宮本武蔵 北条早雲 岡山出身
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北条早雲と宇喜多直家に鹿狩りしよって誘われたらどうなるの?
鹿と間違えたとか言って撃ち殺された挙句、城まで取られちゃうの? 岡山は歴史的に人材が豊富だうらやましい
それに比べうちの市は
宮本武蔵も北条早雲も宇喜多直家もみんな近寄りたくない人ばかりだ。 それいったら戦国武将は隙、見せたらアウトだよ、血生ぐさい社会だったんだから それいったら戦国武将は隙、見せたらアウトだよ、血生ぐさい社会だったんだから 早雲が縄張りしたいわれる、米持城いってきた確かに削平されてるけど単郭で砦だ。総社の士良計城が無名だがすごい、石垣が多く1メートル近いのもある。完璧な山城 同市、鳥越城もすごい、削平がきれいで、山上から山下まで帯曲輪がある、切岸も3メートルあり何か意味のありそうな複雑な土塁もある。全体が城跡?で大、土木工事の城、国人領主の域をでてる
。真備の鳥ヶ獄城も、本丸下に野良積石垣が確認でき臨時的な城ではなかった思われる
次は灘崎のトンギリ山城行きたい。あの辺りでは常山城に次ぐ規模、古文書は沈黙してるが勝負谷と地名残してる事から合戦があった思われる。 ただあの辺りイノシシが怖い、最近人が襲われたらしい、過去に噛み殺された人もいるから、 岡山って城跡の数が全国1位、と本に書いてたような。まあ世界的にもこれだけ城跡が多い国はないらしい 早雲の一族の伊勢氏も毛利氏の傘下で、こき使われて大将討ち死にでお家断絶、いつの世も仕える身はつらい おどりゃあなにゅうちゃあちゃあちゃあちゃあちばけたことぬかしょんならあ! 秀吉の養子として育った宇喜多秀家はもう備前の出身とは言えない 武蔵は龍野かどか兵庫だろう。
武蔵ファンのあいだでは常識化してる。 播州説は岡山しか無い新免姓をなぜ名乗ったのかが上手く説明できないのが残念ね。 灘崎、片岡城は、くの字型城郭だ。かつての片岡地区の中心地。今はさびしい所だが貧乏殿様の城と紹介され、常山合戦の折、攻め落とされたのだろうか 逃げ場のない中、知ってる人間が首を落とされ断末魔あげてる時ってどんな心境だったんだろ?現代日本じゃ考えれない 倉敷福田の広江山城、土橋、楼台、郭,切岸、確認できた、歴史資料はまったくないが築城方法から在地勢力ではなくこの辺り進出してきた勢力の築城方法に似てると、毛利氏か織田か? 同市、酒津の流山城、毛利氏に従い九州に出陣の隙に山陰の尼子氏に攻められ防戦むなしく落城、石垣、郭、堀切、土塁、確認できたが全体像が見えない 日本の99%戦国時代のお城、天守閣のあるお城は全体の1%でしかない。しかも江戸時代のお城。なぜ戦国のお城は人気がない?案内板すらない 川上町の国吉城、籠城兵300人以上降伏も許されず惨殺。300人いたら遠目からも山が赤くなるのがわかる 瀬戸内市の佐井田城、単郭と切岸のみで砦だ。昔から地元で城山とよばれ、三宅某、犬死と伝えられるが。たぶん農民が自衛のため築いた城だろうと推測されてる、同感 岡山は人も町も田舎臭く、都会派には馴染めない(失礼)、田舎人の素朴さが少なく、個性強すぎ県人が多く大阪人に近いかな?。裏を返せばタフな県人でもあるとは思うが。宇喜多直家を受け継いだか? もっとも直家は、頭から爪先まで計算で出来ており、自分の計算にこれほど忠実な男もおらず、鼻息荒く野心に燃えてたのに平素は物静かを装ってたが 弟の宇喜多忠家も、兄、直家に可愛がられたが、兄貴に会うときは服の下に鎖を入れて対面したとか、直家らしいエピソード 信長は人を斬ったことない自分の小姓に首切らして失神するの見て大笑いしてた、この手の話は多い。直家には快楽殺人趣味はない思う。三大悪奸は現代からみれば違ってくる 戦争は人間の精神を破壊すんだよ、そこは正義や悪じゃ語れないよ >>23
普通に岡山の外にいってた新免の人間がいたってなんら不思議ではないだろう… >>41
はあ?
事実があるなら事実を示せというのは悪魔の証明じゃないよ。
ないのを証明しろというのが悪魔の証明に当たる。
最近覚えたんだろうが、しったげはよしなはれ。 要は「新免の人間がいたってなんら不思議ではない」、つまり
「新免の人間が外にいた」という君は主張してるわけだよね。
なら、その根拠を示せばいいわけ。
で、それと武蔵が繋がればもっとよろしい。
学問の基本中の基本やん。 >「新免の人間が外にいた」という君は主張してるわけだよね。
>なら、その根拠を示せばいいわけ。
戦国時代は人が流動化した時代で、岡山と播磨はごく近隣。以上。
それで納得できないから悪魔の証明だって話になる。
「新免の武蔵が岡山人でなかったことを証明せよ」ってな。
歴史やってれば、戦国期で無名の新免がいくらでも岡山の周辺地域に
いたであろうことくらいはいくらでも想定できるだろうに。
新免にこだわるってのはそういうことだ。 戦国時代は人が流動化ねえ。
古代じゃあるまいし、武人が流動化して住み着いたなら系譜が残ってるよ。
黒田家で活躍した播州菅氏も系譜が残ってる。
無名の新免とは何だろうか。
いくらでも想定できるなら、それを指し示せばええやん。
君が歴史に詳しいとはとても思われへん。 尾藤とかいう信濃にしかない名字を持つものが
なぜか秀吉の与力になってたな 新免は赤松支族。赤松の本拠播磨では、聞きかじっただけのDQNやその息子にとって
さぞや羽振りのきく名前だったことだろう。 >>38だが、軽い気持ちで書いたのがお約束の荒れ具合をしていてワロタw
>>45新免伊賀守宗貫は関ヶ原以降黒田家に仕えて、系譜も残しているよ。
播州菅氏のことを持ち出すくらいだから知ってるだろうに、意地悪な人だなw
武蔵も筑前の秋月城で死んだ新免無二の家を継いだ、と泊神社の養子の伊織がした奉納額に書いてある。
武蔵の出自は武人なのか。自称してたのを後の名声によって関係者が追認しただけじゃねーのか。 案の定、岡山とは関係のない話になってきたなw
武蔵の出自の正確なところはわからん。
播磨生まれなのに筑前の新免家を継いだというのも意味不明だが、武蔵が生まれたという伝承のある村が
武蔵が生まれた時期に黒田家の所領になってて、その後筑前に黒田家移っていることから
武蔵の両親はその頃に黒田家に仕えて、そのまま筑前についてったんじゃないかっていってる人はいる。
武蔵筑前出身説なんてのもあるし、物心ついた頃に筑前にいってたという可能性はある。
この黒田家に武蔵の親が仕えてたのが本当なら、一応武士の出だったんだろう。
真偽のほどは不明だ。
倉敷、城の首城。土塁、堀切確認。規模や場所からあの辺りの在地支配のためでなく、純軍事的な戦略目的で築かれたらしい。湊山城の場所がまだわからない。 宮本は見切りの天才だろ、見た目で相手が自分より強いか弱いか判断できる。その勘が抜群らしい。強いなら逃げる、剣の達人ではなく、勘の天才。それも特技だ、剣術なんて戦には役にたたん、ただの装飾 つまりだ、播州説はあやふやな仮定の上に仮定を積み重ねるお伽話。
世間では妄想ともいう。 新免のみにこだわってるこだわってるからそういうわけの分からない話になる。
本人が播州出身だと言い残してるわけだろう。 家康のように本人が家系偽装した後、先祖が乞食坊主だと家臣にバラされてるわな。 まあ実際の処、新免家が岡山の外にあっても不思議じゃないから、新免=岡山出身というのは安易だって話でしかない。
そして武蔵当人が播州の武士、新免武蔵守藤原玄信と書いてる。
これで武蔵=新免の関係者とするのも安易だが、武蔵は自身を播磨生まれだと認識していたのは確かだ。
あと武蔵が決闘で卑怯なことしてたとか逃げたとかは、後世に作られたり司馬遼太郎あたりが真説宮本武蔵で書いて広めたことだったりする。
まだ確かな出生地が定まっていないが現状では一般的な見解だね。
播州説は五輪の書の一記述から辻褄合わせの最中で、まだ完成に到らずが正直なところ。
作州説も同様。
あとは好みでどちらを取るかな話。 新免家が岡山の外にあっても不思議ではないが、新免家が岡山の外にあれば、岡山外に新免家の足跡が後世へと残る。
このあたりが理解出来ないから播州説は小説マニアから出発したアンチテーゼであって、その多くは妄想といわれる。
もう少しまともな人に研究を頼むと良かろう。
岡山は備前であるが、現代において美作の人は自らを岡山出身だという。
しかし、長らく備前、美作で赤松が守護を務め、本拠地の播磨を含め、かつて、これらは一つの県のようなものであった。
生国播磨だけでは作州説を否定する根拠とはならない。 都合のいい解釈ばかりを積み重ねて、必死にこじつけているようにしか見えないな。
新免が播磨に移っても、少数なら途絶える可能性は決して低いものじゃない。
必ず残るといわんばかりの主張は贔屓目が過ぎる。
赤松が勢力を減退させて播磨からさえ駆逐されようかという時に、美作の人間が
播磨出身とは言わないだろう。 まあ、播磨説もあやふやなものではあるが、美作説はそれでいうと胡散臭いけどな。
根拠となる史料は東作誌で、その中ですら「伝承が矛盾してよく解からん」とか書いてある始末だし。
あげくに古地図で確認してみると、美作の宮本村が武蔵生誕時になかった可能性があるという話すらある。
美作出身説が有名になったのは吉川英治が「宮本武蔵」の出身地として採用してからだが、
最初は吉川英治は武蔵の出身地といわれる播磨の宮本村に取材にいったら、何が悪かったのか追い返されたという経緯があるそうだw
まあ、その播磨宮本村からして、伝承があるというだけでなんの遺物もないんだけどなw
美作の宮本村はそれこそいっぱい遺跡やらにやらあるが…。
播磨宮本村も最近になって生誕地として注目され始めると遺跡が創作されたっていうから、何処もまあ…郷土愛好者とかたいがいなもんだって話。
都合のいい解釈の繋ぎあわせでいうのなら、残念ながら播磨説は美作説にはかなわんな。
何せあそこはもう何十年も、戦前から矛盾した史料をなんとか本当にするために史跡を創作したり、果てはイタコに武蔵は無二の実子だと証言されたりしてる。
到底、昨日今日主張されだした播磨説の及ぶところではない。
積み重ねられた情報の重みは、生半に覆せるものではないからな。 剣術家なんて平和な時代でしか飯が食べれない曲芸師、武士道なんて理想論で読んでられない、やっぱリアリティは地元の戦国時代でしょ 江戸時代の武士は概念的でよくわからん、戦国の武士は現実的で人間臭くていい 岡山の「宮本武蔵資料館」にはまともな資料など無く全部複製品だったのにはがっかりだった。
関ヶ原で宇喜多軍に属していた事を隠す為に播州出身としたわけだ。
武蔵が晩年に過ごした熊本には本物の武具や資料があるのでもう熊本人でいいんじゃないか?
家の近所に宮本武蔵ゆかりの神社がある俺が来ましたよっと 武蔵が宇喜多家の足軽だったっていうのは、新免家が宇喜多家の臣だったということからでてきた説だけど、新免無二は黒田家に仕えてたというのは黒田分限帳にも載っているし、参軍してたとはたら東軍だと思うぞ。
熊本にいったのは、養子の伊織と細川家の長岡佐渡の書簡によれば、弟子に誘われて出かけた先で歓待されて居着いたということらしい。
そりゃあ、小笠原家筆頭家老の伊織の養父なんだから、歓待されるよな…。
細川忠利という理解者を得て云々というのは、後付け解釈らしく、すぐに死んでいるということもあるが、忠利は武蔵に特に言及した書類は残してない。 倉敷、本太城の土橋やばい、死にかけた、本丸下の装飾的石垣、堀をかねた巨大井戸など築城方法からして秀家時代の物らしい。なお、近場の二つの本太城は秀家本太城とは時代が違い、同じ本太城と扱うのはナンセンスとの事 同市、戸山城、旧指定史跡にも関らず地元の人に聞いても、誰一人知らん、との事、さすがに寺の住職は知ってた。当然登山道もないが、石垣、土橋など山城の形態をよく残す。常山合戦の折、落城とか 中世城は町が発展するに、大きく関る物で現代の町々の礎なのに、ろくな調査もされず、毎年無残に破壊されつずけてる、城から時代背景を考察できなくなる。保護するにも戦国の城を皆知らない、嘆かわしい 歴史語るのは、本に頼るのもいいが、自分で現場を歩いて自分の見識を織り交ぜて語らなきゃいかんよ >>70
犬養毅は桃太郎の犬の末裔なんだよなw
正確には桃太郎のモデルだとされている大吉備津彦に仕えた
犬飼部、犬飼武が桃太郎の犬のモデルとされ、
犬養毅はその末裔だそうだが。 奈良で活躍した吉備真備の銅像が今も皇居の堀の脇に立ってるけどなぜ? 本で得た知識を偉そうに開けかすのはよいが、実際に現場を歩いて自分の見解を持たにゃいかんよ、本が真実を語っとるとは限らんのじゃから >>74
現場の捏造意見よりは論文ひいては古文書の方が正しいよ。 情報は生のままでは役にたたないものなあ。
分析、評価する人間がいないと。 学がない人間は学者に学説を聞いても理解できないから、都合のいいものを選ぼうとする。 本に頼るのもよいが、現場を歩きゼロベースから自分の考えを構築していかにゃならんよ、机上の議論じゃいかんよ。素直さをもたにゃいかんよ 瀬戸内市の智間城、確かに人口的な削平はあるが、よく見えてこない。山裾を昔は川が流れてて、智間氏が監視をしていたとか,冬の山城シーズンが終わり山城報告が困難なため少々控えます、ご了承ください。 早雲が縄張りした言われる井原市の米持城、切岸は見事だが少し崩落しかけてる、まあ切岸だけでも削るのも当時は大変な労力じゃな 早雲が縄張りした米持城、単郭だと思えば、採掘で破壊されたらしい、早雲が現代に残した貴重なものを簡単に壊すなんて、、悲しいのう 出来る奴はみんな出て行った・・・・
結論、今の岡山にはカスしかいない。 大平首相の有名な言葉
「東京に三代住むと白痴になる」 宮本武蔵は兵庫出身だろう?
たぶん、太子町か高砂市のどっちか。
岡山出身説が出回ったのは、吉川栄治の小説の中だけ。 宮本武蔵の五輪の書って白いノートの事じゃないのか? 広島で被爆後に患者の治療を続け、著書「ヒロシマ日記」を通じて原爆の悲惨さを国内外に伝えた岡山市出身の医師、蜂谷道彦さん(1980年に76歳で死去)の足跡を伝える特別展「Dr.ハチヤの功績とその意義」が、生家に近い北区の津高公民館で開かれている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています