武家政権時代の公家、朝廷について語るスレ
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鎌倉〜江戸時代と主に歴史は武家によって作られました。
歴史に疎い人間の中では朝廷は無い物として認識されていますが
厳然として存在した公家、朝廷について何でも語り合いましょう^^
家礼の家は、やっぱり摂家に付け届けとかするの?
官位昇進の口添えのお礼とかで。 渋川氏って、娘を義詮室にしただけじゃなく、直義室にもしていて、
更に高師直の娘を嫁にもらってるんだね。
そんな渋川人脈もありながらも観応の擾乱がおきてるんだよな。
足利・渋川の二重の血縁関係があっても、内輪揉めを防げないってよっぽどだよな。 摂家から土着大名になった一条教房が、
ある意味で最強だ
うん。奉公衆が瓦解した室町末期の将軍と一条教房を比べれば
教房の方がたくましい。 親父が奈良に来たら土佐に移ったわけだけど、親子仲が悪かったのかな? その当時はどうだろ?
後に土佐に移ってからはけっこう兼良に援助してるみたいだけど。
教房はさきの関白だから貴族中の貴族だけど、土佐二代目三代目・・・になってくると
在国だからやはり気性も武将のそれになって甲冑を着て出陣もあったんだろうな。 土佐日記なんてのがあったから土佐へ下向してみようかなんて考えたんだろうね。
そうじゃなかったら流石に南海の果てまで行こうとは思わんかったんジャマイカ。 土佐一条と北畠の官位は羽林並ってところか?
一条教房の系統が土佐と京都に別れた感じじゃね?
実際に不知行になっていないところが土佐にしかなかったとか 鎌倉四代将軍の兄は、九条家を継いだ者、二条家の初代、一条家の初代。
一門で繁栄しそうなものだが、そうでもないところがいいね。 義昭を追いやったあとの織田本陣には公家も数十人の家人を引き連れて鎧甲冑を
身に着けて参陣してたらしいね。室町将軍家も将軍親征には公家を参陣させていたから
それを踏襲したんだろう。もちろん実戦隊ではなくて御伽衆みたいなものだろうけど。 前久と信尹はマジで武家になろうとしてそうな・・・。 大坂の陣では持明院基久という公家が出陣・籠城して戦死してるね 公家が武家のまねごとをしても家臣団の構成からして無理だし、
技術もノウハウもなにもないの戦闘行為なんかできやしない。 >>180
一体、いつの時代の公家観だよ?
公家は身辺警護や所領の運営維持のために最低限の武力は中世を通じて保持していたし、
反対に武家だって常時安定した武力を行使できるだけの兵力を揃えられるようになったのは兵農分離後。
だから、河内の日根荘で守護の軍隊が九条家の青侍に率いられた荘民に返り討ちに遭ってしまうという事態が起こり得るのだが。 >>181
まあそれもそうだけど、土地に根ざしてる武士の家臣団と公家の組織じゃあ全然質が違うだろうよ
言いたいことわ分かるし、ある部分正しいのだろうけどたった1つの事件を取り出してきてそれを
自分の説の補強に使われてもね。単なる1つの事象にしかすぎんよ。 鷹司信平だったか、江戸時代に公家から武家になったのもいたな 忠幸王は尾張の姫に婿入りして尾張家一門になったあとに再び京都に戻って
公家に復して広幡家を興したな。 参陣公家って加増を期待して参陣したんだろうけど、公家の所領は多くて2〜3千石くらいだから手柄なんかあげなかったのかな
それとも信長も、秀吉も、家康も公家には渋かったのかな
下級公家の食事は庶民と
同じ様な内容だったの?
玄米とか雑穀の雑炊とか? >>183
その論理だと、守護大名だの守護代上がりの大名なんてのは
存在し得ないな。 格の上下と貧富は直接には関係しないし、
庶民以下の生活もいれば、大名並みの生活もあるでしょ。
利権化した家業持ってるとか、宗教がらみはかなり裕福。 >>187
徳川家光の時代に出された慶安の御触書で農民は酒や茶を買って飲むな、
雑穀を食べるようにし米を食べないことなどいう定書を公布したが
裏を返せば白米を食べ、酒や茶を買って飲む農民が結構いたということだろう その慶安の御触書が偽書であるという昨今定説化している論説の根拠の一つが
>>190のような時代にそぐわない内容に触れている点というのがある。 >>191
慶安に出されたものではないらしい、という説があるだけで
江戸時代にそういう御触書があったことは事実 >>162
官位昇進の推薦権は将軍とバッカクだから、お礼はバッカクに払うんやろ >>192
まず徳川家光の時代に、というところに対しての偽書というレスだったわけで
江戸時代(という長い間を通じて)農村法令が出されたことは当たり前のこと。
あなたがいう「慶安のお触書」に相当する法令が「江戸時代」に出されたというのは
「いつ」「どこで」というのを年頭に置いているのかな?
類似法令ならなんぼでもあるということ前提で、そういうアバウトな話ではなくて
>>191の時代にそぐわないというレスを踏まえて17世紀前半に存在する法令を提示してくれるかい? >>194
191が「徳川家光の時代に出されたのでは時代にそぐわない(別の時代なら適合する)」
という意味のレスなら、いつの時代なら適合すんの?
むしろ、そっちが答えるべきでは? これが最後の警告だ
いい加減、スレ違いな話題はやめろよ 江戸時代における一般の公家のイメージは鉄漿・白塗り・猫なで声・陰湿・・・で
統一されてしまったな、時代劇のせいで。おまけに大河なんぞも同様だし。
質実剛健な武士に対しての悪のイメージか。 江戸時代の公家は、基本的になにもしないひとたちだからね。
社会に対してなんの貢献もしてない。 質問いいですか
同じ家名の公家が複数あったら、必ずどれかが改名しないといけない? >>202
ありがとう
家系によって○○流の○○家、みたいに呼ばれてたのかな >>203
最終的にはどっちかの家が断絶するか、被ると不便だから改名するなどしているけれど、
堂上と官務家の「壬生」は重複したまんま維新を迎えたしね。
あと、家名については余りにも空気の読めないものを使う(源氏なのに「日野」とか「勧修寺」使ったり、某「悪魔ちゃん」的な文字を使ったり)以外は規制はなかったと聞いたことがある。
勧修寺系や閑院系の一条家とか御子左系の二条家、勧修寺系の九条家も存在していた訳だし。 中御門や冷泉など家名が被ってた例はある。どちらも別称はあったが。
>>199
江戸時代の将軍家や御三家の正室の多くは摂関家をはじめとする公家の出身
となれば武家の上流社会に正室を送り込むという役割があっただろ>公家の役目
武家上流社会が公家の姫をほしがったのは血筋の良さもさることながら
諸芸や作法を身に着けた才媛であったことも大きい
江戸時代の公家が何もしてなかったというのも誤り
室町時代以降、公家は生活の足しにするためさまざまな「家芸」を身につけ
それを教えて副業とし生活していたからだ
西園寺家の琵琶、蹴鞠の飛鳥井家などなど文化貢献をしていた >>210
偉いとか偉くないとかいう問題じゃない気が。
戦のない時代の江戸時代の武士より米作ってる百姓のほうが偉いかもしれんし。
政務もとれない自閉症の将軍よりも百姓のほうが偉いかもしれん。 >>212
右翼思想なら公家は天皇の次に立派な職業だよね
>>213
天皇、公家、武士どれも俺の前では平等に価値がない!
そびえ立つ糞のようだ >>181
ちなみに兵農分離はあくまで江戸期に入ってからの現象。戦国期の兵農分離というのは単なる勘違いだわ >>181は戦国期に兵農分離されたなんて一言も言ってないと思うが
勝手に相手を自分の仮想敵と勘違いして叩くなよ
恥ずかしい奴だな 一度断絶した鷹司家が復活したのも、
足利将軍か織田信長あたりの意向なんですか? >>221
鷹司家の所領はそのまま残っていたので
養子を迎えて復活させただけのことでしょう
鷹司忠冬が没し断絶した後所領が没収されるという
ことは起こりませんでしたから 残り四摂家としては
鷹司家が断絶してくれたままなら
ライバルが減ってよさそうだわん >>223
むしろ残り四摂家は自分のところの子息を鷹司家の養子にしようと必死だよ
家督を継げない男子は出家させるしかなかったから
五摂家のどこかが断絶すれば自分の血筋でほかの摂家を独占しようとした
九条の子弟が取り立てられることで清華として両度にわたり再興した松殿家もすぐに断絶→1000石の所領は九条の物に…
ってどんな裏技だよって話だが何故九条だけが松殿再興に熱心だったのか
両家の初代は同母兄弟でもないのだから近衛にも機会はあったはずなのに…
また九条は維新後も分家として(明らかに松殿の名を意識した)松園家などを立てている
それに再興そのものが二度も許されたのも謎 >>226
江戸時代に松殿家が再興された時の将軍は徳川家光
松殿道房の母は家光の異父姉豊臣完子(関白九条幸家北政所)だったから
将軍の御身内として特別に認められたものなんじゃないのか
明治維新後は家督を継げない男子が未婚出家する慣習がなくなったため
他の家でも分家を起こしているよね 松殿は政治的にはアレだったけど、
基房が摂関家の故実を完成させたという事実は近衛・九条家でも認められていた事実。 長崎円喜
「恐れながら、それを申さば都の公家衆は如何でございます。
我ら武家よりもさらに広大な土地を有し、官の長を一手に独り占めしております。
その公家ばらが北条を出過ぎた者よと逆恨み致し悪党共を唆してのこの騒ぎにございます。
高資をお責めになる前に悪党・楠木をその楠木を操る公家や先帝をお責めになるべきかと存じまする」 福原遷都のとき、公家のみなさんも引っ越そうとしたの? 日本の男には自我が無いんだよな
女からATMにされるだけの単なるロボット
それで良いと甘んじているし、状況を認識するだけの自我も無い
情けないと叩かれてもヘラヘラ
繁華街の九割が女向けの店でもヘラヘラ
金が使えなくてもヘラヘラ
自殺に追い込まれてもヘラヘラ
んで女の子大好きフェミニズム最高!過労死最高!
自殺最高!女性専用車最高!とヘラヘラヘラヘラ
もうええわ 源頼朝が政権樹立して以降、建武の新政期以外はずっと武家政権なんだよな
公家、やること無し わいろをもらって任官の斡旋とか、貧乏なだけに忙しいよな >>209
同感。ただ所謂蹴鞠とかそういうものだけでなく、色々な特権というものがあったみたいだね。もっとも
そんな特権を有する公家自体ごく一部なんだが。
摂家筆頭近衛家では、領地からの収入二千石他領地伊丹の酒造組合からの運上金が毎年2,000両あっ
たそうだし、その他油等も献上されていて、将軍家や島津家等大藩からのお手伝いで潤っていた。
公家社会の中で一番金持ちだった清華家の村上源氏久我家。当道座、つまり盲人による実質金貸集団の
官位の任命や寺社奉行の手前の採決権等管領権による支配による財産、そしてそれに基づく武家や商家
への金貸しで莫大な財産を保有している。
それ以外にも、暦道や全国の陰陽祈祷の免許を交付する権利を有する土御門家や、神社の支配権を有し
ている吉田家等はかなり裕福だったみたいだよ。 >>241
御三家、御三卿と同じ。血統のプールだろう。
頑張って子孫を残すのが最大の仕事かな。 親王家とは言っても、宮中席次は関白>准三宮>太政大臣>左大臣>右大臣
そして、やっと親王だ。清華の右大臣より下なんだから、
光格天皇の嘆きも分かろうと言うものだ。 >>244
だから家康は秀忠の血統が絶えるのを心配して御三家を創設させたんだろう。
つまり、将軍予備としての血統を絶やさない事が御三家の仕事。
御三卿は吉宗が、自分の子孫で将軍職を独占しょうとして、
独立させずに身内と言う存在で、御三家に対抗しただけ。
御三家は独立した大名とは言っても、大老や老中になって仕事をする訳でもなし、
譜代大名や、中世以降からの地生えの外様大名とは存在意義が違うんだよ。
親王家も家禄を貰って独立しているからね。理解できた? >>245
御三家は水戸・紀伊・尾張と国を与えられて藩主としての仕事があったよ。
将軍の御身内として時には将軍に直接意見することもあった。
大老や老中は純粋な家臣である譜代大名の仕事だろ。
御三卿こそ江戸城内に屋敷を貰って住み、藩主としての仕事すらなく、
将軍家が絶えた時に御三家より優先して将軍を出すだけの家だった。 >>246
大名なんだから領国を経営してゆくという仕事は当たり前でしょう。
じゃなくて、そもそもの立藩のき経緯を言っている訳。
大名に付随した諸々の立場があるのは当然だが、
一番重要なのは将軍職を継ぐ資格を有している事、つまりは血統のプールだ。
だからこそ尾紀両家は将軍世子と同じ従二位権大納言の官位を持っている。 >>245
譜代はともかくとして、外様は「大老や老中になって仕事を云々」
そのものだろ? >>248
外様大名の老中も何にかいるし、若年寄や寺社奉行クラスにも外様大名はいる。
一番有名なのは真田幸貫だろう。まあ幸貫の場合は楽翁の息子と言う事で、
水野忠邦が改革の権威付けに抜擢したようだが。 何にか=何人かの間違い。失礼した。
それに、ここは公家・朝廷を語るスレだよね。 >>241
どうでしょうね〜 天皇や朝廷と違い、>>242さんの言うとおり血統のプールだけですから特に
仕事というものがなかったのでは無いでしょうか? 私が例に上げた摂家筆頭の近衛家も、結局
の所領地運営の収入ですからね。もちろん酒造商家の運上金も含めて。
ただ婚姻関係におけるお手伝収入は多かったのでは無いでしょうか? 近衛家のお手伝では、
『看聞秘鈔』によると基熈公は宝永二年に江戸を下向する時、天英院から二千両の支度金が送ら
れているそうですし、天英院の弟家熈公が太政大臣に就任して以降は内々で毎年三百両送られてい
るそうです。
その他、島津家からも毎年二百石・五百両が送られている他、津軽家からも千石クラスが送られて
いるそうです。
それを考えると婚姻関係があればそこそこの収入があったのかも知れません。
以下のページが詳しいです。
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=29579
>>246さん
私も>>245さん・>>247さんの意見と同意見です。ようは家康と吉宗の方法の違い、つまり血統の
プールをおこなう方法が藩主として各地に配置して仕事をさせるか? それとも御三卿として捨扶持
を与えて江戸に置いておくか? ただそれだけの違いだと思います。 >中世以降からの地生えの外様大名
大藩だと島津以外にだれがいるんだよ? >>247
徳川将軍はたまたま頻繁に絶えて(徳川将軍15人中4人は子無し)
御三家や御三卿に出番が回ってきたものの普通は滅多なことでは廻ってこない。
家康一人で男子10人作ったんだから、家光あたりが男子10人作れば御三家が将軍になる可能性ほとんどなし。
御三家に求められたのは親藩大名としての領国経営(江戸への守り)であって
血筋は本家が守っていれば問題なし。
ただし領国すら与えられなかった御三卿になると、明らかに
これからも将軍が頻繁に絶える可能性があるとみられて作られたんだと思うけどね。 家光がホモになるとは、さすがの東照大権現でも予測不可能だった。
御三卿成立のころは、尾張家では成人する方が圧倒的に珍しいという惨状。
家斉・家慶の子息もバタバタ死んでる。 >>254
論旨が変だし、矛盾しているぞ。日本語の勉強の必要ありだな。
「血筋は本家が守っていれば問題なし」と言いながら、
「徳川将軍はたまたま頻繁(この言い方もおかしい)に絶えて」とはどう?
頻繁に絶えて本家が守れないから問題があるんだろう。
「普通は滅多なことでは廻ってこない」と言うが、頻繁に絶えたから
頻繁に廻って来たんだろう。違うのか?
家康が男子を10人(正確には11人)作ったと言うが、まともに育ったのは5人。
しかも秀康系に継承権が無いとすれば4人だ。人生50年と言われていた当時、
生存率は現代とは比べものにはならない。
その上、秀忠は正妻に頭が上がらず、男子はたった2人(正之は論外)なのに
竹千代派と国松派に分かれての家督争いだ。家康ならずとも行く末は心配になる。
だから家康は血統のプールの必要性を人一倍感じていたはずだ。
幸い、義直・頼宣・頼房の3人は秀忠と年齢も離れており、継承権を争う可能性も低く、
安心して血統予備軍としての地位を与えたのだろう。
ただ、江戸や将軍家への藩屏としての領国経営も重要だつた事は言うまでもない。 >>256
家康が、秀忠系は間違いなく絶える、だから弟たちから将軍出せ
と遺言した記述もないのにえらい長文頭爆発だなw
ちなみに水戸家が徳川を名乗ることを許されたのは家康も秀忠も没した
随分後の話だしw
全然知らないみたいだけど、頭大丈夫? だれか松平忠輝のことも思い出して上げてください。
将軍綱吉の時代まで生きてたんだよ。 >>257
どこに秀忠系は間違いなく絶えるからなんて書いてある?
結局忠長は兄に誅され、家光一人になった時点で秀忠系が絶える可能性はあった。
二人の幼少期に家督争いの萌芽を見た家康はだから行く末を心配したと書いたんだ。
それと誰が水戸家が徳川を名乗った時期を言った?
称号は松平であったとしても、頼房も慶長年間には20数万石で水戸に封じられて、
血統予備軍としての地位は与えられている。
お前こそ頭大丈夫か?バカはバカらしくおとなしくしていろよ。
>>258
まともに育ったと言うのは長生きした事じゃない。
領国経営の出きる将軍や大名として子孫を残し、生涯を全う出来た者と言う意味だよ。 >>259
松平はたくさんいるよ、家康は異父弟や娘の孫にまで松平を与えてたしね。
松平を名乗って水戸に封じられれば将軍になる権利を与えられたって馬鹿かw
忠長が自害させられたのも家康没後だろう、時系列が無茶苦茶だ。
家康は忠長が殺されるのを見越していたというお馬鹿な回答だが、
それならさっさと忠長を祖父の手で壊滅させればいいわけで、生かしている時点で
忠長を家光に男子ができなかった場合の有力な血のスペアとみていたことで間違いない。
スレチの駄文を長々長文投稿する頭のおかしさだから仕方ないが。
他人を巻き添えにするのもいい加減にしろ。 松平といっても、久松系や娘の孫や歴代分家の十八(だったかな?)松平と実子の
頼房では立場が全然違うと思いますよ。
家康に確立した御三家構想があったかどうかは分かりませんが、子供達のうち、
出来のよさそうな末の3人に、東西の外様大名への押さえとして大封を与えて
藩屏とすると同時に、>>259さんがいうように血統のプールの役目も担なわせた
んじゃないでしょうか。
忠長の事も、殺されるのを見越してと言っておられますが、そんな風には書いてないと思いますよ。
出来の悪い(と言われていた)兄と出来の良い(同)弟をそれぞれ応援する重臣がいて、
しかも両親は弟を気に入っている(同)となると、将軍職を末代まで続く事をあれだけ
執念深く願った家康とすれば、限りなく不安ではなかったでしょうか。
勿論忠長も有力な血のスペアであると思いますが、あのような立場の兄弟の関係は、
お互い他人以上に憎みあう立場になる可能性が大で、家康もそこを心配したのではないでしょうか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています