清盛と頼朝はどっちがすごいの?
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どっちがすごいのか日本史的な意義を語るスレッドです。 中央志向というより中央に気を使わなければ幕府が立ち行かない
頼朝だけじゃなく実朝も同じ
幕府が中央からある程度距離を置けるようになったのは承久の変以後 頼朝は晩年に娘を入内させようと画策し失敗していた
天皇の血筋に絡んで繁栄を築こうという
当時の権力者の常道から外れた人間ではなかったんだな >当時の権力者
政略結婚なんて現代にだってあるところにはあるくらいだろ >>165
娘の入内は中央への積極的な接近というより、
幕府を守るためという消極的な意味の方が強い
最初は幕府から朝廷に娘の入内という名目で人質を差し出すのだが
承久の変後は立場が逆転して朝廷から皇族を将軍という名目で人質をとるようになるんだが 日本人は、戦争に負けた。
でも何時から奴隷になった?
あなた達は今目覚めないと、二度とその目は開かない。
歴史というのはいつも編集されている。平清盛がとても優しい人だった。
『江談抄』で平安を生きた公家が鎌倉期にそれを階述してる。でも『平家物語』では悪役にされるんだよ。
日本人が守ろうとしてきたものを大切に。
今の教育に足りないのは思想。これは学ぶための根源。何のために学ぶのか。学びたいと思うのは自分で世界を見つめなおすためだよ。
http://www.youtube.com/watch?v=7QQzmAQ7wEc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=QNNeu1BZ_yY&feature=related >>168
江談抄って広元の曾祖父の談話を信西の父親が記述したものだよな
どっちも鎌倉時代どころか清盛が生まれる前に死んでるのに清盛の事が書かれてるの? >>147
息子で京都で既に従五位に叙されていた東頼胤が、常胤を説得するんだよね。
京都在勤中に平家にいじめられたりとかしたのかな。
常胤がついたことで、関東の大勢が決した。 頼朝だろ 平氏政権は所詮朝廷内の軍事貴族の政権にすぎない
武家政権は日本固有の政権形態だからね 今の大河ドラマの清盛と院・摂関家の駆け引きをみてると、
京都から距離を置いて新政府を作ったほうが効率的だわww 幸せの時間で親父と息子どっちが屑かを語るくらい不毛なスレですな。 歴史古い順
難波京(大阪市)(仁徳天皇などの皇居)
平城京 奈良
平安京 京都
東の京 東京
日本仏教初の寺は聖徳太子の四天王寺(大阪市) >>176
間違いなく息子の方がクズ。っていうか外道。 大化の改新(天皇制の始まり)は難波京(大阪市)で行われそれは大化元年〜平成24年の今も続いている 京都兵wwwww
『御堂関白記』
「斎王定まりて後、弓場始、其の儀常の如し。能射なる者、候せず。的を射る者無し。依りて的を打たしむと云々。射手の数少なく、三番奉仕す。猿楽の如しwwwww」
『山槐記』
「宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走wwwww」
『吉記』
「於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了wwwww」
『吾妻鏡』
「所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒wwwww」
『愚管抄』
「宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwwwww」 清盛は過去の恩を着せすぎ
だから周りから見限られる。
頼朝は若いから漁夫の利でしょ。
義経は利用されただけ >>175
そこらへんの平氏政権への過程は
民主党政権が官僚に取り込まれて
亜自民党政権になっていったようなものだな んじゃ地方分権とか二都構想ってえのは
幕府みたいななもんを目指してるってえわけかい >>184
それはないだろうけど
平氏政権が武家でありながら武家の権益を保護する存在になれなかったのと
民主党政権が官僚主導打破を掲げながら官僚の言いなりになってるのと
歴史の転換点として同じようなパターンになってるのかも しかしこのくっさいくっさいグロ好きの頼朝はなぜ源氏の恥と有名なのか 関係ないけど、官僚を敵視し、敵対する事の愚は、政治学でも普通に語られてる事
だから官僚主導打破を掲げながら官僚の言いなりになるというのは間違いであって
そもそもが官僚を敵視する姿勢そのものが世紀の大愚作だったりする
国Tは現代の科挙であって、キャリアはそれをパスした選りすぐりの人材達
そんな勢力を相手に、貴族でも土着の権力者でもない民選の政治家が勝てるわけがない
官僚を尊重しつつ、有効活用する、という方向でしか、改革なんてできっこない 京大学派の中世史学者 清盛>頼朝(理由・頼朝の開いた鎌倉武家政権は清盛の福原幕府の真似事にすぎないから)
東大学派の中世史学者 清盛<頼朝(理由・清盛は福原幕府を完成できなかったが頼朝は東国独立国家を樹立したから) 頼朝(源氏政権)も実質一代で滅びてるし、頼朝も清盛も似たようなもんじゃん
中世における信長と秀吉みたいなものでは?
北条が徳川で 自分自身が権力者だった清盛に比べて、頼朝は関東豪族に担がれた名目君主の性格が強いから、
清盛と頼朝を個人として比べれば清盛の方がすごいな。 >>194
よく頼朝は関東豪族に名目的に担がれていただけと思われがちだが
頼朝在世中は御家人達への支配は強固だったんだけどな
その支配も個人の力量によるものだったから 結果として頼家の末路や執権政治へと至ってしまうけど 頼朝は奥州藤原氏を滅ばしたけど清盛は滅ぼせなかった >>196
奥州藤原は清盛時代、清盛や朝廷に金や財宝の納入を怠らなかったから
清盛も討つ気などなかっただろ >>198
頼朝に対しても義経の首を差しだしたり、恭順の意は示そうとした
それでも頼朝は無理やり難癖付けて滅ぼした >>199
それは平氏と源氏の違い。
源氏は源義家が奥州征討して以来、関東も奥州も源氏先祖伝来の土地という意識が強い。
源氏の土地である奥州を藤原が勝手に支配しているのはけしからんという思いがある。
一方、平氏は西国中心で奥州に兵を出したことは一度もない。
平氏に従順な奥州藤原政権の支配を許容していた。 >>平氏は西国中心で奥州に兵を出したことは一度もない。
前九年の役の緒戦で秋田城介の平繁成が陸奥守藤原登任の求めにより出兵してるよ >>201
平繁成は陸奥国司に入り婿した平氏の系統。
平清盛の直系ではなく、しかも敗れている。
藤原登任も平繁成が最初に崩れたせいで敗れ、
奥州の支配権を確立しえなかった。 >>200
そんな違いはないよ。武蔵の人間は重盛の家人になってたんだぞ。 前九年の役では清原氏の参戦のほうが高く評価されてるし、
後三年の役でも義家が奥羽に勢力を扶植したとはまったく言えない
せいぜい義朝が南関東で一時期ブイブイ言わせ、その息子がたまたま鎌倉に入ったんで、
近隣地にある奥州が軍事的脅威になったに過ぎない。 >>203
意味を取り違えている。
関東武士団は神輿が源氏でも平氏でも藤原氏でもどうでもいいんだよ。
平氏と源氏が違うというのは、平清盛と源頼朝のトップの意識が違うということ。
清盛は西国に本拠地を置き、奥州は清盛に服従する藤原の管理でいいと思っていた。
しかし、頼朝は奥州を源氏の直轄地にしようという強い意志があったということ。 水鳥の羽音にビビッて敵前逃亡する平家軍では、奥州十七万騎と謳われた平泉の軍勢に勝てんだろ 一ノ谷へ向かう追討軍は源氏方1(一、二千余騎・・・『玉葉』)に対して、平家方は10(数万、二万余騎・・・『玉葉』)。
その時の寿永三年の関東は関東飢饉という状況で兵糧調達困難により兵が不足していた。
おまけに地の利、城郭戦という有利な状況があったのにも関わらず、平家は惨敗を喫した。
結局平家の敗因は単に弱いから。
いくら兵力差があったといっても水鳥の羽音(『山槐記』)で逃げ出すとか兵失格だしw
九州でも上陸できずに鎮西武士にシッ、シッと軽くあしらわれた。
すぐに敵前逃亡するわで、やる気なさすぎw
『山槐記』・・・宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走www
『吉記』・・・於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了www
『吾妻鏡』・・・所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒www
『愚管抄』・・・宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwww 平清盛からしたら、武門の棟梁の源義家の後胤の嫡流は
源義忠の子孫たちのほうでしょう?
父親の平忠盛は、源義忠から名前を貰っているし。
俺は、河内源氏とも、うまくいっているぞと。 清盛と頼朝は子孫が絶えたことで同一視する奴がいるが、それは比較論にならん
清盛は平氏一門のための平氏政権
頼朝は東国武士のための武家政権
根本が違うのだよ
だから源氏将軍が三代で断絶しても、鎌倉幕府は続き、頼朝以来の判例が
御成敗式目でも有効とされ、室町時代にも引き継がれた まあ清盛の失敗があったからこそ鎌倉幕府が出来たともいえるんだけどね 平貞盛の子孫は鎮守府将軍よくやってるんだよな
坂東も元は平氏の地盤
平忠常の乱の追討に源氏が来ると抵抗せず収まったとか
その辺から坂東平氏が源氏に従うようになった >>207
頼朝の配下に入った東国武士たちはそれ以前は平氏の家人
>>212
そんなことはない。せいぜい義朝が独力で開拓した人脈くらいだ。 >>208
後白河の義兵的位置づけの頼朝のほうが何だかんだ有利だよ、実際、頼朝は後白河の忠臣だし
一ノ谷だってそうだし、富士川は平氏の軍制の変化とか色々要因がある
墨俣や水島では破ってるんだから兵員の質がそうそう違うわけではない
ちなみに古典平家を見ると、個人個人の組打ちでは平氏方の有力武士は勝率が高かったりする。 一番大きなのは、保元の乱の違い。源氏は殆ど義朝方につき、余り為義方につかなかった。
だから、源氏は為義の妻子は義朝を除き皆殺しになり(このとき命からがら逃げ伸びた
志田義広や源義仲、源行家がのちに頼朝を恨みに思い徹底抗戦した)本家は崩壊したが、
関係者は余り崩壊しなかった。
一方、平家はマジで部下レベルで分裂した、というより、多くが頼盛、忠正、家弘とともに
上皇方につき、頼盛、忠正、家弘とともに3族皆殺しとなった。(平家は部下レベルを入れる
と源氏以上に凄まじく粛清した。)これは、清盛政権の安定化はもたらしたが、いざ源氏が
兵を上げると頼りになる者がいなくなる原因ともなった。 >>215
そんなことないだろ。
保元の乱の時、源氏の棟梁である源為義は上皇方につき、
義朝を除く為義の息子たちも皆上皇方についたために
源氏方は上皇敗北により損失を被った。
一方、平氏の棟梁である平清盛は勝利した天皇方。
清盛の弟や息子たちも天皇方で、平氏方は大いに躍進した。
上皇方についた清盛の叔父忠正は平家の棟梁ではなく
それほどの大軍を持っていたわけではない。 一番の馬鹿が後白河なのは確定で、後鳥羽は議論が分かれる所ではある
後白河がバカで無能なのは自他ともに認める事実w 後白河は日本一の大天狗と恐れられてたわけだが
平家も木曽も義経も後白河に体よくあしらわれ滅んでるわけで 後白河…朝権維持には一応成功
後鳥羽…朝権維持に失敗 平家政権は畿内惣官職が幕府と類似の性格を持つと
言われているものの結局のところ
藤原家の真似事だからな でもさ研究者の間じゃ
清盛が武士政権の先駆けて事は定説なんでしょ
福原幕府とか言われてるって去年聞いたぞ やっぱ武家政権つったら平泉か鎌倉だな。
福原は公武合体政権って感じ 日本一の大天狗、高階泰経説もあるのだな。
まあ、大天狗が後白河を指しているとしても、頼朝さんは「評価する」文脈で使ったわけじゃないのは明白だけどね。 >>224
いや、体よくあしらうつもりなら後白河が義仲と同レベルまでおりて、
直接合戦に及んだあげくボロ負けしてとっ捕まるなんて醜態をさらす必然性はどこにもないわけでな。
端的に馬鹿ですよ。 後白河が生きてる間は頼朝の征夷大将軍任官を阻めてたじゃんか 平清盛の構想を実現したのが足利義満
王朝政権の接収と大々的な貿易 とりあえず高橋昌明氏の論述集「平家と六波羅幕府」(東京大学出版会)
を読んで考えれ。 >>235
その説は頼朝が征夷大将軍職を望んでたと言う前提から間違ってる 武家の最高位は、左近衛大将だろう?
征夷大将軍の意味が大きくなるのは、後世の話で結果論。 元々中継ぎで即位しただけで権力基盤も脆弱だったにも関わらず、およそ三十年もの間院政を敷くことができたんだからやっぱり大したもんだろ >>242
ある意味、保元の乱の後の大量公開処刑で恐怖を与えたことが大きい。
藤原頼長を車裂きの刑にし、その妻子を皆殺し。
源為義の妻子を、義朝の系譜を除き皆殺した。(ただし、義広、行家は20年以上行方をくらます)
平頼盛、忠正、家弘及びその妻子を皆殺し。更に家盛の未亡人、遺児も皆殺し。
重仁親王ら崇徳上皇の皇子、皇女を、乳母の池禅尼ともども幽閉、焼き殺した。
これによる恐怖が、人を従わせたんだよ。いわゆる恐怖政治だ。
清盛が最後は幽閉に成功するけどね。 >>243
かなり事実誤認がありますが。
頼長→敗走中の負傷による死亡
頼長妻→正室は頼長より前に死没。側室処刑の記録なし
頼長子息→男子4人流刑。一人は政界に返り咲いて太政大臣になる。
武将たちの妻→出家して生存
平頼盛→壇の浦の後まで生存
崇徳上皇の皇子→重仁親王は出家。数年生存
池禅尼→三年後の平治の乱の後源頼朝の助命活動する。 清盛がいなくてもその後の歴史は変わらなかった
龍馬がいなくてもその後の歴史は変わらなかった
清盛と龍馬はタラレバヒーロー >>242
もともと中継ぎだったから尊敬されず、テキトーに好き嫌いでパートナーをとっかえひっかえして
周辺から大ブーイング浴びながらどんどん朝廷の権威を貶めていったから大したもんだよ
後醍醐みたいな基地外でもなけりゃ普通はこんなことできないよ >>246
後白河自身は知らんけど朝廷の権威はちゃんと保ててただろ
朝廷の権威が地に落ちたのは承久の乱の惨敗によるもの 保ってないよ
後鳥羽は実朝との協調が暗殺で破綻して関係再建に失敗したけど
後白河の場合はおのれの好き嫌いで朝威を完璧に失墜させてんだから
後鳥羽のやったことは全て後白河がやってるよ
頼朝君が優しかっただけですよ >>248
後白河はあれでうまくやってた
頼朝は完全に後白河の手玉に取られている
頼朝が後白河を好きにできたなんてとんでもないw
まあ、後白河に流罪を解いてもらってこその頼朝だったし
あまりにも頼朝の思い通りにならないものだから「大天狗」って言わせてる 貿易 外交は平家がやって、内政 治安維持を源氏がやって、天皇の下に共存できたら日本の黄金時代を築けたろうな >>251
その場合奥州藤原氏も生き残って三すくみになるだろうな それぞれ源氏・平家の棟梁だけど頼朝のほうは北条氏と有力御家人の神輿的な側面が強いような。
平家の政権は清盛あってのものだけど、鎌倉幕府にとって頼朝はテープカットの役目を終えたら後は用済み。 >>256
豊臣秀吉も秀吉あっての政権だが秀吉いないとすぐこけた。
徳川政権は老中たちがしっかりしてれば将軍が頼りなくてもやっていけた。
政権の安定性をとるならばトップ頼み政権は脆弱。 >>5
頼朝の子孫は男も女もわかってるものはすべて鎌倉前期に早々と死に絶えたが
清盛の子孫は多いから今も生き残ってるだろ絶対
特に女系
>>100
平将門も似たようなことをやろうとしたけど時代が早すぎて無理だった
頼朝も成功するかわからんけど清盛は摂関家のマネをして武家をないがしろにして失敗したし
武士の力も朝廷をしのぐほどになったし一か八かやってみただけだろ
成功する確信があったわけじゃないだろ
清盛がいなければ頼朝も清盛と同じ轍を踏んでいた可能性は高い >>250
どこが「あれで」なんだよ
自分が甲冑つけて武士と戦ってとっつかまる馬鹿がどこにいるんだ
頼朝は「手玉に取られた」のではなく「およそ治天とは思えぬ主筋に振り回された」んだよ
だから気まぐれ追討の院宣をホイホイ出した時点で忠臣頼朝君が途中でキレちゃったの
そこで出たと俗に言われるのが「大天狗」で、敵ながらすげえなんて意味は全く入ってない 朝廷と着かず離れずの絶妙な距離感覚を保ちつつ独自の
幕府を作り上げたのは偉大
頼朝自身、父の義朝や平清盛の失敗を見てきて
そこから学んだ部分もあったんだろうな 頼朝の政治感覚が偉大だというのは異論がないけど、
清盛が平治の乱以来の後白河と二条たちのドタバタ劇に「俺にはさっぱりワガンネ…」的に一歩引いてたら
いつの間にか全員相打ちになって唯一生き残ったのと同じで、
後白河のアホなトラブルに茫然とし、一方で東国武士団をまとめるので上洛できなかったら
いつの間にか絶妙な距離になってた、という感じじゃなかろうか 後白河のあほさに振り回された人生 清盛
後白河のあほさにはかかわりたくない 頼朝
頼朝はなかなか達観だなあ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています