>>62
いや、後嵯峨上皇が没したとき、鎌倉幕府はその妃・大宮院に
後深草上皇と亀山天皇のどちらを治天の君にすべきか聞いた。
大宮院は後嵯峨の遺志が亀山にあったことを告げ、すでに亀山の皇子が皇太子になっていたため、
朝廷の意思に従えば亀山の系統(大覚寺統)で統一されるはずだった。

しかし、亀山と不仲だった西園寺実兼(亀山妃だった妹が亀山に寵愛されず不仲になったという)
が関東申次の立場を利用して北条時宗に後深草皇子の立太子を提案し、
これに北条時宗が乗ったことが両統迭立の始まり。
西園寺実兼は西園寺家興隆のため、時宗は朝廷二分のため、両者の利害が一致した。