清盛と頼朝はどっちがすごいの?
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どっちがすごいのか日本史的な意義を語るスレッドです。 源氏の身内争いのすごさは日本史でも異質だよ
シス暗黒卿もびっくりだわ >>121
東国はすぐに武力で解決しようとするDQNの巣窟だったからな。 >>119
『愚管抄』では泳ぎまわった挙句捕まったチキンDQNの実父だろ
たがが知れてるわ
個人の武力もそう劣るものではなかったと思う
といわれても完全に空想でしかないから >>124
『愚管抄』では悪源太に堂々と渡り合って称賛された豪胆な武将の実父ですが。
都落ち以降の平家方の実態がどうだったかなんて、誰にも分からない。
彼は敗軍の将だっただけに平家方の暗部を過度に背負わされている。
逃げ足が速いのが駄目ならば義経なんてもっと駄目なわけで。 >>125
『愚管抄』には悪源太に堂々と渡り合って称賛された豪胆な武将の記述なんてどこにもないんだけど >>124
「愚管抄」平治の乱では平重盛の武勇がたたえられてるよ
源義朝は追い詰められて敗走した 当時の大陸は宋の時代で
石炭を使用したプレ産業革命の時代が始まっていた
アジアの経済はプレ近代の様相を呈していた
これを理解していたのは清盛
彼は交易による富で日本を支配しようとした
頼朝は農村経済の代弁者
当時の日本は農村経済だった
農民の土地所有権と裁判権を勝ち取ることで
農民貴族による階級革命ともいえることをなしとげたのが頼朝の鎌倉幕府
世界が見えていたのは清盛
しかし日本の現実に立脚したのは頼朝
どちらが上かは簡単には言えない 別に頼朝は交易を否定してないし
清盛は500か所の荘園領主でした 確かに貿易を否定してはいないが、貿易の利益を取り込まなかったから
鎌倉時代を通してずっと辛かった。「質素倹約」は貧乏暮らしの裏返し。 だって宋が滅んでモンゴルが攻めてきちゃったからな
交易どころじゃなかったろ 勝ち馬に乗ったつもりが最後は落馬・・だからねw
清盛も頼朝とも同じく調子こきすぎた。
平氏政権の限界は、清盛の存命中にもう見えてた気がする。 そもそも鎌倉幕府を考え付いたのは頼朝?、坂東武士?
流人の頼朝は御輿に乗っただけという説もあるし 守護地頭を提案した大江広元・三善康信を招いたのは頼朝だから、
頼朝サイドの幕府案だろ
中央志向の頼朝と、土着志向の周囲とが綱引きしてたのが
ちょうどいいバランスの時にたまたま頼朝が死んで
以後その体制が定着したというのが実状だと思う
頼朝が長生きしてたらもっと朝廷に近づいていって
平氏政権と似たような形になってたんじゃないの
しかしそういう頼朝がトップでなければ、
諸々の制度が朝廷お墨付きにならなかったかも
鎌倉幕府と呼ばれる体制は実のところ状況の産物で、
始祖=発明者ではなく、むしろ幕府体制の利を生かして
長期政権を築いた後の世の武士達の方が偉いと思う >>141
頼朝がちょうどいいバランスからはみだそうとしたとき亡きモノにされたのかも
幕府という語は幕末の倒幕派の隠語だし
藩と言う語は大政奉還で主君が無くなってしまった大名を
朝廷の下に組み入れるために新たな行政組織としてつくったものだし
幕藩体制なんて明治時代もだいぶたってから東大の学者が文献で言ったものだし
歴史のなかでは幕府も藩もそんな語はないんだよね
>>146
ほ、ほんまか!目からウロコが落ちたわ!ありがとう教えてくれて! これより幕府を開く!
なんて言った人はいないわな
頼朝も尊氏も家康も 歴史がちょっと違ってたら鎌倉時代じゃなくて
藤沢時代とか逗子時代とか 鎌倉時代は最初の立ち上げ時だけ頭に源氏をいただきはした(源氏は僅か三代で消滅)けど
実情は最初(挙兵前)から徹頭徹尾、頼朝の嫁、正子の実家である伊豆平氏の北条政権。
とすると、源氏の衣を被った分家末端の伊豆平氏が本宗家を駆逐して取って代わっただけの構図?
米TIME紙
1000年を代表する偉人に日本人唯一選ばれたのが源頼朝
1000年を代表する奇人変人に日本人で唯一選ばれたのが源頼朝 しかし頼朝はなぜグロ好きだったのか >>147
千葉 vs 千田、佐竹
介八郎 vs 藤原忠清
介八郎 vs 印東常茂
三浦、中村 vs 大庭 清盛と頼朝はどっちがすごいかって?
全然比較にならないだろうが ヘソで茶を沸かした清盛と、嫁の尻に敷かれた頼朝。優劣つけがたい。 >>141
頼朝が中央志向というのは定説なのか
個人的にはあんまりそんな感じがしないのだが 中央志向というより中央に気を使わなければ幕府が立ち行かない
頼朝だけじゃなく実朝も同じ
幕府が中央からある程度距離を置けるようになったのは承久の変以後 頼朝は晩年に娘を入内させようと画策し失敗していた
天皇の血筋に絡んで繁栄を築こうという
当時の権力者の常道から外れた人間ではなかったんだな >当時の権力者
政略結婚なんて現代にだってあるところにはあるくらいだろ >>165
娘の入内は中央への積極的な接近というより、
幕府を守るためという消極的な意味の方が強い
最初は幕府から朝廷に娘の入内という名目で人質を差し出すのだが
承久の変後は立場が逆転して朝廷から皇族を将軍という名目で人質をとるようになるんだが 日本人は、戦争に負けた。
でも何時から奴隷になった?
あなた達は今目覚めないと、二度とその目は開かない。
歴史というのはいつも編集されている。平清盛がとても優しい人だった。
『江談抄』で平安を生きた公家が鎌倉期にそれを階述してる。でも『平家物語』では悪役にされるんだよ。
日本人が守ろうとしてきたものを大切に。
今の教育に足りないのは思想。これは学ぶための根源。何のために学ぶのか。学びたいと思うのは自分で世界を見つめなおすためだよ。
http://www.youtube.com/watch?v=7QQzmAQ7wEc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=QNNeu1BZ_yY&feature=related >>168
江談抄って広元の曾祖父の談話を信西の父親が記述したものだよな
どっちも鎌倉時代どころか清盛が生まれる前に死んでるのに清盛の事が書かれてるの? >>147
息子で京都で既に従五位に叙されていた東頼胤が、常胤を説得するんだよね。
京都在勤中に平家にいじめられたりとかしたのかな。
常胤がついたことで、関東の大勢が決した。 頼朝だろ 平氏政権は所詮朝廷内の軍事貴族の政権にすぎない
武家政権は日本固有の政権形態だからね 今の大河ドラマの清盛と院・摂関家の駆け引きをみてると、
京都から距離を置いて新政府を作ったほうが効率的だわww 幸せの時間で親父と息子どっちが屑かを語るくらい不毛なスレですな。 歴史古い順
難波京(大阪市)(仁徳天皇などの皇居)
平城京 奈良
平安京 京都
東の京 東京
日本仏教初の寺は聖徳太子の四天王寺(大阪市) >>176
間違いなく息子の方がクズ。っていうか外道。 大化の改新(天皇制の始まり)は難波京(大阪市)で行われそれは大化元年〜平成24年の今も続いている 京都兵wwwww
『御堂関白記』
「斎王定まりて後、弓場始、其の儀常の如し。能射なる者、候せず。的を射る者無し。依りて的を打たしむと云々。射手の数少なく、三番奉仕す。猿楽の如しwwwww」
『山槐記』
「宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww」
『吉記』
「於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww」
『吾妻鏡』
「所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww」
『愚管抄』
「宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwwwww」 清盛は過去の恩を着せすぎ
だから周りから見限られる。
頼朝は若いから漁夫の利でしょ。
義経は利用されただけ >>175
そこらへんの平氏政権への過程は
民主党政権が官僚に取り込まれて
亜自民党政権になっていったようなものだな んじゃ地方分権とか二都構想ってえのは
幕府みたいななもんを目指してるってえわけかい >>184
それはないだろうけど
平氏政権が武家でありながら武家の権益を保護する存在になれなかったのと
民主党政権が官僚主導打破を掲げながら官僚の言いなりになってるのと
歴史の転換点として同じようなパターンになってるのかも しかしこのくっさいくっさいグロ好きの頼朝はなぜ源氏の恥と有名なのか 関係ないけど、官僚を敵視し、敵対する事の愚は、政治学でも普通に語られてる事
だから官僚主導打破を掲げながら官僚の言いなりになるというのは間違いであって
そもそもが官僚を敵視する姿勢そのものが世紀の大愚作だったりする
国Tは現代の科挙であって、キャリアはそれをパスした選りすぐりの人材達
そんな勢力を相手に、貴族でも土着の権力者でもない民選の政治家が勝てるわけがない
官僚を尊重しつつ、有効活用する、という方向でしか、改革なんてできっこない 京大学派の中世史学者 清盛>頼朝(理由・頼朝の開いた鎌倉武家政権は清盛の福原幕府の真似事にすぎないから)
東大学派の中世史学者 清盛<頼朝(理由・清盛は福原幕府を完成できなかったが頼朝は東国独立国家を樹立したから) 頼朝(源氏政権)も実質一代で滅びてるし、頼朝も清盛も似たようなもんじゃん
中世における信長と秀吉みたいなものでは?
北条が徳川で 自分自身が権力者だった清盛に比べて、頼朝は関東豪族に担がれた名目君主の性格が強いから、
清盛と頼朝を個人として比べれば清盛の方がすごいな。 >>194
よく頼朝は関東豪族に名目的に担がれていただけと思われがちだが
頼朝在世中は御家人達への支配は強固だったんだけどな
その支配も個人の力量によるものだったから 結果として頼家の末路や執権政治へと至ってしまうけど 頼朝は奥州藤原氏を滅ばしたけど清盛は滅ぼせなかった >>196
奥州藤原は清盛時代、清盛や朝廷に金や財宝の納入を怠らなかったから
清盛も討つ気などなかっただろ >>198
頼朝に対しても義経の首を差しだしたり、恭順の意は示そうとした
それでも頼朝は無理やり難癖付けて滅ぼした >>199
それは平氏と源氏の違い。
源氏は源義家が奥州征討して以来、関東も奥州も源氏先祖伝来の土地という意識が強い。
源氏の土地である奥州を藤原が勝手に支配しているのはけしからんという思いがある。
一方、平氏は西国中心で奥州に兵を出したことは一度もない。
平氏に従順な奥州藤原政権の支配を許容していた。 >>平氏は西国中心で奥州に兵を出したことは一度もない。
前九年の役の緒戦で秋田城介の平繁成が陸奥守藤原登任の求めにより出兵してるよ >>201
平繁成は陸奥国司に入り婿した平氏の系統。
平清盛の直系ではなく、しかも敗れている。
藤原登任も平繁成が最初に崩れたせいで敗れ、
奥州の支配権を確立しえなかった。 >>200
そんな違いはないよ。武蔵の人間は重盛の家人になってたんだぞ。 前九年の役では清原氏の参戦のほうが高く評価されてるし、
後三年の役でも義家が奥羽に勢力を扶植したとはまったく言えない
せいぜい義朝が南関東で一時期ブイブイ言わせ、その息子がたまたま鎌倉に入ったんで、
近隣地にある奥州が軍事的脅威になったに過ぎない。 >>203
意味を取り違えている。
関東武士団は神輿が源氏でも平氏でも藤原氏でもどうでもいいんだよ。
平氏と源氏が違うというのは、平清盛と源頼朝のトップの意識が違うということ。
清盛は西国に本拠地を置き、奥州は清盛に服従する藤原の管理でいいと思っていた。
しかし、頼朝は奥州を源氏の直轄地にしようという強い意志があったということ。 水鳥の羽音にビビッて敵前逃亡する平家軍では、奥州十七万騎と謳われた平泉の軍勢に勝てんだろ 一ノ谷へ向かう追討軍は源氏方1(一、二千余騎・・・『玉葉』)に対して、平家方は10(数万、二万余騎・・・『玉葉』)。
その時の寿永三年の関東は関東飢饉という状況で兵糧調達困難により兵が不足していた。
おまけに地の利、城郭戦という有利な状況があったのにも関わらず、平家は惨敗を喫した。
結局平家の敗因は単に弱いから。
いくら兵力差があったといっても水鳥の羽音(『山槐記』)で逃げ出すとか兵失格だしw
九州でも上陸できずに鎮西武士にシッ、シッと軽くあしらわれた。
すぐに敵前逃亡するわで、やる気なさすぎw
『山槐記』・・・宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走www
『吉記』・・・於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了www
『吾妻鏡』・・・所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒www
『愚管抄』・・・宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwww 平清盛からしたら、武門の棟梁の源義家の後胤の嫡流は
源義忠の子孫たちのほうでしょう?
父親の平忠盛は、源義忠から名前を貰っているし。
俺は、河内源氏とも、うまくいっているぞと。 清盛と頼朝は子孫が絶えたことで同一視する奴がいるが、それは比較論にならん
清盛は平氏一門のための平氏政権
頼朝は東国武士のための武家政権
根本が違うのだよ
だから源氏将軍が三代で断絶しても、鎌倉幕府は続き、頼朝以来の判例が
御成敗式目でも有効とされ、室町時代にも引き継がれた まあ清盛の失敗があったからこそ鎌倉幕府が出来たともいえるんだけどね 平貞盛の子孫は鎮守府将軍よくやってるんだよな
坂東も元は平氏の地盤
平忠常の乱の追討に源氏が来ると抵抗せず収まったとか
その辺から坂東平氏が源氏に従うようになった >>207
頼朝の配下に入った東国武士たちはそれ以前は平氏の家人
>>212
そんなことはない。せいぜい義朝が独力で開拓した人脈くらいだ。 >>208
後白河の義兵的位置づけの頼朝のほうが何だかんだ有利だよ、実際、頼朝は後白河の忠臣だし
一ノ谷だってそうだし、富士川は平氏の軍制の変化とか色々要因がある
墨俣や水島では破ってるんだから兵員の質がそうそう違うわけではない
ちなみに古典平家を見ると、個人個人の組打ちでは平氏方の有力武士は勝率が高かったりする。 一番大きなのは、保元の乱の違い。源氏は殆ど義朝方につき、余り為義方につかなかった。
だから、源氏は為義の妻子は義朝を除き皆殺しになり(このとき命からがら逃げ伸びた
志田義広や源義仲、源行家がのちに頼朝を恨みに思い徹底抗戦した)本家は崩壊したが、
関係者は余り崩壊しなかった。
一方、平家はマジで部下レベルで分裂した、というより、多くが頼盛、忠正、家弘とともに
上皇方につき、頼盛、忠正、家弘とともに3族皆殺しとなった。(平家は部下レベルを入れる
と源氏以上に凄まじく粛清した。)これは、清盛政権の安定化はもたらしたが、いざ源氏が
兵を上げると頼りになる者がいなくなる原因ともなった。 >>215
そんなことないだろ。
保元の乱の時、源氏の棟梁である源為義は上皇方につき、
義朝を除く為義の息子たちも皆上皇方についたために
源氏方は上皇敗北により損失を被った。
一方、平氏の棟梁である平清盛は勝利した天皇方。
清盛の弟や息子たちも天皇方で、平氏方は大いに躍進した。
上皇方についた清盛の叔父忠正は平家の棟梁ではなく
それほどの大軍を持っていたわけではない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています