武家政権時代の公家、朝廷について語るスレ
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鎌倉〜江戸時代と主に歴史は武家によって作られました。
歴史に疎い人間の中では朝廷は無い物として認識されていますが
厳然として存在した公家、朝廷について何でも語り合いましょう^^
>>127
後奈良天皇の即位費用に2140貫、その他禁裏修理に100貫など。
後の正親町天皇の即位費用に毛利元就が2000貫献金している。
西国は太っ腹だね。 >>129
いやそれ以外にもしてるんだよ確か1000貫くらい。
正確な数字と、名目は失念してしまったが。
文献あさってみるわ。
貿易は儲かるってことだね。しかし従二位で兵部卿にしか任じられないとは、朝廷も底意地が悪い。
中納言もしくは権大納言でも充分お釣りがくる。 逆だろ。金で官位は買えないということを示してるわけだ。
ただ買えるかもしれないということも示しているわけでもある。 このころは官職に対する位階の相場が落ちてるからね。
官位相当よりかなり高い位階の場合が多い。 平公家の癖に1000石前後と清華よりも貰っている家が結構あるけどどういった由緒なんだろ? 例を出すと花山院を本家とする系統では
花山院家(侯爵)715石
花山分家の難波家(子爵)300石
更に難波の分家の飛鳥井家(伯爵)が928石
飛鳥井は難波の分家だが難波が絶家して飛鳥井の系統から再興したため
勅定で飛鳥井が本家、難波が分家と決められた
ちなみに難波飛鳥井は花山院の分家でなくて「同祖」という位置づけだったはず >>135
江戸時代だと、徳川家(特に家康あたり)との親密さが影響している。
日野流の旧家が多めなのは、やっぱり実務を握っていたからか?
吉田家なんかは、神道のたまものなのかねえ。 日野の所領が多いのは足利家との関係が深かったからだと思ってた 日野は戦国時代に一回断絶しているからな
その後に養子に入った日野輝資は禁中並公家諸法度の立案に参画したと言われている。 おお。全然知らなかった。
なかなか面白い経歴の公卿だね。 やあ、なんか、すごく基本的な質問させてください。
戦国期以後の「公家/公卿」の地位ってのは、何をもって尊いとされたんでしょうか。
家柄ということですか? >>116
中国の周が勢力を失ってしばらく経ってから権威も失ったのは、
他の大国が段々と周が独占していた文化財を作る技術を獲得していったからでは? >>144
スレ違いな話題の上に
レスアンカーまでおかしい
あっちへ行け >>143
「貴種」というのは何時の時代でも尊いものよ。
武家が「貧乏公家め」と腹の中で小馬鹿にしていても
結局かなわないのがあなたの指摘する家柄とそれに基づく歴史伝統文化、
そして武家政権の裏付けとなっている天皇の直臣という権威的位置なんだろう。
幕府や大名にとって自分たちを権威付けるためにはどうしても必要な存在だったわな。
>>145
大名側が朝廷に匹敵する文化財を生み出して
初めて朝廷の価値は完全に消える、ってことだよ。 足利ってどうして日野みたいな平公家から代々嫁を貰っていたんだろう?
どうせなら摂家や宮家から迎えれば良いのに何故か勢力や家格の低下した応仁以降に正妻を
摂家から迎えているし訳わからないよね。
逆に考えると将軍権力が落ちたからこそ、箔をつけるために摂家から迎えたという事もできるが・・・・ 家格が低下というのはどうなんだろうね。
得宗も足利将軍家も、官位でかざる必要が少なくなったから
昇進に拘らなくなったんだろう、という論もあるようなし、むしろ
そっちの方が説得力がある気がするが。
実際、室町後期であれば、摂家の権威なんて将軍家よりはる
かに下なわけで、箔付になどなりようもないし。 >>149
応仁の乱以降、足利将軍が飾り物になって将軍の官位も在任期間が短く、昇進の機会が少ないことを考慮しても
大臣どころか三位にもならない事が多々あったけど?
