武家政権時代の公家、朝廷について語るスレ
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鎌倉〜江戸時代と主に歴史は武家によって作られました。
歴史に疎い人間の中では朝廷は無い物として認識されていますが
厳然として存在した公家、朝廷について何でも語り合いましょう^^
江戸時代には京都の町人が下官人になりたがったし、希望者は大概任官して貰えたそうだけど。
下官人になると給料貰えたの?
それとも現代のロータリークラブやライオンズクラブみたいに、得にはならないけど名誉だからと任官を希望したの? 各地の神職や、名刀造る鍛冶職人とか国主級の官職貰ってたりするけど、
「おれは正式に拝領した◯◯守だ、ガハハ」
ものすごい名誉だったろうな。 偉く立派な農家もいたんだよ
調べてみたの?このような偉い農家や百姓?のこと 農家にも、ヘタな大名よりも名門に繋がる庄屋も居たからな。
一応、それぞれの藩で生活に一定の配慮されているな。 なぜ大名より、農家の方が上なんだ?
と聞いているんだけど 新興大名より歴史が古いからじゃないか?
維新後の薩長勲功爵位よりもそれ以前の家のほうが名門に見えるのと同じ
究極は天皇家だからな歴史の古さでは
歴史の長さで比類しそうな家柄は諏訪氏や出雲国造家や海部氏あたりか 時国家(平関白時忠流)
那古屋家(名超北条流)
天下人の一族を領内で保護していた
前田中納言家こそ最強武家w ここの板面白いね。
御公卿さんの御家って跡取りがいないと絶家になるけど、
宮家の場合は、当主不在の場合があるみたいだね。
領地、宮邸及び家臣団は温存されて、新しい宮様のお出でを待つみたいだね。
桂離宮を拝観する際に、ちょっとだけ調べていたらそんなことに気が付いた。
門跡寺院や比丘尼御所も無住の場合があったそうだけど、
僧籍にある見であれば、子どもが相続するわけじゃないから
門跡がいないのはなんとなくわかるんだけど、宮家の場合は何故なのかな? 門跡尼門跡はむしろ御無住状態の方が多い時期もあるね。
親王、摂家子女に該当人物がいないと入室できないから。
四親王家が絶家とならないのは御三家御三卿が絶家とならないのと
無関係ではないと思う。絶家にしない代わりに新家も建てない。 徳川御三家は当主不在はなかったが、御三卿は明屋敷が普通にあったな。
あくまで本家を支えるためだけの存在だからか。 ◆なぜ稲作が長江江南ではありえないのか
日本に水田稲作が伝わった当時の長江江南の遺跡から出土するイネは
中粒種と短粒種が約半々の割合で混ざって出土してくる。
ところが、日本の最古水田から出土した炭化米は短粒種のみ。
しかも、当時の長江江南の主力農具だったはずの石スキが伝わっていない。
というか、最古水田にはスキという器種自体がないし、石刃の農具もない。
それどころか、当時の長江江南には無いエブリとクワといった農具が最初に
伝わってしまっている。
しかも、当時の長江江南の炊飯器だった鬲や鼎といった三足土器も
最古水田にはさっぱり伝わっていない。
日本稲作が長江江南から伝わったなんて2兆パーセントありえません。 江戸時代の准尼門跡寺院って、伊勢の慶光院のほかはどこどこ? 記憶で書くけど
熱田の誓願寺、長野の善光寺大本願かな? >>350
江戸時代の宮家で当主不在が多いのは当主の夭折が続いたからだよね
そのたびに天皇家から養子を貰ってくるんだけどその幼主がまた夭折して
次の養子が来るまでに時間がかかる
尼門跡寺院も幼主が夭折して次の皇女が来るまでに時間がかかる
門跡寺院は無住職は少なかったんでは
夭折もいるがなぜか異常に長生きな門跡がいたりする 江戸時代の人口比率
公家・神官・僧侶:1.5%
武士:7%
百姓:84%
町人:6%
穢多・非人:1.5% 日本史より謎な金儲けできる方法とか
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