武家政権時代の公家、朝廷について語るスレ
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鎌倉〜江戸時代と主に歴史は武家によって作られました。
歴史に疎い人間の中では朝廷は無い物として認識されていますが
厳然として存在した公家、朝廷について何でも語り合いましょう^^
二條家の諸大夫ともなれば北小路とか松波とかさすがに譜代でそれなりに
由緒ある家臣だなー。 武家との婚姻関係で見る家格
将軍家−内親王・摂家・親王家
御三家・御三卿−摂家・親王家
国主大名−親王家・清華家・平堂上家
一般大名・旗本・大藩家老−平堂上家 公家の生活は「家の格」によって出世できる終点の身分も決まっていた。
武家の方が自身の才覚によって身分上昇が可能なので、「世の中を変革しよう」
など、公家の側からは出なかったのだろうな。 逃げる公家、媚びる公家―戦国時代の貧しい貴族たち―』柏書房(2011) 信長とか秀吉は公家を武装させて参陣させてたからなあ。
もちろん実戦力ではなくて御伽衆的な感じだけど。
これを本気にして渡海しようとした近衛信尹みたいな摂家も出てくる始末。 公家はペットみたいなもの。数が少ないのが生き残る道。 公家が一番困窮したのは戦国時代でしょ?
でも江戸時代見ても100石に満たない公家がぞろぞろいたよな・・・
戦国時代は天皇も飢えて餅屋からの献上品を食ってたというし
京都にいた有力武家は何をしていたのかと小一時間問い詰めたい
別に扶養義務があるわけじゃないし。
正直どうでも良かったんじゃないの?
余裕がなかったのかも? >>75
>京都にいた有力武家
これって室町将軍のことでしょ?室町将軍も金欠で援助どころでは無かった。
大体将軍が京に不在なことが多くてね。追い出されちゃって。 >>68
へえ、そうだったんですか。面白い。
何ていう本(論文?)に書いてありますかね? >>78
「近世の身分的周縁」とかってシリーズの「朝廷を取り巻く人々」とか言う題名の本に、
収録されていてた摂家家臣について書かれたもの。
題名はうろ覚えなので間違ってるかもしれない。 >>79
78です。ありがとう御座います。
来週学校に行って図書館にあるか調べてみます。 >>79 >>80
正しくは吉川弘文館 『身分的周縁と近世社会8 朝廷をとりまく人びと』
近世朝廷研究の第一人者、高埜利彦氏と高埜氏の門下生による共著の本。
地下官人や堂上家の部屋住みなどにも触れていてなかなか読み応えあるよ。 そもそも江戸時代に公家って必要だったのか?
皆無でいいとは思わないが、大臣家未満は無嗣絶家でも問題ないでしょ。
大名の改易みたいに浪人が増えるわけでもない。 朝廷の組織運営に最低限必要な人数を確保するために、幕府主導で新家を設けて公家の数を増やしたのだが>江戸時代 >>84
中断していた儀式とかを中断させたままにするのならば、
新家を設ける必要がなかったけれどね。
もちろんそうさせないのが朝廷の要望と幕府の方針だったから、
公家がごちゃごちゃ増えたのだが。
評論家が「江戸時代の体制を維持せよ」と、
http://ichiba.geocities.jp/gbsg0309/0202/8/188_2.html
ようやく、日本政府の一角が、現体制が「徳川幕府体制」そのものであることを認め始めた。
そもそも、徳川時代権勢を誇った「公家」「侍」集団が、やすやすと貧しい農民集団に権力を明け渡すはずがない。
明治時代、金持ちから優先して税金を徴収したというのは、真っ赤な「ウソ」。
平民階級の成り上がり者に高率税金を課し、絶対に金持ちに紛れ込んでこないようにした。
もちろん、天皇一族、公家、侍階級が税金を払うはずがない。
このような天国の生活を放棄するわけがないことは、子どもでもわかることだ。 摂家の当主ですら、征夷大将軍ごときから偏諱を受けていたって、情けない
存在価値が希薄すぎ あの時期は実質的に君主だもんな。
普通はあそこまで行けば簒奪しちゃう。
あるいは、名目君主の次の臣下最上位の地位を作ってそれになるか、
既存の臣下最上位の地位に就任しちゃう。
征夷大将軍は名目上は明確に摂関より上位に位置づけられてもいない、
不思議な地位。 室町時代後半
スポンサーがいない → 即位するカネがない → 天皇在位が長い
感じいるものがある >>92
死ななければ100年でも在位していそうな雰囲気。
後柏原や後奈良、後土御門あたりが貧困天皇の極致。 >>92
他の国なら、とっくに公家・天皇家なんて消滅してたんだろうね。
>>83氏の言ってるように、「なんで必要だったの?」っていうのは、
天皇家・公家っていうシステムの不思議さを改めて感じさせます。
>>94
長く続きすぎて、誰もが「無くす」ことが怖くなってしまった。 >>94
武家は権威付けに朝廷から官位貰わないといけないのに
天皇家、公卿を粛清とかする必要あるのか?
織田信長は生きていたら自分が天皇として即位しそうな感じだけど
明智光秀に殺されてるし。 今から見ると、皇室は日本史上存続するのが当たり前だったように見えるけど、
実際には、偶然が続いてここまで存続した、と見るのが正しいと思う。
特に、室町中期までは、皇室にもまだ
財政的基盤も政治的基盤も、それなりにあったわけだが、
戦国時代にそれが、ほぼなくなった。
その後江戸時代には、家康の貴種マニア的な性格もあり、
朝廷は箱庭的に生き残ったわけだが、あくまでも箱庭であって
財政的にも、政治的にも従来のものとは全く異なったものになっていた。
もし戦国時代があと数十年続いていたら、皇室が滅亡していてもおかしくなかった、
と自分は思うが。最後まで京都を離れなかったのが幸いした。
もし本当に生活できなくなって、地方に亡命したりしたら、きっと滅んでいたと思う。 >>96
信長が天皇として即位しそうな感じってのの根拠は?
それ言ってる人見るとどうも素人っぽくて。
根拠を明示してくれればまだ話になるけど。 >>97
皇室の権威を利用したのは紛れも無く戦国大名だろ?
大内や毛利がどれだけ献金したと思ってるんだ。
ただそれでも経済的には安定しなかったが信長、秀吉の登場で
天皇権威は復活しただけでなく、以前にもましてその存在意義が増した。
もちろんそれは信長、秀吉の栄光のお陰であることは間違いないが
戦国時代を終わらせたのはある意味この両名であって、
あたかも家康が皇室の存続に大きく寄与したというのは
あまりにも飛躍した話である。
とは言え>>97氏の言うように、もし天皇が地方に亡命することがあったらそりゃ滅んでいた可能性は高い
ただ多くの公家が地方に疎開したのと決定的に違ったのは、玉座という地位を軽んじないという
天皇自らの天皇の歴史に対する敬意だ。つまり地方に亡命するなんていう仮定がありえない。
そもそも戦国時代にあって地方亡命なんてのはある勢力に取り込まれた時なわけで
それを他の大名が許すわけもない。つまり戦国のような時代だからこそ京都に固定されるし
大名勢力もそれを望むわけだ。そこら辺の仮定を公家レベルや京都内での里内裏レベルと同じに考えてるのはおかしい。
>>100
いやだから書き方が悪かったかも知れんが、
勿論家康だけじゃなくて、信長秀吉が現れずに、
あのまま足利将軍家の権威低下だけが続いて、あと数十年〜100年程度
戦国時代が続いたら、やっぱり金欠で生活できず、
「どこかの勢力に取り込まれてしまう」ことになったのでは?
ってのが自分の想像。
あくまでも想像だから、それ以上議論はできないけどね。
とにかく、戦国時代の朝廷は、(一般的に思われていることに反して)
「存続の危機」の状態にあった、ってことは確かだと俺は思う。 >>102
武士が全員悪党になった上に荘園の解体が進んだんじゃしょうがないね。
危機は危機だけどやっぱり官位を与えるということで生き残ってる。 その「あと100年間戦国時代が続いたら〜」っていう想定自体がナンセンスだからな。
戦国時代があと100年続くってのはどういう状態か想像もつかないし、
逆に言えば戦国時代が終了するその100年後というのはどういう終了の仕方なのか。
つまり設定自体に(歴史を考える上では)無理があるので、その設定に基づいて天皇がどうだというのは無理だし無意味。
なのでそれをもって「存在の危機」にあったとも判断はできない。
むしろ戦国時代でさえもその存在が失われなかったことを考えれば
「存続の危機」は戦国よりも道鏡の登場や、足利義満のような公家社会も取り込んだ独裁者の登場時の方がよっぽど切迫していたと思う。 権威ってなあ、なんなのでしょうなあ……(´・ω・`)
天皇というシステムが残った理由の一つが「長さ」だとしたら、「漢」はなじぇに
無くなってしもたのだろうかなー、とか。献帝まで約400年でしょ?
支那の場合は、禅譲っていうシステムが構築されたせいかしら? 世界史的に見れば、永続しないほうがずっと多いからな。
普通は続かないし、変わったときにその理由を考えるほうが普通だったから。
権威は跡付けだよ。 >>105
儒教が根付くのが遅かったからじゃないか? >>108
「孟子」の易姓革命概念が嫌われて、
「孟子」を載せた船は沈むという俗説があったぐらいだからな。 >>104
天皇家の持つ広大な荘園が武家に横領されつくしたから、天皇に価値がなくなった。 >>110
天皇は荘園を所有してたから価値があったわけじゃなかろうに。
てか日本語で頼むわ。 >>104
戦国時代が続いてたら天皇制が滅んだか?ってのは議論あり得ると思うが、
「戦国時代があと100年続くってのはどういう状態か想像もつかない」ってのは、すまんがよくわからん。
想像くらいは、容易につくだろ。
信長秀吉以前から、戦国の覇者はいて、しかしそいつらは強い権力を持ちながら
維持できずに滅び去っていっていたわけで。そういう状態が続いて、
100年後になってようやく秀吉みたいな傑物が現れて統一する、なんてことくらい、想像するのは容易。
むしろ、歴史に「もし」なんてそもそもありえんだろ、って言うのならまだ話はわかるが、
それは全く別の問題な。 根拠地から京都までの土地を連続して支配下に治めて安定していられた勢力が織田家が現れるまで無かったようなものだもんね。
細川とか六角とか三好とかは一応そういえるかも知れないけど、圧倒的な力で維持できるまでには及ばなかった。
大内とか根拠である山口に帰らなくちゃいけなかったし。 >>113
現実に起こってないことを想像するのは容易とはなw
そもそも覇者がひたすら滅び去って行くことが繰り返される状態がただ延長されるだけと考えてるようだが
それは想像以下のものだろ。
ここは日本史板なんだから想像するにしても学問としての科学性を多少なりとも根拠とし給え。
それを踏まえた上で想像するのは困難だ、というわけだ。
戦国の覇者が攻防を繰り返すことが200年続くという状況は日本史の歴史性を考えた時にそれはどういう状況か
もう少しその想像とやらではなくて丁寧に説明してくれないかな? 文化と教養が戦国時代の天皇や公家の存在意義だったのでは?
大名が公家文化を消化するか、新しい文化を創造できたら
大名は天皇達のスポンサーをする気は失せるだろう。 >>116
もし室町幕府が鎌倉にあったら、天皇家は立ち枯れていたかもしれない。
武士が京都ではなく鎌倉を向くから。 >>115
だからさ、あなたの言っているのは、戦国時代が100年続いたらどうこう言う話じゃなくて、
「そもそも現実に起こっていないIFは想像しても意味ない」っていうだけだろ?
もしそうじゃない、って言うのなら、
何でもいいから、何か現実に起こっていない事柄について、
日本史の歴史性を考えた時にそれはどういう状況か、自分で納得の行くくらい寧に説明してくれないかな?
つまりね、あなたはただ単に「歴史にIFは無意味」って言ってるだけなんだから、
もしそうなら、初めから>>104みたいに回りくどいこと言わずに、単に一言「歴史にIFは無意味」とだけ言ってくれよ、
って言っているのだが。
例えば>>104
「つまり設定自体に(歴史を考える上では)無理があるので、」云々とかいってるけど、
別に「設定に無理がある」わけじゃなくて、どんな設定だって史実じゃない以上ダメなわけでしょ?
もしそうではない、と言うのなら、どこにどう無理があるのか、明確に説明してくれよ。 質問に質問で返さなくていいから、その戦国時代が200年も延長されてる状況、
あんたが想像できる状況ってのを詳しく描写してくれよ。;
ただ戦国の覇者が攻防を繰り返すのが100年から200年に伸びただけ、なんて説明じゃなくてさ。
歴史ってのは連続性と同時に空間的な広がりもあるわけなんだよ。
ただ「戦国時代が200年続くのは想像できる!」じゃ小学生と一緒だろ?
戦国時代と一口に言ってもそれぞれがそれぞれ独立して勝手にやってたわけじゃないわけで
いろいろな力学の元に歴史が展開されていたわけだ。
それは対大名、対家臣、対在地勢力、対朝廷、対幕府、そして対キリスト教、対南蛮貿易国、対支那、対朝鮮・・・
そういった要素を絡めた上で(なぜなら日本の歴史がどうなってようが平行した世界の歴史は否応無しに展開するからだ)
実際の年代、史実と想像のボーダーの政治的、経済的、宗教的状況、外国との関係などなどを時代に沿って丁寧に想像して
はじめて100年後も「戦国の覇者が〜」って言えるわけだよ。
ただ「その時の状況が100年後も温存されてるだけ」ってのを想像って言うんなら「縄文時代が続いてる現実も想像できる」って言ってるのと同じ。
少なくともこのトピックは「戦国時代があと100年続いてたら天皇は云々〜」というのが嚆矢なわけだから、前提となるその想像とやらが
「ただ前時代がそのまま温存されただけ」なんていう屁にもならない想像とやらだったら、その後の結果に対する検証にも関わってくるわけだ。
「天皇がなくなっていたか否か」なんていう検証抜きにして勝手に西暦1700年ごろも戦国の世が続いていたと想像するのはどうぞご自由に。
それでも、18世紀に戦国の世が温存されてるのはどういう状況か、なんてのは簡単に想像できんがね。先述の種々の要素があるから。
>>119
前代の権威が大きく低下した中国の戦国時代みたいなのを
想像してるんじゃないの?
各国の君主が「王」を名乗ったみたいな。 >>117
どっかの本で読んだが、鎌倉育ちの尊氏が京都に幕府を置くことを考えたのは
足利氏の権威や勢力の弱さのためらしい。
尊氏が戦の大天才だったり、北条氏の財力をそっくりそのまま継承出来れば
足利氏の権威や権力も上がって鎌倉幕府2ndもありだったんだろうが。
結局東国が西国と同等な文化を持つことは無かったな。
江戸時代も首都は江戸でも他は圧倒的に
西>>>東 だし。 武家政権時代の朝廷公家は、覇道の世界によらない、学問、文藝の世界に身を置くことで保身を全うしてきたわけだが、
関ヶ原の戦いの丹後田辺城攻城戦のさい、不意に朝廷は、自らの意思を表明する
「幽斎を喪うのは、朝家の嘆きである」
なぜ、この時だけ、朝廷が、いにしえの国家権力のような毅然とした姿勢をとったのかね >>118-119
君ら賢いんだから、スレ違いなことに気付いてくれないかな。 >>121
1450年くらいから上洛を志向する武将が出てくるけど、
天皇と将軍のどっちがより強く武将の上洛意欲をそそったのだろうね。
落ちぶれた天皇家にとって、将軍と同じ場所に居たことがプラスに
働いたことは間違いないと思っている。 それは足利氏にも言える。
独自の権威を持つのに失敗したから
天皇の庇護者になろうとした。
もし、足利氏がかつての頼朝のような権威と北条氏のような権力があれば、
鎌倉を拠点に三河から陸奥までを支配したろう。 >>123
申し訳ない。気をつける。
>>122
八条宮智仁親王の個人的な拘泥が大きかったのだろうか。
最終的な決定者たる後陽成天皇が秀吉政権の下で(文化的価値も含む)権威を上昇させていたことも
要因のひとつとも思うが。 従二位兵部卿を得た大内っていくら献金したんだろう?
元々の大内の家格ってどうせ従4位下あたりでしょ? >>127
後奈良天皇の即位費用に2140貫、その他禁裏修理に100貫など。
後の正親町天皇の即位費用に毛利元就が2000貫献金している。
西国は太っ腹だね。 >>129
いやそれ以外にもしてるんだよ確か1000貫くらい。
正確な数字と、名目は失念してしまったが。
文献あさってみるわ。
貿易は儲かるってことだね。しかし従二位で兵部卿にしか任じられないとは、朝廷も底意地が悪い。
中納言もしくは権大納言でも充分お釣りがくる。 逆だろ。金で官位は買えないということを示してるわけだ。
ただ買えるかもしれないということも示しているわけでもある。 このころは官職に対する位階の相場が落ちてるからね。
官位相当よりかなり高い位階の場合が多い。 平公家の癖に1000石前後と清華よりも貰っている家が結構あるけどどういった由緒なんだろ? 例を出すと花山院を本家とする系統では
花山院家(侯爵)715石
花山分家の難波家(子爵)300石
更に難波の分家の飛鳥井家(伯爵)が928石
飛鳥井は難波の分家だが難波が絶家して飛鳥井の系統から再興したため
勅定で飛鳥井が本家、難波が分家と決められた
ちなみに難波飛鳥井は花山院の分家でなくて「同祖」という位置づけだったはず >>135
江戸時代だと、徳川家(特に家康あたり)との親密さが影響している。
日野流の旧家が多めなのは、やっぱり実務を握っていたからか?
吉田家なんかは、神道のたまものなのかねえ。 日野の所領が多いのは足利家との関係が深かったからだと思ってた 日野は戦国時代に一回断絶しているからな
その後に養子に入った日野輝資は禁中並公家諸法度の立案に参画したと言われている。 おお。全然知らなかった。
なかなか面白い経歴の公卿だね。 やあ、なんか、すごく基本的な質問させてください。
戦国期以後の「公家/公卿」の地位ってのは、何をもって尊いとされたんでしょうか。
家柄ということですか? >>116
中国の周が勢力を失ってしばらく経ってから権威も失ったのは、
他の大国が段々と周が独占していた文化財を作る技術を獲得していったからでは? >>144
スレ違いな話題の上に
レスアンカーまでおかしい
あっちへ行け >>143
「貴種」というのは何時の時代でも尊いものよ。
武家が「貧乏公家め」と腹の中で小馬鹿にしていても
結局かなわないのがあなたの指摘する家柄とそれに基づく歴史伝統文化、
そして武家政権の裏付けとなっている天皇の直臣という権威的位置なんだろう。
幕府や大名にとって自分たちを権威付けるためにはどうしても必要な存在だったわな。
>>145
大名側が朝廷に匹敵する文化財を生み出して
初めて朝廷の価値は完全に消える、ってことだよ。 足利ってどうして日野みたいな平公家から代々嫁を貰っていたんだろう?
どうせなら摂家や宮家から迎えれば良いのに何故か勢力や家格の低下した応仁以降に正妻を
摂家から迎えているし訳わからないよね。
逆に考えると将軍権力が落ちたからこそ、箔をつけるために摂家から迎えたという事もできるが・・・・ 家格が低下というのはどうなんだろうね。
得宗も足利将軍家も、官位でかざる必要が少なくなったから
昇進に拘らなくなったんだろう、という論もあるようなし、むしろ
そっちの方が説得力がある気がするが。
実際、室町後期であれば、摂家の権威なんて将軍家よりはる
かに下なわけで、箔付になどなりようもないし。 >>149
応仁の乱以降、足利将軍が飾り物になって将軍の官位も在任期間が短く、昇進の機会が少ないことを考慮しても
大臣どころか三位にもならない事が多々あったけど?
執事に過ぎない北条得宗が官位に頼らなかったというのとは違うと思うが。
>>150
得宗も、早い時期には四位まで上がっていたのが、後期になると五位という
例が多いという。で、庶家の方が四位で官位は高かったりする場合もあると
いうが、それをもって「北条庶家の方が得宗より家格が上だった」とするの
はおかしいだろ?
足利将軍家にしても、昇進の儀式にかける金がおしいからというのが理由
であり、「将軍家」という官位を超越した家格が確立した後では敢えて箔付
の必要がなかったというのが実態でしょう?
実際に、摂家以下、官位では将軍よりはるかに高い者も含めた公家も、
将軍に伺候していたわけだし。 >実際に、摂家以下、官位では将軍よりはるかに高い者も含めた公家も、将軍に伺候していたわけだし。
は認めるが足利将軍の家格低下?は得宗のそれと比較できるものと同類と言えるだけの問題かな?
将軍家の勢力低下と摂家の低下と同列に談じる事が出来るか否かというとは少し違うと思う。
少し違うけど徳川将軍と摂家は分相応の婚姻と言うのと比べて足利と日野が分相応というのは違う気がする。
教養深い人だと思ったので問いかけを含めてレスさせてもらった。 単純に日野家から嫁を迎えた最初の将軍は義満だから、それが吉例扱いされたんじゃないか?
義詮が渋川・紀氏の嫁を貰っているのに比べたら価格は上がっているし。 下橋敬長さんの「幕末の宮廷」はかなり面白いね。
知らない人は是非読んで欲しい。文調もどこか軽妙な感じで飽きない。 義満の例にならってということも大きいんだろうけど、義持以降の場合には
日野家からの「母(准母含め)」が、子の嫁として自分の縁者を推したという
事が大きいんではないでしょうか? 秀吉に関白を売った割には近衛は潤わなかったなw
上級旗本並みの石高しか貰ってないし多少の金貰った以外、摂関家に何かメリットあったの? 近衛前久は天皇の外祖父になれたけどな。
摂家出身の母を持つ天皇は久しぶりだった。 まあでも近衛家に限って言えば領地で大もうけして実高1万石って言われてたから。
軍役義務(城普請・参勤交代)の無い公家だからそのまま余計な出費ないし。 しかも大名に比べて家臣も少なく、人件費が浮く分更に。 さらに縁戚の将軍家・御三家・国持大大名からのお手伝い金などもあり・・・。 >>156
摂関家の収入が表石高だけだと思ってるのか? 家礼の家は、やっぱり摂家に付け届けとかするの?
官位昇進の口添えのお礼とかで。 渋川氏って、娘を義詮室にしただけじゃなく、直義室にもしていて、
更に高師直の娘を嫁にもらってるんだね。
そんな渋川人脈もありながらも観応の擾乱がおきてるんだよな。
足利・渋川の二重の血縁関係があっても、内輪揉めを防げないってよっぽどだよな。 摂家から土着大名になった一条教房が、
ある意味で最強だ
うん。奉公衆が瓦解した室町末期の将軍と一条教房を比べれば
教房の方がたくましい。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています