南北朝時代を語れ
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うん、江戸時代以後のことはすべてスレチだよな
とうぜん、近世・近現代に展開された正閏論もスレチとなり 正平一統が破れ第二次八幡合戦が終わった後の流れを詳しく読める本があるといいな。
建武の新政から新田義貞戦死までが詳しく紹介されてるのに、
いくらワンサイドとはいえ九州以外の南朝の戦いもあるだろうに。 南朝全史でもそれなりには扱ってるけど、詳しくというほど詳しくはないな
現状、他にもっと詳しい本とかは、あるかどうかすら不明? 正平のあとに三度の京都侵攻があったから、それを掘り下げた書籍読みたいな。 >>271
関係ないけどWikipedia日本語版の日本三大悪妖怪は流石にアレだと思ったわ
酒呑童子と玉藻前のページに「日本三大悪妖怪である(出典元なし)」と書かれる→いつの間にか崇徳上皇を加えて日本三大悪妖怪のページが出来る
→Wikipediaをコピペして本に載る→それを読んで一般に広まる→ゲームや漫画を通じて海外にまで拡散
史実を元にドラマにするのはそこまで問題ないとは思うけど
こうやって悪妖怪とか捏造されて拡散されるのは嫌がりそう >>291
「北畠親房は顕家の父」と言ってるのと同じくらい説得力がありすぎ 何か、南北朝関連の読本が何冊か出され始めたな
応仁の乱の次は南北朝を推していくつもりか?
いずれも後南朝は見事にスルーされてたけど 俺が足利尊氏なら、後醍醐天皇が崩御したら、
天龍寺なんぞ建立せずに、大軍で吉野を攻め落とし、
後村上天皇を何が何でも捕える
あの時点なら南朝の畿内における確かな軍事力なんて北畠親房ぐらいだ
絶好の機会だった 北畠親房も宗良親王も吉野から東国を平然と往復してたりして、
沿道の幕府軍は何をしてたんだといつも思うわ 中国の南北朝は領土の地図があって
わかりやすいが
日本の南北朝で領土の地図を見たことがない 領土地図を描けるほど勢力が安定してないし面積的に圧倒的な差があるからなあ
南朝の領土が少なすぎることを明白にしてしまうと反発するやつが出るんじゃないの? 日本のどのあたりに誰がいて南か北か、くらいの地図はあるが。
勢力圏は線引きが難しいだろうな。 国単位じゃなく荘園単位、領地単位で南北に別れてるから図示するのも難しいよな
しかも寝返りも多く、特定の時期を区切らないと図示の意味をなさないし。(つか勢力地図の多くは何年時点の勢力分布で書いてるから普通だけど) 日本の南北朝は、天皇が2人いたっていうだけ
欧州でいえば、ローマとアヴィニョンに教皇がいたような状況だ
中国の南北朝は、国全体が南と北に分かれてたわけで、意味が違いすぎる 天皇が2人いたのは、両統迭立の話がまとまらなくなったのが原因 鎌倉幕府の終わりごろには「両統迭立(りょうとうてつりつ)」という出来事がありました。
後嵯峨上皇は後継者を指名せずに亡くなったため、後深草上皇の流れを汲む「持明院統」と、亀山上皇の流れを汲む「大覚寺統」の二つに皇統が分裂してしまいます。
両者は皇位をめぐって争いましたが、その最終決定は幕府に委ねられました。
このとき幕府は、両党からほぼ交互に天皇を出す、両統迭立という妥協案を取りました。
しかし、この案に不満を持ったのが、天皇中心の政治を取り戻そうとした後醍醐天皇でした。
幕府の決定によれば、後醍醐天皇の皇子は皇太子に選ばれないということになります。
これを一つのきっかけにして、後醍醐天皇の討幕への動きが始まりました。 13世紀半ばには、京都・朝廷でも皇位継承権を巡る大きな問題が起こっていましたが、
その原因を作ったのは兄弟間で皇位相続をさせた第88代・後嵯峨天皇(在位1242-1246)でした。
後嵯峨天皇(邦仁親王)は、承久の乱(1221)に関係していた順徳天皇の系統を嫌った
3代執権・北条泰時によって天皇に擁立されたのですが、
在位4年で第89代・後深草天皇(在位1246-1259)に譲位して院政を行います。 このまま後深草天皇の子どもへと直系男子の系譜によって皇位が継承されていれば内部対立の問題は起きなかったのですが、
1259年に後嵯峨上皇は後深草天皇に『同母弟・亀山天皇(恒仁親王)への譲位』を強く迫りました。
この時には朝廷の政治(院政)は鎌倉幕府の強い影響下にありましたが、
第89代・後深草天皇と第90代・亀山天皇(在位1259-1274)は同じ母親から生まれた兄弟であり、
亀山天皇以降に皇位継承権を巡る対立が深まりこれが南北朝の遠因となります。
後嵯峨天皇(上皇)は、1252年に第三皇子・宗尊親王(むねたかしんのう)を鎌倉に皇族将軍として送っており、
崩御する間際には皇位と上皇位(治天の君)の決定権を幕府に委託していました。 東海林直人のゴロテマ日本史
持明院統と大覚寺統の覚え方◇
ゴロ]ボクは幸福かつ長寿命が/課題なんや
(北朝・後深草天皇・長講堂領・持明院統)(亀山天皇・大覚寺統・南朝・八条院領)
[句意]不幸で長生きしてもつまらない。ボクには幸福でしかも長生きが、課題なんや、という句。紛らわしい正誤問題では、一方だけ完璧で良いので、まず「課題なんや」を覚えることがオススメ。 解決済の質問
後深草天皇→持明院統
亀山天皇→大覚寺統
これのいい覚え方、または覚えやすいエピソードを教えてください。 ベストアンサーに選ばれた回答
後深草寿命がながい、亀山大不覚、とか。ちょっと古くてごめんなさい。 皇室御領の双璧は八条院領(鳥羽天皇の皇女八条院ワ子内親王)と長講堂領(後白河天皇皇女の宣陽門院覲子内親王)です。
前者は約230か所、後者は約180か所あります。
持明院統は長講堂領を、大覚寺統は八条院領を継承しました。
その他の所領を合わせると、両統の所領は拮抗しますが、やや大覚寺統が多かったようです。 もともと、皇室の荘園が2系統に分かれていたのがよくなかった。
荘園を兄弟で別々に相続したおかげで、深刻化相続争いが起きてしまった。
弟には、金銭で相続させればよかったのに。 >>302
キリスト教は確立期に五本山というの?5つの教会が並立する体制ができていて、ローマ教会はそのうちのひとつに過ぎなかっただろ
まあ、5つのうち3つは早期にキリスト教圏から離脱したが。
そんな中で総本山を自称したローマ教会は唯一性の面で多少の問題があったんだよ
まあ、残るひとつが正教会として、なかば別宗派のごとくになってたし、
カトリックの本山としては唯一ではあったのだが。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
KPVN9 >>306
その上さらに後には亀山がゴリ押しして自統の内部を更に分裂させてしまう 一休さんの活動全盛期って義満時代じゃなく義政時代じゃないの? >>315
>>316
一休宗純(1394−1481)
安国寺に入門したのが6歳で金閣寺の創建が1397年だから義満の時代が子供で正しい
変わり者ではあったが将軍相手にトンチ問答などありえない話 1481年って応仁の乱が終わったあとだよね、長生きだなあ 作家の海音寺潮五郎氏は著書「悪人列伝」の足利義満の章において、
後小松天皇は実は義満の子ではないか、と推測しておられる。
そして一休は後小松天皇の御落胤とされている(宮内庁公認)わけだから、
もしかしたら義満と一休は血の繋がった実の祖父と孫だった・・かも 架空の人物だね、wikipediaにも簡略な紹介がある
https://ja.wikipedia.org/wiki/越前局
の中段、フィクション の項 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
UME 後醍醐とかいう時代錯誤の基地外がいなければ、鎌倉幕府滅亡後はどうなってたんだろうか 後醍醐がいなければ鎌倉幕府がもう何十年かは長続きしてるだろ 南北朝の熱い男の叫び!
それがバンデットだ!!
「勇んで三振 後醍醐天皇」(1334年 建武の新政)
子供ながらに失礼だと思ったわ・・・
https://pbs.twimg.com/media/DKWn7wPVoAAVPy5.jpg >>323
少なくとも室町幕府は成立しなかっただろうな
第二の鎌倉幕府が成立してた可能性ならある K | 2019年2月 3日 22:12 | 返信
それを言うなら、皇位継承の「空白の一日」も問題ですよ。
かつて神社新報は、「天皇退位の翌日に新天皇が即位する」との観測記事が
マスコミに流れた際にその一日の時間差を問題視し、『その間に皇位の空白(空位)
を生ずることになるから、それは断じて避けなければならない』と紙面で指摘しました。
記事ではさらに『御譲位と御践祚(即位)は、同日「直ちに」一連のものとして
おこなはれるのが当然であらう。』と強調しています。(平成29年11月13日・5面)
昭和天皇崩御の時は間髪を入れず、即日三種の神器の継承にあたる
「剣璽等継承の儀」が行われています。そしてそれは宮内庁のHPでも
「皇位を継承されたあかし」とか「ご即位直後の剣璽等継承の儀」と表現されていて、
1日の空白もなく瞬時に即位したことがうかがえます。
今回は悠々と翌日に継承の儀ですよね。誰がそんなこと決めたんですかね。
そしてその間、三種の神器は誰のものなんですか?
神社新報もその後この件に関しては沈黙してるみたいだし、不思議ですね。
江川の時みたいに、国民があっと驚く何かが起きるんですかね。
http://my.shadowcity.jp/2019/02/post-14714.html#comment-153895
空白の一日に秋篠宮が即位を宣言して、京阪奈京に脱出し、二人の天皇が
並立するのかも。秋篠宮は京阪奈京で政府を樹立、米軍基地による脅迫が無い
ことから、反米政策・反新自由主義政策を遂行可能で、国民の拍手喝采を
浴びて東京の政府が崩壊するというシナリオを考えた。 >>323
そもそも鎌倉幕府が滅亡してない
後醍醐は鎌倉幕府の寿命を五十年以上は縮めたはず 英政府と野党の協議決裂=EU離脱、首相早期退陣も:時事ドットコム
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019051701133&g=int
英国のEU離脱、全裸で抗議=女性学者らの訴えが物議:時事ドットコム
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019021800157&g=int
Brexit
http://vnbateman.com/brexit.html
前英外相の妹、生放送でセミヌードに ブレグジットで【動画】 - Sputnik 日本
https://jp.sputniknews.com/life/201902175931129/
EU離脱で合意が出来ると、英国海外領土のタックスヘイブンに隠匿された欧州王族などの
簿外資産に課税されることになる。それで国際金融資本の金融覇権が終わる。
その時点で、愛子内親王を女帝にして欧州王族の婿取りをさせて日本を彼らが乗っ取り、
米国の次の寄生先にするというシナリオに従ったふりをする必要もなくなり、今上天皇退位
で秋篠宮が奈良で即位となるだろう。一時的に二人の天皇が並立するとしても、そのような
例は過去に多数ある。南北朝時代が有名だが、安徳天皇と後鳥羽天皇が最初の例だ。
弘文天皇もあてはまるかもしれない。安徳天皇は三種の神器とともに壇ノ浦で女官に
抱かれて入水したことで有名だが、そのため後鳥羽天皇は三種の神器なしに即位している。
また、即位期間が2年間重複している。
「波の下にも都がございます」という祖母の言葉とともに海に沈んだ安徳天皇。
「徳」の文字は間違いなく悲劇的な最期を遂げた天皇や有力皇族(聖徳太子)の鎮魂と
悪霊封じが目的であろう。今上天皇は徳仁親王として「徳」の字を名に持っている。 >>1
南北朝鮮のことなんて語りたくねーよ
糞チョンwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 北朝鮮と南朝鮮で南北朝(鮮)ってか
しょーもないネタではあるな 図書館で「南北朝」を検索ワードにしたら、確かに「南北朝鮮」がひっかかった。 世界的に言って、南北朝みたいな南北の争いってだいたい北が勝って統一されると言うが、
さすがに朝鮮半島は例外だろうと以前は思っていた
が、最近はまた微妙になってきたなあ そりゃ検索では引っかかるだろうけど
「南北朝」なんて小学生でも知ってるワードだろうと 中朝事実について語ってると「シナチョンがどーしたって?」とネトウヨがw >>335
ネトウヨは知らないだろう。
半島の歴史には異様に詳しいけどな、アイツらw 天皇、将軍、管領、守護大名の家督騒動(南北朝戦国)に巻き込まれたらひ弱なチョンコなんて生きていけない。 チョンに拘りを持つ馬鹿ネトウヨw
早く祖国の北チョンに帰れやw http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=333930
さて、話を戻せば、学者の世界では「初めて天皇と称した者」は40代天武天皇と言われるが、天武天皇は
新羅の文武王である金法敏。その息子の金霜林が百済を滅ぼし、九州に攻めて来て日本を支配し、彼の
息子の金良琳が初めて天皇と名のる!まずは、これを何度も言う。しかし新羅という国が内紛・崩壊し、
日本に逃亡していた百済の王族が、クーデターを起こし、天皇になる。初めての百済系天皇が50代の
桓武天皇である。
天皇は南と北の南北朝に分かれるが、
北朝天皇は新羅系
南朝天皇は百済系
北朝系天皇は侵略者が起源
南朝系天皇は亡命者が起源
である。 敵国新羅と属国百済しねよw
天皇はその二国の王位継いでねーよw価値がないからw >>344
父の後村上は後亀山に譲位したがってた節があるのよな しかも、その度に必ず揉めてるし。
それでいて、後宇多末弟への継承が阻止されるなど、必ず弟筋に行ってるわけでもない 後醍醐が仲の悪い息子護良親王を足利に殺させたのか
理由がいまいちわからん 護良親王を殺して後醍醐はこけた気がする
足利直冬を敵に回して尊氏はこけた それはあるかもしれん
しかし、反乱軍である北条時行らが万が一にも皇子を手中に収めて勢力を伸ばしてたら足利とて存亡の危機、あの段階では殺す以外にどうしようもなかったからなあ
後醍醐帝にとっては、足利の手の中にあるのと北条に擁立されるのと、どちらがましだったのかわからんなあ 北条自体が少数勢力の反乱だから護良が加勢すれば
大義名分がたってむしろ討ちやすかったはず 中先代の乱の規模、精強さを知らんのか
一時は関東を制圧して東海道も半分ぐらい抑えてただろ、もとの地盤の甲信あたりも含めて、相当な規模
北条家遺児以外に旗頭がなくてなお、足利(それも叛乱状態じゃなかった頃、体制側の)を圧倒した 南北戦えば北が大体勝つ
○ワシントンリー
○隋後梁&陳
○宋十国
○清順&後明(鄭氏台湾ふくむ)
○ベトコン南ベトナム 佐々木導誉は絶対的な存在だったのに
佐々木氏はなぜ管領に選ばれなかったんですか? 南朝=大覚寺統ではなくて、南朝=大覚寺統後醍醐流。
大覚寺統の傍系にすぎず、期間限定で中継ぎの皇位についた後醍醐帝が、
自分の子孫に皇位を継承させようと暴れていたというのが実態。
南北朝時代でも、後醍醐流以外の大覚寺統皇族のほとんどは北朝(持明院統)と共に京都にいた。 >>358
明王朝
国民党の北伐
明治維新の際の奥州征伐から五稜郭攻め 直冬の勢力範囲がいまいち分かりません
南部九州と山口県あたりと考えていいんですか? 九州直冬派は少弐と畠山だから、福岡と宮崎は確実だね。
大分の大友は日和見だから不明。
鹿児島の島津は畠山と仲が悪いので尊氏派だったり南朝についたり。
佐賀長崎の一色は明らかに尊氏派。 といっても、この時期の勢力図は国単位じゃなくて荘園単位で見なきゃならないからねえ…… あまりにあちこち勢力が分散してるから
九州は放棄気味にして関東を平定するとか
いや、尊氏の後期はそうなってたのかもしれないけど
なんか戦略がいまいち見えない >>342でほぼ正解だよ
俺的には第40・41代は実在する人物だが天皇ではなかった説をとる
つまり第42代文武天皇が初代
ま、そんなことどうでもいいやな
南北朝時代というのは南朝天皇と北朝天皇の争いだが
南朝は奈良の百済人天皇で、北朝は京都の新羅人天皇だ
「朝廷」は朝鮮の宮廷の意味らしいな
それが二つ、日本に誕生したということだ
実は、この2グループは宿命のライバルであり
日本列島上では1300年前から戦っている
それをなんで南北朝時代だけしか戦ってないように思わせているか分からないが
半島時代にも戦っていたし、半島に入る前からも戦っている
モンゴル→新羅→京都の北朝
ツングース→高句麗・百済→奈良の南朝
これは何千年にも渡る争いだ
争いながら日本列島にもつれ込んだ形だ
そして今はどうなっているかと言うと
南北朝の両方の天皇の系統は既に終わっているようだ
じゃあ皇居にいる奴は何者かという話になるが、あれは天皇じゃない
李氏朝鮮の李家が天皇家を名乗っている
系統的には南朝の親戚ぽい これだけ京都を攻められて落とされてるし
防御をしっかりと考えてほしい
まじでこの時代の建築技術は低いんじゃないかと思ってしまう >>372
地形が悪いのはよく聞くけど
京の外郭に城とか作れないのかな >373
簡易の城壁とも言える木柵で町をぐるっと囲んではあったと思うけど(少なくとも治承寿永、源平合戦の頃にはあったようだし、六波羅攻めのときにも柵があったようには見える)
守るべき城壁の長さに比して防衛に携わる軍兵が足りないので、城壁があっても防御力を発揮できないんだろう >>376
二条城は足利義輝からで南北朝の後
伏見城は秀吉 >>375
中国の史家が皇居の塀を見て
こんな低いので防御できるのかと驚いてたし
当時の日本の防御機構は弱かったんだろう 朗報 南朝が身近になった
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