琉球王国以前の時代
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琉球(王)国に征服される以前の沖縄(本)島や他の島々の歴史を語り合いましょう。
自称沖縄人・不朝鮮人ギルーの詭弁レス一例、当スレ>>302の解説
>302 :日本@名無史さん:2012/09/30(日) 05:42:53.48
>>>301←朝鮮人
>朝鮮人は自分自身が朝鮮人なのを棚に上げて
>日本人に対して鮮人だの不逞鮮人だのと言う特徴があります
>おそらく在日朝鮮人なのでしょう
この様に、不逞鮮人ギルーは自身の正体を誤魔化す為、間違いや悪行を指摘する者に罪を擦り付けます。
これは「アイムザパニーズ」と呼ばれてる、鮮人が日本人に化ける行為そのものですね。
また、連コリアン(同じ内容の文章を繰り返す癖)などもそうです。
>>303続き、当スレ>>302の解説
>>>296←
>文中に誤字があるし
>表現の間違いもあります
>やはり朝鮮人なのです。
これも鮮人が常習的に使う詭弁の手口ですね。
相手の文章を読み解いて反論するよりも、あら捜しを優先、そして己の悪行を誤魔化そうとするわけです。
なお、この様に上から目線で連呼しておりますが、具体的なソースを提示して説明することは皆無です。
当然ですね、矮小な鮮人詭弁家ギルーにとって、大事だと勘違いしている小ネタを失う事になりますから。
>>301での非難一例も、不逞鮮人ギルーのこの様な悪癖・悪行を的確に指摘しています。 >>303>>304←朝鮮人
朝鮮人は自分自身が朝鮮人なのを棚に上げて
日本人に対して鮮人だの不逞鮮人だのと言う特徴があります
おそらく在日朝鮮人なのでしょう
日本語の文章も誤字がありますし
表現も間違ってます。 チョンギルは不逞鮮人故に
壊れたリピート機能を火病とともに発動してますが
コピペ機能は使えないのです
機械音痴火病鮮人無知蒙昧厚顔無恥 >>306←朝鮮人
朝鮮人は自分自身が朝鮮人なのを棚に上げて
日本人に対して鮮人だの不逞鮮人だのと言う特徴があります
おそらく在日朝鮮人なのでしょう
漢字の誤字が度々あるのも朝鮮人ならではです
普段はハングルばかり使用してるからです。 朝鮮人って、本当に嫌われてるよな
こういう指摘も将来は人権擁護委員により摘発対象になるんだよな
言論弾圧っていつからだっけ? 不逞鮮人とはかつて犯罪や不法な行為をした
朝鮮人「不逞な朝鮮人」を略して不逞鮮人と
言ったものでした
それだけ朝鮮人による犯罪率が高かったと言う事です。 なるほど朝鮮ギルーそのものやね。
だから不逞鮮人言われてるのか納得! >>311←朝鮮人
朝鮮人は自分自身が朝鮮人なのを棚に上げて
日本人に対して鮮人だの不逞鮮人だのと言う特徴があります
このひとは在日朝鮮人なのでしょう。 琉球がらみは歴史を捏造しようとする朝鮮人ばっかりだわ 朝鮮に比べて琉球は
わりと自由に中国と交流してたから
やっかんでるのでしょう。 テレビ東京
朝8時25分〜
チャングムの誓い放映中〜
即行動を起こさねば沖縄が中国の自治区になってしまう
左翼組織とマスゴミと政治屋に、大多数の県民が洗脳され私たちの沖縄が乗っ取られる寸前まで来てしまった(恐)
赤を強調した共産党デモを見て気付きませんか!?
このような、事態はマジに超ヤバ過ぎです
中国共産党在日コリアン朝鮮の工作員が沖縄はおろか本土、乗っ取りにも本腰を入れ、水面下で洗脳活動中です絶対に反日マスゴミの偏向報道に騙されてはなりません
チベットの悲劇は明日の沖縄http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1438.html
『オスプレイも基地も絶対絶対に必要です』無ければ速攻侵略され完全奴隷化されます中国にとって基地は侵略の邪魔だから偏向報道しや天皇、本土を揶揄し弱体化を企てる!
早く気づいて下さい。目を覚ましてください。
ウチナワから全国に周知し立ち上がろうウチナーもヤマトも我らの領土を日本人で団結して守るぞ
●至急検索YouTube
【沖縄左翼黒幕の正体】http://m.youtube.com/watch?v=N85HYX2aNd8&desktop_uri=%2Fwatch%3Fv%3DN85HYX2aNd8
真相真実
http://portable.blog.ocn.ne.jp/t/typecast/522841/246483/category 日本共産党が何をしたか。
http://81.xmbs.jp/piroshigogo-222215-ch.php?guid=on
日本共産党は戦後の紛争で、コミンテルンから
武器を受け取り党員や同調者、在日朝鮮人に武器を渡し
各地で暴動を起こして警官殺し、民間人巻き添え殺害をしてた。
さらに○害した人間の遺族の自宅周辺を
多数で取り囲み恫喝したり、誹謗中傷の
文章をばら撒いたりしていた。
それに日本共産党は30万人の民兵隊を組織して
思想統制をはかる なんてことも公言していた。
今ではなかったことにしてるが。
日本共産党の下部組織としての日本教職員組合をはじめ、日本主要機関の内部には
それぞれこちこちの共産党員が下部組織作っている
共産党の目的は日本国解体である。破防法適用が相当する。 沖縄人の歴史には大きく3つの空白がある。
第1は日本人研究の出発点である港川人と縄文人の間の1万年以上の空白,
第2は日本列島への南の入口である先島地方でグスク時代以前の保存良好な人骨が未発見という空白,
第3は沖縄の歴史の変革期である貝塚時代からグスク時代への移行期の状況が分からないことである。 このハプログループD2はアイヌ人・本土日本人・沖縄人の3集団に多く見られるタイプであり、
朝鮮半島や中国人(漢民族)にはわずかしか見られません。
そして、アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー (Michael F. Hammer) のY染色体分析でも
YAPハプロタイプ(D系統)が研究されて、チベット人も沖縄人同様に50%の頻度でこのYAPハプロタイプ(D系統)を持っていることが分かりました。
現在では世界中でもD系統(古モンゴロイド)は極めて稀になっており、。
日本人以外の民族では、遠く西に離れたチベット人に強頻度でD系統が存在するだけであります。
http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20121101/1351744208 身勝手に南下して来た後発の韓国人に侵略され、土地を奪われ
更に民族浄化により滅ぼされた(朝鮮)半島南部における先住民である倭人たち。
今の日本人は韓国人の歴史上の侵略責任を追求し、正しい歴史認識を持つべきです。 琉球列島の某地域では酒のつぎかたが朝鮮と同じだった。
舌打ちもごく普通にしてる。
これらの習慣って単なる偶然なんだろうか? 某地域ってどこね?
うちの地域ではそれ底なしの下品か、生意気ととられるのだが。 >>4>>6-10
テンペストは近世だしのう
やはり尚巴志の天下統一から第一尚氏王統滅亡まであたりを見たい 現代の沖縄県と同じく、琉球の解釈も政治的なイデオロギーにまみれてボロボロだ。
俺には琉球王国民の血が全身に流れているが、あまりに哀れで島の土を踏みしめることに躊躇するほどだ。
内地の人間はそんなことお構いもなく、正義感にかられてドヤ顔で島を荒らす。
右も左も全ての内地の人間は島から出て行け!全てのナイチャーを島から叩き出せ!
島が泣いている。 >>326
その考え危ないのよ。
YーD系はYーE系ユダヤとも近いイスラエルと中国の親し過ぎる関係中国国内の分布発表の不自然さDとEが分岐上近いと言っても赤の他人イスラエルから真顔で日本と沖縄に調査に来る胡散臭さ。 >>338
古モンゴロイド、南方モンゴロイド、中央モンゴロイド、北方モンゴロイド
形質で見ると日本は古モンゴロイド、南方、中央の混雑
遺伝子で見るとMTで一番近いのが北アジアのブリヤート
Y染色体で見るとo2の東南アジア〜Dの古モンゴロイド
北方系の染色体C系は少ない
ユダヤの遺伝子構造はどうなんだろうな? イスラエルが日本や沖縄に調査来るのは
あれだろ日ユ同祖論の検証の為 キリシタンはどこの分野でも荒らし回って、仕方がないな
キリストが表れたのはイスラエルであって、欧州でもアジアでもないのは明白だのによ 小島孝之は沖縄県知事選挙に出馬を目指す時だ。
国政選挙に民社党や民主党公認で六度出馬、千葉県議選にも出馬しているが
小島よしおによると「プリティ長嶋は当選したがうちの親父は落ちた。」とのこと。
小島孝之の夫人、つまり、小島よしおの母は琉球王国・第一尚氏王統第2代目国王の尚巴志王の子孫。
小島孝之は小島よしおを王と戴く琉球王制復古を唱え、
普通選挙制度による両院議会制民主主義の輔弼を基調とする立憲王政の実現を具体化させよ。
琉球王国は日本国の保護国として、琉球王は日本国の天子より冊封という形で即位。
通貨は日本円と等価の琉球圓を制定し、日本国政府に鋳造と発行を委任。
日本国政府に信託して琉球王を肖像とする琉球圓の紙幣を発行、日本銀行券と同等の法的価値を持たせる。 オキナワの歴史
629(舒明天皇元)掖玖(屋久島)に大和朝廷から使者を派遣
682(天武天皇11)多禰人・掖玖人・奄美人に禄を与えた
699(文武天皇3)多禰・掖玖・奄美・度感が朝貢
714(和銅7)信覚(石垣島)・球美(久米島)などの人が大和朝廷に朝貢(『続日本紀』)
715(和銅8)信覚・球美・度感・奄美・信覚が朝貢
720(養老8)南島232人に位階を授ける
727(新亀8)南島132人に位階を授ける
→琉球ではなく大和朝廷に服属してる島があることがわかる
古琉球時代
17世紀 流刑となった源為朝が琉球に流れ着き琉球の始祖舜天となったと伝わる(『中山世鑑』『おもろさうし』『椿説弓張月』等)
1422 沖縄本島を統一する(第一尚氏王朝)
1470 クーデターにより重臣金丸即位(第二尚氏王朝)
この頃 八重山を侵略
1524竹富島を強制的に服属させる
1447奄美大島に侵略
1466喜界島に侵略(奄美併合完了)
1571再び奄美を服属させる
→どうみても平穏に南西諸島を統一してない 1609 薩摩藩が琉球侵攻のため奄美に立ち寄る。奄美の親方(地主)たちから服属したいとの申し出を受ける
琉球に到着した薩摩藩兵に琉球王国は戦わずに降伏し服属する
1610 尚寧王、徳川家康、秀忠に謁見
薩摩藩領となる。奄美は薩摩藩の直轄となる
明治5 琉球藩となる
明治12 沖縄県となる
明治18 大東諸島を編入
明治27 下関条約で清国日本の主権を認める
明治28 尖閣諸島を編入
→大東と尖閣は琉球の範囲でないことがわかる
昭和20 米国に接収される
昭和27 トカラ列島が返還される
昭和28 残りの奄美群島が返還される
昭和47 沖縄が日本に返還される
→沖縄と奄美はアメリカも別とみなしていたことがわかる >ひとつの仮説を提示する。城久遺跡群を中心とした喜界島で9〜12 世紀にかけて,グスク時代的な農耕技術やグスク時代人の祖型
>も含めた「グスク文化の原型」が形成され,そして,グスク時代的農耕の展開による人口増大で島の人口圧が高まり,11〜12 世紀に
>琉球列島への移住がはじまることでグスク時代が幕開けしたのではないかという仮説である。
7〜12世紀の琉球列島をめぐる3つの問題 安里進(沖縄県立博物館・美術館館長)
http://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/179013.pdf 宮古島の西海岸は渡来系だろ呉の太伯の子孫だと言ってると思う
沖縄を発展させたのは渡来人が宝貝を中国に輸出して儲けたから >>349
呉の太伯の子孫だと言ってるのは、具体的に誰? 「羊と貝」は中国の血統論に抵触する。
あんまり妄想垂れ流すと核撃ち込まれ地球上から消えるぞ。 中国の神話と日本の神話が同じもので中国人には読めないが日本の古代語で読めることを知らないんだな
って言うかお前以前にも出て来たな 万葉集も朝鮮語で読めるらしいからまあ便利な世の中だなw >>355
草付きだし皮肉だと思うけど
万葉集を読む時現代朝鮮語を使っているが現在わかっている中期朝鮮語とすらズレまくりだそうだな 平和主義をとなえる沖縄での反米軍基地活動を語る前に琉球の歴史を振り返ってみよう。
建前としての平和主義で礼賛される弱小武装国家であった琉球王国は、薩摩との戦争で負けいとも簡単に奄美を捨て石にした史実がある。
領土と住民を守る国として最低限の分を守ろうとした戦いもなく、奄美で琉球の名の下に戦った住民を見捨てるように薩摩の直轄植民地となることを認め、
250年に及ぶ奴隷の苦難を奄美に押し付けた。
この史実は沖縄の琉球歴史教育ではほとんど触れられず隠蔽され、自分たちだけが歴史を通じた被害者だと洗脳される。
武力反対、平和の島沖縄、命どぅ宝の正体は弱者切り捨て言うなれば離島切り捨てにある。
弱小武装国家の現実は琉球として戦った奄美の住民を捨て石にするという歴史的結果につながった。
かたや大東亜戦争時の大日本帝国は、沖縄を全力を挙げて守ろうとした。
それが第一義的に国民を守る戦いではなかった、領土のための戦いであったと批難されてもその努力は感じられる。
奄美を捨て石にした琉球には努力が欠片も感じられないのにだ。
だが沖縄はその歴史を沖縄は日本の捨て石にされたとご先祖様まで中傷し、イデオロギーのためにその悲劇を利用する。
琉球は奄美を切り捨てた史実があるのにも関わらずその歴史を隠蔽しながらだ。
武力を否定し、戦いを避けることは、最終的に自分たちだけが生き残り弱いところを切り捨てる結果につながるという歴史の反省もない。
武力放棄を掲げる沖縄平和主義の正体は、いざとなれば尖閣だけでなく、宮古八重山諸島も切り捨てればいいと言うことなのだろう。 >>357
>>346
>>347
奄美は琉球王国に与しておりません
むしろ琉球は侵略してくる敵です そもそも日本もめっちゃ沖縄捨て石にしたじゃねーか。色々勘ぐって沖縄人殺した例もある 沖縄本島人によるレイシズムとは、対立する意見に「オ(ウ)ーシマー」、「ミャーク」という奄美や宮古などの離島のレッテル、「幸福」、「桜」などの思想や信仰のレッテルを貼り他人を貶める暴力的レイシズム。
例をあげると、恵隆之介や奥茂治などのように対立する発言者が奄美からの移住者の子や孫、そして先祖が奄美から来た場合に、それをあえて持ち出し都合の悪い対象にだけ『奄美』などの離島のレッテル貼って貶める。
酷い場合には例え沖縄で生まれ育っていても偽沖縄人など「偽物」呼ばわりさえするレイシズムで貫かれている。
悪質なのは、普段は内地に侵略にされた、植民地にされたと言って内地を批難しているが、当のナイチャーが沖縄の大便者ヅラして周辺離島をヘイトするような言説をしても、沖縄本島小中華主義者はナイチャーを批難するどころか一緒になってヘイトするレイシズムぶり。
琉球民族独立などと看板掲げていても、それは民族主義に名を借りた沖縄本島小中華主義者による本島中心主義のスターリニズムであることが透けて見える
彼らのヘイトが立脚するところは、沖縄のためでもなく、南西諸島全体のためでもなく、いわば沖縄本島小中華主義によるスターリニズムであり、選民主義なのだ。
捏造の民族主義によるスターリニズムであるところは、恣意的な「民族」視観にも見られる。
彼らの論理で「奄美」のレッテルを貼るとすれば、例えば沖縄芝居の藤木勇人も奄美人と言えばいいのにそうは言わない。
自分たちに都合のいい人間は「本物」の沖縄人で、都合の悪い人間は「偽物」だという血統に基づいた党派主義であり、選民スターリニズムだ。
そんなレイシズムが許されて良いわけがない。
自分たちが憎む対象に対してだけ「幸福」や「桜」などの思想信仰のレッテル、そして「奄美」などのレッテルを貼って離島をヘイトする。
それが沖縄本島で猛威を振るっているOKINAWANレイシズム
FUCK THE OKINAWAN RACISM!! 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった
稲のほか 小麦 とハトムギのプラントオパールも見つかった 6000年前に日本はもう小麦作をしていたんですよ。
ヨーロッパ、アフリカ、中国よりも先になwwww
縄文時代前期とされる岡山県灘崎町、彦崎貝塚の約6000年前の地層から、
稲の細胞化石「プラント・オパール」=写真=が出土したと、同町教委が18日、発表した。
同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、
小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が
初めて裏付けられる資料」としている。
http://inoues.net/science/wan.html
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり
今回は化石が大量で、 小麦 などのプラント・オパールも見つかり ウチナンチューとヤマトンチューの二元論的な歴史観はプロパガンダだぞ
第一に琉球は奄美だの久米島だの残酷に抑圧搾取していた悪の帝国だし
第二に沖縄人を搾取していた支配階層の中には
沖縄土着人でも島津系でもない中国人(唐人系)が多かった
ちなみに今でも沖縄の名士というか田舎大名みたいな連中は先祖が中国人だぞ
日本に侵略されてかわいそうみたいな単純な話は与太話なw 歴史的な事実を淡々とすればいいのに、政治色を持って語ろうとするの辞めなよ そんなナンポーチンコロみたいなクッサイ汚らしい醜悪極まる
東南アジアゴリラに侵略されるとは全く恥ずかしい。
沖縄人は死ねよ。 琉球の三山時代(山北、中山、山南)からすでに港町の那覇久米村には「華人」がいたようだね
明国から楊載が朝貢の招論使として琉球へ渡り、初めて中山王察度が入貢のために、明国皇帝の洪武帝へ琉球使節団長として送ったのは同じ琉球人で義弟の泰期だが
やはり最高政治顧問の「国相」には亜蘭匏という久米村の華人が就き
「長史」として程復、王茂という久米村華人を置いて通訳や外交文書作成も任せていたようだ
山北、山南も続いて明と朝貢したが明国への進貢が一番多く琉球の最大勢力となっていったのは中山だった 舜天王統〜英祖王統、察度王末期まで中山国の王都は浦添城を中心とした場所であるなら
琉球統一以前は牧港、泊港が中山国の貿易港か?察度王初期に小島であった那覇に波之上宮護国寺はでき中華や大和や南蛮など外国人商人と大和人僧侶が寄港し移住したり私交易をするだけの市場の島?
山南国は糸満港や馬天港が貿易港で山北国は運天港が貿易港だったが
明国から琉球へ初の冊封使を迎えた中山国武寧王の頃には首里にも王城ができ那覇の港町に天使館、親見世、御物城、迎恩亭などが創られた 三国各地域の勢力では
中山国の茂知附や阿摩和利は南風原港を交易港として勝連城で勢力を強め
山田城にいた山田按司と養子の護佐丸は久良波港を交易港として勢力を強めた
そして後に琉球統一に成功する山南国の佐敷按司だった思昭、巴志の親子も馬天港を交易港にして勢力を強め
同じく山南国、八重瀬按司の汪英紫も「山南王叔」として独自に明国に進貢し力を強大化
明国から正式に「王」と認められてた山北王の怕尼芝、中山王の察度と、山南王の承察度が三国それぞれの王として君臨するが
群雄割拠の琉球三国はまだまだ地域按司も王を脅かす力を蓄えて勢力争いをしていたのか 琉球各地域の有力按司たちは私貿易で東南アジア(蘇木、胡椒、象牙)や日本(漆器、屏風、刀剣)の物を輸出入し琉球産の硫黄や馬、貝等を輸出して富を得ていたが
海禁政策をとっていた明国から山北国、中山国、山南国のそれぞれ一国の「王」と認められた正式な朝貢貿易は量も質もはるかに優れ莫大な富を得る物だった
当時は倭寇(海賊)も琉球に来て密貿易を行っていた可能性も有る
中山王察度は倭寇に捕われた高麗人(朝鮮人)捕虜を高麗に送還し高麗(朝鮮)との交易も始め
琉球にいた華人、大和商人、大和僧侶、時には倭寇も琉球交易の使者として利用されていた
さらに中山国、山南国は王族や若按司から選出し明の国子監に官生(留学生)を送りエリート教育で人材を育てた 山南国、馬天港を持つ島添大里城を拠点とした「汪英紫」は山南王叔(下の世の主)の肩書で明国に独自進貢し
甥である山南王(承察度)より明国への進貢回数も多くなり山南領内を東西二分するほど各集落の按司を従え勢力拡大した
それでも勢力下に入らず対立的だった隣集落の大城グスク按司真武とついに衝突、
大城グスク按司真武一族を討伐し滅ぼしたがその一族は思昭の母、巴志の祖母の一族だった。
この時には与那原港を拠点に佐敷城を築城し佐敷按司となっていた思昭と息子の巴志は打倒汪英紫と琉球統一を誓ったか?思昭の妹は「馬天ノロ」になり、兄親子の守護神となった 1388年に宮古、八重山から沖縄本島に来た与那覇勢豊見親が1390年には琉球三国最大勢力の中山国に入貢し宮古八重山はその勢力下に入った
「山南王叔」の島添大里城の汪英紫は長男の達勃期を八重瀬城の八重瀬按司とし、二男で後に山南王となる「汪応祖」を浮島那覇港のすぐ近くに豊見城グスクを築城させ豊見城按司にしていた
攻め落とした大城グスクには三男の屋富祖を入れて大城グスク按司とした
山南国に一大勢力を築いた汪英紫を甥である山南王承察度は恐れ朝鮮に亡命
王の南山城(島尻大里城)を奪いついに事実上の山南王となった
そして二男の汪応祖や三五郎尾を留学生として明国の国子監に送る。三五郎尾は特に優秀で何度も留学して国子監で特待生扱いに成っていった 南山城(島尻大里城)を山南王から奪った汪英紫はそれまで拠点としていた大里城に三男の屋富祖を入れ島添大里按司にした
港町那覇の久米村にも華人が増えて上天妃廟や龍王殿や天使館、親見世、御物城、迎恩亭が創られたのもこの頃らしく
1395年には中山王察度が逝去、山北王・も逝去と両国の世代交代が相次ぎ中山王武寧、山北王攀安知とそれぞれの世子が新王となった。
数年後に明国留学から帰国した山南国の汪応祖は明国で見た龍舟を真似た舟を作り
豊見城グスク城下の国場川で今日まで伝統行事となった爬竜船競漕(ハーリー)を始めた 父から王位を継いだ山北国の攀安知王はすぐさま明国へ使者を送り進貢している。
新たに自分が山北国の王位を継いだ事を早く皇帝に知らせたかったのだろうか。
中山国はしばらく国相の亜蘭匏(華人)が先代王(察度)の死を明国に伝えないまま明国へ進貢を続けた
洪武帝が崩御し間もなく明国で内乱が起き朝貢貿易は一時中断、明国から密貿易船が那覇港に多く来航したという
一方で「おもろそうし」で「佐敷の鬼鷲」と讃えられた若き巴志は父の思昭に代わり立派な佐敷按司として着々と山南国で小按司勢力と民を味方につけていた 明国の皇位継承争いが終わり三代目皇帝が永楽帝になると琉球の密貿易船は大陸に帰っていった
そして今度は「山南王叔」として事実上の山南王、汪英紫が64歳で逝去した事で長男の「達勃期(八重瀬城按司)」と二男の汪応祖(豊見城グスク按司)の家督争いが起こった。
その機を逃さなかったのが「佐敷の鬼鷲」こと山南国、佐敷按司の巴志だった
明国に留学経験を持ち中山国那覇の久米村華人達とも親しい汪応祖は中山王武寧と同盟し実兄である達勃期と八重瀬軍を抑え山南王位についた
三男の屋富祖は大城グスク按司から島添大里城按司となって島添大里城にいたが兄達の家督争いに心を痛めていたかもしれない
この時、山南国の覇権争いが不安定になった事は確かで
佐敷按司の巴志はチャンスとばかりに隣の島添大里城を小按司勢力を従え攻め討った 大きな賭けだったが巴志の作戦は見事成功し島添大里城を攻略した事で祖母の一族を滅ぼされた仇を伐ち、
さらに馬天港と与那原港という二つの交易港を持ち山南国を二分する強大勢力である島添大里城按司となった。
「佐敷按司の巴志とは何者だ?」山南国はもちろん中山国まで巴志の名は知れ渡り
配下の小按司達や民と戦勝の宴を盛大に催したという。 中山国世子武寧は、偉大な父である先代察度王が築いた琉球最大勢力の王という地位に胡座をかき
巴志が山南国の一大勢力、島添大里城按司となった翌年に明国から琉球へ初めての冊封使節団を迎え正式に中山国の王と認められたが、
父の察度の死後、武寧王は酒宴を頻繁に催しては富を消費し外交は国相の亜蘭匏など程復や王茂といった久米村華人達に任せていた
領内の政治は配下の按司達の好きにさせていたようで領内按司達の統率力は落ち民から信頼を失いつつあった。
そして生前に首里の高台に高楼を築いた父(先代察度王)の首里遷都計画の意志を継いでいた 同じ頃、山北国は与論島や沖永良部島が領内支配下に有るが
沖縄本島内では中山国や山南国より遠く離れたうえに山部が多く繁栄は遅れていた。
これまで中山国や山南国より明国への進貢回数も少なかったが
山北王の攀安知は「自恃武勇、武芸絶倫」と言われるくらい武勇に優れた人物で王位についた直後に明国へ進貢し朝貢に努め
自領内按司達の政治的支配権を強める為と
大国の権威を背景に外の山南国、中山国に勢力を張る事を狙ったのか
1403年には「国俗を変ず」と自ら明国に冠服を要求している 山南王叔(汪英紫)の家督争いで兄の達勃期を撤退させて山南王になった汪応祖は、
弟の島添大里城按司(屋富祖)を討って山南国の一大勢力を奪った巴志に攻めこむ事はせず
山北王攀安知と同様に大国の権威を背景に巴志に圧力をかける事を狙ったか
外交を重視し明国留学経験で得た知識と居城の豊見城グスクが港町那覇と近い事で明国で見た爬竜船競漕(ハーリー)を毎年の恒例行事としたり
那覇の久米村華人達とも親交を深めながら進貢使者の李仲(久米村華人)を按司として迎えて山南領地を与えた
また中山王武寧と同じ1404年に冊封使から正式に王と認められ冊封使節団にも爬竜船競漕を見せて接待したり
積極的な進貢で富を得て山南国は最盛期を迎えた。
汪応祖は山南王として配下の按司達の統率力と民の信頼は先代王より高まっていた 山南国の島添大里城按司となった巴志は
積極的進貢で繁栄し臣下按司達の結束力も高めている山南王(汪応祖)を討つ事は困難だと悟ったか
今は同盟共存しながら山南国のさらなる勢力拡大を目指す方針に切り替えたのか?
中山王武寧は那覇港や泊港に近い首里遷都計画を進めていたが
相変わらず酒色に溺れ配下の按司達や民、外交を任せて中山国政の要職いた久米村華人達までも武寧王への不満がくすぶっていた。 明国皇帝の機嫌を取るためか、臣下が自分に抱く不信に気づいてか
1406年、中山王武寧は強権を振るった。なんと去勢した男の琉球人数人を宦官として明国皇帝に献上したのだ
確かに皇帝・永楽帝は宮廷で宦官を使用していたが朝貢に人を献上するのは異例で流石に激怒したという
そして永楽帝は
「彼等も又、人の子ではないか?罪も無いのに宮刑に処して宦官にしてしまうとは何事か!このような事で朕が喜ぶとでも思っているのか!」
と言って家臣(宦官)に去勢した琉球人を送り返すように厳命した。
配下の役人は「送り返すような事をすれば、琉球も気分を害して、あいさつに来なくなるかも知れません、ここは穏便に、、」
と説得しますが、永楽帝は聴き入れず
「ここで、朕が穏便に処置し宦官を受け取らば、琉球は気に入られたと思い、更に宦官を送ってくるであろう、断じて送り返せ!」
と
去勢された琉球人は宦官になれず送り返された。 明国皇帝から宦官を送り返された中山王武寧の失態は致命的だった
もはや琉球最大勢力の中山王の威厳は完全に地に落ちてしまったようで配下の諸按司と民は呆れていた。
山南国で琉球統一の野心を持つ「佐敷の鬼鷲」の巴志は、情勢を見極め琉球でその名が知れ渡った勢いのまますぐに狙いを中山王武寧に定めた
配下の按司達と奇襲作戦で果敢に中山王城である浦添城に攻め入った。琉球最大勢力を誇るはずの中山王武寧を支え応戦、援軍につく中山配下の按司は無く、内応者が続出する始末
1406年、35歳の巴志は中山王武寧を討ち取る事に成功した。 父の思紹を中山王に就かせ巴志は父の補佐役として自由に動ける位置で中山国を治める事を決めていたのだろうか
中山王武寧を征伐後、琉球最大勢力の中山国を治め勢力を保つ上で
やはり那覇の久米村華人達や領内の諸按司に協力を願う為に根回しに動き回っただろう
恐らく山南王(汪応祖)も山北王(攀安知)も中山国制覇の巴志親子の目的も薄々分かり
その機敏な決断行動力に警戒感を強めてもおかしくはないはずである 1406年、新たな中山国王は巴志の父、思紹が52歳で即位した
これで後に琉球を統一した第一尚氏王統初代国王となったが
思紹と巴志父子には当時の世界先進国であった大国明朝との正式な交易は初めての経験になるもので
中山武寧前政権にいた程復や王茂という那覇久米村の華人が
そのまま中山王思紹の外交をサポートする要職(長史兼国相)につき指導補佐していた
後の琉球統一後まで第一尚氏王統で琉球歴代王を国相として長く補佐する有能な外交のスペシャリスト
「懐機(華人)」もまだ若かったがこの頃に中山王に仕えただろうか
まずは思紹を先代中山国武寧王世子と偽り明国に進貢を始めた。 翌年の1407年、明国は中山国武寧王の訃告を受け中山王世子とした思紹の襲爵を認めて皮弁冠服を贈り
正式に詔書で「中山王」の称号を与えた。
巴志親子は新たに中山国王城の首里城を築城すると前王統(察度王統)から続く首里遷都計画と
港町那覇を国際流通港としての整備を進めた
1409年には朝鮮にも使者の阿乃佳を派遣し通交
1410年には後に三司官となる王族の模都古ら3名を官生(留学生)として明国国子監へ入監させ
1411年にも懐得(懐機の子か)と「寨官の子(按司の子)」祖魯古が官生として国子監へ入監1413年にも寨官の子(同、志久、周魯毎)3名を国子監へ入監
朝貢と同時に続々と留学生を大陸へ派遣していった 佐敷を中心に山南国の東半分も領地に治める思紹、巴志の親子は
山南王(汪応祖)とは共存関係にあったのか山南国も中山国と競い合うように明国に進貢を重ね
明国の国子監への官生(留学生)派遣も李傑(華人で山南国按司、李仲の子)をはじめとして継続しており
1392年に山南国初の留学生として明国国子監で学んだ「三五郎尾」は
その後、中山国の進貢船で帰国、渡航を繰り返し
この頃には中山国使者となって活躍していた
佐敷を中心とした山南国の東半分と今や琉球最大勢力の中山国も攻め取った巴志親子を牽制するように
山南王汪応祖は富と権力を強固なものにして勢力を張っていたが
山南国内でただ一人この汪応祖政権の栄華を怨む人物がいた
1402年に先代山南王(父、汪英紫)の家督争いに敗れた汪応祖実兄の達勃期だ >中山王武寧を討ち取る事に成功した。
城を出て行っただけで打ち取られてはいないだろ 先代山南王(汪英紫)はまだ若い次男の汪応祖には
新たに築城した豊見城グスクを与え明国へも留学させていた
当時ではエリートの道を歩ませ早くから次男を後継者に定めていたのか
長男の達勃期には羨ましい限りであったろうか
父の死後、達勃期は弟との王位争いに敗れた
また山南王となった弟は外交力や諸按司の統率力、民の信頼の厚さも有った
それは王兄である達勃期の劣等感を刺激し妬みは以前に増して蓄積されていたのか
1414年、ついに自ら実弟汪応祖を暗殺し強引に山南王位を奪った これまで琉球山南国の繁栄を築いた山南王汪応祖
その山南王を突如暗殺し王位に就いた実兄達勃期に従う者は無く
配下の按司や民は抗議し反旗を翻した
汪応祖政権下で結束力も強かった配下の按司勢力に直ちに達勃期は征伐され
汪応祖の長子である「他魯毎」が新たな山南王として擁立された
1415年に他魯毎は明国から冊封使(陳季芳)を招き
正式に山南国王と認められた 大和の室町幕府は3代将軍足利義満が明国の冊封を受け貿易していたが
4代将軍の足利義持は属国扱いを懸念し
それまでの日明勘合貿易を止め1411年には明国と断交した。
1414年、その足利義持将軍から中山国思紹王に宛てに返礼書が送られている
「御文くハしく見申候
しん上の物ともたしかにうけとり候ぬ
応永廿一年十一月廿五日
りうきう国のよのぬしへ」
よのぬし=世の主、琉球国王の事であるが
中山国は室町幕府にも博多や境の商人を介して度々進貢していた 山北国王攀安知は
中山王思紹と息子巴志の急速な勢力拡大により
中山国との戦は時間の問題だと警戒していたか
琉球三国の中では明国への進貢や交流が一番少なく山岳林の多い山北国だが
沖永良部島や与論島を勢力下に置き
緒按司は勇猛な者が多かった
特に攀安知王の右腕としていた剛勇の側近「本部平原」は攀安知王に中山国攻略を進言し
「自恃武勇、武芸絶倫」の山北王攀安知は中山攻略戦に備えて兵馬を整え訓練に努めていた 1416年に明国で中山国使節団の事件が発生した
「先キ遣ス所ノ使臣法ヲ犯シテ誅セラル
明主諭シテ曰ク比コロ王ノ使臣「直佳魯」等京師ニ来ル朕特ニ優遇ス
還ルニ及ヒ福建ニ至リ海舟ヲ奪ヒ官軍ヲ暴殺シ
中使ヲ毆傷シ其衣物ヲ奪フ「直佳魯」首罪タリ刑スルニ
大辟ヲ以テス其餘阿勃馬結制等六十七人同悪ニシテ罪死ニ當ス
王ノ忠誠ヲ眷リミ赦シテ遣帰セシム令ヨリ
使者ヲ遣ス宜シク謹戒ヲ加ヘ朝憲ヲ犯ス事母ラシムヘシ」
琉球側首謀者の直佳魯は死罪となったが皇帝と明国側の寛大な処置で
琉球中山側の他67人は強制送還で済んでいる
中山国王思紹は同年に明国皇帝へ謝罪使と献上品を送り事態の収拾をはかった 山北国の国頭按司、羽地按司、名護按司は
密かに中山国思紹王と巴志に接触していた
山北王攀安知政権に不満を持つ山北国の按司達は
攀安知王が中山に攻め入る準備を進めている事を告げた
「山北の軍事策動は今や中山を襲わんとす。事態は急を要す。機先を制せんば、悔ゆるとも及ぶなかれ」
それを聞き中山王思紹は王命で巴志を総大将に山北国征伐を命じた
巴志は中山国内から読谷山按司、越来按司、浦添按司を招集し
山北国の国頭按司、羽地按司、名護按司の兵を率いて連合軍での山北国征伐を決めた 今帰仁城はその昔から山北勢力争いに勝利した山北を治める世の主の王城であった
1322年に攀安知の高祖父、曾祖父の怕尼芝が先の今帰仁城世の主一族を滅ぼし
新たに今帰仁城で怕尼芝王統を築いた
1383年に初めて山北国王として明国に冊封を受け
1385年には明国皇帝から山北王之印である「駱駝鍍金銀印」を贈られた
山北王怕尼芝によって滅ぼされた一族は中山国の伊波按司、読谷山按司として落ち延び
いつしか先祖の敵討ちをするべくと山北国の国頭按司、羽地按司、名護按司もその家系だったのだ 恩納村山田城城主であった読谷山按司の「真牛」は
まだ20代の若武者で先祖が怕尼芝に滅ぼされた先の今帰仁城世の主の家系だった。
この山北王征伐は先祖の敵討ちには絶好の機会で気合いも入っただろうか
100騎の兵を率いて中山軍として参戦した
この若武者こそ後の「護佐丸」なのである
1416年3月11日、山北国の国頭按司、羽地按司、名護按司
中山国の読谷山按司、越来按司、浦添按司の軍勢は
6路それぞれに山北の寒汀那港を目指し
中山軍総大将の巴志も2000の兵を従え首里城から出陣し
泊港から海路20余艘の軍船団で寒汀那港を目指した 1416年3月12日、巴志を総大将にした中山連合軍の兵力約3000騎が山北国の寒汀那港に集結した
父の思紹の後を継ぎ21歳で山南の佐敷按司になった若き「佐敷の鬼鷲」巴志は
31歳で初めて100騎の兵で島添大里城を攻め落とし
35歳で琉球最大勢力の中山浦添城を500騎の兵力で攻略した
いずれも冷静な状況判断でわずかな兵力での短期決戦であり敵の不意を突く奇襲作戦だった
だが今回の山北征伐は琉球最大勢力の中山王軍として圧倒的優勢な兵力である
勝敗は決まっていたが山北王攀安知には既に中山連合軍勢の情報が入り
山北王として望むところと言わんばかりに今帰仁城に兵馬を集め
後世に恥じぬ為に覚悟を決めていた 山北今帰仁城は
標高100mの兵上にあり断崖を要したその立地から天然の要塞と化し
さらに城主である歴代山北世の主たちが城郭の拡張整備を続けて
規模も琉球最大級、曲線を描いた城壁高い難攻不落の堅城となっていた
中山連合軍は寒汀那港から2手に別れて移動し今帰仁城の平朗門(正門)に巴志を総大将とする2700騎馬の本隊と
志慶真門(裏門)に案内役の名護按司と越来按司、読谷山按司の軍勢800騎を配置し
その分隊大将として読谷山按司の真牛(護佐丸)が指揮した
対する山北軍も攀安知王と猛者揃いの一騎当千300騎の兵力が城壁に待ち構えていた 閧の声を合図に山北今帰仁城を攻め込んだ中山連合軍だったが
城壁上から敵の矢と大石が雨あられの如く降り注ぎ負傷者が多数
城門に近づく事も困難であり予想以上に苦戦を強いられた
中山軍浦添按司とその兵が決死の覚悟で威勢よく挺進し
なんとか城壁によじ登るも山北軍が城壁上から槍や長刀で城壁をよじ登ってきた中山兵を切り落とした
挺進部隊に続けと中山連合軍は波状攻撃を仕掛けたが
城内には侵入できず城壁下や城門前には中山軍の死傷者があふれた 中山連合軍VS山北軍の戦闘は3日間続けられたが
中山連合軍は今帰仁城内に攻め込めないまま死傷者は増していた
山北軍も攀安知王が指揮する決死の籠城戦で兵を失い矢も尽き、残る兵力はおよそ100騎であった
中山軍総大将である巴志は作戦を練り直した
「攀安知、淫虐無道千軍ありと雖も心服するに非ず
其の副将『本部平原』は勇ありて智なく且貧人なり、謀を用い之を破るべし」として山北羽地按司に今帰仁城の地形を問い
最も険祖で敵の防御が手薄であろう西南隅から
城内にスパイを1名侵入させ「勇力極強」と言われた敵副将の本部平原を寝返らせる謀略を仕掛けた 3月15日夜、巴志の命で羽地按司が闇夜に紛れて密かに西南隅から今帰仁城内に潜入した
そして敵の副将である本部平原との接触に成功
平原に幣帛を贈り利害を説いて説得した結果
本部平原は内応を約束したのだった。
夜が明けた16日、戦闘が再開されたが山北軍は既に疲労困憊だったであろうか
城内の味方の兵に檄を飛ばし指揮する攀安知王に副将本部平原が進言した
「久しく出て戦わずは、敵、必ず我々を卑怯なりとせん。臣、王と交番に出て戦わば敵を敗る事必せり」
「武芸絶倫、自恃武勇」の攀安知である。見事に本部平原の策略に嵌まり
城を本部平原に居守させ王は自ら兄弟一族17騎の兵を率いて城門を開いた ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています