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新田と足利が手を組んだら
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0001日本@名無史さん
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2011/12/21(水) 07:44:13.44
どうなってたかな?
0086日本@名無史さん
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2012/01/12(木) 19:00:35.35
源氏同士仲良くしようぜ
0087日本@名無史さん
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2012/01/12(木) 20:20:43.03
船田義昌あるいは船田家の後裔がどうなったか詳しい人教えてくりゃれ
0088日本@名無史さん
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2012/01/13(金) 04:35:15.42
荘園の大きさからいえば、義康な足利荘より、新田荘が大きく、荘園の形成に、源義国、義重ら親子が共に腐心したことが知られている。たしか義重を嫡子として扱っていたという研究者の論文が、いくつかあるはずだが、論文の詳細はわすれた。すまぬ。
義康は藤姓足利氏との所領を巡る緊張関係を優位にするため、中央に出仕して官位をあげて、権威で支配権を握ろうとしたと記憶している。
0089日本@名無史さん
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2012/01/20(金) 23:17:12.56
たしか足利荘も領有していたのは半分だけじゃなかったか。
後の半分は、籐姓足利氏のものだったはず。
0090日本@名無史さん
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2012/01/21(土) 07:32:05.69
新田荘って、「空閑の地」と言われていて、
平安末期には浅間山の噴火で荒れ果てていたので、
開発しなければ使えない土地だったと言われてるんだけど。

荘園の大きさで比較するなら、
まずは新田・足利ともに、本領以外に土地がない、
という前提になると思うのだけど?
因みに、新田氏は新田荘以外に、
八幡荘(高崎市の山名)辺りも所領だったようだね。
そもそも、初期は新田・足利が
別の一族という意識があったのかな?
義康が死ぬまでは、
都の義康
開発領主の義重
という図式だったのかも知れない。
0091日本@名無史さん
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2012/02/12(日) 18:25:56.92
意外と義興・義宗がさっさと帰参したら許されそうな気がしないでもない。
0092日本@名無史さん
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2012/03/07(水) 20:20:46.90
足利尊氏は、隠岐を抜け出し船通山にたてこもった後醍醐天皇を討伐すべく、鎌倉を出発した。
途中、三河の矢作川のほとりの矢作の宿で三河在国の足利党の19家の兵馬の出迎えをうけたが、ここで倒幕の決意を固めた。

19家とは

01.西条吉良氏■後に将軍御一家
02.奥州吉良氏■後に奥州管領家、関東公方御一家
03.今川氏■後に九州探題、守護職
04.一色氏■後に四職家、九州探題、守護職
05.仁木氏■後に室町幕府執事、守護職
06.細川氏■後に管領家、守護職
07.斯波氏■後に管領家、守護職
08.戸賀崎(荒川)氏■後に守護職
09.畠山氏■後に管領家、守護職
10.桃井氏■後に守護職
11.渋川氏■後に将軍御一家、九州探題
12.上野氏■後に奉公衆、御部屋衆、御供衆、申次衆
13.岩松氏■
14.石塔氏■後に奥州総大将、守護職
15.鹿島氏■
16.粟生氏■後に奉公衆
17.倉持氏■後に奉公衆
18.高氏■後に室町幕府執事、守護職、武庫川で一族滅亡
19.上杉氏■後に関東管領家、守護職


太平記第20回「足利決起」
http://www.youtube.com/watch?v=w5APWchJ-m0
0093日本@名無史さん
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2012/03/07(水) 20:25:59.71
■元弘の変(1331〜1333年)当時の室町幕府支配層(西三河武士団)■
【岡崎市中心部地区/現在の岡崎城周辺】
・三河守護所
・額田郡公文所(所領の管理他、鎌倉末期(1310年頃)は尊氏の母方の祖父(上杉頼重)が担当)
・矢作東宿(足利宗家が経営する宿泊施設)
・高一族(足利被官、室町幕府執事、守護職)の屋敷(高一族没落後、一族唯一の菩提寺(総持寺)が屋敷跡に建てられる)

【岡崎市北部地区/岡崎市中心部地区より北に5キロ】
・足利宗家の屋敷(大門屋敷)、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・上杉一族(足利被官、関東管領家、守護職 )の屋敷(日名屋敷)
・倉持一族(足利被官、奉公衆)の屋敷(便寺屋敷)
・仁木一族(足利一族、幕府執事、守護職)の屋敷及び城(仁木城)
・細川一族(足利一族、管領家、守護職)の屋敷及び2つの城(細川御前田城、細川城山城)

【岡崎市東部地区/足利宗家の屋敷より東に10キロ】
・粟生一族(足利被官、奉公衆)の2つの城(秦梨城、秦梨城山城)と屋敷(梅藪屋敷)

【岡崎市南部地区/足利宗家の屋敷より南に10キロ】
・上地一族(足利一族、細川氏分家)の城(上地城)
・上地一族(足利一族、仁木氏分家)の屋敷
【豊田市中心部地区/足利宗家の屋敷より西に15キロ】
・上野一族(足利一族、奉公衆、御部屋衆、御供衆、申次衆 )の屋敷
・中条一族(足利被官、守護職、奉公衆)の屋敷と城(金谷城)
【豊田市南部・安城市地区/足利宗家の屋敷より南西に4キロ】
・斯波一族(足利一族、管領家、奥州管領家)の屋敷
・石橋一族(足利一族、将軍御一家、守護職)の屋敷
【西尾市幡豆郡地区/足利宗家の屋敷より南に15〜20キロ】
・西条吉良一族(足利一族、将軍御一家)の屋敷と城(西条城)
・奥州吉良一族(足利一族、奥州管領家、関東公方御一家)の屋敷と城(東条城)
・一色一族(足利一族、四職家、九州探題、守護職)の屋敷
・今川一族(足利一族、将軍御一家、九州探題、守護職)の屋敷と城(今川城)
・荒川一族(足利一族、戸賀崎氏分家、守護職)の屋敷
0094日本@名無史さん
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2012/03/07(水) 21:04:46.52
足利が新皇、新田が摂関とかは?
0095日本@名無史さん
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2012/04/22(日) 22:11:50.52
新田義貞は最強!
長男の義顕が非業の死を遂げた、翌年に金ヶ崎城奪還は、その証拠。
その後、子供の時の親友集めて物見に行って死んだのは、言わずもがな。
オレがそう認めているんだから嘘じゃない。
二刀流で日本の項羽とも称された武人。
義家、義朝、義経の源氏の強さを見事に受け継いでいた人。
尊氏とは正反対の、源氏の中の源氏と、なんで、こんなに、オレがエキサイトするんだw
とにかく義貞の悪口は許さん!人が良すぎたのが、唯一の。。。
0097日本@名無史さん
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2012/04/23(月) 00:14:05.23
でたらめであってもそうでなくても、江戸時代では新田の代表が徳川宗家で、足利の代表が喜連川ということでよろしいですかな?
0098日本@名無史さん
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2012/04/24(火) 19:06:57.19
>>97
徳川宗家は一応、新田とは別家を興した得川氏の子孫であって
新田氏とは違うということにしてたんじゃなかったかな
新田義貞を祖先としてあがめるということもしてないしね
0101日本@名無史さん
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2012/08/15(水) 22:52:26.33
義貞の鎌倉攻めが成功したことが、逆に新田家の滅亡につながったんだな。

歴史の皮肉だ。

0102 忍法帖【Lv=2,xxxP】
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2012/08/16(木) 12:29:08.62
清盛をみて思ったが、源氏と平氏で婚姻関係を結んで同盟を結べなかったのか
とは思う
0103日本@名無史さん
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2012/08/17(金) 14:06:41.56
婚姻関係を結んでいたにも関わらず、まったく関係改善や抑止になってない例もあるけどね。
(南北朝の両天皇家、豊臣・徳川とか)
0105名無しさん@恐縮です
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2012/09/04(火) 06:50:33.19
>>23
キチガイがおるw
内乱くらいどの政権でも起こるわw
0106日本@名無史さん
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2012/09/06(木) 07:40:16.69
>>102
平忠正あたりまではやってたろ。
0107日本@名無史さん
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2012/09/06(木) 07:42:35.73
訂正

>>102

平正盛あたりまではやってたろ。
0109日本@名無史さん
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2012/09/26(水) 04:49:08.67
新田は足利が六波羅を攻めてるって知ったのは、自らが出立してからでしょ?仮に談合で尊氏と義貞が出立する日を示し合わせてたとして、六波羅攻略失敗したらどうしてたのかな。新田軍は史実通り膨れ上がってた?
それとも多摩川渡れなかったかな?
0110日本@名無史さん
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2012/10/02(火) 16:24:46.83
たぶん尊氏は義貞に千寿王を向かわせたのは足利と新田が一緒になって北条を倒しましたってアピールしたかったんじゃあないの?
倒した後は天皇に任して新田と仲良くしたかったんじゃあないかな。

しかし新田の小さな勢力がなぜ北条を倒すと軍を挙げたんだろうか。
もっと他にも新田以上の力を持った一族は関東にいただろうに。
0111日本@名無史さん
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2012/10/06(土) 06:43:33.40
>>102
受領で院近臣かつ財産家の武士、平正盛の娘(平忠盛の姉)と、
源義家の嫡子、源義忠が結婚しており、源氏内でさらに力をもつことを恐れた、義家の同母弟の新羅三郎義光が、
兄の義綱の犯行に見せかけて、義忠を暗殺したため、伊勢平氏と河内源氏の共栄はなくなった。
忠盛の忠の字は、姉婿である源義忠が烏帽子親だった可能性を示す。
義忠の子孫は、のちに義家流源氏の家督となった、為義にはつかず、平家とともに行動したことからも、源氏内部での対立の深さを示す。
平氏の側の問題より、源氏一族内部の内訌が問題だった。
0112日本@名無史さん
垢版 |
2012/10/18(木) 18:31:54.74
新田だけで鎌倉は落とせないが、関東の源氏が動いたって事で鎌倉方には動揺させる効果はあったんじゃないか?

それか尊氏が、新田に鎌倉攻めさせれば鎌倉方の軍は新田にかかる事になるから、六波羅に攻めてくるのを遅らせる事ができる程度に思ってたのかな?
後者だと千寿王を新田にやった意味が理解不能なんだが。なぜ新田に逃げたのか。最初から新田のとこ逃げろと言ってたんなら談合済みか。
0113日本@名無史さん
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2012/10/18(木) 22:07:29.95
所説あるが、千寿王は何処かに潜伏していたところ、新田方が思わぬ大軍勢に膨れあがった形勢をキャッチした腹心に連れられて
新田方に合流した、あるいは鎌倉陥落後に押っ取り刀で細川さん兄弟に連れられてやってきた、というあたりがリアリティがありそうに思う
0114日本@名無史さん
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2012/10/18(木) 22:09:48.34
所説→諸説
細川さん兄弟→細川三兄弟
0115日本@名無史さん
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2012/10/19(金) 11:53:18.08
>>112
鎌倉が滅んだのは新田義貞の功績ではなく、足利家嫡男である千寿王が旗印になったことにより
関東武士たちが皆が味方したから、というのは尊氏の妄言でしょうね。

叔父赤橋守時の庇護下で育っていた千寿王は鎌倉脱出が遅れた、
新田義貞が尊氏の協力者として保護してあげた、という大河「太平記」あたりが真実だと思うけど。
0116日本@名無史さん
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2012/10/20(土) 12:58:26.42
>>115
鎌倉陥落後足利方に参集する武士たちの多さが当時の
足利と新田の力の差を物語っている。結果的には足利が手柄を
横取りした面は否定できない。ただ鎌倉攻撃には白河結城や信濃の
小笠原なども参加しているようにどう考えても当時の新田の影響
できたとは思えない連中が多いから足利の影響力も無視できんと思う。

千寿王の鎌倉脱出は慎重にしたから遅れたのだろう。現に千寿王の庶兄は
殺されている。
0117日本@名無史さん
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2012/10/21(日) 04:29:15.41
よく分からんが鎌倉を三方から攻めた時、軍を割いたのは義貞の独断なのかな?足利方は義貞の命令通り、すなわち鎌倉攻めの大将として認めて従ってたのかな?
戦が終わった後は義貞は足利方の論功についてどう考えてたんだろう。
手柄は平等って感じなのかね。
0118日本@名無史さん
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2012/10/21(日) 14:08:27.45
三方を任されたのが、義貞本人と大館、堀口という新田直系だから現場の指揮権は義貞にあったんだろう。

それが陥落後の政治的な局面で、見事に足利に政治的に逆転されたね。
0119日本@名無史さん
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2012/10/21(日) 15:33:31.28
鎌倉攻めに参加した武士たちの多くがが戦功を記した軍忠状を足利に提出した
ことから新田が追い出されたのは当然の流れだがね。

指揮官とはいえ護良の令旨(綸旨は怪しい)しか持たない無官の新田では不安を感じるの
も仕方がない。
0120日本@名無史さん
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2012/10/21(日) 15:49:31.34
だな。
0121日本@名無史さん
垢版 |
2012/10/21(日) 16:15:57.99
で、鎌倉を出たあと、結局一度も鎌倉にも上野国にも戻ることなく討死。悲しいのう。
0122日本@名無史さん
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2012/10/22(月) 15:42:18.86
150騎だけで鎌倉倒してたらどんな名将にも劣らぬ名声を手に入れられたかもね
0123日本@名無史さん
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2012/10/30(火) 00:03:25.01
まさか尊氏は無位無冠の新田が鎌倉にいても人望は集められず、いずれ鎌倉で戦った武将は足利になびく事まで予想して、新田を鎌倉攻めに立たせたとか?まさかねぇ
0124日本@名無史さん
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2012/11/02(金) 23:48:59.96
大族の足利のことだ、新田以外にも関東の諸将に声掛けしてたんじゃないか。
その中で新田が疾風のごとく鎌倉を落としたものだから話がややこしくなった。
0125日本@名無史さん
垢版 |
2012/11/03(土) 10:13:38.78
邪馬台国は当然、九州!
畿内説の人は、なぜ、巻向から九州の土器が出てこないかという重要な
ぽいんとをスルーしてるね。
それは巻向は古代出雲王国の都だったからだよ。
詳しくは「大和朝廷成立の謎」という本に書いてあるよ。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2012/11/04(日) 10:39:53.82
尊氏は鎌倉方を六波羅に向かわせないための時間つぶしとして新田を鎌倉攻めにと思ったんじゃないか?そしたら鎌倉落とされちゃってさあ大変となった。
新田は足利と手を取り合って天皇政治を盛り立てようとしたんだが、足利が新田ネガティヴキャンペーンを開始しておかしくなった。
0127日本@名無史さん
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2012/11/16(金) 02:12:41.73
義貞が尊氏に鎌倉攻めの恩賞を頼めば良かったのか
0128日本@名無史さん
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2012/11/16(金) 09:21:43.84
>>127
義貞と尊氏はただの同僚
当時の主君は後醍醐天皇だろ
0129日本@名無史さん
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2012/11/19(月) 08:21:14.63
後醍醐と護良のリンジの差
0130日本@名無史さん
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2012/11/19(月) 09:26:45.61
わきやよしすけ
あしかがただよし
くすのきまさすえ


この三者が三奉行

あしかがたかうじが将軍
にったよしさだが副将軍
くすのきまさしげ
きたばたけあきいえ
が二大老


でおけ
0131日本@名無史さん
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2012/11/28(水) 08:09:14.57
新田義重の時代からずっと手は組んでたんだよ。
急速に仲悪くなったのは、たぶん後醍醐の尊氏外しからで…
0132日本@名無史さん
垢版 |
2012/12/20(木) 01:24:29.90
そもそも仲が悪かったら新田に千寿王なんか預けないしな(笑)

北条時代は新田氏は無位無官だったけど、新田系も全部無位無官だったの?
0133日本@名無史さん
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2012/12/20(木) 10:50:08.77
足利の尊氏、直義兄弟も、もともと「仲が悪かった」から分裂抗争に発展したわけでもなかろう。
権力闘争は不可避とはいえ、この時代の異常さは、尊氏の能力、資質に問題があった面も大きかろう。
家勢だけでなく能力、実績も上ならば、新田方も文句はいえなかったろう。
0134日本@名無史さん
垢版 |
2012/12/23(日) 17:58:56.37
手を組むと言っても勢力のでかさを考えたら新田が足利の傘下に入るようなものになっちまう。
0135日本@名無史さん
垢版 |
2012/12/26(水) 21:19:25.42
>>133
堀口初代が何故か伊具北条と婚姻に成功して代々官位得ている
あと岩松が持ってなかったっけ
0136日本@名無史さん
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2012/12/29(土) 08:36:23.11
>>125
邪馬台国は当然近畿辺りにあった
邪馬台は当時ヤマトに近い発音だったことくらいわかれよ
ヤマタイと読むのは現代読みであって当時の音ではない
0137日本@名無史さん
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2013/01/07(月) 17:07:23.77
岩松が官位持ってて義貞が無官だったの??
岩松は義貞を操ってたのかな
0138日本@名無史さん
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2013/01/12(土) 10:35:10.55
庶流でも嫡流の支配から逃れようとするのはもう珍しくない時代だから。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2013/02/03(日) 14:22:44.48
義貞の時代になるともうどこが本家かワガンネ状態にまでなってたから
義貞が下手に一発成功してしまったからますます足利の傘下に入りにくくなった

政義って基地外だね
0140日本@名無史さん
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2013/03/05(火) 23:48:15.45
岩松を呼べ
0142日本@名無史さん
垢版 |
2013/03/08(金) 11:23:46.85
尊氏「鎌倉へ参陣の許可を!」

天皇
@「鎌倉を落としたのは新田義貞だから義貞を行かせよう」

A「お前だけだと何するかわかんねから軍監に義貞(脇屋でも可)を付けよう」

B「鎌倉に源氏はアカン!正成!」

このどれかだったら歴史は大きく変わってたよね。
0143日本@名無史さん
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2013/03/10(日) 18:48:40.25
>>132
鎌倉時代は足利氏も無位無官だろう
ただし足利は代々北条家から正室を迎え北条執権家の姻戚であったため家格は高かった
足利が有力御家人だったのは北条の恩顧の賜物だがその北条を攻め滅ぼしちゃったから
(尊氏の正室もまた北条氏であり足利全将軍に北条の血は流れているが)
0145日本@名無史さん
垢版 |
2013/03/20(水) 09:27:25.87
足利義氏 正四位下
0146日本@名無史さん
垢版 |
2013/03/22(金) 20:53:24.12
新田氏にしたら足利に及ばないとは言え、貧乏所帯からかなりの所領と播磨守まで拝領したわけだから
わざわざ足利の傘下に入って所領を安堵してもらおうとは思わなんだのだろうな
上手く欲で釣ってますよ
0148日本@名無史さん
垢版 |
2013/09/05(木) 23:51:25.66
>>132 >>135
亀レスだが

堀口貞義(従四位下美濃守)
岩松政経(下野守?)
0149日本@名無史さん
垢版 |
2013/09/06(金) 00:00:48.44
新田宗家とはいっても没落寸前だったから。
庶流が力を持っていてもおかしくない
0150日本@名無史さん
垢版 |
2013/09/06(金) 16:17:52.18
新田は代々政治音痴というか世渡り下手が多いから
特に初代義重と四代目政義が致命的だった
0151日本@名無史さん
垢版 |
2013/09/06(金) 16:24:47.99
規模が違いすぎて、手を組むというより新田が吸収されちまう
0152日本@名無史さん
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2013/09/06(金) 16:42:29.49
>>151
それはそれで良かったかもよ

なまじ後醍醐天皇に重用されたから夢見ちゃったのかもね
歴代の積み重ねでひらいた差を義貞の一代で逆転するなんて無理がある
0153日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/02(水) 19:06:30.57
後醍醐のもとに集まったのは一発逆転を狙う連中だらけだけどね
0154日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/03(木) 00:11:09.86
組んで天下穫っても共存共栄はないだろ。必ずお互い争う
0155日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/04(金) 18:57:42.36
建武の新政って民主党政権みたいだな
幕府の閉塞感にうんざりした諸勢力の支持を受けて成立したのに、実務能力や利害調整能力がさっぱり
で、期待はすぐ失望に変わり分裂、内ゲバ
3年で崩壊するところまでそっくり
0156日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/04(金) 22:52:12.40
>>155
歴史は繰り返すだな
後醍醐帝も学問だけなら英明と名高かったのに
どうしてこうなった。
0157日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/05(土) 00:26:54.86
時流を読み違えたんだよ
0158日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/05(土) 00:38:03.48
管総理と谷垣代表時代に、大連立してそれなりに実績作って、選挙制度も変えたりすればまた違った結果になったかもしれぬ
0159日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/06(日) 05:50:27.15
新田さんが夢見ちゃったと言うけど、鎌倉攻めの勲功第一等の人が武者所長官を拝辞できないでしょ
西園寺か、泰家の逮捕の時に新田だけ現れなかったので内通を疑われてるのにさ
0160日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/16(水) 00:26:51.09
新田義貞は木曽義仲と結構かぶる
政治に疎くて、治天の君にうまく利用されちゃった人
義貞は後醍醐天皇に弓引くところまではいかなかったけど
0161 忍法帖【Lv=22,xxxPT】(1+0:5)
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2013/10/16(水) 16:03:57.15
これか?

滝村の万松寺本尊の台座に、「慈応山万松寺本尊 永享十二年 松平和泉守源信光」とあり、これは、信光三十七歳のときとされている。
また。岩津妙心寺願文には、「源氏の武運をして永代尽くる期無からしめんと欲す。−−− 沙弥信光敬白」とある。
このように三河へ来住してからも、言い伝えとして源姓を表現しているのである。



伊勢氏に仕える前から和泉守だったんだな、出自の怪しい乞食僧の息子とは思えんな
0162日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/16(水) 16:09:35.77
どっちかの勢力が、より上を支えたんじゃね。近畿東国みたいに。

アホは勘違いするけど。
0164日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/16(水) 23:24:48.13
新田が足利の下で満足していれば丸く収まった気が
政氏以来そうだったんだからさ
0165日本@名無史さん
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2013/10/17(木) 04:16:25.23
血筋的には足利氏祖の義康と新田氏祖の義重兄弟は元々どっちが格上、或いは源義国系の嫡流に近い立場だったの?
いずれにしても鎌倉幕府末期には外様御家人中最大勢力になってた足利一門が、冷遇され没落しきっていた新田一門を同格と見なせる訳も無く、共に生きるには新田が臣従する以外の道は無かったろうね。
まぁ新田が自らを足利の庶流と認める事ができれば、或いは鎌倉を攻め滅ぼした名声で斯波氏を抑えて足利一門の筆頭の地位を狙えたかもしれない。
0166日本@名無史さん
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2013/10/17(木) 11:37:35.75
>>1
今頃群馬が首都になってただろうなあ
0167日本@名無史さん
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2013/10/17(木) 12:28:49.97
もともと尊氏の対抗馬だったのは護良親王で、義貞が当て馬に浮上したのはその後。
武者所頭人も尊氏の私的な警察権とバッティングするポジションだから、そこから受けるべきではないが、
武家で足利兄弟以外第1位の勲功を得た人間がその地位を拝辞することは政治的に困難でしょ。
赤松さんみたいになっちゃう。

武者所はともかく、所領は新田一族ぜひとも欲しいだろうしね。上野、越後、播磨は新田氏的には満額に近い恩賞だったわけで、
これを守る「内圧」が生じる
尊氏が中先代の乱を鎮圧する際に新田所領に手を付けた際に「私も所領安堵して下さい」と願い出られないでしょ。
建武政権の要人が。結局、義貞は積極的に尊氏と対立したわけではなく、義重‐義兼以来の友好関係を重視しつつ行動するつもりが、
尊氏のような例外的ポジションにおられず、巻き込まれてしまってる側面のほうが強いんだよね。
0168日本@名無史さん
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2013/10/17(木) 14:53:27.71
南北朝直後の尊氏も御輿に担がれてる感が否めないな。
高師直亡き後の反直義派の総帥に祭り上げられ対立
0169日本@名無史さん
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2013/10/17(木) 22:38:55.10
そもそも鎌倉に反目する時点で、どこまでが尊氏の本意だったのか疑わしいところはある。
名門のボンボンとしてはそこまで大事にしたくなかったけど、家中の突き上げにあって、じゃあお前らの判断に従うよって感じだったんだろう。
幕府を開いてから弟に政事の一切を任せてしまったところにも、最後まで後醍醐天皇へ未練たらたらだった所にも
尊氏がイケイケ状態になってる一門に対し、どこか冷めている感じが否めない。
0170日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/17(木) 23:45:58.77
それ以後、ひしと御謀反のことを思し召し定めて、上杉兵庫入道(憲房)を使者として、まず吉良上総禅門(貞義)に相談された。
「今まで、まだかまだかと思っておりました。たいへんめでたいことです。」と、お返事申し上げた。その後、ほかの人々にもご相談された。


このことは、関東をお発ちになった時から内々に上杉兵庫入道(憲房)が申し勧めていたようである。家時・貞氏(尊氏の祖父と父親)、この両御所の御造意を、
どうも殿(尊氏)は上杉だけに仰せ聞かせていたらしい。そのために、上杉はことさら骨を折って河原合戦で討死した。
これは、今の上杉中務入道(上杉朝宗(禅助)。『難太平記』が執筆された当時は関東管領だった)の祖父である。
0171日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/18(金) 15:50:32.78
>>167-169
「足利尊氏のすべて」読むと
尊氏て主体性もって行動してるのか、それとも回りに流されただけなのか
よく分からん複雑な男て印象だった
0172日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/20(日) 17:30:26.13
時に、南に正成あり、西に円心あり。くわうるに、四夷蜂の如く起こりて、東夷(北条)を窺う。
このとき、尊氏は東夷の命に随って上洛し、官軍の勝ちに乗るを見るも、なおも両端を相窺う処、
名越尾張守高家、戦場に生命を堕すの後、ようやく義兵を挙ぐ。高家、このときに当たりて、死せずんば、
あに尊氏、ひとり立ちて強敵に当たらんや。
0173日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/22(火) 00:17:12.06
義貞が政治力ないってことだけど、戦事についてはそれなりの大将としての器はあったんでしょ?じゃなかったら北陸落ちまでに暗殺されてると思うんだが。
0174日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/22(火) 02:28:09.56
政治力というのは本人の資質だけでなく環境や経験や人脈も大きい。安倍首相も一回目はあれだけぐだぐだだったのに二回目は別人みたいになっているし。
その意味で、足利氏と違い代々、鎌倉や京都の中央政界とはおよそ無縁だっただろう新田義貞がいきなり大出世してしまったのだから、
政治力については資質云々以前の問題だっただろう。
逆に言えば、義貞に突出した資質がなかったら、とてもあそこまでの活躍ができる位置にそもそもいなかった。
0175日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/22(火) 12:48:16.67
>>165
初期は新田氏のほうが優勢でしょう?
足利家は、実質的に新田氏の管轄下だったから。
まあ、これは、足利義康が早死、
新田義重が長く生きたのが影響しているが。
0176日本@名無史さん
垢版 |
2013/10/22(火) 13:47:58.99
義康死後、息子達の動向は不明だろ
本当に庇護を受けていたのかよ
0177日本@名無史さん
垢版 |
2013/11/08(金) 14:50:25.18
足利と新田は領地が隣接していること
義重の娘が足利義清(義康の長男)の妻になっていること
義康死亡時、義康の子はみな若年であること
藤姓足利氏という共通の敵の存在などから、
程度は不明ではあるものの新田は足利を後見していたとみるのが自然
0178日本@名無史さん
垢版 |
2013/11/11(月) 09:31:15.98
経済力軍事力政治力で新田など足元にも及ばない、義兼の母方は無視か?
京生まれ京育ちが、北関東などに行くわけねーだろ
0179日本@名無史さん
垢版 |
2013/11/11(月) 16:11:22.87
京生まれ京育ちが下向する例はいくらでもあるよ
ましてや足利は本拠地が北関東、しかも係争地なんだから
0180日本@名無史さん
垢版 |
2013/11/11(月) 17:04:55.22
母方の本拠地、母親の叔父、兄弟をはじめ、国人等の家来衆がうじゃうじゃいた三河をスルーして、わざわざ北関東まで行くわけねーだろw
東海道を下れば必ず三河を通るんだからよ
しかも三河は京に近い立地だ
0182日本@名無史さん
垢版 |
2013/11/11(月) 19:17:02.10
・矢田庄、矢田御厨、矢田郡などの呼称の所領は当時足利氏の所領に存在していないと言われており、矢田判官代なる義清の通称は誤りであり、根本所領の梁田判官代とされるのが正しい

・足利荘や梁田御厨の周辺に義清の子孫が定着しなかったことから、義清は早い時期から足利荘を離れて多胡郡矢田郷に拠点を移したとみられる


嘘ばっかついてやがるな
都合よく考えやがって
0183日本@名無史さん
垢版 |
2013/11/11(月) 20:02:33.52
矢田郷(矢田義清)も広沢郷(広沢義実=義清子)も義清と婚姻関係が
あるとされる山名義範の本拠、山名郷の南隣だね。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2013/11/11(月) 21:08:47.56
源氏雌伏の25年、北関東に義清義兼がいた記録等は一切なし
0186日本@名無史さん
垢版 |
2013/11/11(月) 21:35:37.83
>>184
義兼は母系があれだから兎も角、義清が三河にいたという証拠はあるの?
義仲が挙兵後上野国多胡郡に入ったのは父祖の縁を求めてということが
主であるにしても、そこが傘下又は同盟者である義清の根拠地であり兵站
その他に便があるからだと思うんだけど
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