執事に過ぎない北条得宗が官位に頼らなかったというのとは違うと思うが。
>>150
得宗も、早い時期には四位まで上がっていたのが、後期になると五位という
例が多いという。で、庶家の方が四位で官位は高かったりする場合もあると
いうが、それをもって「北条庶家の方が得宗より家格が上だった」とするの
はおかしいだろ?
足利将軍家にしても、昇進の儀式にかける金がおしいからというのが理由
であり、「将軍家」という官位を超越した家格が確立した後では敢えて箔付
の必要がなかったというのが実態でしょう?
実際に、摂家以下、官位では将軍よりはるかに高い者も含めた公家も、
将軍に伺候していたわけだし。 >実際に、摂家以下、官位では将軍よりはるかに高い者も含めた公家も、将軍に伺候していたわけだし。
は認めるが足利将軍の家格低下?は得宗のそれと比較できるものと同類と言えるだけの問題かな?
将軍家の勢力低下と摂家の低下と同列に談じる事が出来るか否かというとは少し違うと思う。
少し違うけど徳川将軍と摂家は分相応の婚姻と言うのと比べて足利と日野が分相応というのは違う気がする。
教養深い人だと思ったので問いかけを含めてレスさせてもらった。 単純に日野家から嫁を迎えた最初の将軍は義満だから、それが吉例扱いされたんじゃないか?
義詮が渋川・紀氏の嫁を貰っているのに比べたら価格は上がっているし。 下橋敬長さんの「幕末の宮廷」はかなり面白いね。
知らない人は是非読んで欲しい。文調もどこか軽妙な感じで飽きない。 義満の例にならってということも大きいんだろうけど、義持以降の場合には
日野家からの「母(准母含め)」が、子の嫁として自分の縁者を推したという
事が大きいんではないでしょうか? 秀吉に関白を売った割には近衛は潤わなかったなw
上級旗本並みの石高しか貰ってないし多少の金貰った以外、摂関家に何かメリットあったの? 近衛前久は天皇の外祖父になれたけどな。
摂家出身の母を持つ天皇は久しぶりだった。 まあでも近衛家に限って言えば領地で大もうけして実高1万石って言われてたから。
軍役義務(城普請・参勤交代)の無い公家だからそのまま余計な出費ないし。 しかも大名に比べて家臣も少なく、人件費が浮く分更に。 さらに縁戚の将軍家・御三家・国持大大名からのお手伝い金などもあり・・・。 >>156
摂関家の収入が表石高だけだと思ってるのか? 家礼の家は、やっぱり摂家に付け届けとかするの?
官位昇進の口添えのお礼とかで。 渋川氏って、娘を義詮室にしただけじゃなく、直義室にもしていて、
更に高師直の娘を嫁にもらってるんだね。
そんな渋川人脈もありながらも観応の擾乱がおきてるんだよな。
足利・渋川の二重の血縁関係があっても、内輪揉めを防げないってよっぽどだよな。 摂家から土着大名になった一条教房が、
ある意味で最強だ
うん。奉公衆が瓦解した室町末期の将軍と一条教房を比べれば
教房の方がたくましい。 親父が奈良に来たら土佐に移ったわけだけど、親子仲が悪かったのかな? その当時はどうだろ?
後に土佐に移ってからはけっこう兼良に援助してるみたいだけど。
教房はさきの関白だから貴族中の貴族だけど、土佐二代目三代目・・・になってくると
在国だからやはり気性も武将のそれになって甲冑を着て出陣もあったんだろうな。 土佐日記なんてのがあったから土佐へ下向してみようかなんて考えたんだろうね。
そうじゃなかったら流石に南海の果てまで行こうとは思わんかったんジャマイカ。 土佐一条と北畠の官位は羽林並ってところか?
一条教房の系統が土佐と京都に別れた感じじゃね?
実際に不知行になっていないところが土佐にしかなかったとか 鎌倉四代将軍の兄は、九条家を継いだ者、二条家の初代、一条家の初代。
一門で繁栄しそうなものだが、そうでもないところがいいね。 義昭を追いやったあとの織田本陣には公家も数十人の家人を引き連れて鎧甲冑を
身に着けて参陣してたらしいね。室町将軍家も将軍親征には公家を参陣させていたから
それを踏襲したんだろう。もちろん実戦隊ではなくて御伽衆みたいなものだろうけど。 前久と信尹はマジで武家になろうとしてそうな・・・。 大坂の陣では持明院基久という公家が出陣・籠城して戦死してるね 公家が武家のまねごとをしても家臣団の構成からして無理だし、
技術もノウハウもなにもないの戦闘行為なんかできやしない。 >>180
一体、いつの時代の公家観だよ?
公家は身辺警護や所領の運営維持のために最低限の武力は中世を通じて保持していたし、
反対に武家だって常時安定した武力を行使できるだけの兵力を揃えられるようになったのは兵農分離後。
だから、河内の日根荘で守護の軍隊が九条家の青侍に率いられた荘民に返り討ちに遭ってしまうという事態が起こり得るのだが。 >>181
まあそれもそうだけど、土地に根ざしてる武士の家臣団と公家の組織じゃあ全然質が違うだろうよ
言いたいことわ分かるし、ある部分正しいのだろうけどたった1つの事件を取り出してきてそれを
自分の説の補強に使われてもね。単なる1つの事象にしかすぎんよ。 鷹司信平だったか、江戸時代に公家から武家になったのもいたな 忠幸王は尾張の姫に婿入りして尾張家一門になったあとに再び京都に戻って
公家に復して広幡家を興したな。 参陣公家って加増を期待して参陣したんだろうけど、公家の所領は多くて2〜3千石くらいだから手柄なんかあげなかったのかな
それとも信長も、秀吉も、家康も公家には渋かったのかな
下級公家の食事は庶民と
同じ様な内容だったの?
玄米とか雑穀の雑炊とか? >>183
その論理だと、守護大名だの守護代上がりの大名なんてのは
存在し得ないな。 格の上下と貧富は直接には関係しないし、
庶民以下の生活もいれば、大名並みの生活もあるでしょ。
利権化した家業持ってるとか、宗教がらみはかなり裕福。 >>187
徳川家光の時代に出された慶安の御触書で農民は酒や茶を買って飲むな、
雑穀を食べるようにし米を食べないことなどいう定書を公布したが
裏を返せば白米を食べ、酒や茶を買って飲む農民が結構いたということだろう その慶安の御触書が偽書であるという昨今定説化している論説の根拠の一つが
>>190のような時代にそぐわない内容に触れている点というのがある。 >>191
慶安に出されたものではないらしい、という説があるだけで
江戸時代にそういう御触書があったことは事実 >>162
官位昇進の推薦権は将軍とバッカクだから、お礼はバッカクに払うんやろ >>192
まず徳川家光の時代に、というところに対しての偽書というレスだったわけで
江戸時代(という長い間を通じて)農村法令が出されたことは当たり前のこと。
あなたがいう「慶安のお触書」に相当する法令が「江戸時代」に出されたというのは
「いつ」「どこで」というのを年頭に置いているのかな?
類似法令ならなんぼでもあるということ前提で、そういうアバウトな話ではなくて
>>191の時代にそぐわないというレスを踏まえて17世紀前半に存在する法令を提示してくれるかい? >>194
191が「徳川家光の時代に出されたのでは時代にそぐわない(別の時代なら適合する)」
という意味のレスなら、いつの時代なら適合すんの?
むしろ、そっちが答えるべきでは? これが最後の警告だ
いい加減、スレ違いな話題はやめろよ 江戸時代における一般の公家のイメージは鉄漿・白塗り・猫なで声・陰湿・・・で
統一されてしまったな、時代劇のせいで。おまけに大河なんぞも同様だし。
質実剛健な武士に対しての悪のイメージか。 江戸時代の公家は、基本的になにもしないひとたちだからね。
社会に対してなんの貢献もしてない。 質問いいですか
同じ家名の公家が複数あったら、必ずどれかが改名しないといけない? >>202
ありがとう
家系によって○○流の○○家、みたいに呼ばれてたのかな >>203
最終的にはどっちかの家が断絶するか、被ると不便だから改名するなどしているけれど、
堂上と官務家の「壬生」は重複したまんま維新を迎えたしね。
あと、家名については余りにも空気の読めないものを使う(源氏なのに「日野」とか「勧修寺」使ったり、某「悪魔ちゃん」的な文字を使ったり)以外は規制はなかったと聞いたことがある。
勧修寺系や閑院系の一条家とか御子左系の二条家、勧修寺系の九条家も存在していた訳だし。 中御門や冷泉など家名が被ってた例はある。どちらも別称はあったが。
>>199
江戸時代の将軍家や御三家の正室の多くは摂関家をはじめとする公家の出身
となれば武家の上流社会に正室を送り込むという役割があっただろ>公家の役目
武家上流社会が公家の姫をほしがったのは血筋の良さもさることながら
諸芸や作法を身に着けた才媛であったことも大きい
江戸時代の公家が何もしてなかったというのも誤り
室町時代以降、公家は生活の足しにするためさまざまな「家芸」を身につけ
それを教えて副業とし生活していたからだ
西園寺家の琵琶、蹴鞠の飛鳥井家などなど文化貢献をしていた >>210
偉いとか偉くないとかいう問題じゃない気が。
戦のない時代の江戸時代の武士より米作ってる百姓のほうが偉いかもしれんし。
政務もとれない自閉症の将軍よりも百姓のほうが偉いかもしれん。 >>212
右翼思想なら公家は天皇の次に立派な職業だよね
>>213
天皇、公家、武士どれも俺の前では平等に価値がない!
そびえ立つ糞のようだ >>181
ちなみに兵農分離はあくまで江戸期に入ってからの現象。戦国期の兵農分離というのは単なる勘違いだわ >>181は戦国期に兵農分離されたなんて一言も言ってないと思うが
勝手に相手を自分の仮想敵と勘違いして叩くなよ
恥ずかしい奴だな 一度断絶した鷹司家が復活したのも、
足利将軍か織田信長あたりの意向なんですか? >>221
鷹司家の所領はそのまま残っていたので
養子を迎えて復活させただけのことでしょう
鷹司忠冬が没し断絶した後所領が没収されるという
ことは起こりませんでしたから 残り四摂家としては
鷹司家が断絶してくれたままなら
ライバルが減ってよさそうだわん >>223
むしろ残り四摂家は自分のところの子息を鷹司家の養子にしようと必死だよ
家督を継げない男子は出家させるしかなかったから
五摂家のどこかが断絶すれば自分の血筋でほかの摂家を独占しようとした
九条の子弟が取り立てられることで清華として両度にわたり再興した松殿家もすぐに断絶→1000石の所領は九条の物に…
ってどんな裏技だよって話だが何故九条だけが松殿再興に熱心だったのか
両家の初代は同母兄弟でもないのだから近衛にも機会はあったはずなのに…
また九条は維新後も分家として(明らかに松殿の名を意識した)松園家などを立てている
それに再興そのものが二度も許されたのも謎 >>226
江戸時代に松殿家が再興された時の将軍は徳川家光
松殿道房の母は家光の異父姉豊臣完子(関白九条幸家北政所)だったから
将軍の御身内として特別に認められたものなんじゃないのか
明治維新後は家督を継げない男子が未婚出家する慣習がなくなったため
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