だったしね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています