清盛と頼朝はどっちがすごいの?
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どっちがすごいのか日本史的な意義を語るスレッドです。 >>318
だから、福原に幕府を開くのは無理だよ
平家が福原遷都した時には安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇をすべて福原に連行し
朝廷をそのまま福原に移したから可能だった
朝廷は朝廷で存続したまま福原に独立政権を建てるのは無理だ
福原は都に近く朝廷に反乱する土壌もない
実際に、平家が都落ちして福原に停泊していた時も
皆都に残った後白河法皇に従ってしまった >>318
だから、福原に幕府を開くのは無理だよ
平家が福原遷都した時には安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇をすべて福原に連行し
朝廷をそのまま福原に移したから可能だった
朝廷は朝廷で存続したまま福原に独立政権を建てるのは無理だ
福原は都に近く朝廷に反乱する土壌もない
実際に、平家が都落ちして福原に停泊していた時も
皆都に残った後白河法皇に従ってしまった 粗大ゴミって回収費用払ったよシール貼って、回収センターに連絡入れて
日にち指定して捨ててもらうんじゃないの?
まだ、回収日設定している自治体があるの? 「鎌倉幕府」の創設は日本史上のエポックメイキングであるが、この政権は革命的でも突然変異でもなく、過去の政権のバリエーションの一形態であることをしっかり見定める必要がある。
頼朝政権は頼朝(鎌倉殿)と私的主従関係を結んだ家人(これを御家人と言う)と、
鎌倉殿の所領(これを関東御成敗地と言う)を管理する貴族の家政機関であることがわかる。
摂関家の家政機関をそのままスライドさせたものだ。
摂関家と頼朝政権の違いはまず平氏同様 軍事力を基礎にしていること、
2つ目は国内の軍事・警察権が頼朝に委任されていることだ。ここだけみれば
平氏政権と源氏政権はそう大きな違いはない。清盛も頼朝も本質は院政下の軍事貴族なんだな。
教科書では文治の勅許(1185年)で「守護・地頭を設置」と習うが、
あそこでいう守護は地域限定・期間限定の臨時職で翌年廃止されてるし、
国地頭と荘園の地頭もごちゃごちゃに教科書はしているので、
学校で刷り込まれた「幕府」観は一度捨て去って 一から再構築した方がいい。
朝廷の外側にある独自権力と言えば、院庁や奥州藤原がある。これらと貴族の家政機関のいいとこ取りが頼朝政権。これを「幕府」と呼称したのは明治以降の東大の偉い学者さん。 >>319>>320
大事なことだから、二度書いたのは理解したが、>>311の本旨はそこじゃないって言ってるでしょ。
後半の行が本旨。
>>321
うちの自治体は指定日あるよ。月一じゃなく週一だけどね。 >>323
だから、 >>311の前半は間違っているということだろ
そこを認めずに>>311の本旨は後半部分にあるから
前半の間違いには突っ込むなというからおかしなことになる 311だが、別に突っ込まれたと思っていないよ。317自体がとんちんかんちんなレスだったから深くはコメントしなかった。
>>311は全く間違っていないどころか317氏のレスを読んでさらに自信がついたねえ。
面倒くさいが>>311を説明すると、これはアンカーつけていないが>>309に対する回答だ。
「公家化する平氏 =守旧派 藤原の真似」「朝廷の外に政権創った頼朝 =革命的発想でエライ」という見方は
単純で視野狭窄だと従来から考えていた。 そこには両者の置かれた歴史状況 政権成立過程を一切考慮していないからね。
先人の失敗を後人が学習しリスク回避する手段を取る、なんちゅうことはあたり前田のクラッカーであって、
これを同列に論じるのは無意味だ。清盛が頼朝のあとに生まれれば、頼朝のミスを避けた手法を取るだろう、
という推論はバカでも理解できるだろう。
つづく(別にこれで十分なんだがw) 325のつづき (意味ないがとりあえず続ける)
>>311の前半は>>325を比喩的に結論づけた文章である。317氏の一連の文章はこのくだりをつまみ食いして
「IF歴史」として捉え、反証を試みている。まずここからワケわかめである。
>>311の後段を否定するために この「IF歴史」の反論をしているならこれは俺の本旨と対立するので
正面から受けて立つが>>317>>319を読むにそうではないらしい。 「頼朝京都政権の失敗後に清盛が出てきても 東国にも安芸・福原にも政権は築けない」
というこっちもIF歴史で応答してきた。なんか独自の理論をひっさげて根拠としてくれているが、
悪いが俺は独自解釈(おれも嫌いではないがw)に基づくIF歴史VSIF歴史は俺にとっても他の住人にとっても
興味のない話だ。 だから。>>323で「御免あそばせ」と書いたんだな。 また ついでに書く。 俺はIF歴史は好きだよ。「もしも清盛が子供のうちに頼朝の首を刎ねてたら」スレとかに
書き込みしてたよ。既存の歴史に別の可能性はなかったんだろうか?と考えることは
史実の再検証にもなるし、新視点を得ることになる。決してIF歴史討論は無駄でも無意味でもない。
ただ、その場合でも可能性があるIFじゃないとね。「もしも日本がアメリカに戦争で勝っていたなら」というお題は
非現実的で歴史検証にならずただの妄想 ファンタジーだからもはや歴史板じゃない別の板の議論だ。
>>311の前半「頼朝が清盛より先に生まれていたら」というのはIF歴史討論のお題じゃなく
後半の比喩なわけだ。だから317氏はこの後半を突っ込むべきであって、自分の興味のあるフィールドを主戦場に挑んできたので
「ちょい違う」つーこと。
おわり(もう、ここから先は勝手に勝利宣言してくれていいよ) >>326ー>>329
凄い執念だな。
そして、311が間違っていることについては
一切の反論がないためこれは事実。
317についての具体的な反論を一切していないために
これにも異論なしということが分かった。
そして317の内容とは全く関係のない長文を連投して煙に巻く。
311が基地外だということが良く分かった投稿だった。
おっと、レスは付けるなよ。 なんだよ、かまって君だったのか。 まともに相手してやれなくて済まんかったな。
おれの比喩にくらいつくのはお前の自由だし、勝利宣言もそれでええ。
おれの本旨に異論がなければそれでいい。 >>329
かまって訓はお前だろw
レスをしないと言ったにもかかわらずしてくる基地外さを証明しているなw
そして相変わらず反論は全くないので間違いを認めたということでもういいよ。
絶対レスするなよ。 テメエの方からくだらん妄想レスつけておいて 人を基地ガイ呼ばわりとは酷い話じゃあないか317.
おれは「レスしない」と書いた覚えはないな。どこにある? 得意の脳内設定か?
「勝利宣言していい」と書いたのを勝手に俺が「レスつけない」と脳内転換すな。
おまえ、>>317>>319を五万回読んでみろ。どこか>>311の反論になっているのか? 読解力不足による誤読が>>317である。
こんな誤読レスになんかまともに議論できるかw 読解力をつけてからもう一回書け。
相手してもらえなかったからといって、他人に罵詈雑言するな。お前の書き込みはもはや討論を逸脱している。
「絶対レスつけるな」って、こっちの台詞ですよぜ旦那w 詳しいことはわからないけど、
本当の話みたいだよ
天子神璽を授けられた者(所有)じゃないとダメみたいだよ、
神器もそう
騙りもダメだという話
授ける側、授かった側、どちら側も同じ 武力などで、無理矢理、盗んだりした場合も無効
罪に陥れ(冤罪)、位や職、
証のようなものを剥奪しようとした場合も同じだという話
有名な話なのかな 何の話をしているの?アニメの話?
これはアニメの話ではないよ
⇒『舞い降りる翼』
⇒『舞い降りる剣』 >>331
お前が百万回読み直せ
317は間違ってないしお前は何一つ反論できていない
レスは付けないというのはお前が勝手に宣言した言葉
それを前言撤回したことを謝罪もせず
こっちにレスつけるなと命令するかまってほしい基地外
馬鹿につける薬はないねw このような話もあるでしょ
・正義の名のもとに
・神のいかずち(雷) >>327
>おわり(もう、ここから先は勝手に勝利宣言してくれていいよ)
↑
自分で書いたのにもう忘れる重度痴ほう症のお爺ちゃん それは>>311の再説明(連投)の終了ということだ。忘れてないよ。実際にこれ以降
>>311の説明はしていない。 おまえの勝利宣言で勝手に終了してくれてそれでおれも沈黙できたが、
おまえはあろうことか調子こいて 他人様をキチ外呼ばわりしだした。
そういう行儀の悪さについて おれはレスしておくよ。
おまえは誤読を指摘され、人格攻撃に切り替えてきた。これはいけない。
『サイバーパンクspecial』
このコミックに収録されている、とある作品
ロトと言うキャラクターが登場するんだけど、
なぜか川崎区の南部に住んでいる 中世の始まりは12世紀初頭 堀河天皇の崩御後 本格的な院政が始まってから
鎌倉幕府の成立はその80年後 清盛の落胤説って怪しいのかな
鳥羽院「清盛が清華は、人に劣るまいよ」
白河院の落胤だから12歳から兵衛佐、その後も破格の出世で
一代運なのかと思ってた
本人は代々続けたかっただろうけど
源氏は共食いが酷い 悪源太義平の頃もそうだけど
頼朝は、人を信用しないから身内殺し過ぎて、頼家もあんな殺され方
(自業自得だろうけど)
今わの際に、畠山重忠に「頼家を守れ」って今更寒すぎる
そういう点は狭量すぎて、見通し甘いわ 自分で子孫の首を絞めてる感する
橋の落慶式の帰りに、自分が殺した相手の残党に暗殺されて落馬したって説を支持したいわー >>335
>317は間違ってない
単なる史実を述べている部分は間違っていないよ。ただ、その記述が全然>>311の反論に
なっていないから、317のどこにどう反論していいか さっぱりわけわかめだっただけ。
多分 他の住人も論点がわからんと思うよ。 比喩に対してIF歴史で返されても おれに何をどう反論してほしいのか
今日読み返してもさっぱりわからん。 まあ、ここはお前の勝利宣言でいい。
>>338
「連投終了」と「勝利宣言していい」が、 ↓
>レスは付けないというのはお前が勝手に宣言した言葉
に脳内転換したわけだな。 成程。
比喩に対してIF歴史で応答し、「俺は間違っていない」というから誤読していることを、
馬鹿でも理解できるように説明してやったら、キチ外だの、謝罪が無い、だのわけわかめである。
もう一回書き直せ、という要求(>>331)に対する返事が
>馬鹿につける薬はないね
なので、わけわかめ論争は終了する。 それと
>こっちにレスつけるなと命令
俺がそんな命令していないのはスレ読めばわかる話。 「絶対レスつけるなよ」と2回叫んだ317に
「それはこっちの台詞ですぜ旦那w」という俺のコメントを得意の脳内転換したんだな。
勝利宣言はいいが、脳内転換や誤読に対する訂正レスはつけさせてもらうし、
勝利宣言を超えて、図に乗った悪態にも懲罰は加えることはある。
で、リセットして話題を続ける。 316と322のつづき
誰かも書いているが 清盛=信長 頼朝=家康という見立てに賛成で優劣はつけられない。
>>1もその辺は承知で ざっくりした質問を投げかけたとみる。清盛も頼朝も同じく武家政権の創設者であり、
>>1は個人の優劣ではなく、文中にあるように歴史的意義をさぐっていくスレだとし、
具体的には平氏政権と鎌倉幕府の意義を論じる場ととらえてみた。
それで>>311>>316>>322を投げてみた。過疎スレ且つ投稿から日も浅いので全く反応がないが、
清盛を頼朝の「前座」扱いしてきた歴史観に非常な疑問があるわけだ。だが、近年、大河ドラマの影響かどうかしらんが
清盛というか平氏政権が再評価されてきているのはいい傾向である。 木曽義仲 源義経の失敗例も頼朝の参考になった
朝廷とつるむのは両刃の剣 平氏政権 (ウィキぺディア)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B0%8F%E6%94%BF%E6%A8%A9
昭和時代の学校教育では平氏政権を貴族政権の亜流として教えられたが今は違うみたいだね。
平氏政権が長期政権となっていれば西国に拠点を置いた海洋国家を目指したの可能性は
よく指摘されるところだ。 平安中期、公地公民制が崩れ、調整方式が人頭税型から土地課税型へ移る。
それと並行するように国家が直接 農民から徴兵する方式も廃れていく。
国内の治安維持や地方の反乱に対しては新たに登場した軍事貴族の私兵に頼るようになる。
院政の基本構造は、上皇と直接 主従関係を結んだ「院の近臣」たちが受領や荘官、公卿となる制度である。
上皇に対する荘園寄進が急増するのは鳥羽院政期だが、膨大な荘園と知行国 上皇と主従関係を結ぶ武士たち、朝廷の枠外にあり、これらを統括する院庁。
院政の外形部分だけを見れば、草創期の「幕府」とそう変わらない。院政こそ「幕府」のプロトタイプと言える。 >>342
だから、317は何も間違ってないことを認めているのだからもういいわけだ
しつこいな
311の間違いは317で指摘した
何度も言わずな、基地外 >>317のあさっての方向の筋違いの知識の羅列だということは
すでに>>325>>326で幼稚園児にも解り易く諭してもらったのに、馬鹿一人が理解できないだけだろw
>>317間違い以前の????な頓珍漢ぶりw
>>317なんか全然>>311の反論にもなっていない意味不明なノイズでしかない。
真正のアホは>>311の本旨に意見できるほどの知識も見識もなく、全然関係のない話題を持ち出して
「ほら、間違ってないだろ」「反論していない」と喚いているだけだなw
>311の間違いは317で指摘した
全然間違っていないけど、この論争は終了宣言が既に出てるからもうお腹一杯 清盛も頼朝も名門の貴公子だが、頼朝は苦労したから人間力は上だな
清盛は運に恵まれ機会を上手く利用できだ。頼朝は逆境をバネに成長していった 武家政権の内、征夷大将軍になったものだけを幕府と呼び、そうっじゃないのをそのまま○○政権と区別するのって、
学術的にはあんまり意味ないと思う。
豊臣政権と徳川幕府は朝廷との距離感が違うのは解るけど、足利幕府なんか京都に一緒に住んでるんだから
その親密さはむしろ豊臣ー朝廷 以上だ。 近頃は平家の政権を六波羅幕府と呼ぶ学者もいるそうだから
豊臣政権も豊臣幕府と呼ぶようにしたらいいと思うんだがな。 >>349
そうだね ただ猜疑心が強すぎて、平家滅亡後、弟を上手く使いこなす術を思いつかなかったのが
運の尽きかな あと、東国武士の連立政権の御神輿で、自分自身の兵を持たないのも弱い
簡単に北条に呑まれてしまう 頼朝挙兵時は手持ちの兵はいなかったが、幕府成立後は直轄軍は多分制度化されていただろう。
室町幕府の奉公衆みたいな。 鎌倉殿は関東御領という直轄地と数か国の知行国を持っていたしな。
それと 頼朝神輿論とその反論をこのスレで何度か見たが、 幕府成立後の頼朝はもはや東国武士の御輿ではない。
頼朝決起の折は確かに 参集した武士たちの取っ手は「神輿」であったろうが寿永の宣旨あたり以降になると、力関係が頼朝側に移っちゃってる。
だから頼朝は政治的天才であるわけだ。 しかし、東国武士たちは面白くない。頼朝に抑えられていた連中(北条含む)が頼朝死後に頼家の独裁権を剥奪して、
初めて「連立政権」を創出したわけだ。 頼朝存命中は「連立政権」ではないし、 そういう意味の「御輿」論は既に論破されてるわね。 平家政権は絶頂期があったけど、源氏三代は暗いイメージ。 平清盛や田沼意次が再評価されることはいいことだ。 頼朝とか家康は野暮ったいイメージがある。
商業や貿易を重視する姿勢が現代の風潮に合ってる。 >>354
自分が年取ってから感じるのは
御輿に成る、担がれる胆力って凄いと思う
担がれつつ事を成すとなると、そりゃもう
清盛や意次の再評価は良いと思うが
彼方を上げるから此方を下げる
っとものでもないよね 「英雄たちの選択」で、いそっちは応仁の乱の東軍と西軍の総大将を両方やった足利義視は凄い、
とか言ってたな。 もちろんギャグで言ってるわけだが。
頼朝や尊氏のように、 人望 能力を合わせ持った「御輿」が最強であり、天下人の器量ってことか。
人望も能力もないのに「おれを担いでくれ」と頼みまわるような政治家ではだめだな。
なあ、そう思わんか? 枝野。 >>350 豊臣幕府の呼称は賛成だ
ただ平家の六波羅幕府は反対だな
平氏は朝廷の統治機関を活用して天下を統治していた
すなわち平氏は天下を統治するための、
朝廷から半独立した独自の統治機関がほぼなかった
(鎌倉・室町幕府は政所、問注所、守護、地頭、豊臣政権は五大老五奉行、京都、堺、長崎奉行など) >>357
「幕府」というのは江戸幕府も含めて天下人の家政機関なんだよ。 江戸時代の遠国奉行も徳川家の私領を統治する家司にすぎない。
この基本性格は院庁から江戸幕府に至るまで変わらない。
源氏政権の家政機関を幕府と呼ぶなら、平氏政権の家政機関も幕府と呼んでもいいはず。
政所・問注所・侍所なんて上級公卿はみんな持ってるだろ。
平氏だって国守護人や地頭が居たし、 源氏政権も守護未設置国はあった。 全国政権jyないし>源氏政権
平氏政権は地方統治に朝廷の機関(国衙)を利用するなど確かに武家政権としては“半独立”だったが、
萌芽期の武家政権(平氏)の未成熟度を理由に挙げるなら、 源氏政権と北条政権(承久の乱後)も大分違うし、
その北条政権と、半済令・守護請施行後の足利政権の間に相当な成熟度の差がある。
武家政権は保元・平治の乱以来 進化・成長を続け、一応足利義満の時代に完成を見る。
学術的な意味で「幕府」の定義なんかあって無いようなもんだから、平氏政権を幕府と呼ぶ呼ばないは、
趣味の問題じゃないかと思うね。
大体、 「中世」の始まりは12世紀初頭(院政 荘園公領制の確立)とする説が有力になってきているし、
もう武家政権=幕府と総称した方がスッキリするんだがねえ。 平氏や藤原氏の家政機関は日本国を統治する機関じゃなくて、
文字通り平氏や藤原氏の台所の機関だ
幕府とは性格が異なると思うね 変換ミス 訂正
全国政権jyないし → 全国政権じゃないし すまそ >>359
明治時代に「鎌倉幕府」(承久以前)とネーミングされた源氏政権も源氏の台所機関だよ。
関東御成敗地を管理する機関だな。
源氏政権と平氏政権の一番の違いは頼朝が日本国総追捕使になったことだな。(1190年)
まあ、これも言い出すと平氏も「畿内惣官職」になってるし(1181年)。
平氏政権の国守護人は未だ不明部分が多いが、 平氏政権と源氏政権って、そんなに違いは無いんだな実は。 鎌倉幕府は日本全国の武士を傘下に収めたわけでもないし、
関東御成敗地以外の土地 公家領・寺社領・国衙領は幕府の管轄外だし。
鎌倉将軍家の台所が大きいもんだから、その家政機関が国家機関に見えるだけだな。
足利義満の頃になると国衙領はほぼ武家の支配下に入る. ぢゃあ、天ぷらおかわりして昇天した征夷大将軍の話でもしようか? >>361
本拠地が京都と鎌倉という違いも大きい
頼朝は京都にあえて住まず、朝廷との間で距離を作った
それから守護の治安維持は、非御家人や公家・寺社・国衙領に到達する
鎌倉時代から在庁官人は守護の指揮下に置かれるようになる 鎌倉幕府が、朝廷の役職でない全国各地域を統治する役職として、
守護を設置した意義は大きい >本拠地が京都と鎌倉という違いも大きい
室町幕府も京都なんだが
>それから守護(以下略)
守護は平安朝の総追捕使の名称が変わっただけのもの。
厳密に言うと令制下の職だから当たり前だわね。 ちなみに奥州藤原氏は押領使 (最初)
源氏政権はほとんどオリジナリティが無い
追捕使
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%BD%E6%8D%95%E4%BD%BF 室町幕府も最初は鎌倉に築こうとしたが、
南朝対策で京都に置いた
つまり幕府は京都に置かずに、鎌倉でも江戸でも、
京都から遠い所でも 置けるというところが重要
天皇ありきの藤原氏政権や平氏政権と異なるところだ
追捕使は天皇が任免するもの
守護地頭は将軍が任免するもの
だから後鳥羽上皇が地頭の罷免を鎌倉幕府に要求して断られた
朝 平氏政権は武家政権の可能性はあったが、あくまでも可能性の段階
藤原摂関政治と鎌倉幕府の過渡期だな
元寇の段階になると、朝廷のお伺いや勅許を経ぬまま、
蒙古からの使節を鎌倉に呼びつけて斬首するまでになった そして鎌倉幕府が平氏政権と最も異なる点は
「問注所」という訴訟受付機関を設置したことだ
これまで何か訴えを起こして裁いてもらう機関は京都にある朝廷のみだったが、
新たに鎌倉に問注所ができた >>368>>369
うんうん。知ってるよ。 だから、 平氏政権を幕府と呼ぼうが呼ぶまいが、どこに力点を置いてネーミングするかは
個人の趣味の範囲だと思うわけよ。 「幕府」の定義がそもそも無いのだから、そもそも論争にならない。
平氏政権と源氏政権(承久以前)には共通点と相違点の両方があることは共通認識できると思うが、
京都に本拠地があるか無いかを重要視する君の視点は理解できるし、 そこをあまり重視しない僕の見方も学術的には間違っていない。
ただ少し、君の視点で明らかに異論がある点だけ記しておく。
>鎌倉時代から在庁官人は守護の指揮下に置かれるようになる
少し違う。 鎌倉期において守護が在庁官人を直接指揮できるのは @在庁官人が御家人の場合 A在庁官人が守護の被官になった場合
と自分は理解している。この文章では守護がその職権で在庁官を指揮できるように読めるがそうならばそれは初耳。
>追捕使は天皇が任免するもの (以下略)
ここも言葉足らずである。 頼朝は日本国総追捕使に任じられて(1191年)同時に諸国の追捕使の任免権を得た。
まさにここは画期的なことだが、 この権限も元は「日本国総追捕使」に天皇から任命されて発生した権限である、
という肝心な部分がずり落ちている。 いわゆる守護・地頭制度は既存の令制の再活用である。
ここが理解できていないとお話にならない。 ただ、 守護地頭の任免は朝幕の力関係で決まっている。
現在の日本の政治だって 人事は総理総裁と派閥領袖の力学で決まるのと同じ。 つまり、俺は制度論を言っているのに対し、
君は政治論で反証している、つーこと。 源氏政権が朝廷から実質独立していることにもちろん俺は同意してするが、
だから、何?となっていしまうわね。
つづく 370続き
>平氏政権は武家政権の可能性はあったが、あくまでも可能性の段階
君の頭の中で「武家政権」と「幕府」の定義や違いがどうなっているか知らんし興味もないけど、
学界では平氏政権は「最初の武家政権」になっている。 それを気に食わないなら、 ちょいと学会で論陣張ってくれとしか言いようがない。
あとは、平氏政権を幕府と呼称するのがしないのかが問題で、現在は過去の慣習で呼称しない、ということになっている。
俺はここを非論理的で感性の問題にしか過ぎない、と喝破しているわけですよ。
>「問注所」という訴訟受付機関を設置したことだ
鎌倉幕府の特徴としてこれを挙げたのは良いと思うが、 まあこれも従来の政所がやってた機能を職掌分化しただけだしねえ。
総務部人事課が昇格して人事部になったようなもんだし。
君がこれを取り上げたのは多分この間違い故だと思う ↓↓
>これまで何か訴えを起こして裁いてもらう機関は京都にある朝廷のみだったが、
ここは少し驚いた。 荘園内の訴訟は基本 本所でしょ。 鎌倉殿の家人同士の訴訟は幕府の裁定になるのは
同じ本所の荘園での訴訟は本所の政所で裁定してたわけで、 ここのどこが幕府のオリジナルなのか少し意味不明。
まあ、 とりあえずはここまでかな。 すみません >>370の文章が一部消えている。
鎌倉殿の家人同士の訴訟は幕府の裁定になるのは × (続きが無いw)
鎌倉殿の家人同士の訴訟は幕府の裁定になるのは 摂関家の荘園も同じことで 〇
と追加します。
非御家人の訴訟が本所を超えて幕府に持ち込まれるのは大分 後の話(承久以前にも無いわけではないが)
基本的に幕府の司法権は関東御成敗地が原則 >>370 天皇が任命しているから幕府のオリジナリティはないというなら、
平氏政権も鎌倉以降の幕府も全部オリジナリティがないということになるのでは?
全部朝廷の下部機関でしたで終わりじゃん 蒙古襲来の時期をみれば、
蒙古の使節を斬ったのも、
朝廷や天皇が決断したのではなく、幕府が最終決断したものだ
これが日本を代表する日本政府という側面を有する、幕府のオリジナリティといえる
日本国内の関東進止所領という領地を持つ単なる領主ではないということだ >>371
荘園内の公家と武士の間の訴訟は、
次第に朝廷が裁くのではなく、幕府が裁くようになっていきましたよ
これが平氏政権を幕府と呼称するのが難しい点ですよ
平氏政権も藤原摂関政治も、あくまでも朝廷の中で政権を握っており、
朝廷とは別個に日本全国を統治していたとは考えにくいわけです
だから天皇の信任を独占することが政権確保の第一であり、京都から離れられなかった 幕府の最終進化形態は江戸幕府
朝廷が一定程度の権力を有していた時期の初期鎌倉幕府をみて、
幕府の定義やオリジナル性を論じるのは言葉足らずだね
あと守護が在庁官人を指揮していた程度も時期によって異なるが、
平氏政権下では、平氏が天皇を動かして国司や知行国主になって
地方行政を動かしたので、鎌倉以降の幕府の地方行政とは異なるわけだ うーん 確かに初期頼朝時代は平氏政権に近かった部分もあったが
だんだん得宗専制の時期ぐらいになっていくと平氏政権と近い性格が薄まり
幕府の自主性・全国性が強まっていった
鎌倉幕府の性格は初期と後期では異なるところがポイントとして抑える必要がある 「幕府」の定義について、しっかりした論文を読んだことが無いので自分の無知を晒すが、
一応 学校の授業では征夷大将軍に任官したか否か がポイントで、本拠地が京都か否か、天皇の外戚か否か、
というレスは、俺の中では「その人個人の独自理論」としてしか処理しようがない。
俺は鎌倉幕府の変容を以て便宜的に「源氏政権」「北条政権(承久前)」と区分けして、 源氏政権と平氏政権の共通性と相違性の比較検証を論じているのだが
相手氏は論破されると北条政権の話を持ってくるので論点がこんがらがる。
昨日から俺が言いたいことは 幕府の定義論争ではなく、 古い平氏政権観に対する違和感を表明するに当たり、
源氏政権の“後進性”を指摘することで、 平氏政権と源氏政権の間の“ミシン目”はそれほど大きくないことが
近年認識されてきている、ということ。 もちろん、だからといって平氏政権を「幕府」と呼ぶかどうかは別の話だけどね。
学界で「幕府」の公式定義が無い以上、 その呼称の適否は個人の感性にしか過ぎないことは何度も述べた。
俺個人としては「武家政権であるが 幕府とは呼ばない」というテーゼは論理的整合性が無い、と今日もさらに確信できたので
これはこれで有意義だった。 個人的独自理論は嫌いじゃないし。 「六波羅幕府」を主唱している高橋ナントカさんも相手氏もそれぞれマイ定義でモノ言っているだけだし。
まだ書き足りないが、駄文でレス汚すのもなんなので今宵はここまで。 おっとアンカー忘れ 379は>>378宛て
370でした。 みなさん、連投失礼しました。おやすみなさい。 比較のしようもなく、清盛に決まっとろーが。
清盛は二人も孫を天皇にしたんだよ。
おまけに、貿易の振興と経済自由化政策で民を豊かにもした。
頼朝は全くすごくない。
若いころから衣食を世話になった北条時政の言うがままに、源氏一族を亡ぼしてしまった。
おまけに、自分が戦争に勝つ武力がないものだから、弟たちに戦わせ、ライバルだった
イトコたちや、平家を倒してくれた弟たちを、北条氏にそそのかされるままに殺した。
結果、頼朝を支えた身近な武将たちは、頼朝の死後すぐに北条氏に殺され、
頼朝の子どもたちや孫まで殺されて、将軍家は完全に断絶してしまった。
あれほど情けない将軍は歴史上一人も見出すことはできない。 >>378
私が鎌倉幕府は京都から距離を置くことができたところがポイントだといえば、
あなたは「室町幕府の拠点は京都ですけど」と言ってきて、
北条政権より後の室町幕府まで持ってきてましたよね
だから論点がこんがらがるんですよ 平氏政権を鎌倉幕府と比較して、六波羅幕府と呼びたいなら、
鎌倉幕府140年の中で、自分の都合がいい一時期を区切ってみるのではなく、
鎌倉幕府140年全体を見たうえで、平氏政権を幕府と呼べるべきかどうか検討すべき
そもそも実朝期から北条執権政治は始まっており、一刀両断に分けられるものではない。 >>383
例えるなら明治政府と江戸幕府を比較する時に、
廃藩置県前の一時期の明治政府と江戸幕府を比較して、
明治政府と江戸幕府の構造は似ていると言ってしまっているようなものだ >>383
ここで比較されているのは、
平氏政権と北条政権ではなく、
頼朝と清盛です。 頼朝が作った鎌倉幕府の重臣たちはみな北条氏に殺され、
朝廷から正式に征夷大将軍に任命された1992年から、わずか25年ほどで源氏の将軍は絶滅し、
全国支配をするに至る前に終了しました。
清盛が全国を支配下に置き、国家的事業に取り組んだことに比べると、源氏が支配下に
おいたのは関東の狭い範囲のみでした。
鎌倉幕府は、源氏将軍の血が完全に絶えた後に、北条氏に乗っ取られた後、承久の乱を
経て全国支配の権限を得ていきます。
頼朝の子孫は全国支配など夢想することもないままに滅亡しました。
頼朝を慕い、共に東国支配の基盤を整えた有力御家人たちはほとんどが頼朝の死後間もなく殺されました。
母と叔父によって謀殺され滅亡した源氏将軍一族は、ただ悲劇の主人公にしかなり得ません。 >>385
平氏政権を六波羅幕府と呼びたいなら、140年続いた鎌倉幕府全体と比較して論じるべき
同様に一代で終わった豊臣秀吉政権と江戸幕府の構造を比較する時にも、
家康の時期だけを抽出して、秀吉政権と比較しても限定的な理解となろう 清盛はあの時代に生まれた突然変異の英雄だったとしても
残された縁類が家を残せなかったのは人物がいなかったというより
公家化したのが原因なんだろうなあ
同じ日本人でも今の時代の俺らが太平洋戦争までの
ご先祖さま達みたいに戦えるかって言ったら無理だろうしなあ にっぽん歴史鑑定とかいう超マイナーな似非歴史番組、なに足利直義の肖像画を頼朝の肖像画にして捏造してんだ??
もう直義に比定されてるのを知らないのか無能スタッフ
イラつくからすぐ切って録画消したわ >>383
鎌倉幕府は基本世襲だからな
平氏政権は世襲ではない
平清盛は太政大臣になれたが息子や孫は太政大臣になれなかった
この時点で「幕府」も何もない
平氏政権は清盛への後白河法皇の寵愛だけが頼りだった >>386
頼朝の時代には最果ての島津まで動員したんだが >>386
清盛が全国を支配下に置いたわけではない
後白河法皇というまぎれもない治天の君がいて
そのお友達として清盛がいただけ
実際、清盛が権力を持つためには天皇家と摂関家の乗っ取りしかなく
そのために娘を天皇家と摂関家に嫁がせ安徳天皇を得た
しかしそれも後白河法皇の気分次第
治天の君である後白河法皇にそっぽ向かれたら下り坂だった 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
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念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
887 教科書にも載る “最古” の源頼朝木像 傷み深刻 修復へ
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181005/k10011659341000.html?utm_int=nsearch_contents_search-items_001
国内で最も古い源頼朝像として甲府市の甲斐善光寺に伝わる木像は、一部が欠けるな
ど劣化が深刻なことから修復されることになりました。寺に残る記録によりますと、
修復は初めてで「教科書でも紹介されている頼朝像のため、できるだけ早く修復した
い」としています。 頼朝が景時に見逃さられなかったらどうなっただろうね。 頼朝が関東以外に飛ばされても、その地でいずれ担がれたのかな 統治機構の確立という点では、頼朝だと思う。
私的な武家の棟梁の立場と公的な権限を融合させて、朝廷権力と同時に成立し得る独立政権という難題をクリアした。
世界史ならAugustus並みの政治力。 >>396
義経、義仲、志田義広連合軍が早期から頼朝包囲網を構築していたられば 義仲と義経はどっちが凄いか?と似たような命題だな。
ex,
高杉晋作と坂本龍馬は
伊藤博文と大久保利通は
始皇帝とフビライは 清盛って保元平治、治承寿永と売られた喧嘩を買っただけだよね。こっちから仕掛けてないし 階段から女性を突き落とした疑いで、「鎌倉の頼朝」を逮捕!
[2019/04/10 11:58]
神奈川県鎌倉市の線路をまたぐ橋の上で大学生の21歳の男が女性に突然、殴り掛かって階段から突き落としてけがをさせたとして逮捕されました。
私立大学4年の頼朝海斗容疑者は1月3日午前4時45分ごろ、鎌倉市の線路をまたぐ橋の上で
30歳の女性の顔面を複数回、殴って階段から突き落とした疑いが持たれています。
女性は顔面を打撲するなど、全治1カ月程度のけがをしました。
警察によりますと、2人に面識はなく、頼朝容疑者は当時、酒に酔っていて、
取り調べに対して「むしゃくしゃしたことがあり、殴ってしまった」と容疑を認めているということです。
https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000151883.html 頼朝容疑者wwwwwwwwwwwwwwwwwwww シン・平家物語 テーマソング
「KIYOMORI No.1」
♪おたべ喰ったって〜
和菓子喰ったって〜
京都の中では「平家」なの♪
坊主が唸ればぁ〜
公家が弾むわぁ〜
陰陽師 呪詛 アタック!
ワンツー ワンツー祈祷 護摩 !
でも、涙が出ちゃう・・・
だって、「壇ノ浦」なんだモン、、、、orz(涙
♪南無阿弥陀仏も〜 般若心経も〜
青空に高くー叫びーたい〜♪
平家 一門 NO.1
平家 清盛 ナンバー アー ワーン! >>401
義経が世に出てきた頃には義仲は討たれていたから
(そもそも義仲を殺したのが義範・義経連合軍)
手を結ぶと言っても
義仲が生きてた頃はまだ平家滅亡前だから
その頃に頼朝と義経が対立していたら
そもそも源氏の世にはならなかったはず >義経が世に出てきた頃には義仲は討たれていたから
>(そもそも義仲を殺したのが義範・義経連合軍)
>義経が世に出てきた頃には義仲は討たれていたから
>(そもそも義仲を殺したのが義範・義経連合軍)
>義経が世に出てきた頃には義仲は討たれていたから
>(そもそも義仲を殺したのが義範・義経連合軍) 清和源氏の嫡流は源頼政やね、頼政の子頼兼、頼兼の子頼茂、頼茂の子頼氏と嫡流が流れる
源頼氏は遠江守となって浜名氏を称した
遠江浜名氏が源氏嫡流 源氏の長者は村上源氏の久我氏
足利義満以降は将軍家が源氏の長者 清和源氏の嫡流は頼朝が統一するまでは各地の清和源氏が嫡流自称して殺し合いだよ。 清和源氏に嫡流なんて存在しない。源頼政も嫡流ではない。 武家で特定の家系だけを嫡流として絶対視するようになるのは鎌倉以降
例えば平安時代までは清和源氏のなかで最高四〜五位に達する家が十数家あったとして
それらが王朝政府に仕えて平等に出世争いをすることになる
そのつど誰がトップになるかわからないから絶対的な嫡宗家などできない 朝廷が武家同士を競わせて一大勢力にならないように調整してるね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています