南北朝時代を語れ
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>>42
このスレでそんなこと語られてないw
通史レベルでは後醍醐から後小松までが南北朝時代で
どちらが正統だという結論は出てないから。
正平の一統以降も後村上天皇は都に入れぬまま。
正当なはずの後亀山天皇が正統ではない後小松天皇に神器引き渡し。 >>42
いや、南北合一時に、後に残った北朝側は
「合一以前からずっと、こちらが正統だった」と言った、
勝ち残った側で南朝の皇位を僭称と言い切ったんだから、
南朝正統説は成立しない。
正平一統の期間に関しては、南朝側と北朝側のどちらもが正統性を不完全にしか保ってないから、
この時期は空位時代と考えるしかない。
(あえていえば南朝後村上は在京する以外の要件を満たしているが北朝側は適合者がいないから、
この期間だけを後村上の時代と考えてもいい)
>>43
うん。
スレで多くの人の支持を取り付けた意見じゃなくて、オレが言って一人か二人ぐらいが(たぶん、部分的に)賛同しただけで、
反対意見が主流だったんだよな。 >>43
通史レベルのことなんて、そこらで売ってる本でも読めばいいことで
わざわざここで主張することかよw
都に入ったかどうかは正統云々は関係ないし。
在京云々は事実上の政権ってことだろうがそんな価値基準なら
正統論自体が観念的で虚しいだろう。
そもそも近代史学以前にそれを根拠として名分論なりたつの? >>44
いや、「北朝側がその当時はそう宣言した」ってのは
単なる事実としては最初から理解してるよ?
おまえは北朝がいえば何でも正しいの?
おまえがなにをいいたいいのかよくわからないよ。
正平一統についてはあれは神器が北から南に移ったって点
北朝に正統性について擁護可能な天皇が存在しなくなったってこと。
京都を制してるかどうかは正統性と関係ない。 >>45
じゃあ聞くが、
>正平の一統までは北朝が正統
>正平の一統からは南朝正統
ってお前以外のこのスレの誰が同意しているの?
「だからこそこのスレで語られてきた」
とこのスレ住人の総意のようなふりして虚言を振りまいてるのお前じゃんw
「俺の個人的見解では」に訂正しろよ。 >>46
勝者が歴史を作るという原則に従うなら、南朝の主張は掛け声だけ、威勢だけと考えるしかない。
原理原則を追究していくなら、幕府が勝手に擁立した後嵯峨帝以後の皇統そのものが正統性を欠いているなんて主張だってできてしまう。
そもそもだ、世間からの広範な支持を受けたから勝った、支持されなかったから負けたって側面がある。
南朝が主張した自己の正統性は、世間からの支持がほとんど無かったんだよ。 >>46
南朝の主張では正平の一統以前から神器は南朝にあったといってるんだよ。
後醍醐天皇が尊氏に偽物を渡して正式なものを吉野へ持ち込んだことになってるから。
だから、神器のありかのみで正統かどうかを判断するならずっと南朝が正統だったことになる。
でもそんな単純な話じゃないだろ。 南北朝どっちが正統かなんて個人の信仰の問題だろ
論ずる意味がない >>52
こんどは後醍醐天皇を主人公にして、貴台の怪物っぽい雰囲気をうまく作って欲しいもんだよなあ。
尊氏は、たしかに勝利者側だけど、主人公としてはイマイチ面白くない人物像だから難しかったんだろう、大滑りしたよなあ。
聖人君子的な要素を持ち合わせない後醍醐天皇の方がよほど主人公向きだ。 後醍醐の母親が祖父の亀山とヤってるとかそんな話無理すぎるw 敗れて消滅し、それを継承する者がいなくなった時点で正統性が失われる。
三国時代の例なら、魏から禅譲された西晋が存在するからこそ、漢から禅譲を受けた魏が正統とされた
東晋から禅譲を受ける形で続いたであろう南朝は北朝により征服され消滅したわけで、放伐により消えた形だから、
こちらの北朝系である隋唐は晋や魏を正統と認定する必然性はなかったが、とりあえず蜀を正統とするわけでもなく、魏晋正統説を踏襲したんじゃなかったかな。
帯するに、日本の南北朝に関しては、北朝側が南朝の正統性を否定し、正統は自分たち北朝側だと主張したから、
幕府は南朝と北朝の両方を正統と見なしたけど、幕府が消えて北朝だけが残った時点で南朝の正統性は完全に消え去った。
ただ---
明治維新で倒幕を主導した人たちの多くが南朝正統説を信じていて、
南北合一以前の北朝を正統と考えていなかった上、それを明治天皇に公認させて今に至っているだけ。 なぜ後小松帝は後崇光院を猶子に迎えようとしたのですか?
年齢的に称光帝よりずっと年上じゃないですか 鎌倉末期に間に幕府が入って仲裁しなかったら実力でさっさと
ケリが付いてたってだけじゃねえの? >>60
北条時宗が朝廷を二分させてお互い争わせ双方とも共倒れで権力を失わせようとして
あえて両統迭立を指示したと言われているね
結局そのおかげで朝廷二分には成功したものの
肝心の鎌倉幕府が滅んだんだが 幕府は朝廷内の揉め事に深入りしない方針で、勝手にしろ状態だぞ
まあ、元軍の侵攻が起こりうる時期には敗者に復活の余地を残す方針があったかもしれんけど。
幕府が強く干渉したのって、承久の再現を恐れた一件だけだったろ >>62
いや、後嵯峨上皇が没したとき、鎌倉幕府はその妃・大宮院に
後深草上皇と亀山天皇のどちらを治天の君にすべきか聞いた。
大宮院は後嵯峨の遺志が亀山にあったことを告げ、すでに亀山の皇子が皇太子になっていたため、
朝廷の意思に従えば亀山の系統(大覚寺統)で統一されるはずだった。
しかし、亀山と不仲だった西園寺実兼(亀山妃だった妹が亀山に寵愛されず不仲になったという)
が関東申次の立場を利用して北条時宗に後深草皇子の立太子を提案し、
これに北条時宗が乗ったことが両統迭立の始まり。
西園寺実兼は西園寺家興隆のため、時宗は朝廷二分のため、両者の利害が一致した。 そもそも承久の乱後の朝廷には既に自分たちの運命を決断する力も
なかったんじゃ? >>63
四辻宮だね、正統な子孫は
>>64
朝廷二分のためっていうか単に後深草に同情しただけじゃ?
むろん御公儀の御政道に私情は禁物だが
五摂家のトップにたらしこまれたら田舎っぺの時宗なんか
「やっぱそうだよな」と簡単に納得するだろ >>66
五摂家はこの当時鎌倉幕府に対する発言権はない
この時代、関東申次を世襲し天皇の外戚として力を持っていたのは公家の西園寺家
時宗に皇位継承の相談をしたのは西園寺家当主の実兼
時宗は後深草と面識ないし別に同情する必要もないんだがなあ
時宗自身、庶兄の時輔を殺して得宗の地位を安泰にしているし
後深草の皇子を立太子させれば朝廷が二分することなどわかってたはず どうせ長崎高資あたりが双方から賄賂でももらってたんだろ 亀山方は出る芽がないで、世を儚んで出家するって騒いで世間の
同情買ってたんでなかったかな?
黒田俊雄って骨のある人だな〜
昔はこういう御仁が沢山いたんだな。 壇ノ浦まで平家
鎌倉実朝まで源家
鎌倉北条は平家
室町足利は源家 北条、足利は平氏、源氏ではあるが平家、源家ではないだろ 北条の本姓が平氏と言うのは、松平家が清和源氏新田氏流を仮冒したのと同じようなもん。
なんせ頼朝決起以前は坂東武者の中では雑魚中の雑魚だったから、時政以前の系図がはっきりしないし、単なる自称の域を出ないもん。
頼朝没後の徹底した他氏排斥ぶりは、権力闘争に加えて元の出自の低さに対するコンプレックスもあったと思う。
一方で同じく出自の低かった安達家を優遇したのは、こいつなら俺らを馬鹿にしないと言う安心感からだろう。 武家世界では平家源家平家と来たからには、次は源家足利だと
いう声があったんだと。 >>69
息子が即位できないなら出家するといって同情買おうとしたのは
後深草上皇だよ
亀山天皇のほうは後嵯峨在世中に息子が皇太子にたって
鎌倉幕府介入までは圧倒的優位にいた 亀山と折が合わなかった西園寺が幕府に通じてひっくり返したんだったな。
どっちにしろ幕府の陰謀という雰囲気は薄いんじゃ? で、源平二大党派制の政権交代論が背景にあって、それが朝廷の
皇位継承問題にも影を落とした可能性もありそうだと。 >>77
天皇家の内紛に北条時宗が乗じたというのはある
西園寺実兼の言い分を認めて後深草皇子を立太子させながら必ずしも実兼に迎合するわけでなく
一方で亀山上皇を治天の君と定めて院政を認めるなど朝廷の「ねじれ」を行っている 幕府は内紛にうんざりして花園天皇の頃に朝廷に調停を図ってるだろ? >>80
幕府が10年ごとに天皇を交代しろという両統迭立を定めたのは
後二条天皇のときだよ
そのときの得宗は北条貞時(時宗の息子)
このときも皇統をどちらか一系統に統一しろとは言ってない >>64,66-67
かつての
>大宮院は後嵯峨の遺志が亀山にあったことを告げ
の遺志が、でっち上げだったという説が朝廷内に広まったから後深草に肩入れせざるを得なくなった、
という情勢判断を(事実だか勘違いだか誤情報だかは別にして)受け取ってしまった結果じゃないのかなあ
>>75
それはデマ >>82
デマもクソも自称平家の北条得宗の専制体制が元寇後に、頼朝
以来の御家人一同を締め付けてた状況で、御家人筆頭の足利が
期待されんのは当たり前だろ〜 北条の平家由来が仮冒というのは決定的な問題じゃない。北条が
平家の旗を掲げて、壇ノ浦に批判的で平家への同情的な空気を
北条が上手に利用したという状況が重要だろ。 暴露主義では歴史は読み取れない。小林秀雄なんかは時々、
この点を強調したな。その時代の、生きた人間的条件を無視
して歴史は語れない。 自分が歴史空間の中で呼吸してないせいか知らん?
進歩主義の科学的世界に安住してるだけじゃ歴史感覚なんて
もんはゼロだからなw >>82
後嵯峨の遺志が亀山にあったことに対するでっち上げ説は出てないよ
だいたい、後嵯峨は院政をとっていた生前に亀山天皇の皇子を皇太子に立てている
加えて後深草・亀山両天皇の実母である大宮院がそう証言しているのだから
覆しようがない >>83
足利が期待されたことじゃなくて、
>平家源家平家と来たからには、次は源家足利
という事情の方がデマ 源平交代論が当時あったという説がデマという主張の根拠、
乃至、議論の経緯くらい示してから何か言えよ。 資料、典拠を示せ。
大威張りで「デマ」と決めつけるからにはそれなりに有名な
問題だろう。 高氏(尊氏)はハーメルンの笛吹だな。
鎌倉で冷遇→離反して皆が後を追って鎌倉を潰す
建武の新政で冷遇→離反して皆が後を追って潰す 実力もプライドもある。ダシにされるのは御免。別に信用に値
しないという程でもなかろう。
俺はごく若い頃は当たり前に合理主義の子で根無し草的現代人
だったから、普通の奴らってのは手に取るように分かるよ。 世に背を向けて生きるようになってからは、幽暗の世界が居心地が
良くなったよ。
現代人てな自分がサルの子孫なことを鼻にかけて昔の人より
立派そうな顔をするな。 一休さんも南北朝の頃か?
「分け登るふもとの道は多けれど同じ高嶺の月をこそ見れ」と
詠んでるが、黒田俊雄がこの時代の宗教世界の分析で面白そうな
話を展開してんな。 南北朝の末期から室町中期の人だよな
南北合一の時の後小松帝の次子だから、合一の頃には未成年かな?
記憶がはっきりしないが、ちょっとググって調べたらすぐ分かることだよな > 源平交代論が当時あったという説がデマという主張の根拠、
源平交代論が当時あった、という説の根拠を出す方が先じゃないのかな。 なかったことを証明するって、典型的な悪魔の証明だよなあ >>98
黒田がそんな話してたぞ。
俺たちの世代が子供時代にアニメで一休さん見せられたのは
この人のお陰かな? 世の中も薄ぺらくなったな。 デマって言うのは風説に対する物言いだろ?
東西王権独立論からすると源平交代論はあんまり歓迎されない
わけだな。 東西王権独立論は割と古い学説だな。戦後になって、東大閥が
邪馬台国九州学説を公言し始めたのと同じ流れではないか? 団塊よりも、今の主力世代の四〜五十代がポパイ君オリーブちゃんで
アタマふやけてて始末に負えんw
俺の同世代だけどな。 源平交代論があったと確実に言えるのは江戸時代以後ではなかったか >>102
え?
>東大閥が邪馬台国九州学説を公言
東大閥が邪馬台国九州説を推したのは戦前からと言うか、江戸時代後半以後の学統の延長だろ
明治維新で中心的だった一部武士もその学統に属してたから、明治政府の公式見解の延長のはずだが
戦後になってからなんてことはありえないだろ 源平交代論はどんなに古くても信長が台頭してきてからじゃないの?
べつに「東大(関東独立王国)vs京大(権門体制論)」の話は関係ないと思う 鎌倉末から言われてるんだって。もともと源平合い並びて天下を
収める云々とか。
足利尊氏ってやる気なさそうで好きだな。 一族の天下取りの予言を背負わされて、宿命は呪いに似たりで
性格は複雑になるし、信心も自ずと深くなる。
上宮太子に倣って十七条の式目を立てる。頭の中では常に祇園精舎の
鐘が鳴り響いてるタイプかな? 上宮太子(格好付けて聖徳太子とは呼ばない)は院政の元祖だからな。
後醍醐帝の目指した親政とは対照的だとも言える。 世阿弥も能の起源を上宮太子に帰させてるようだし、この時代は
それが当たり前だな。
交代論は黒田でなかったわ。今の歴史学会で最長老やってる人? >>105
万世一系の皇統の始祖が九州国にいただと? 貴様は足利尊氏かあ!
というのが戦前の雰囲気だろ。 尊氏が悪者扱いされ始めたのも明治末頃かららしいが。 明治の末に南北朝の正閏問題が持ち上がって、明治天皇の勅裁で
南朝を吉野朝と呼び換えてこれを正統と定めたわけだな。ここから
尊氏の評価が悪化した。昭和ファシズム時期の建武朝600年を機会に
尊氏バッシングがあって悪者の代名詞に使う流行りが起きたらしいな。
明治も今も皇室は北朝だろ。矛盾しまくりな世界。 昭和戦後に書かれた日本通史にはこういう話は当たり前に書かれ
てる。
元はと言えば家永三郎の『太平洋戦争』読んだら、戦時中の小学生の
思い出話に、日本神話のことを歴史として教えられたから「先生、
そんなの嘘だっぺ?」と子供らしい正直な感想をぶつけたら、教師に
「貴様は足利尊氏か!」と怒鳴られてゲンコツを食ったという
今にしてみたら笑い話みたいな逸話があった。この話を俺が単に
面白がって持ち出したのは90年代終わり頃で、そんな戦前のいかれた
風景はまだ遠い世界だった。つくる会のキチガイどもは既にうるさ
かったけど。 既に江戸初期の「太平記秘伝理尽鈔」では尊氏は無能な俗物扱いだからな 東洋文庫の「太平記秘伝理尽鈔」、続きはいつ出るの? >>118
日蓮宗の書いたものかよ…
土着御家人で地道だが兄弟揃って御歳暮嫌いで実直な高潔漢だろ。
尊氏は戦場では穏やかな自信に満ちた笑みを絶やすことがなかった。
夢窓国師と弟直義の禅問答集「夢中問答」は併せて読みたい。 直義は最初に朝廷一の儒学者を幕府に取り立ててるな。
家康もこの例に倣ったのか知らん。 >>117
明治維新で耶蘇解禁になって徳川期には暴君扱いだった信長が
忠君として持ち上げられ始めた時期だからな。
それでも維新以前の世界観というのは急激に何もかも変わるもの
でもない。 >>123
明治維新の中心的な立場を占めていた志士たちの大半は、国学系の新興思想を奉じていた
その関係で、志士たちの頭の中では「尊氏=逆賊」だったんだ
庶民はそういう人が多数派になったわけではないが、志士たちの間に限っては、尊氏逆俗説が主流だった
まあ、幕末に限って言うなら、尊氏の木造を徳川幕府に見立てたとみなす余地もあるが。
民間まで尊氏逆俗説が普及したのは明治以後の教育の結果だろ
本格的に広まったのはたぶん大正期 幕末の志士にも農民階級から開明派になった方は足利と縁組みしたり
してたらしいな。 これは死んだ婆さんの思い出話。
伊藤博文も農民出でリベラル穏健派だろ。 反動派の志士しかいなかったら首都が京都になってた。
その農民出の志士氏が大久保に東京を首都にするように進言した。 林羅山を中核にした徳川初期の儒学導入と足利一門の取り立ては
同時進行だな。
信長→秀吉→家康という継承関係ばかり注目されて、家康が
室町幕府を体制の雛型としたという観点は言われないな。 信長も秀吉も覇道ばかりな暴君で王道文治に欠けるから続かなかった。 家康の関東支配も鎌倉公方の正統的後継者の位置づけという面倒な作業があってのものだしな >>131
守護? 守護代だろ
武蔵の守護は上杉じゃんか そうそう、守護代理。家康の成功は室町体制を継承したことに
あったのでは? 乱世が好きな支配者なんてのは民衆からすりゃ単なる糞野郎だ。 後醍醐の失敗は、対外侵略を国内統一の手段にしなかったことだな。 >>135
皇統が実子に継がれたから満足、満足。てな感じだろう 後醍醐帝て建武の元号つかうあたり
光武帝の治世に憧れてたんだろうけど
結果的は王莽みたいになっちゃたな 神武にも天武にも被せてあるんではないか?
しかし、朝廷の繁栄の礎となったのは上宮太子にございます。
(-人-) >>137
王莽よりは、どっちかって言うと劉備のほうが少し近い気がする 出自血統の面で言えば、
後醍醐>尊氏>劉備 なんだよなあ。どっちになぞらえても、劉備よりは高貴の生まれ。
成果という面で言うなら、
尊氏>劉備>後醍醐 と言った方がいいんじゃないかな
劉備と後醍醐は逆か
尊氏は帝位に就いたわけじゃないけど(幕府の長であって、人臣たる征夷大将軍にすぎない)
それなりの期間にわたって安定する政権を打ち立てた。
後醍醐も政権は取ったけど、自分の一代の間すら保持しきれなかった。
劉備は帝位には就いたけど、天下を統一できなかったし、二代目のなかばで早くも消滅した
期間は短くとも数代にわたって存続できた点を重く見たら劉備より後醍醐の業績(出世度じゃなく、残した遺産の規模)の方が勝るとも言えるな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています