清盛と頼朝はどっちがすごいの?
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どっちがすごいのか日本史的な意義を語るスレッドです。 >>201
平繁成は陸奥国司に入り婿した平氏の系統。
平清盛の直系ではなく、しかも敗れている。
藤原登任も平繁成が最初に崩れたせいで敗れ、
奥州の支配権を確立しえなかった。 >>200
そんな違いはないよ。武蔵の人間は重盛の家人になってたんだぞ。 前九年の役では清原氏の参戦のほうが高く評価されてるし、
後三年の役でも義家が奥羽に勢力を扶植したとはまったく言えない
せいぜい義朝が南関東で一時期ブイブイ言わせ、その息子がたまたま鎌倉に入ったんで、
近隣地にある奥州が軍事的脅威になったに過ぎない。 >>203
意味を取り違えている。
関東武士団は神輿が源氏でも平氏でも藤原氏でもどうでもいいんだよ。
平氏と源氏が違うというのは、平清盛と源頼朝のトップの意識が違うということ。
清盛は西国に本拠地を置き、奥州は清盛に服従する藤原の管理でいいと思っていた。
しかし、頼朝は奥州を源氏の直轄地にしようという強い意志があったということ。 水鳥の羽音にビビッて敵前逃亡する平家軍では、奥州十七万騎と謳われた平泉の軍勢に勝てんだろ 一ノ谷へ向かう追討軍は源氏方1(一、二千余騎・・・『玉葉』)に対して、平家方は10(数万、二万余騎・・・『玉葉』)。
その時の寿永三年の関東は関東飢饉という状況で兵糧調達困難により兵が不足していた。
おまけに地の利、城郭戦という有利な状況があったのにも関わらず、平家は惨敗を喫した。
結局平家の敗因は単に弱いから。
いくら兵力差があったといっても水鳥の羽音(『山槐記』)で逃げ出すとか兵失格だしw
九州でも上陸できずに鎮西武士にシッ、シッと軽くあしらわれた。
すぐに敵前逃亡するわで、やる気なさすぎw
『山槐記』・・・宿傍池鳥数万俄飛去、其羽音成雷、官兵皆疑軍兵之寄来夜中引退、上下競走www
『吉記』・・・於子越宿館失火出来、扈従者中、坂東輩等放火云々、上下失魂之間、或棄甲冑、或不知乗馬逃帰了www
『吾妻鏡』・・・所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒www
『愚管抄』・・・宗盛ハ水練ヲスル者ニテ、ウキアガリウキアガリシテ、イカント思フ心ツキニケリ。サテイケドリニセラレヌwww 平清盛からしたら、武門の棟梁の源義家の後胤の嫡流は
源義忠の子孫たちのほうでしょう?
父親の平忠盛は、源義忠から名前を貰っているし。
俺は、河内源氏とも、うまくいっているぞと。 清盛と頼朝は子孫が絶えたことで同一視する奴がいるが、それは比較論にならん
清盛は平氏一門のための平氏政権
頼朝は東国武士のための武家政権
根本が違うのだよ
だから源氏将軍が三代で断絶しても、鎌倉幕府は続き、頼朝以来の判例が
御成敗式目でも有効とされ、室町時代にも引き継がれた まあ清盛の失敗があったからこそ鎌倉幕府が出来たともいえるんだけどね 平貞盛の子孫は鎮守府将軍よくやってるんだよな
坂東も元は平氏の地盤
平忠常の乱の追討に源氏が来ると抵抗せず収まったとか
その辺から坂東平氏が源氏に従うようになった >>207
頼朝の配下に入った東国武士たちはそれ以前は平氏の家人
>>212
そんなことはない。せいぜい義朝が独力で開拓した人脈くらいだ。 >>208
後白河の義兵的位置づけの頼朝のほうが何だかんだ有利だよ、実際、頼朝は後白河の忠臣だし
一ノ谷だってそうだし、富士川は平氏の軍制の変化とか色々要因がある
墨俣や水島では破ってるんだから兵員の質がそうそう違うわけではない
ちなみに古典平家を見ると、個人個人の組打ちでは平氏方の有力武士は勝率が高かったりする。 一番大きなのは、保元の乱の違い。源氏は殆ど義朝方につき、余り為義方につかなかった。
だから、源氏は為義の妻子は義朝を除き皆殺しになり(このとき命からがら逃げ伸びた
志田義広や源義仲、源行家がのちに頼朝を恨みに思い徹底抗戦した)本家は崩壊したが、
関係者は余り崩壊しなかった。
一方、平家はマジで部下レベルで分裂した、というより、多くが頼盛、忠正、家弘とともに
上皇方につき、頼盛、忠正、家弘とともに3族皆殺しとなった。(平家は部下レベルを入れる
と源氏以上に凄まじく粛清した。)これは、清盛政権の安定化はもたらしたが、いざ源氏が
兵を上げると頼りになる者がいなくなる原因ともなった。 >>215
そんなことないだろ。
保元の乱の時、源氏の棟梁である源為義は上皇方につき、
義朝を除く為義の息子たちも皆上皇方についたために
源氏方は上皇敗北により損失を被った。
一方、平氏の棟梁である平清盛は勝利した天皇方。
清盛の弟や息子たちも天皇方で、平氏方は大いに躍進した。
上皇方についた清盛の叔父忠正は平家の棟梁ではなく
それほどの大軍を持っていたわけではない。 一番の馬鹿が後白河なのは確定で、後鳥羽は議論が分かれる所ではある
後白河がバカで無能なのは自他ともに認める事実w 後白河は日本一の大天狗と恐れられてたわけだが
平家も木曽も義経も後白河に体よくあしらわれ滅んでるわけで 後白河…朝権維持には一応成功
後鳥羽…朝権維持に失敗 平家政権は畿内惣官職が幕府と類似の性格を持つと
言われているものの結局のところ
藤原家の真似事だからな でもさ研究者の間じゃ
清盛が武士政権の先駆けて事は定説なんでしょ
福原幕府とか言われてるって去年聞いたぞ やっぱ武家政権つったら平泉か鎌倉だな。
福原は公武合体政権って感じ 日本一の大天狗、高階泰経説もあるのだな。
まあ、大天狗が後白河を指しているとしても、頼朝さんは「評価する」文脈で使ったわけじゃないのは明白だけどね。 >>224
いや、体よくあしらうつもりなら後白河が義仲と同レベルまでおりて、
直接合戦に及んだあげくボロ負けしてとっ捕まるなんて醜態をさらす必然性はどこにもないわけでな。
端的に馬鹿ですよ。 後白河が生きてる間は頼朝の征夷大将軍任官を阻めてたじゃんか 平清盛の構想を実現したのが足利義満
王朝政権の接収と大々的な貿易 とりあえず高橋昌明氏の論述集「平家と六波羅幕府」(東京大学出版会)
を読んで考えれ。 >>235
その説は頼朝が征夷大将軍職を望んでたと言う前提から間違ってる 武家の最高位は、左近衛大将だろう?
征夷大将軍の意味が大きくなるのは、後世の話で結果論。 元々中継ぎで即位しただけで権力基盤も脆弱だったにも関わらず、およそ三十年もの間院政を敷くことができたんだからやっぱり大したもんだろ >>242
ある意味、保元の乱の後の大量公開処刑で恐怖を与えたことが大きい。
藤原頼長を車裂きの刑にし、その妻子を皆殺し。
源為義の妻子を、義朝の系譜を除き皆殺した。(ただし、義広、行家は20年以上行方をくらます)
平頼盛、忠正、家弘及びその妻子を皆殺し。更に家盛の未亡人、遺児も皆殺し。
重仁親王ら崇徳上皇の皇子、皇女を、乳母の池禅尼ともども幽閉、焼き殺した。
これによる恐怖が、人を従わせたんだよ。いわゆる恐怖政治だ。
清盛が最後は幽閉に成功するけどね。 >>243
かなり事実誤認がありますが。
頼長→敗走中の負傷による死亡
頼長妻→正室は頼長より前に死没。側室処刑の記録なし
頼長子息→男子4人流刑。一人は政界に返り咲いて太政大臣になる。
武将たちの妻→出家して生存
平頼盛→壇の浦の後まで生存
崇徳上皇の皇子→重仁親王は出家。数年生存
池禅尼→三年後の平治の乱の後源頼朝の助命活動する。 清盛がいなくてもその後の歴史は変わらなかった
龍馬がいなくてもその後の歴史は変わらなかった
清盛と龍馬はタラレバヒーロー >>242
もともと中継ぎだったから尊敬されず、テキトーに好き嫌いでパートナーをとっかえひっかえして
周辺から大ブーイング浴びながらどんどん朝廷の権威を貶めていったから大したもんだよ
後醍醐みたいな基地外でもなけりゃ普通はこんなことできないよ >>246
後白河自身は知らんけど朝廷の権威はちゃんと保ててただろ
朝廷の権威が地に落ちたのは承久の乱の惨敗によるもの 保ってないよ
後鳥羽は実朝との協調が暗殺で破綻して関係再建に失敗したけど
後白河の場合はおのれの好き嫌いで朝威を完璧に失墜させてんだから
後鳥羽のやったことは全て後白河がやってるよ
頼朝君が優しかっただけですよ >>248
後白河はあれでうまくやってた
頼朝は完全に後白河の手玉に取られている
頼朝が後白河を好きにできたなんてとんでもないw
まあ、後白河に流罪を解いてもらってこその頼朝だったし
あまりにも頼朝の思い通りにならないものだから「大天狗」って言わせてる 貿易 外交は平家がやって、内政 治安維持を源氏がやって、天皇の下に共存できたら日本の黄金時代を築けたろうな >>251
その場合奥州藤原氏も生き残って三すくみになるだろうな それぞれ源氏・平家の棟梁だけど頼朝のほうは北条氏と有力御家人の神輿的な側面が強いような。
平家の政権は清盛あってのものだけど、鎌倉幕府にとって頼朝はテープカットの役目を終えたら後は用済み。 >>256
豊臣秀吉も秀吉あっての政権だが秀吉いないとすぐこけた。
徳川政権は老中たちがしっかりしてれば将軍が頼りなくてもやっていけた。
政権の安定性をとるならばトップ頼み政権は脆弱。 >>5
頼朝の子孫は男も女もわかってるものはすべて鎌倉前期に早々と死に絶えたが
清盛の子孫は多いから今も生き残ってるだろ絶対
特に女系
>>100
平将門も似たようなことをやろうとしたけど時代が早すぎて無理だった
頼朝も成功するかわからんけど清盛は摂関家のマネをして武家をないがしろにして失敗したし
武士の力も朝廷をしのぐほどになったし一か八かやってみただけだろ
成功する確信があったわけじゃないだろ
清盛がいなければ頼朝も清盛と同じ轍を踏んでいた可能性は高い >>250
どこが「あれで」なんだよ
自分が甲冑つけて武士と戦ってとっつかまる馬鹿がどこにいるんだ
頼朝は「手玉に取られた」のではなく「およそ治天とは思えぬ主筋に振り回された」んだよ
だから気まぐれ追討の院宣をホイホイ出した時点で忠臣頼朝君が途中でキレちゃったの
そこで出たと俗に言われるのが「大天狗」で、敵ながらすげえなんて意味は全く入ってない 朝廷と着かず離れずの絶妙な距離感覚を保ちつつ独自の
幕府を作り上げたのは偉大
頼朝自身、父の義朝や平清盛の失敗を見てきて
そこから学んだ部分もあったんだろうな 頼朝の政治感覚が偉大だというのは異論がないけど、
清盛が平治の乱以来の後白河と二条たちのドタバタ劇に「俺にはさっぱりワガンネ…」的に一歩引いてたら
いつの間にか全員相打ちになって唯一生き残ったのと同じで、
後白河のアホなトラブルに茫然とし、一方で東国武士団をまとめるので上洛できなかったら
いつの間にか絶妙な距離になってた、という感じじゃなかろうか 後白河のあほさに振り回された人生 清盛
後白河のあほさにはかかわりたくない 頼朝
頼朝はなかなか達観だなあ。 鎌倉中期に摂家将軍や宮将軍を迎えるなどしてたけど
基本的に鎌倉幕府は朝廷と着かず離れずで
その二重権力構造が消滅するのは室町になってからか 三代で全子孫が滅んだ頼朝より今も女系子孫が生き残ってる清盛のほうがすごいだろ >>265
頼朝の姉妹の女系子孫は生き残ってるぞ。
しかも清盛娘が嫁いだ近衛(&鷹司)には清盛の娘の血は残せなかったが
頼朝姉妹の娘が嫁いだ九条(&一条&二条)にはその血が残っている。 朝廷という既存の権門の中で権限を掌握した平清盛
戦乱における非常大権を平時体制の枠組みの中に取り込み
新たに権門を作り上げたのが源頼朝 >>268
平頼綱、長崎円喜、長崎高資は清盛の直系の子孫だけどね。 その他、怪しいとは言え、織田信長、伊勢関氏、対馬宗氏も清盛の子孫と言われている。
ちなみに、頼朝は庶子の系譜である島津氏(島津忠久)、結城氏(結城朝光)、
大友氏(大伴能直)などは残っている。 >>270
そいつらは平氏ではあっても清盛の直系ではない 島津忠久が源頼朝の落胤だったという伝説はあるけど
虚偽なのでは >>268 >>269
平清盛の男系は途絶えたが女系は残っている
258は女系も言っているのだから清盛の血は残っている
特に清盛の血は女系で天皇家にまで入ってるよ
平清盛ー女ー四条隆衡ー四条貞子ー西園寺姞子ー後深草・亀山天皇…現在の天皇家 女系なんてなんの価値もないよ。
皇室見てれば分かる >>275
清盛も頼朝も男系は残らなかった
(嘘くさい説はともかく一次史料ではどちらも途絶えている)
だから女系はどうかって話だろ
血は引いてるんだから
頼朝は直系は男系も女系も絶え姉妹の血筋が残るのみ
清盛は直系男系は絶えたが直系女系は残っている おかしなことをすると子供が因果応報を受けるパターンが多い 清盛だろう。まず正室腹ではないのに伊勢平氏の嫡男に納まった。
これだけでも器量を忠盛に愛されていたことが分かる。
運の強さも見逃せない。それまで摂関家が100年もの間苦労して来た外戚に、
たった一人の娘を入内させただけでなることが出来た。
惜しむのは清盛が英傑過ぎて、凡庸な子孫では遺産の維持すら出来なかったこと。
血統だけで社会が維持できる安定した時代を作るまでは命が持たなかった。 大友能直と結城朝光は、
落胤じゃなかったら男色相手だろう
頼朝も美少年大好き >>274
西園寺家から中宮を出せた経緯を見れば、それこそ頼朝サマサマだろう 海外の研究書では完全に大友能直は頼朝の愛人ってことになってる
英語Wikiにまで書かれる始末である >>283
Wikiはあてにはならない。誰でも編集できるから。
大学の論文でWikiの基準を参考文献にしたらアウト。 そのWikiの引用元は「Homosexuality & Civilization」Louis Crompton著とある
結構いい加減なことも書いてそうだけど
どういった経緯でそれが海外の学者さんに伝わったか分からない ダイヤモンド☆ユカイが頼朝の子孫らしい
というか結城朝光の子孫らしい >>279
清盛は血筋の分の悪さを覆すべく
白河院御落胤の噂をうまく利用したそうな
頼朝は人妻との子を認知しなかったんだろうけど
実際に御家人の妻と寝た記録も残ってるくらいだからどっかしら落胤はいたんだろね 頼朝は妻にぶちこみながら口で少年のティンポしゃぶった3Pしてたってこと? まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった まーだ6000年前の日本で小麦作をしていた事も知らない馬鹿がいるの?
6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり >>279 平重盛の早世が原因。宗盛や知盛は、吉川元春や小早川隆景にはなれなかった。 >>291
源道義なんて清盛の劣化版だろ何言ってんだw >>284
信憑性ほぼゼロのクソ史料を出典として持ち出してくるからな、ああいう底辺無学は 明日からCS銀河で大河「平清盛」が始まるのか。
5年ほど前までCSの契約してたけど思ってたより画質悪いんで見なくなり
契約自然消滅。 キレ芸しか披露できない主人公
「アレが気に入らない」「周囲が気に入らない」文句を言って怒るだけの主人公
誰もドラマの中にまで現実世界を再現してほしくないんです
そういう上司、そういう夫、そういう親、お腹いっぱいです 平清盛、足利義満は天皇家を一族で乗っ取ろうとした簒奪派 >>279
清盛の母は正室だろ
清盛2歳の時に忠盛の妻が亡くなったという記録が
公家の日記に残っておりこれが清盛の母だと思われる
その後忠盛は池禅尼と再婚した
清盛の正室は平時子なのに重盛が嫡子とされたのも
母親が先室だったからだろ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています