琉球王国以前の時代
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
琉球(王)国に征服される以前の沖縄(本)島や他の島々の歴史を語り合いましょう。
日琉祖語の分岐が弥生時代に生じたとする言語年代学研究と考古学の成果との矛盾が取り上げられることがしばしばあり(高宮2005 等),
それを基に言語年代学を批判し分岐年代をグスク時代まで下げるべきだとする考えもある(高梨他2009)。
しかし,これは分岐の年代と伝播の年代を混同していると思われる。
言語年代学は問題が多いことからその結果を無視できても,
分岐年代を奈良時代以前に設定しない限り説明できない言語事実がたくさん存在する。
本稿で提案したように,日琉祖語が分岐したあとに,
(先)琉球祖語が琉球列島へすぐには伝播せず,
本土にとどまり数世紀にわたって日本語と接触したと考えれば上の矛盾が問題なく解決される。 (先)琉球祖語が日本語と7・8 世紀以前に別れた後,
9〜11 世紀まで恐らく九州に在地し,日本語と接触し強い影響を受け,
その後琉球列島へグスク文化の一要素として移民によって伝播していったという総合的なシナリオを描いてきた。
しかし,今後の課題となるべき問題はいくつか残されている。 まずは琉球祖語・グスク文化の伝播に関してまだ不明な点が多く存在し,
移民の詳細なタイミングやルート及び動機が未だに明らかになっていない。 また,肝心の日琉祖語の分岐年代は下限の時期は特定できたが,
具体的な年代も上限も分からないままである。
絶対年代のわかる文献資料が発見されない限りこの問題は言語学だけでは解決できないかもしれない。
最近のLee & Hasegawa (2011) では紀元前3 世紀という分岐年代が推定されているが,
新年代の弥生時代中期に相当しており,2 つの語派への分岐を起こしえた社会・文化的な変動が思いつかない。
琉球諸語と日本語との言語学的な距離がさほど遠くないことも考えると,
日琉祖語が紀元後3 世紀の弥生時代末期または4〜7 世紀の古墳時代に分岐したと考えた方が妥当であろう。
弥生時代末期・古墳時代が日本各地に政治体が成立し,後にヤマト政権が現れる時期であり(Barnes 2007),
日琉祖語分岐の時代として一番相応しいと思われる*15。 エージナ島はグスクか?
ttp://obotsu-sedi.jugem.jp/?eid=55
上里さんは、エージナ島が「防御性を持つ集落遺跡であることは確実に言える」根拠として、主に以下の2点を指摘されています。
(1)防御性を持つ石積みが存在する。
(2)島にはかなり広い平場があり、入口付近にグスク土器片が発見されたことからも、人が住んでいたことは明らか。
しかし、私の出した結論は、上里さんとはまったく逆で、
「エージナ島を城(防御性集落)とする根拠は何もみつけられなかった」です。
上里さんの挙げた2つの情報が「グスク」=「城」の根拠にはならないというのは、グスク論争のかなり初期の段階で指摘されていることです。
まず、(1)の「“防御性を持つ”石積み」ですが、石積みが防御性を持っていたかどうかは、基本的に表面観察で分かることではありません。
「グスク」=聖域説を唱えた仲松弥秀氏は、石積みがあるのが城の証明になるならば、たとえば波之上宮(別名「ハナグスク」)が将来遺跡として発掘されたとき、神社の石積みは城壁とみなされるのかと疑問を呈しています。
また、(2)「土器片から人の居住は明らか」という話ですが、これも、遺物が出てもそれは祭祀に使われたものである可能性があり、生活遺物とは限らないことが仲松氏に指摘されています。
実際、島そのものが御神体とみなされる玄界灘の孤島「沖ノ島」は、無人島でありながら多量の器が発見されています。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 城(ぐすく)じゃなくて、城(ぐす)久(く)なんだな 琉球語と日本の分岐年代(旧説)
・琉球語諸方言は、すべての現代日本語諸方言が失った日琉語祖における対立を保持している(服部 1979 )。
・琉球語諸方言が保持する日琉語祖の対立一部は、上代日本語( 8C)の時代にすでに失われた (服部 (服部 1979 )。
・したがって、琉球祖語の分岐年代は奈良時より前( 7C以前)である (服部 1979 ; Pellard 2015)。 琉球語派と日本語派の定義(旧説)
・琉球語諸方言に観察され、日本語諸方言に観察されない言語改新がある。
・日本語諸方言に観察され、琉球語諸方言に観察されない言語改新がある。
・したがって、琉球語諸方言のみを 子孫とする「琉球語派」と、日本語諸方言のみを子孫とする「日本語派」が定義される。 旧説の問題点
・琉球語諸方言に観察され、日本語諸方言に観察されないとされてきた言語改新の一部は、日本語九州方言の一部に観察される。
・日本語諸方言に観察され、琉球語諸方言に観察されないとされてきた言語改新の一部は、日本語九州方言の一部に観察されない。 新説
・九州方言に観察されないが、その他の日本語諸方言に観察される言語改心がある事実は、
九州方言を除いた日本語諸方言からなる系統群の存在を意味する。
・琉球諸語方言と九州方言が特定の言語改新を共有している事実は、
琉球語と九州方言からなる系統群の存在を示唆する。
・上の2つの事実から、琉球諸語方言と九州諸語方言からなる系統群(「九州・琉球語派」)と、
(少なくとも九州方言の除く)日本諸語方言からなる系統群(「中央日本語派」)が定義される。
・したがって、すべての現代日本語諸方言を子孫に持つ「日本語派」なる系統群は成立しない。 今後の課題
・本発表の提案する系統樹に基づくと、琉球語とともに九州諸方言が、奈良時代より前に中央語から分岐したことになる。
・中央語からの分岐後、琉球祖語話者は九州にとどまったが、10C〜12Cに琉球列島に移住し、九州に残った琉球祖語話者は、
中央日本語に言語を置き換え、九州の琉球語は痕跡を残さず消滅したとする説(Pellard 2015)は再考すべきだろう。
・奈良時代より前に中央語から分岐したのは、九州・琉球祖語であり、この言語は九州で話されていた可能性がある。
10C〜12Cに琉球列島に移住したのは、九州・琉球語派の一方言の話者であり、この話者の方言が琉球祖語である
(すなわち琉球祖語の他からの分岐は琉球列島で生じた)という可能性を検討すべきであろう。
したがって、現在の九州方言は、琉球祖語と姉妹関係にある言語(九州語)の末裔であり、九州における言語の取り換えは
起こらなかった可能性もある。(当然、九州では中央語との激しい言語接触があったに違いないが)
・日本語と音対応のある琉球語における漢語の存在も、(九州で話されていた)九州・琉球祖語の段階で、中央日本語から借用された可能性がある。 五十嵐陽介『琉球語を排除した「日本語派」なる系統群は果たして成立するのか?―「九州・琉球語派」と「中央日本語派」の提唱― 』
ttp://researchmap.jp/?action=cv_download_main&upload_id=115317 仲松弥秀氏のグスク=「聖域(葬所)」説
小島瓔禮氏のグスク=「聖域(山岳信仰)」説
嵩元政秀氏のグスク=「防御集落」説
当真嗣一氏のグスク=「按司居館」説 >>462 >>463
この出典も『明朝実録』という事で良いのでしょうか? 読売新聞や産経新聞のような社論は沖縄ではまったく支持されていない。
その証拠に沖縄での読売と産経の購読部数は両紙合わせても1000部に届かない。
ちなみに沖縄タイムスと琉球新報は両紙合わせて購読部数は約32万部。
沖縄タイムスと琉球新報がいかに沖縄県民から支持され、逆に読売新聞と産経新聞がいかに沖縄県民から支持されていないか、この数字が如実に証明している。 琉球新報社代表の富田詢一曰く「子どもを里子に出して、子どもはつらく苦しい思いをしているのに、その里子に出した日を、親が主権回復の日として祝う。
毎年やる予定だったはずだが、沖縄県民の強い反発にあい、式典は一回きりである。われわれは四三年前に、戦後のアメリカによる占領下で、父と頼り、母と慕った祖国に帰りたいと日本への復帰運動を展開して、ようやく祖国に帰ることができた。
しかし、帰った祖国は、思い描いた祖国ではなかった」だそうだ。
さすが、戦後に「オーシマー」の人間が犯罪を犯した!「オーシマー」による風紀紊乱!「オーシマー」による暴力事件!と「オーシマー」を連呼して、平然と奄美差別を紙面で展開したした沖縄の屑ヘイト新聞の代表だ。
沖縄のレイシズムメディアによるプロパガンダ被害者ヅラを指導するコーチか監督と言った役割だろうか。
1609年に薩摩の直轄植民地となった奄美の島々は沖縄本島の琉球中山王府の版図であった。
しかし、その島々は直轄植民地として忽然と琉球史から姿を消したが40年どころか、100年経っても200年経っても奴隷の島々であり続けた。
奴隷たちは戦うこともなくいとも簡単に薩摩の直轄植民地の奴隷として献上した琉球を祖国と思っただろうか、親だと思っただろうか、自分たちを里子と思っただろうか。琉球に帰りたいと思っただろうか。
自分たちは辛い里子に出され、父と頼り、母と慕った祖国日本と言ってのけながら、次の瞬間その親の本意を悪意で捻じ曲げ踏みにじり罵倒する。
そんな屑なことが出来る琉球を親だと兄弟だと認めることが出来るだろうか。
琉球を叫ぶことは周辺離島の安全保障を疎かにしても首里の権威と権力という国体を護持した奄美の悲劇を繰り返すことである。
忽然と琉球の歴史から姿を消した同胞を見殺しにしながら誇らしげに琉球の先住民族などと宣う人間は鼻で笑われている 沖縄本島人によるレイシズムとは、対立する意見に「オ(ウ)ーシマー」、「ミャーク」という奄美や宮古などの離島のレッテル、「幸福」、「桜」などの思想や信仰のレッテルを貼り他人を貶める暴力的レイシズム。
例をあげると、恵隆之介や奥茂治などのように対立する発言者が奄美からの移住者の子や孫、そして先祖が奄美から来た場合に、それをあえて持ち出し都合の悪い対象にだけ『奄美』などの離島のレッテル貼って貶める。
酷い場合には例え沖縄で生まれ育っていても偽沖縄人など「偽物」呼ばわりさえするレイシズムで貫かれている。
悪質なのは、普段は内地に侵略にされた、植民地にされたと言って内地を批難しているが、当のナイチャーが沖縄の大便者ヅラして周辺離島をヘイトするような言説をしても、沖縄本島小中華主義者はナイチャーを批難するどころか一緒になってヘイトするレイシズムぶり。
琉球民族独立などと看板掲げていても、それは民族主義に名を借りた沖縄本島小中華主義者による本島中心主義のスターリニズムであることが透けて見える
彼らのヘイトが立脚するところは、沖縄のためでもなく、南西諸島全体のためでもなく、いわば沖縄本島首里小中華主義によるスターリニズムであり、選民主義なのだ。
捏造の民族主義によるスターリニズムであるところは、恣意的な「民族」視観にも見られる。
彼らの論理で「奄美」のレッテルを貼るとすれば、例えば沖縄芝居の藤木勇人も奄美人と言えばいいのにそうは言わない。
自分たちに都合のいい人間は「本物」の沖縄人で、都合の悪い人間は「偽物」だという血統に基づいた党派主義であり、選民スターリニズムだ。
そんなレイシズムが許されて良いわけがない。
自分たちが憎む対象に対してだけ「幸福」や「桜」などの思想信仰のレッテル、そして「奄美」などのレッテルを貼って離島をヘイトする。
それが沖縄本島で猛威を振るっているOKINAWANレイシズム
FUCK THE OKINAWAN RACISM!! >>492-493
つまり彼らは沖縄の愛国者なのだろう
同じように恵隆之介は奄美の愛国者なのだろう
つまり民族が違うと
結局、マイノリティーはマジョリティーと同じ民族意識を有していない
だからマジョリティーのナショナリズムの高揚に過剰反応を起こす
悲しいかな、民族が違うんだよ
沖縄人は日本人じゃない マイノリティーは往々にして反戦・平和を隠れ蓑にしてナショナリズムを発揮する
というか、マジョリティーの力を抑え込むために反戦・平和を唱える
マイノリティーで反戦・平和を唱える人間の顔つきが妙にコワモテな理由がここにある
彼らは本来、愛国者なのだろう 奄美も琉球王国とは別だと思うなら
奄美歴史スレでも立てて語ってた方が沖縄人や琉球王国への怨み辛み語るよりよほど有意義だろうに 外務省国際法課の説明によると「併合した地域は固有の領土には含まれない」とのこと。
日本政府は1910年に朝鮮半島を併合してから1952年のサンフランシスコ講和条約発効によって朝鮮に対する主権が放棄されるまでの42年間、ただの一度も「朝鮮半島は日本固有の領土」とは言わなかった。
沖縄も琉球王国時代の1879年に日本が併合した地域だから日本政府はただの一度も「沖縄は日本固有の領土」と言ったことがない。
沖縄が日本固有の領土でないことは歴史が証明している。 >>486
>九州に残った琉球祖語話者
これが、隼人って呼ばれてた集団なのかな? 琉球語と日本語朝鮮語その他の言語は共に北東アジアルーツだが民族は違う
日本本土は氷河期時代大陸や朝鮮半島と陸続き、朝鮮人と日本人北東アジアが
殆ど同じDNAなのもうなずける、沖縄は北方ルーツの言語影響は有るが大陸や
様々な南方系が渡来し本土人と全く違う民族 現代沖縄人の遺伝子解析の結果琉球人は中世日本人が祖先なのほぼ確定じゃなかったか?
主に九州南部からの移住者で言語は奈良時代の大和言葉が残ってるって 沖縄独立論者のためにも指摘しておくと、沖縄には様々といえるほどの遺伝的多様性はない
むしろ本土の方が多様性に富んでいる
沖縄は逆に多様性に乏しく、辺境にあって人の渡来が少なかったことを示唆している
それは顔を見てもわかるだろう
沖縄はいうほど多様性はない
むしろ本土の方が多様性に富んでいる
沖縄の人間はまず縄文時代以来の貝塚時代人の影響が強い
貝塚時代人は本土の縄文人に比べると顔も頭も体も小さく、
種子島の広田遺跡人に似ている
この特徴は九州南部を中心に西日本全域に見られ、
おそらく西日本の縄文人の一部の特徴だろう
縄文人は東南アジア人とは人種が違う
縄文人はモンゴロイド的な特徴を備えながらも、オーストラロイド的な特徴を備えており、
なおかつ北方適応して体型はずんぐりしていて、すらっとしている東南アジア人とは、
見た目ですぐに違いがわかる
そして顔は原始的で、よりモンゴロイド的な特徴を有する東南アジア人とは、
この点でかなり異なっている 次に沖縄の人間には本土人の影響がある
具体的には九州人の影響があり、沖縄の人間は近隣の九州南部や
九州西北部の辺境の長崎の離島の人々などに似ている
ちなみにこれらの地域とは言語的にもよく似ている
九州人は本州人に比べると、いくぶん大陸人的な特徴があるが、
それでもやはり本州人によく似ていて、九州人を通じて沖縄の人間にも本州人の特徴がある
そのわかりやすい例は瞼とあと鼻で、本土人の影響が強い人間は瞼が厚く鼻が細い
本土人の影響が沖縄人のなかで最も強い宮古人なんかがわかりやすい
それから沖縄の人間には中国南部人の影響がある
具体的には台湾人によく似ている
沖縄の中国系も福建省からやって来たと自称しているし、台湾人もその多くは福建省からやって来たと自称しているが、
どうも沖縄の中国系は言語的に江南からやって来た可能性が高く、
台湾人は現在の福建省人に比べると、いくぶん南方的なんで、
この辺がちょっとよくわからないが、いずれにしても沖縄人は台湾人に似ている
特に沖縄本島中南部人は台湾人に似ているところがあり、
この辺の人間は蔡英文みたいな台湾人の顔に自らのルーツを感じることだろう
逆に宮古人にはこの影響があまりない
八重山人は沖縄本島中南部人と宮古人の中間くらい
まぁ、いうほど宮古的でもないかな 沖縄は大体この三つの集団からなっているが、さらに付け加えると、
八重山諸島には台湾原住民の影響がある
不思議なことに近隣の宮古諸島にはない
本土人の影響が強すぎて塗り替えられたのかなんなのかよくわからないが、
ともかく宮古諸島には台湾原住民の影響はないが八重山諸島にはある
それは頬を見ればわかる
八重山諸島人は近隣の宮古諸島人や沖縄本島周辺人に比べると頬が大きい
モンゴロイドは他の人種に比べると全体的に頬が大きい傾向があるが、
不思議なことに中国南部から東部あたりの一部、それから日本人(西日本人に顕著)は例外的に頬が大きくなく、
コンパクトな顔をしている
ところが八重山諸島人はいくぶん頬が広い
これは頬がかなり広めの近隣の台湾原住民の影響だろう 新モンゴロイド化は基地外中国人の病気の本質だからよあの面がアジアの
デホジャ無かった後天的な歴史の影響だ「羊と貝」な東シナ海の本質わ >>503-504
遺伝学で完全否定されている。
残念。 >>506
そうなの、面白そうな話なのに
石器時代の場合、インドネシアから日本までの島嶼、中国南部まで一つと考えたほうがいい気がする
スンダランドが沈み始めて、海沿いに拡散し始めた第一波が縄文人で、アジア最古
台湾から出発して日本以外に太平洋の島々にも拡散した。
すいません、素人考えです >>499
そうでしょう。
『大隅風土記』に「隼人の言葉」として紹介されている「海中之州」を意味する「必至」なる語は、琉球祖語の*pise「リーフ・サンゴ礁」に対応します。
海中之州者隼人俗語云必至 ハヤトは大和に従った後は畿内移住やら移入支配層に上書きされるから
実態はどうなったか確か広島瀬戸内辺りにもハヤト由来の海岸呼称かなんか
あったと思ったがそれとハヤト馬何故か九州南部からトカラ与那国と馬が居る >>508
ホント素人だな。中卒並みの知能の。
舟が無いんだよ。
ボルネオから日本までイカダひとつで来れると思ってるの?
ボルネオから日本までサーフボードひとつで行くと言ってるのと大して変わらんのだぞ。
おまえサーフボードひとつで日本からボルネオまで行ってこいよ。 それに、運良く日本までやって来れても一人でどうやって子孫を残すんだよ?
台湾からイカダで漂流してたどり着いたと見られる旧石器時代の遺跡が南西諸島に数ヶ所ある。
全部短命で滅んでいる。
なぜか?
運良くイカダで漂流してたどり着いても、一人だから子孫が残せなかったからである。 8000年前の世界最古の丸木舟が韓国から出土している。
世界最古の舟は日本あたりで開発された可能性が高い。
それから丸木舟は瞬く間に世界各地に広がっていった。
5000年くらい前に台湾あたりからボルネオ経由で太平洋の島々に人類が拡散して、ポリネシア人やミクロネシア人が誕生した事が各遺跡から出土した土器で分かる。
南洋人たちの出現は日本あたりで開発された舟の誕生がなければ、無かった事なのである。 >>501
琉球人は、他のアジアの人々より、アイヌ人と本土日本人に近いことが、遺伝子の研究で明らかにされつつあります。
日本本土から琉球列島への移住があり、この人々が現在の琉球人の主要な成員であろうと推定されます。これは近年の考古学的、言語学的成果とも整合性があります。
そしてその移民が九州から行われただろうことも、考古学的言語学的証拠から支持されます。
ただし、私の知る限り、遺伝子の研究からは、この移民が九州からの移民であることは、まだ主張されていないと思われます。日本人の遺伝子の地域差に関する研究はまだ始まったばかりだと思います。 >>501
僕が思うに、言語学者(方言学者)がやっているように、集落ごとに調査をするような、粒度の高い遺伝子研究が求められると思います。
本土が政治的に統一されて以降、千数百年に渡って、本土日本人は、様々な地域出身の日本人同士で混血を繰り返しているはずなので。
人口の流動性が歴史上小さかった地域、島嶼部や山間部などでDNAのデータがとれると良いのですが。 母数の多い中共が戦略的に有利に働くんですよ奄美以南は色々と
逃げ場がない 中国は全民族の核遺伝子情報を国家的事業でやってるが、日本の情報は
中国大陸抜きの学説、D遺伝子は韓国にも僅かにある、外見黒人のジャワラ人も
D遺伝子が本土人よりはるかに多い、縄文人の出自経路は現在も謎のままで
中国抜きで不完全、中国には回族などのイランイラク系のが過去数十万人いた
その他の民族多数 本土人は朝鮮含む北東アジア系人で列島で近種混血でD遺伝子が少し残ったが
DNAが朝鮮人と殆ど同じ、沖縄人は大陸各地と南方系のミックスD遺伝子は
ジャワラ人由来南方経由で、東アジアの中で日本本土人と沖縄人は最も離れた
遺伝子情報を持ち 本土人と沖縄の歴史や人類学を現在の版図で判断は間違い、半島や大陸北部を
受け止めるように日本列島は有るいつの時代も人文化が渡ってきた
沖縄は遥かな南方のぜっかいの孤島で本土からの移住者は居なかった
沖縄人は日本国民だが民族は別、歴史人類学は常に多数派や侵略民族に歪曲される >>509の系統図って沖縄の琉球新報の報道なんだぜ >>506
遺伝学で完全否定されてるのはこっちのほう
>朝鮮人と日本人北東アジアが
>殆ど同じDNAなのもうなずける、沖縄は北方ルーツの言語影響は有るが大陸や
>様々な南方系が渡来し本土人と全く違う民族
形質人類学とか前時代の遺物が幅を利かせてた時代はこんなことが通説のように言われてきたけど
ハプロ系統から琉球人の大半は九州からの移民だとハッキリわかっている
>>521
北東アジアや朝鮮族にはハプログループDタイプそのものが見られない
ちなみに琉球人のハプロDはチベットのD1a1、D1a2、ジャラワ人のD*でもなく本土と同じD1b系統です >>506
全く根拠を示さず否定と抹殺
沖縄本島原理主義者w 琉球列島で話されている言語は琉球「諸語」であって、琉球諸語は少なくとも五つの言語からなるという話はすごく重要だと思う。
なぜなら、琉球王国は言語的には統一されていないということになるからだ。 沖縄本島首里方言こそが琉球共通語って言ってたろ?
本土共通語沖縄への押しつけは文化と伝統の破壊!って騒いでるのと同じ構造だけどね 琉球諸語は全部同じ系統なんだから方言と同じことだよ 複数の−意志疎通が困難な−言語が話されていた琉球列島とその地域の人びとを、
「ウチナー」「ウチナーンチュ」と、沖縄本島の首里という特定地域の方言の、しかも「沖縄本島」「沖縄本島の人」を意味する語で、指し示そうとする人は、
琉球列島の言語的多様性を知らないかあるいは無視している。 「琉球諸語は単系統群ではない(琉球祖語なるものは存在しない)」なんてことが証明できたら面白いな。
実際、琉球諸語の共通改新と見なせるものは実はそれほど多くないようだし。 今どきの歴史 城久遺跡群(鹿児島県喜界町) 考古と文献、幸福な連携 毎日新聞2017年5月15日
https://mainichi.jp/articles/20170515/dde/018/040/051000c
城久(ぐすく)遺跡群(鹿児島県喜界町)の調査開始(2002年)から15年がたった。九州の南約380キロ、
奄美大島の東に浮かぶ小さな島の遺跡ながら、これまでの発掘と研究成果は古代日本国家の版図を広げ、琉球史像を
ひっくり返した。さらには新たな研究の可能性をみせている。
同遺跡群は喜界島中央部の高台にある8遺跡の総称で、計約13万平方メートル。9世紀から15世紀にまたがり、
本土の平安から室町時代ごろにあたる。
最初から異様な遺跡だった。九州の南に連なる琉球弧の他の島々と出土遺物が全く違う。早い段階から中国産青磁など
他島にないものが存在する一方、他島が使う在地の土器がない。さらに製鉄や米・麦の栽培開始も沖縄本島より早い。
何がこの島であったのか。吉成直樹・法政大沖縄文化研究所教授や発掘報告書によると、1期(9世紀〜11世紀前半)は
「大宰府の出先」とも言われる時期で、古代国家が南島に朝貢を促す拠点だったらしい。螺鈿(らでん)細工用の夜光貝が最重要品。
2期(11世紀後半〜12世紀)が遺跡群の最盛期。中国、高麗産の磁器、さらに西九州産の陶器などが大量に出土する。
農耕や製鉄開始もこの時期だ。
吉成さんは「交易が国家的な管理を離れ、南九州の勢力、日本商人、高麗商人らが移動しながら中継貿易を行った」
と考える。日宋貿易の活発化を背景に多民族が往来する活気ある光景が浮かぶ。
そして、この時期、高品質の陶磁器類が沖縄本島はじめ琉球弧全体に一気に広まった。喜界島を拠点に、ひとつの
広域文化圏が形成されたのである。
3期(13世紀〜15世紀)になり、遺跡の規模は縮小する。
2期を典型に、琉球弧の最先進地が喜界島だったのは明白だ。加えて重要なのは、琉球王国成立につながる沖縄の
グスク時代の始まる時期が2期と一致することだ。 従来の琉球史では、琉球弧の文化は沖縄本島から周辺に波及したと考えられた。だが、変化の方向は逆で喜界島→沖縄本島だった。
本土の強い影響のもと、技術と知識で優位に立つ喜界島の人々が沖縄本島に移動し、当地の人々を動かし、沖縄の変化と発展を
促したのだ。喜界町教委で発掘を担当する野崎拓司主査は「この遺跡が発信し、技術や情報が南島全域に広がった」と評し、
吉成さんも「歴史像を一変させた。城久遺跡群の影響はそれほどに大きかった」。
遺跡群の発見前、その存在を予見する論文が歴史学から出た。1987年、鈴木靖民・国学院大名誉教授が古代の史料に
みえる南島の朝貢活動から階層化した社会への移行を考え採集経済社会像を描くにとどまる考古学との食い違いを指摘した。
考古学にも卓見はあった。池畑耕一氏(鹿児島県立埋蔵文化財センター=当時)が喜界島を試掘。98年、進んだ土器が
出る半面、在地土器が出ないことから島の特殊性、大宰府との関連を示唆したのだ。高梨修・奄美博物館学芸員は池畑論文を
評価し、吉成さんも「考古学と歴史学の非常に幸福な結びつきだった」と振り返る。
発掘が終わり、総面積約13万平方メートルのうち約6万平方メートルが保存された。今、現地は元の静かなサトウキビ畑に
戻っている。総括報告書も刊行された。ところが、これで終わりではなかった。
遺跡群南方の手久津久(てくづく)地区で、また中国産の高級磁器が大量出土したのだ。時代は14世紀から15世紀の
半ばまでと、城久遺跡群3期と同じ。文献によると、沖縄本島に成立した琉球王国(第一尚氏)がまさにこの頃、
喜界島を何度も攻め、3年でやっと征服した。
発掘した野崎さんも高梨さんも「(尚氏王朝に立ちふさがる)強力な勢力の存在を考古学的に裏付けられるかも」と、
文献史学との次なるコラボに期待している。【伊藤和史】 >従来の琉球史では、琉球弧の文化は沖縄本島から周辺に波及したと考えられた。
>だが、変化の方向は逆で喜界島→沖縄本島だった。
>本土の強い影響のもと、技術と知識で優位に立つ喜界島の人々が沖縄本島に移動し、当地の人々を動かし、沖縄の変化と発展を
促したのだ。
アマミキヨか 平成29年度第1回考古学講座(平成29年5月14日)
“石のなべ”の謎―滑石製石鍋と中世の日本列島―
神奈川県教育委員会文化遺産課 久我谷渓太
http://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/877136.pdf
滑石製石鍋についてとしては、ネットで見た分ではビジュアル含め今までで一番わかりやすかった。
城久遺跡群と絡めたグスク時代の論考もちょっとある。 >>532
本土学者の何でも日本発祥の妄想。沖縄各地から秦から清までの古銭が大量発掘、
城時代の城跡から大量の中国朝鮮東南アジアの品々が発掘された、絣織り焼酎鰹節、胡弓
琉球音階も東南アジアから、三線空手も中国各地の影響で生まれた、沖縄各地の世界遺産の
アーチ門と曲線の美しい石の城壁は大陸由来、首里城と浦添城初期は全て高麗人に依る
高麗瓦使用後に中華人が赤瓦製造と技術伝達、日本人の政治的捏造歴史は沖縄にいらない 現代の科学では日本本土人に近いのは、朝鮮ー北中国ー北東アジアー台湾ー沖縄
古代から本土一般人の沖縄移住は無かった、歴史後発の琉球は大陸と南方系で人工増殖
中世以前は頻繁に海外渡航、福州には琉球館琉球人墓地など今も省政府によって保護されてる
福州付近は古代からの国際港元の造船所の有ったところ、多数の元軍兵士〔殆ど福州人〕は琉球にも
上陸してるが戦いの痕跡はない厭戦気分で定住の可能性もある 戦後生き残った沖縄人30万6割は女、よれよれも入れて男4割で女主役が戦後スタート
そして奄美台湾フィリピン朝鮮人沖縄系本土人その他で人口爆発が現在の沖縄人
元々本土系一般人の存在しない沖縄アメリカ統治下で軍人政治家全て排除された
現在東アジアで本土人と沖縄人は最も離れた遺伝子情報を持ってる
本土人は北東系で沖縄人はトロピカルシーサー系 >>538
本土人が想像するのは沖縄顔=シーサー顔で南方系シーサー顔
本土人は自分たちの顔がグチャペチャなのわからない >>535
>アーチ門と曲線の美しい石の城壁は大陸由来
大陸の城壁は版築かレンガ造なんだが
>古代から本土一般人の沖縄移住は無かった、
10世紀に南西諸島に移住して来たのがお前らの先祖いいね?
>首里城と浦添城初期は全て高麗人に依る
首里城正殿は本土の寺院建築由来だがな >>536
>多数の元軍兵士〔殆ど福州人〕は琉球にも
>上陸してるが戦いの痕跡はない厭戦気分で定住の可能性もある
元史の琉球は澎湖諸島と相対すとあるから台湾のことだろ
沖縄とか言ってるのは沖縄の連中だけ
>>536
>戦後生き残った沖縄人30万6割は女、よれよれも入れて男4割で女主役が戦後スタート
昭和10年の統計だと約59万2千人中うち女は約31万(52%)に対し、昭和25年には約69万8千人
うち女36万9千(52%)と1パーセントも変わんないんだが
つうかお前は自身の願望を断定調ではきちらす癖直したら?
沖縄の奴ってみんなそういうとこあるよね >>541
本土人の琉球解釈はどうでもいい、元軍が琉球上陸した事は事実後に元の皇子が亡命?追放
いずれも多くの従者を引き連れてた元軍の弾丸も発掘されてる。大陸の城壁はレンガだけじゃない石作も
有る本土城壁は土塁、首里城正殿は薩摩占領下で17世紀に建造され一部日本風 >>541
昭和10年と25年の人口を持ち出して捏造無理だね、戦争でいくら沖縄人が死んだと思ってるんだ
戦前は日本政府の植民地政策で蘇鉄地獄で海外移民、戦後は日米の本土からの沖縄人移住計画で
多くの沖縄人、米軍関係のフィリピン人台湾人朝鮮人多くの奄美人その他の海外人で人口が増えた
本土人が沖縄に移住した証拠ない、溢れるように半島や中国北部が日本人のルーツ >>543
ほらよ沖縄県自治体による公式統計だぞ
http://www.pref.okinawa.jp/toukeika/pc/H27sokuhou.pdf
>米軍関係のフィリピン人台湾人朝鮮人多くの奄美人その他の海外人で人口が増えた
在日フィリピン台湾朝鮮人の都道府県別人口ググってみたら >>542
>本土人の琉球解釈はどうでもいい、
元史 卷210
https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B2/%E5%8D%B7210
>琉求,在南海之東。漳、泉、興、福四州界內彭湖諸島,與琉求相對
琉球は南海の東、漳、泉、興、福の四州の境界内にあり、澎湖諸島と琉球は相対している。
>いずれも多くの従者を引き連れてた
>元軍の弾丸も発掘されてる。
ソースは?
>大陸の城壁はレンガだけじゃない石作も
>有る
どこにあるの?具体例あげてみろよ
>首里城正殿は薩摩占領下で17世紀に建造され一部日本風
ほらよ上里の見解だぞ
http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2005/04/post_956c.html
>実は、どのような形で首里城に寺院の様式が取り入れられたのか、詳しいことはまだわかっていません。
>ただ、その謎を解くヒントはあります。15世紀頃(日本では室町時代)から、日本本土から禅宗の僧侶がさかんに琉球に
>渡来していた事実があります。
>彼らは琉球国王のサポートのもとに寺院をつくり、琉球で禅宗を広めていたことがわかっています。当時の国王も仏教を
>信仰していて、そのなかで首里城をはじめとしたグスクにも寺院の様式が取り入れられたのではないかと推測されます。 明実録で元朝の皇子が流されたという琉球も台湾なんだろうか?
その上里氏は明実録での琉球は沖縄間違いなしって言ってるけど 気持ちの悪い何でも日本発祥本土人と沖縄人は東アジアで最も離れた民族
都合のいい推測しなくても首里城の正殿は出火で再建唐破風を取り入れたと記録されてる
坊主が来て寺を建てても信者はいない、滞在して帰国する坊主商人は沖縄人のDNAと関係ない
基本的に琉球は神や宗教は女性が係るもの、首里城内にも拝所がある、寺は城下町や那覇に
禅宗を広めようとしたが0信者、今でも受験就職では女性だけが拝所参り >>544
日本管轄外の戦後沖縄と在日海外人となんの関係がある、戦争で沖縄人15万近く〔住民10万含む}
犠牲になり本土と違う人口推移、日米政府の沖縄人は日本人じゃないの認識で沖縄人の移住計画で
多くの沖縄人が里帰り、アメリカ統治下で日本人排除だが奄美人は与論経由の密入国多くのフィリッピン人
台湾人沖縄人と共に密貿易活動や血縁関係も、戦後アメリカ統治下の沖縄に都道府県別在日だってww でソースは?
お前の言ってることってすべてお前の願望だよな
>>546
さあな
地保奴が流された琉球は小琉球と書かれてないから沖縄だろうって推測だけど
元史にある琉球は彭湖諸島と相対するって明記されてるから100%台湾だがな >>550
台湾が本当の琉球国であっても、統一以前の琉球国の沖縄各地の豪族たちはそれぞれ琉球国を名乗り
明国と朝貢交易をおこない東南アジア交易を拡大していった、初期の中山浦添首里城も高麗瓦を使用
城跡から高麗人が製造した高麗瓦、朝鮮中国東南アジアの物品が発掘されてる、統一王朝成立後は
明国が沖縄の琉球王朝に軍艦型帆船30隻武器と技術者と技術を提供が現実、 中国や朝鮮との結びつきは本土のほうがよっぽど深いだろうな
宋銭や明銭が自国通貨よりも流通して朝鮮国王の朝賀には冊封を受けた多くの九州の豪族たちが朝鮮王国の武官として出席していたし ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
NA24E 616年、南島の夷邪玖(イヤク)(流求)人30名、大和朝廷に服属
630年、第一回遣唐使(奄美語通訳付)
698年、文忌寸博士ら8名が武装、南方新領土と新航路発見
677年、天武天皇、種子島島民を近江宮に招宴
681年、天武天皇、種子島島民を再び近江宮に招宴。多彌(タヤ)人(種子島人)、国の地図を
朝廷に献上
682年、九州南部の隼人を近江宮に招宴
688年、東北の蝦夷を近江宮に招宴
699年、種子島、屋久島、奄美、徳之島、、朝廷に宝物を献上(続日本紀)
714年、朝臣・遠健治(とおけんじ)が南島(沖縄)、奄美、信覚(石垣)、球米(久米)の人、
52名を連れ帰る
715年、元旦に元明女帝、奄美、屋久、徳之島、石垣、久米人らの貢物を受ける。蝦夷とともに77名に
位階授与。
720年、朝廷、南島人232名に位を授ける
735年、大宰府、小野高橋を南島に派遣し調査、各地に碑を建てる 1156年、保元の乱で敗れた源為朝が沖縄の今帰仁に上陸。南部の大里按司(おおざとアデ)の
妹と結ばれ、尊敦(そんとん)をもうけ伊豆大島に帰った。 みなさん、ご存知と思いますが、
昨年末の国立遺伝学研究所の斎藤教授の遺伝子研究により
沖縄人は日本本土人と同じ縄文人の末裔であることが科学的に
証明されました。
昨年の7月以降のレスがほぼ止まっているのはこの解明を受けての
ことだと思いますが。 金丸らのクーデターにより尚氏王統は皆殺しにされてたんですね。 >>559
金丸もその後は「尚円王」と名乗って尚姓を受け継いだけどな
でも第一尚氏王統の末裔たちは現在もいる >>27
島津は頼朝の乳兄弟の家系なんだから騙るもクソもないだろ あと為朝はバケモノ >>560
金丸の「尚氏」はあきらかに僭称ですね。
冊封を受けるための。
第一尚氏王統の末裔が今もいるって本当ですか?
第二尚氏の末裔とはどういう関係になるんでしょうね? 古代の沖縄を統治していた『天孫氏』。
のちの天皇と同じ天孫族の一族であると思われます。
今上天皇の沖縄訪問はまさに天孫氏の里帰りという
現代において神話が顕現化した事例だったのです。 >>72
これは面白い
グスク時代直前には琉球諸島に人がいた痕跡が見つからないというが継続して人が住み続けていない限りこのようなことはありえない筈
ということは絶対どこかに人が棲んでいた訳だ 794 日本@名無史さん ▼ New! 2018/05/13(日) 14:42:04.36 [0回目]
沖縄はもともと琉球王国が統治していた場所だから日本固有の領土ではない。
その証拠に日本政府は軍隊を動員して沖縄の前身である琉球王国を武力併合している。
沖縄の前身である琉球王国が日本の領土だったなら日本政府が軍隊を動員して琉球王国を武力併合するわけがないし、併合する必要もない。
沖縄が日本固有の領土でないことは皮肉なことに日本政府自らが沖縄の前身である琉球王国を武力併合したことで証明してしまった。 >>564
琉球王朝時代に親中派の大臣によって
伝えられる年代が中国の王朝より古いことや沖縄に固有の文字が
なかったはずなどを理由に否定されてしまったという歴史があるようです。
現代ではこのような口承による歴史も重要な研究対象であり、
天孫氏に関する伝承もその研究が待たれるところである。 沖縄は薩摩に武力併合され日本政府に帰属させられ滅亡したので
国際法上あきらかに日本固有の領土です >>566
普通に考えて琉球人の先祖が南九州に住んでいたときの伝承だろ
どこかにいたはずなら生活遺物が見つからないなんてないよね 奄美大島の宇宿貝塚は縄文時代から中世まで継続して人が棲み続けたようだ
どうやら琉球諸島が無人だった時期があった訳ではないらしい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています