南北朝時代を語れ
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北条の平家由来が仮冒というのは決定的な問題じゃない。北条が
平家の旗を掲げて、壇ノ浦に批判的で平家への同情的な空気を
北条が上手に利用したという状況が重要だろ。 暴露主義では歴史は読み取れない。小林秀雄なんかは時々、
この点を強調したな。その時代の、生きた人間的条件を無視
して歴史は語れない。 自分が歴史空間の中で呼吸してないせいか知らん?
進歩主義の科学的世界に安住してるだけじゃ歴史感覚なんて
もんはゼロだからなw >>82
後嵯峨の遺志が亀山にあったことに対するでっち上げ説は出てないよ
だいたい、後嵯峨は院政をとっていた生前に亀山天皇の皇子を皇太子に立てている
加えて後深草・亀山両天皇の実母である大宮院がそう証言しているのだから
覆しようがない >>83
足利が期待されたことじゃなくて、
>平家源家平家と来たからには、次は源家足利
という事情の方がデマ 源平交代論が当時あったという説がデマという主張の根拠、
乃至、議論の経緯くらい示してから何か言えよ。 資料、典拠を示せ。
大威張りで「デマ」と決めつけるからにはそれなりに有名な
問題だろう。 高氏(尊氏)はハーメルンの笛吹だな。
鎌倉で冷遇→離反して皆が後を追って鎌倉を潰す
建武の新政で冷遇→離反して皆が後を追って潰す 実力もプライドもある。ダシにされるのは御免。別に信用に値
しないという程でもなかろう。
俺はごく若い頃は当たり前に合理主義の子で根無し草的現代人
だったから、普通の奴らってのは手に取るように分かるよ。 世に背を向けて生きるようになってからは、幽暗の世界が居心地が
良くなったよ。
現代人てな自分がサルの子孫なことを鼻にかけて昔の人より
立派そうな顔をするな。 一休さんも南北朝の頃か?
「分け登るふもとの道は多けれど同じ高嶺の月をこそ見れ」と
詠んでるが、黒田俊雄がこの時代の宗教世界の分析で面白そうな
話を展開してんな。 南北朝の末期から室町中期の人だよな
南北合一の時の後小松帝の次子だから、合一の頃には未成年かな?
記憶がはっきりしないが、ちょっとググって調べたらすぐ分かることだよな > 源平交代論が当時あったという説がデマという主張の根拠、
源平交代論が当時あった、という説の根拠を出す方が先じゃないのかな。 なかったことを証明するって、典型的な悪魔の証明だよなあ >>98
黒田がそんな話してたぞ。
俺たちの世代が子供時代にアニメで一休さん見せられたのは
この人のお陰かな? 世の中も薄ぺらくなったな。 デマって言うのは風説に対する物言いだろ?
東西王権独立論からすると源平交代論はあんまり歓迎されない
わけだな。 東西王権独立論は割と古い学説だな。戦後になって、東大閥が
邪馬台国九州学説を公言し始めたのと同じ流れではないか? 団塊よりも、今の主力世代の四〜五十代がポパイ君オリーブちゃんで
アタマふやけてて始末に負えんw
俺の同世代だけどな。 源平交代論があったと確実に言えるのは江戸時代以後ではなかったか >>102
え?
>東大閥が邪馬台国九州学説を公言
東大閥が邪馬台国九州説を推したのは戦前からと言うか、江戸時代後半以後の学統の延長だろ
明治維新で中心的だった一部武士もその学統に属してたから、明治政府の公式見解の延長のはずだが
戦後になってからなんてことはありえないだろ 源平交代論はどんなに古くても信長が台頭してきてからじゃないの?
べつに「東大(関東独立王国)vs京大(権門体制論)」の話は関係ないと思う 鎌倉末から言われてるんだって。もともと源平合い並びて天下を
収める云々とか。
足利尊氏ってやる気なさそうで好きだな。 一族の天下取りの予言を背負わされて、宿命は呪いに似たりで
性格は複雑になるし、信心も自ずと深くなる。
上宮太子に倣って十七条の式目を立てる。頭の中では常に祇園精舎の
鐘が鳴り響いてるタイプかな? 上宮太子(格好付けて聖徳太子とは呼ばない)は院政の元祖だからな。
後醍醐帝の目指した親政とは対照的だとも言える。 世阿弥も能の起源を上宮太子に帰させてるようだし、この時代は
それが当たり前だな。
交代論は黒田でなかったわ。今の歴史学会で最長老やってる人? >>105
万世一系の皇統の始祖が九州国にいただと? 貴様は足利尊氏かあ!
というのが戦前の雰囲気だろ。 尊氏が悪者扱いされ始めたのも明治末頃かららしいが。 明治の末に南北朝の正閏問題が持ち上がって、明治天皇の勅裁で
南朝を吉野朝と呼び換えてこれを正統と定めたわけだな。ここから
尊氏の評価が悪化した。昭和ファシズム時期の建武朝600年を機会に
尊氏バッシングがあって悪者の代名詞に使う流行りが起きたらしいな。
明治も今も皇室は北朝だろ。矛盾しまくりな世界。 昭和戦後に書かれた日本通史にはこういう話は当たり前に書かれ
てる。
元はと言えば家永三郎の『太平洋戦争』読んだら、戦時中の小学生の
思い出話に、日本神話のことを歴史として教えられたから「先生、
そんなの嘘だっぺ?」と子供らしい正直な感想をぶつけたら、教師に
「貴様は足利尊氏か!」と怒鳴られてゲンコツを食ったという
今にしてみたら笑い話みたいな逸話があった。この話を俺が単に
面白がって持ち出したのは90年代終わり頃で、そんな戦前のいかれた
風景はまだ遠い世界だった。つくる会のキチガイどもは既にうるさ
かったけど。 既に江戸初期の「太平記秘伝理尽鈔」では尊氏は無能な俗物扱いだからな 東洋文庫の「太平記秘伝理尽鈔」、続きはいつ出るの? >>118
日蓮宗の書いたものかよ…
土着御家人で地道だが兄弟揃って御歳暮嫌いで実直な高潔漢だろ。
尊氏は戦場では穏やかな自信に満ちた笑みを絶やすことがなかった。
夢窓国師と弟直義の禅問答集「夢中問答」は併せて読みたい。 直義は最初に朝廷一の儒学者を幕府に取り立ててるな。
家康もこの例に倣ったのか知らん。 >>117
明治維新で耶蘇解禁になって徳川期には暴君扱いだった信長が
忠君として持ち上げられ始めた時期だからな。
それでも維新以前の世界観というのは急激に何もかも変わるもの
でもない。 >>123
明治維新の中心的な立場を占めていた志士たちの大半は、国学系の新興思想を奉じていた
その関係で、志士たちの頭の中では「尊氏=逆賊」だったんだ
庶民はそういう人が多数派になったわけではないが、志士たちの間に限っては、尊氏逆俗説が主流だった
まあ、幕末に限って言うなら、尊氏の木造を徳川幕府に見立てたとみなす余地もあるが。
民間まで尊氏逆俗説が普及したのは明治以後の教育の結果だろ
本格的に広まったのはたぶん大正期 幕末の志士にも農民階級から開明派になった方は足利と縁組みしたり
してたらしいな。 これは死んだ婆さんの思い出話。
伊藤博文も農民出でリベラル穏健派だろ。 反動派の志士しかいなかったら首都が京都になってた。
その農民出の志士氏が大久保に東京を首都にするように進言した。 林羅山を中核にした徳川初期の儒学導入と足利一門の取り立ては
同時進行だな。
信長→秀吉→家康という継承関係ばかり注目されて、家康が
室町幕府を体制の雛型としたという観点は言われないな。 信長も秀吉も覇道ばかりな暴君で王道文治に欠けるから続かなかった。 家康の関東支配も鎌倉公方の正統的後継者の位置づけという面倒な作業があってのものだしな >>131
守護? 守護代だろ
武蔵の守護は上杉じゃんか そうそう、守護代理。家康の成功は室町体制を継承したことに
あったのでは? 乱世が好きな支配者なんてのは民衆からすりゃ単なる糞野郎だ。 後醍醐の失敗は、対外侵略を国内統一の手段にしなかったことだな。 >>135
皇統が実子に継がれたから満足、満足。てな感じだろう 後醍醐帝て建武の元号つかうあたり
光武帝の治世に憧れてたんだろうけど
結果的は王莽みたいになっちゃたな 神武にも天武にも被せてあるんではないか?
しかし、朝廷の繁栄の礎となったのは上宮太子にございます。
(-人-) >>137
王莽よりは、どっちかって言うと劉備のほうが少し近い気がする 出自血統の面で言えば、
後醍醐>尊氏>劉備 なんだよなあ。どっちになぞらえても、劉備よりは高貴の生まれ。
成果という面で言うなら、
尊氏>劉備>後醍醐 と言った方がいいんじゃないかな
劉備と後醍醐は逆か
尊氏は帝位に就いたわけじゃないけど(幕府の長であって、人臣たる征夷大将軍にすぎない)
それなりの期間にわたって安定する政権を打ち立てた。
後醍醐も政権は取ったけど、自分の一代の間すら保持しきれなかった。
劉備は帝位には就いたけど、天下を統一できなかったし、二代目のなかばで早くも消滅した
期間は短くとも数代にわたって存続できた点を重く見たら劉備より後醍醐の業績(出世度じゃなく、残した遺産の規模)の方が勝るとも言えるな >>141
室町幕府が「それなりの期間にわたって安定」?
もまえは何をいってるんだ >>100
あー、一休さんいいな。『少年徳川家康』とか歴史に題材とったもの
もっとたくさん作って欲しいわ この時代はピクニック気分で戦争してるよな
補給線なんてマジで考えてなさそう
北畠顕家なんて奥州から上洛して畿内で転戦してて草
しかも万単位の兵で >>145
顕家はかなり短期間で奥州から京にまで進撃しているから補給が苦しいのは
無理もない話だが、それ以上に問題化したのは守護による乱坊、横領など
戦争を理由にした組織的な行為が幕府内部の権力抗争につながった点で
特異と言えるだろう。 調べたけど、なんか後醍醐天皇って昭和天皇とは丸っきり正反対だな
あくまでの立憲君主に徹し、現実主義だった昭和天皇と比べて
自分が権力を握った政治を行うとして徹底抗戦した後醍醐天皇
そりゃ近代以降の天皇と
中世の天皇を比べれば違うのは当たり前なんだろうけど
仮にこの二人が親子関係で
第2次大戦を迎えていたら相当険悪な仲に成りそうなんだよな・・・
と言うか性格合わなさそう >>147
立憲君主に徹していたことが確認できるのは戦後の現憲法下だけだぞ
戦前戦中は立憲君主に徹していたってわけではない。まあ、政治権限自体は法律上はゼロに近いんだけど。 >>143
建武政権にくらぶれば、「それなり所でない期間にわたって安定」したと言える >>147
歌舞伎界の後醍醐天皇と昭和天皇は親子だな >>146
南朝だけで幾つ
【幕府】があったのやら そうでもないはず
北畠顕家が滞在した短期間を除けば、さほど差はない
顕家が西上したあと、こんどは幕府がわの斯波氏が勢力を伸ばしただろ
斯波氏の子孫は出羽の最上氏と陸奥の大崎氏。
もう少し経つと、こんどは鎌倉公方家の分かれの稲村公方・篠川公方が東北で勢力を伸ばし始めたことや、
この両公方家が滅んだ後、戦国時代には伊達氏などと争って大崎氏は滅亡してしまったが、それまではけっこう強い勢力だったしな。 鎌倉の奥州探題葛西氏といい
室町柵の上大崎氏といい
広すぎて守護がいない陸奥の国 >>153
そもそも「幕府」は左右近衛などの大将の家政機関の名称にすぎん。
統治機構なら幕府ではなく「公儀」と呼ぶべき。 >>156
出羽や陸奥の探題って他の地方だと守護を束ねる地方統率機関だよな
鎮西探題あらため九州探題と中国探題ってさ。
陸奥に関しては、室町時代末頃に伊達種宗だったか、陸奥守護職就任の例はある。
戦国時代ゆえの例外措置で間違いないな 他スレで聞いた内容なのですが、専門板があったのでこちらでもお願いします
南北朝に関して疑問があるのでお願いします
北朝第1代の光厳天皇がなぜ北朝第1代になるのか分かりません
南北朝とは同じ時代に天皇が二人存在した特異性を表すのだと思います
後醍醐天皇が存在するのに足利尊氏が光明天皇を擁立した、
あるいは光明天皇が擁立されたにも拘らず、後醍醐天皇が三種の神器を奉じて
自身の正統性を示した、つまり北朝第1代が光明天皇、南朝第1代が後醍醐天皇に
なるのではないでしょうか?
光厳天皇は後醍醐天皇が隠岐に流された後に鎌倉幕府の推戴によって即位、
この時は当時の慣習であった「両統迭立」によって、後醍醐天皇の次に
後醍醐天皇と違う系統の持明院統から光厳天皇が即位したわけで、
同時代に正統(だと主張する)天皇が並立したわけじゃないですよね
誰か解説を願います 南朝の創始者たる後醍醐帝が光厳の即位を無効としたのが契機かな?
南朝正統論によって歴代からはじき出されたという意味での最初が光厳だから。
南北朝時代が始まったのは明らかに光明からなんだけど、そうすると光厳の立場が宙に浮いてしまうって理屈じゃないかなあ。
それと、光厳の在位時期のことを、後醍醐帝は自分が一貫して帝位に即いたままだった、退位したことはないと強弁してるから、
光厳天皇在位時代も二人の天皇がいたことになってるしな。
ただ、隠岐配流時代に後醍醐帝が光厳は偽帝で正統な天皇は自分だと言い続けていたと認定するのは困難だと思うんだけどなあ。
(少なくとも、後醍醐帝が隠岐にいたときにも大覚寺統系の指揮系統が崩壊したわけではない……んだが、少なくとも後醍醐帝の手からは離れてるはず……) >>160
ありがとうございます
>>それと、光厳の在位時期のことを、後醍醐帝は自分が一貫して帝位に即いたままだった、
退位したことはないと強弁してるから、
他スレで質問した時もそのような返答を頂き、「なるほど」と思いましたが、
幕府といえども現役の天皇を島流しにするのは困難であり、上皇として流した、
あるいは島流しにされたことによって天皇で居続けることができなかった、
という解釈の方が合点が行くような気がします
ただ後醍醐天皇は隠岐から京都へ戻ってきた時もチョウソしていないので、
後醍醐天皇としては即位以降一度も廃位も譲位もしていないという意識
だったのでしょうね
南北朝の名前の発端は北朝(京都)と南朝(吉野)に同時に天皇が並立した
ことを指しているので北朝(京都:光厳天皇)と南朝(隠岐:後醍醐天皇)
の時代を含むとおかしいと思いますが、そうなると仰るように光厳天皇
だけが浮いてしまうので難しい問題ですね
ちなみに明治時代に南朝が正統とされた根拠は何だったんでしょうか?
三種の神器の他に何か根拠があったんでしょうか? 幕府とは、征夷大将軍の現地軍政を司る政庁を指す名称のことだから家政機関ではない。
たとえてみれば、GHQみたいなもの。 明治天皇は北朝なのになぜか南朝が正統になっているのが最大の謎 >>163南朝正当論なんて、太閤秀吉や家康の頃から言われてることだぞ
それで足利や近衛や細川が罰せられた試しはないし
翻って永享の乱の時 南朝はどっち派だったか言うと 喜連川藩主足利古河公方家祖 鎌倉公方足利持氏の傘下だしな >>161
>幕府といえども現役の天皇を島流しにするのは困難であり、上皇として流した、
>あるいは島流しにされたことによって天皇で居続けることができなかった、
>という解釈の方が合点が行くような気がします
幕府からの強圧で島流しになったんじゃなく、
先例に従って朝廷内部の決定で退位&島流しだろ。
ほんの百数十年前に倒幕の軍を起こして負けて退位・遠流の先例があるじゃん。
>ただ後醍醐天皇は隠岐から京都へ戻ってきた時もチョウソしていないので、
このあと何度も繰り返した、「明け渡した神器は偽物だ。オレは退位してなどいない!」の初回だっただけでしょ。
公的には退位してたのを、退位してないと強弁しただけと思う。
生涯で五回ぐらい? 退位してない詐欺を繰り返した人だからね。
>ちなみに明治時代に南朝が正統とされた根拠は何だったんでしょうか?
討幕運動の精神的支柱となってた学派の共通理解が南朝正統論だっただけで、論拠というよりかむしろ信仰に近いと思う
そもそも室町時代後半から江戸時代初期までは南朝正統論なんて誰も信じてなかったぐらいだから、物証とか論拠とかは実在しないだろうと思うよ。 >>165
ありがとうございます
>>先例に従って朝廷内部の決定で退位&島流しだろ。
形はそうでも、実際は幕府の圧力の影響は大きいと思います
>>ほんの百数十年前に倒幕の軍を起こして負けて退位・遠流の先例があるじゃん。
承久の乱?この時は負けて退位じゃなく、元から上皇が動いたんでは?
後醍醐天皇は何度か三種の神器のやり取りをしてますが、その時は現物3つを
やり取りしてたのですか?本物かどうかは別にして
仮に南朝が正統としても、北朝系の歴代天皇は神武以来の男系で繋がってるんですよね? >>166
>承久の乱?この時は負けて退位じゃなく、元から上皇が動いたんでは?
責任者である後鳥羽上皇だけじゃなく、天皇も退位した。三上皇配流だぞ >>163
明治天皇にとっては
ご先祖様たる北朝 < 偉大な先輩の後醍醐南朝 だったんだろう。
尊敬できない自分の親 < 尊敬する先輩 は現代社会の一般人においてもよくある事。 少なくとも明治時代前段の頃の明治天皇は純粋な傀儡で、自分の意思を通す余地はゼロに等しい状態だったんだぞ
つまり、南朝正統説を受け入れたのも天皇の意思とは無関係ってこと。
倒幕派たちによる押し付けに過ぎないのさ。 日本史をおさらいで読んでるんだが新田を破ったまで読破した
この後足利はどうなるんだ 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >>163,>>169-170
明治天皇の裁定で南朝が正統に決まったっていわれれるけど
あれは別に正式に詔勅がでたわけではなく単なる閣議決定だぞ
そういえば最近も小泉だったか現職の総理大臣が
「女系天皇が今上陛下のご意志」だとかデマふかしたろ。
あれと大差ないと思われ。 >>171
太平記が岩波文庫から出てるぞ
新田義貞を破ったのが三巻の終わり間際
続き四巻は今月の発売だ 南朝って歴代天皇に数えるやつだろ
そんなこといったら神功皇后だって昔は神功天皇って呼んでたんだぞ 岩波太平記は期待したより注釈が薄くてがっかり
未完に終わった角川太平記の続編が欲しいわ 未完に終わった〜っても原本は
当時の足利将軍家が僧侶らを集め太平記を編纂させたもんだけどな これに対抗するものとしては北畠親房が関わった南朝正当記がある 神皇正統記?あれ後村上が即位したところで終わりやで 小学館「新編日本古典文学全集54〜58」の全4巻は一応全編現代語訳されている。
ハードカバーで一巻2.5センチぐらいの厚さなので通勤で読むというわけにはいかんが
本文が中段、訳文が下段で対訳は見やすくなっている。
ただし下段の1行文字数が本文に比べて著しく少ないので訳文だけ読み通すには
人によってはかなりストレスたまるかもしらん。
あと河出書房新社「日本文学全集8」が尾崎士郎の訳で出ている。
絶版だが日本の古本屋なんかで比較的手に入りやすいと思う。
ただし巻二十六の「妙吉侍者、進言のこと」の次の段で師直兄弟や直義がいきなり死んで
義詮が征夷大将軍に任ぜられたところで完結している。
田楽桟敷崩落以降の件はまったく出てこないので注意が必要。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています