新田と足利が手を組んだら
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義貞の鎌倉攻めが成功したことが、逆に新田家の滅亡につながったんだな。
歴史の皮肉だ。
清盛をみて思ったが、源氏と平氏で婚姻関係を結んで同盟を結べなかったのか
とは思う 婚姻関係を結んでいたにも関わらず、まったく関係改善や抑止になってない例もあるけどね。
(南北朝の両天皇家、豊臣・徳川とか) >>6
それって今川が勝手に言ってるだけじゃねーのか? >>23
キチガイがおるw
内乱くらいどの政権でも起こるわw 新田は足利が六波羅を攻めてるって知ったのは、自らが出立してからでしょ?仮に談合で尊氏と義貞が出立する日を示し合わせてたとして、六波羅攻略失敗したらどうしてたのかな。新田軍は史実通り膨れ上がってた?
それとも多摩川渡れなかったかな? たぶん尊氏は義貞に千寿王を向かわせたのは足利と新田が一緒になって北条を倒しましたってアピールしたかったんじゃあないの?
倒した後は天皇に任して新田と仲良くしたかったんじゃあないかな。
しかし新田の小さな勢力がなぜ北条を倒すと軍を挙げたんだろうか。
もっと他にも新田以上の力を持った一族は関東にいただろうに。 >>102
受領で院近臣かつ財産家の武士、平正盛の娘(平忠盛の姉)と、
源義家の嫡子、源義忠が結婚しており、源氏内でさらに力をもつことを恐れた、義家の同母弟の新羅三郎義光が、
兄の義綱の犯行に見せかけて、義忠を暗殺したため、伊勢平氏と河内源氏の共栄はなくなった。
忠盛の忠の字は、姉婿である源義忠が烏帽子親だった可能性を示す。
義忠の子孫は、のちに義家流源氏の家督となった、為義にはつかず、平家とともに行動したことからも、源氏内部での対立の深さを示す。
平氏の側の問題より、源氏一族内部の内訌が問題だった。
新田だけで鎌倉は落とせないが、関東の源氏が動いたって事で鎌倉方には動揺させる効果はあったんじゃないか?
それか尊氏が、新田に鎌倉攻めさせれば鎌倉方の軍は新田にかかる事になるから、六波羅に攻めてくるのを遅らせる事ができる程度に思ってたのかな?
後者だと千寿王を新田にやった意味が理解不能なんだが。なぜ新田に逃げたのか。最初から新田のとこ逃げろと言ってたんなら談合済みか。 所説あるが、千寿王は何処かに潜伏していたところ、新田方が思わぬ大軍勢に膨れあがった形勢をキャッチした腹心に連れられて
新田方に合流した、あるいは鎌倉陥落後に押っ取り刀で細川さん兄弟に連れられてやってきた、というあたりがリアリティがありそうに思う >>112
鎌倉が滅んだのは新田義貞の功績ではなく、足利家嫡男である千寿王が旗印になったことにより
関東武士たちが皆が味方したから、というのは尊氏の妄言でしょうね。
叔父赤橋守時の庇護下で育っていた千寿王は鎌倉脱出が遅れた、
新田義貞が尊氏の協力者として保護してあげた、という大河「太平記」あたりが真実だと思うけど。 >>115
鎌倉陥落後足利方に参集する武士たちの多さが当時の
足利と新田の力の差を物語っている。結果的には足利が手柄を
横取りした面は否定できない。ただ鎌倉攻撃には白河結城や信濃の
小笠原なども参加しているようにどう考えても当時の新田の影響
できたとは思えない連中が多いから足利の影響力も無視できんと思う。
千寿王の鎌倉脱出は慎重にしたから遅れたのだろう。現に千寿王の庶兄は
殺されている。 よく分からんが鎌倉を三方から攻めた時、軍を割いたのは義貞の独断なのかな?足利方は義貞の命令通り、すなわち鎌倉攻めの大将として認めて従ってたのかな?
戦が終わった後は義貞は足利方の論功についてどう考えてたんだろう。
手柄は平等って感じなのかね。 三方を任されたのが、義貞本人と大館、堀口という新田直系だから現場の指揮権は義貞にあったんだろう。
それが陥落後の政治的な局面で、見事に足利に政治的に逆転されたね。 鎌倉攻めに参加した武士たちの多くがが戦功を記した軍忠状を足利に提出した
ことから新田が追い出されたのは当然の流れだがね。
指揮官とはいえ護良の令旨(綸旨は怪しい)しか持たない無官の新田では不安を感じるの
も仕方がない。 で、鎌倉を出たあと、結局一度も鎌倉にも上野国にも戻ることなく討死。悲しいのう。 150騎だけで鎌倉倒してたらどんな名将にも劣らぬ名声を手に入れられたかもね まさか尊氏は無位無冠の新田が鎌倉にいても人望は集められず、いずれ鎌倉で戦った武将は足利になびく事まで予想して、新田を鎌倉攻めに立たせたとか?まさかねぇ 大族の足利のことだ、新田以外にも関東の諸将に声掛けしてたんじゃないか。
その中で新田が疾風のごとく鎌倉を落としたものだから話がややこしくなった。 邪馬台国は当然、九州!
畿内説の人は、なぜ、巻向から九州の土器が出てこないかという重要な
ぽいんとをスルーしてるね。
それは巻向は古代出雲王国の都だったからだよ。
詳しくは「大和朝廷成立の謎」という本に書いてあるよ。 尊氏は鎌倉方を六波羅に向かわせないための時間つぶしとして新田を鎌倉攻めにと思ったんじゃないか?そしたら鎌倉落とされちゃってさあ大変となった。
新田は足利と手を取り合って天皇政治を盛り立てようとしたんだが、足利が新田ネガティヴキャンペーンを開始しておかしくなった。
>>127
義貞と尊氏はただの同僚
当時の主君は後醍醐天皇だろ わきやよしすけ
あしかがただよし
くすのきまさすえ
この三者が三奉行
あしかがたかうじが将軍
にったよしさだが副将軍
くすのきまさしげ
きたばたけあきいえ
が二大老
でおけ 新田義重の時代からずっと手は組んでたんだよ。
急速に仲悪くなったのは、たぶん後醍醐の尊氏外しからで… そもそも仲が悪かったら新田に千寿王なんか預けないしな(笑)
北条時代は新田氏は無位無官だったけど、新田系も全部無位無官だったの? 足利の尊氏、直義兄弟も、もともと「仲が悪かった」から分裂抗争に発展したわけでもなかろう。
権力闘争は不可避とはいえ、この時代の異常さは、尊氏の能力、資質に問題があった面も大きかろう。
家勢だけでなく能力、実績も上ならば、新田方も文句はいえなかったろう。 手を組むと言っても勢力のでかさを考えたら新田が足利の傘下に入るようなものになっちまう。 >>133
堀口初代が何故か伊具北条と婚姻に成功して代々官位得ている
あと岩松が持ってなかったっけ >>125
邪馬台国は当然近畿辺りにあった
邪馬台は当時ヤマトに近い発音だったことくらいわかれよ
ヤマタイと読むのは現代読みであって当時の音ではない 岩松が官位持ってて義貞が無官だったの??
岩松は義貞を操ってたのかな 庶流でも嫡流の支配から逃れようとするのはもう珍しくない時代だから。 義貞の時代になるともうどこが本家かワガンネ状態にまでなってたから
義貞が下手に一発成功してしまったからますます足利の傘下に入りにくくなった
政義って基地外だね 尊氏「鎌倉へ参陣の許可を!」
天皇
@「鎌倉を落としたのは新田義貞だから義貞を行かせよう」
A「お前だけだと何するかわかんねから軍監に義貞(脇屋でも可)を付けよう」
B「鎌倉に源氏はアカン!正成!」
このどれかだったら歴史は大きく変わってたよね。 >>132
鎌倉時代は足利氏も無位無官だろう
ただし足利は代々北条家から正室を迎え北条執権家の姻戚であったため家格は高かった
足利が有力御家人だったのは北条の恩顧の賜物だがその北条を攻め滅ぼしちゃったから
(尊氏の正室もまた北条氏であり足利全将軍に北条の血は流れているが) 新田氏にしたら足利に及ばないとは言え、貧乏所帯からかなりの所領と播磨守まで拝領したわけだから
わざわざ足利の傘下に入って所領を安堵してもらおうとは思わなんだのだろうな
上手く欲で釣ってますよ >>132 >>135
亀レスだが
堀口貞義(従四位下美濃守)
岩松政経(下野守?) 新田宗家とはいっても没落寸前だったから。
庶流が力を持っていてもおかしくない 新田は代々政治音痴というか世渡り下手が多いから
特に初代義重と四代目政義が致命的だった 規模が違いすぎて、手を組むというより新田が吸収されちまう >>151
それはそれで良かったかもよ
なまじ後醍醐天皇に重用されたから夢見ちゃったのかもね
歴代の積み重ねでひらいた差を義貞の一代で逆転するなんて無理がある 後醍醐のもとに集まったのは一発逆転を狙う連中だらけだけどね 組んで天下穫っても共存共栄はないだろ。必ずお互い争う 建武の新政って民主党政権みたいだな
幕府の閉塞感にうんざりした諸勢力の支持を受けて成立したのに、実務能力や利害調整能力がさっぱり
で、期待はすぐ失望に変わり分裂、内ゲバ
3年で崩壊するところまでそっくり >>155
歴史は繰り返すだな
後醍醐帝も学問だけなら英明と名高かったのに
どうしてこうなった。 管総理と谷垣代表時代に、大連立してそれなりに実績作って、選挙制度も変えたりすればまた違った結果になったかもしれぬ 新田さんが夢見ちゃったと言うけど、鎌倉攻めの勲功第一等の人が武者所長官を拝辞できないでしょ
西園寺か、泰家の逮捕の時に新田だけ現れなかったので内通を疑われてるのにさ 新田義貞は木曽義仲と結構かぶる
政治に疎くて、治天の君にうまく利用されちゃった人
義貞は後醍醐天皇に弓引くところまではいかなかったけど これか?
滝村の万松寺本尊の台座に、「慈応山万松寺本尊 永享十二年 松平和泉守源信光」とあり、これは、信光三十七歳のときとされている。
また。岩津妙心寺願文には、「源氏の武運をして永代尽くる期無からしめんと欲す。−−− 沙弥信光敬白」とある。
このように三河へ来住してからも、言い伝えとして源姓を表現しているのである。
伊勢氏に仕える前から和泉守だったんだな、出自の怪しい乞食僧の息子とは思えんな どっちかの勢力が、より上を支えたんじゃね。近畿東国みたいに。
アホは勘違いするけど。 新田が足利の下で満足していれば丸く収まった気が
政氏以来そうだったんだからさ 血筋的には足利氏祖の義康と新田氏祖の義重兄弟は元々どっちが格上、或いは源義国系の嫡流に近い立場だったの?
いずれにしても鎌倉幕府末期には外様御家人中最大勢力になってた足利一門が、冷遇され没落しきっていた新田一門を同格と見なせる訳も無く、共に生きるには新田が臣従する以外の道は無かったろうね。
まぁ新田が自らを足利の庶流と認める事ができれば、或いは鎌倉を攻め滅ぼした名声で斯波氏を抑えて足利一門の筆頭の地位を狙えたかもしれない。 もともと尊氏の対抗馬だったのは護良親王で、義貞が当て馬に浮上したのはその後。
武者所頭人も尊氏の私的な警察権とバッティングするポジションだから、そこから受けるべきではないが、
武家で足利兄弟以外第1位の勲功を得た人間がその地位を拝辞することは政治的に困難でしょ。
赤松さんみたいになっちゃう。
武者所はともかく、所領は新田一族ぜひとも欲しいだろうしね。上野、越後、播磨は新田氏的には満額に近い恩賞だったわけで、
これを守る「内圧」が生じる
尊氏が中先代の乱を鎮圧する際に新田所領に手を付けた際に「私も所領安堵して下さい」と願い出られないでしょ。
建武政権の要人が。結局、義貞は積極的に尊氏と対立したわけではなく、義重‐義兼以来の友好関係を重視しつつ行動するつもりが、
尊氏のような例外的ポジションにおられず、巻き込まれてしまってる側面のほうが強いんだよね。 南北朝直後の尊氏も御輿に担がれてる感が否めないな。
高師直亡き後の反直義派の総帥に祭り上げられ対立 そもそも鎌倉に反目する時点で、どこまでが尊氏の本意だったのか疑わしいところはある。
名門のボンボンとしてはそこまで大事にしたくなかったけど、家中の突き上げにあって、じゃあお前らの判断に従うよって感じだったんだろう。
幕府を開いてから弟に政事の一切を任せてしまったところにも、最後まで後醍醐天皇へ未練たらたらだった所にも
尊氏がイケイケ状態になってる一門に対し、どこか冷めている感じが否めない。 それ以後、ひしと御謀反のことを思し召し定めて、上杉兵庫入道(憲房)を使者として、まず吉良上総禅門(貞義)に相談された。
「今まで、まだかまだかと思っておりました。たいへんめでたいことです。」と、お返事申し上げた。その後、ほかの人々にもご相談された。
このことは、関東をお発ちになった時から内々に上杉兵庫入道(憲房)が申し勧めていたようである。家時・貞氏(尊氏の祖父と父親)、この両御所の御造意を、
どうも殿(尊氏)は上杉だけに仰せ聞かせていたらしい。そのために、上杉はことさら骨を折って河原合戦で討死した。
これは、今の上杉中務入道(上杉朝宗(禅助)。『難太平記』が執筆された当時は関東管領だった)の祖父である。 >>167-169
「足利尊氏のすべて」読むと
尊氏て主体性もって行動してるのか、それとも回りに流されただけなのか
よく分からん複雑な男て印象だった 時に、南に正成あり、西に円心あり。くわうるに、四夷蜂の如く起こりて、東夷(北条)を窺う。
このとき、尊氏は東夷の命に随って上洛し、官軍の勝ちに乗るを見るも、なおも両端を相窺う処、
名越尾張守高家、戦場に生命を堕すの後、ようやく義兵を挙ぐ。高家、このときに当たりて、死せずんば、
あに尊氏、ひとり立ちて強敵に当たらんや。 義貞が政治力ないってことだけど、戦事についてはそれなりの大将としての器はあったんでしょ?じゃなかったら北陸落ちまでに暗殺されてると思うんだが。 政治力というのは本人の資質だけでなく環境や経験や人脈も大きい。安倍首相も一回目はあれだけぐだぐだだったのに二回目は別人みたいになっているし。
その意味で、足利氏と違い代々、鎌倉や京都の中央政界とはおよそ無縁だっただろう新田義貞がいきなり大出世してしまったのだから、
政治力については資質云々以前の問題だっただろう。
逆に言えば、義貞に突出した資質がなかったら、とてもあそこまでの活躍ができる位置にそもそもいなかった。 >>165
初期は新田氏のほうが優勢でしょう?
足利家は、実質的に新田氏の管轄下だったから。
まあ、これは、足利義康が早死、
新田義重が長く生きたのが影響しているが。 義康死後、息子達の動向は不明だろ
本当に庇護を受けていたのかよ 足利と新田は領地が隣接していること
義重の娘が足利義清(義康の長男)の妻になっていること
義康死亡時、義康の子はみな若年であること
藤姓足利氏という共通の敵の存在などから、
程度は不明ではあるものの新田は足利を後見していたとみるのが自然 経済力軍事力政治力で新田など足元にも及ばない、義兼の母方は無視か?
京生まれ京育ちが、北関東などに行くわけねーだろ 京生まれ京育ちが下向する例はいくらでもあるよ
ましてや足利は本拠地が北関東、しかも係争地なんだから 母方の本拠地、母親の叔父、兄弟をはじめ、国人等の家来衆がうじゃうじゃいた三河をスルーして、わざわざ北関東まで行くわけねーだろw
東海道を下れば必ず三河を通るんだからよ
しかも三河は京に近い立地だ ・矢田庄、矢田御厨、矢田郡などの呼称の所領は当時足利氏の所領に存在していないと言われており、矢田判官代なる義清の通称は誤りであり、根本所領の梁田判官代とされるのが正しい
・足利荘や梁田御厨の周辺に義清の子孫が定着しなかったことから、義清は早い時期から足利荘を離れて多胡郡矢田郷に拠点を移したとみられる
嘘ばっかついてやがるな
都合よく考えやがって 矢田郷(矢田義清)も広沢郷(広沢義実=義清子)も義清と婚姻関係が
あるとされる山名義範の本拠、山名郷の南隣だね。 源氏雌伏の25年、北関東に義清義兼がいた記録等は一切なし
、 >>184
義兼は母系があれだから兎も角、義清が三河にいたという証拠はあるの?
義仲が挙兵後上野国多胡郡に入ったのは父祖の縁を求めてということが
主であるにしても、そこが傘下又は同盟者である義清の根拠地であり兵站
その他に便があるからだと思うんだけど 三河の熱田大宮司家や頼政が保護していたんだろう
範頼の事例ををみても、三河の熱田大宮司家は面倒見がいいから
仲家と違って養子入りしなかったが、違和感ないわなw
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→由良御前→源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→娘→源頼政→矢田義清
・源頼光→源頼国(美濃守)→源頼綱(三河入道)→源仲政 →源頼政→矢田義清 下野に、細川氏仁木氏戸賀崎氏ゆかりが全くないのも不思議だよな
本当に関東からきたのかよ
関東から来たのなら、死ねば関東にも何らかの供養塔なりありそうなもんだがな
管領家として成り上がっても一切無視だ
義兼でなく、あくまでも義清の孫なんだからよ
家来待遇の零細御家人だったからと、簡単に話が済まされてしまうわな コンダクター:三河の熱田大宮司家
■源義朝
生母:由良御前
・源頼朝;伊豆に流刑、三河佑範(由良御の兄弟)が侍従を一人付けてやり、毎月使者を送る、安達盛長は三河の大宮司家の郎党・
・源希義:駿河国で匿っていた?藤原範忠(由良御の兄弟)が捕らえ平家に突き出す、息の源希望は三河国吉良の所領から初代土佐吉良氏に
・源義門:生母は由良御前か?詳細不明
生母:池田宿の遊女
・源範頼:京で密かに養育、同じ藤原南家の藤原範季を養父させ、遠江で育つ、室は安達盛長と比企尼長女の娘
生母:常盤御前
・源義経;熱田神宮で藤原範忠(由良御の兄)立会いのもと元服、室は比企尼次女の娘、娘が源有綱(源頼政の孫)の室、三河の浄瑠璃伝説
・源義円:室は慶範法師(三河の熱田大宮司家、愛智郡郡司)の娘
・阿野全成:愛知氏は愛智郡に住んだ子孫の頼為から始まる
■源義康
生母;由良御前の姉妹(実父は藤原範忠(由良御前の兄))
・足利義兼:三河で養育か?三河に母親の所領あり(源義康との婚姻の化粧料)
生母;不明
・矢田義清:藤原南家と近い源頼政の保護下に入り、三河で養育か?
・源義長;詳細不明
・源義房;詳細不明
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→藤原能兼→藤原範季(養父)→源範頼(三河守)
・藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者、初代熱田大宮司)→由良御前→源頼朝
・藤原実範(三河国司)→藤原季綱(三河国司)→藤原友美→娘→源頼政→矢田義清
・源頼光→源頼国(美濃守)→源頼綱(三河入道)→源仲政 →源頼政→矢田義清 スレタイに沿った素晴らしいレスだと、ボキは思うな
段々、北関東などどーでも良くなってきた
京から徒歩1日圏内(30キロ)の華やかな人間模様に比べて、地味で陳腐だからね >>195
×30キロ
○130キロ
参考
京都〜名古屋(笑) 直線距離約100
京都〜西三河 直線距離130キロ
京の動向が、すぐ伝わり、程よく離れた立地と言えるわな 源頼朝、足利義兼と三河の熱田大宮司家
■藤原実範(三河国司)
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令) →@へ
・藤原成季(三河国司)
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄領主)
・他多数
@藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
・藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡)) →A
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当)
A藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
・藤原範忠(北面武士、熱田大宮司、室は美福門院女房上総)→野田清季(三河国設楽郡野田城主、野田大宮司)
・藤原範信(式部丞、上野介、星野大宮司、三河国神谷御厨給司、河国星野荘荘司) →B
・藤原範雅(北面武士、熱田大宮司)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
・由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進)
・娘(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人)
B・藤原範信(式部丞、上野介、星野大宮司、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司) →B
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫)
・藤原憲朝(八条院判官、駿河守、初代千秋氏)→藤原信綱(八條院判官代)
・藤原信雅(高松院蔵人) 源頼朝、足利義兼と三河の熱田大宮司家
■藤原実範(三河国司)
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令) →@へ
・藤原季綱(三河国司)
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄領主)
・他多数
@藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)
・藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡)) →A
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当)
A藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
・藤原範忠(北面武士、熱田大宮司、室は美福門院女房上総)→野田清季(三河国設楽郡野田城主、野田大宮司)
・藤原範信(式部丞、上野介、星野大宮司、三河国神谷御厨給司、河国星野荘荘司) →B
・藤原範雅(北面武士、熱田大宮司)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
・由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進)
・女(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人)
・他多数
B藤原範信(式部丞、上野介、星野大宮司、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司) →B
・藤原範清(検非違使、上西門院蔵人、星野左衛門大夫)
・藤原憲朝(八条院判官、駿河守、初代千秋氏)→藤原信綱(八條院判官代)
・藤原信雅(高松院蔵人) ■源頼朝(☆印)・足利義兼(★印)と三河の熱田大宮司家(藤原実範(三河国司)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡))
藤原実範
・藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令) →@へ
・藤原季綱(三河国司)
・三位女→高橋惟康(伊勢新二郎大夫、三河国加茂郡高橋庄(後に八条院領)領主)
・他多数
@藤原季兼
・藤原季範(初代藤姓熱田大宮司家、額田冠者(三河国額田郡)) →Aへ
・藤原憲実(法眼)→藤原仲経(玄番助大夫、美濃国土岐多良庄地頭)
・女→二階堂行政(鎌倉幕府の政所令・後に別当)
A藤原季範
・藤原範忠(後白河院北面、熱田大宮司、室は美福門院女房上総) →Bへ
・藤原範信(式部丞、上野介、星野大宮司、三河国神谷御厨給司、三河国星野荘荘司、初代星野氏(三河国宝飯郡星野)) →Cへ
・藤原範雅(後白河院上北面、熱田大宮司)
・祐範(三河法橋祐範、三河国滝山寺層、頼朝支援者)
・千秋尼(上西門院女房)
・大進局(待賢門院女房)
☆由良御前(上西門院女房か?)→源頼朝(上西門院皇后宮権少進、征夷大将軍)
★女(養女(実父は藤原範忠)→足利義兼(八条院蔵人、上総介)
・他多数
B藤原範忠
・藤原忠季(刑部丞、蔵人)→藤原忠兼(備中守)→海東忠成(猶子、大江広元の四男、初代海東氏)
・野田清季(野田二郎大宮司、三河国野田城主)→野田朝季(鷹司冠者)→野田朝氏(室は足利義兼の娘)
・藤原能季(相模守)
・寛伝(額田僧都、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺僧)
★女→足利義兼(八条院蔵人)
・他 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています