このまま後深草天皇の子どもへと直系男子の系譜によって皇位が継承されていれば内部対立の問題は起きなかったのですが、
1259年に後嵯峨上皇は後深草天皇に『同母弟・亀山天皇(恒仁親王)への譲位』を強く迫りました。

この時には朝廷の政治(院政)は鎌倉幕府の強い影響下にありましたが、
第89代・後深草天皇と第90代・亀山天皇(在位1259-1274)は同じ母親から生まれた兄弟であり、
亀山天皇以降に皇位継承権を巡る対立が深まりこれが南北朝の遠因となります。

後嵯峨天皇(上皇)は、1252年に第三皇子・宗尊親王(むねたかしんのう)を鎌倉に皇族将軍として送っており、
崩御する間際には皇位と上皇位(治天の君)の決定権を幕府に委託していました。