松平といっても、久松系や娘の孫や歴代分家の十八(だったかな?)松平と実子の
頼房では立場が全然違うと思いますよ。
家康に確立した御三家構想があったかどうかは分かりませんが、子供達のうち、
出来のよさそうな末の3人に、東西の外様大名への押さえとして大封を与えて
藩屏とすると同時に、>>259さんがいうように血統のプールの役目も担なわせた
んじゃないでしょうか。
忠長の事も、殺されるのを見越してと言っておられますが、そんな風には書いてないと思いますよ。
出来の悪い(と言われていた)兄と出来の良い(同)弟をそれぞれ応援する重臣がいて、
しかも両親は弟を気に入っている(同)となると、将軍職を末代まで続く事をあれだけ
執念深く願った家康とすれば、限りなく不安ではなかったでしょうか。
勿論忠長も有力な血のスペアであると思いますが、あのような立場の兄弟の関係は、
お互い他人以上に憎みあう立場になる可能性が大で、家康もそこを心配したのではないでしょうか。