宮本武蔵 北条早雲 岡山出身
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>>41
はあ?
事実があるなら事実を示せというのは悪魔の証明じゃないよ。
ないのを証明しろというのが悪魔の証明に当たる。
最近覚えたんだろうが、しったげはよしなはれ。 要は「新免の人間がいたってなんら不思議ではない」、つまり
「新免の人間が外にいた」という君は主張してるわけだよね。
なら、その根拠を示せばいいわけ。
で、それと武蔵が繋がればもっとよろしい。
学問の基本中の基本やん。 >「新免の人間が外にいた」という君は主張してるわけだよね。
>なら、その根拠を示せばいいわけ。
戦国時代は人が流動化した時代で、岡山と播磨はごく近隣。以上。
それで納得できないから悪魔の証明だって話になる。
「新免の武蔵が岡山人でなかったことを証明せよ」ってな。
歴史やってれば、戦国期で無名の新免がいくらでも岡山の周辺地域に
いたであろうことくらいはいくらでも想定できるだろうに。
新免にこだわるってのはそういうことだ。 戦国時代は人が流動化ねえ。
古代じゃあるまいし、武人が流動化して住み着いたなら系譜が残ってるよ。
黒田家で活躍した播州菅氏も系譜が残ってる。
無名の新免とは何だろうか。
いくらでも想定できるなら、それを指し示せばええやん。
君が歴史に詳しいとはとても思われへん。 尾藤とかいう信濃にしかない名字を持つものが
なぜか秀吉の与力になってたな 新免は赤松支族。赤松の本拠播磨では、聞きかじっただけのDQNやその息子にとって
さぞや羽振りのきく名前だったことだろう。 >>38だが、軽い気持ちで書いたのがお約束の荒れ具合をしていてワロタw
>>45新免伊賀守宗貫は関ヶ原以降黒田家に仕えて、系譜も残しているよ。
播州菅氏のことを持ち出すくらいだから知ってるだろうに、意地悪な人だなw
武蔵も筑前の秋月城で死んだ新免無二の家を継いだ、と泊神社の養子の伊織がした奉納額に書いてある。
武蔵の出自は武人なのか。自称してたのを後の名声によって関係者が追認しただけじゃねーのか。 案の定、岡山とは関係のない話になってきたなw
武蔵の出自の正確なところはわからん。
播磨生まれなのに筑前の新免家を継いだというのも意味不明だが、武蔵が生まれたという伝承のある村が
武蔵が生まれた時期に黒田家の所領になってて、その後筑前に黒田家移っていることから
武蔵の両親はその頃に黒田家に仕えて、そのまま筑前についてったんじゃないかっていってる人はいる。
武蔵筑前出身説なんてのもあるし、物心ついた頃に筑前にいってたという可能性はある。
この黒田家に武蔵の親が仕えてたのが本当なら、一応武士の出だったんだろう。
真偽のほどは不明だ。
倉敷、城の首城。土塁、堀切確認。規模や場所からあの辺りの在地支配のためでなく、純軍事的な戦略目的で築かれたらしい。湊山城の場所がまだわからない。 宮本は見切りの天才だろ、見た目で相手が自分より強いか弱いか判断できる。その勘が抜群らしい。強いなら逃げる、剣の達人ではなく、勘の天才。それも特技だ、剣術なんて戦には役にたたん、ただの装飾 つまりだ、播州説はあやふやな仮定の上に仮定を積み重ねるお伽話。
世間では妄想ともいう。 新免のみにこだわってるこだわってるからそういうわけの分からない話になる。
本人が播州出身だと言い残してるわけだろう。 家康のように本人が家系偽装した後、先祖が乞食坊主だと家臣にバラされてるわな。 まあ実際の処、新免家が岡山の外にあっても不思議じゃないから、新免=岡山出身というのは安易だって話でしかない。
そして武蔵当人が播州の武士、新免武蔵守藤原玄信と書いてる。
これで武蔵=新免の関係者とするのも安易だが、武蔵は自身を播磨生まれだと認識していたのは確かだ。
あと武蔵が決闘で卑怯なことしてたとか逃げたとかは、後世に作られたり司馬遼太郎あたりが真説宮本武蔵で書いて広めたことだったりする。
まだ確かな出生地が定まっていないが現状では一般的な見解だね。
播州説は五輪の書の一記述から辻褄合わせの最中で、まだ完成に到らずが正直なところ。
作州説も同様。
あとは好みでどちらを取るかな話。 新免家が岡山の外にあっても不思議ではないが、新免家が岡山の外にあれば、岡山外に新免家の足跡が後世へと残る。
このあたりが理解出来ないから播州説は小説マニアから出発したアンチテーゼであって、その多くは妄想といわれる。
もう少しまともな人に研究を頼むと良かろう。
岡山は備前であるが、現代において美作の人は自らを岡山出身だという。
しかし、長らく備前、美作で赤松が守護を務め、本拠地の播磨を含め、かつて、これらは一つの県のようなものであった。
生国播磨だけでは作州説を否定する根拠とはならない。 都合のいい解釈ばかりを積み重ねて、必死にこじつけているようにしか見えないな。
新免が播磨に移っても、少数なら途絶える可能性は決して低いものじゃない。
必ず残るといわんばかりの主張は贔屓目が過ぎる。
赤松が勢力を減退させて播磨からさえ駆逐されようかという時に、美作の人間が
播磨出身とは言わないだろう。 まあ、播磨説もあやふやなものではあるが、美作説はそれでいうと胡散臭いけどな。
根拠となる史料は東作誌で、その中ですら「伝承が矛盾してよく解からん」とか書いてある始末だし。
あげくに古地図で確認してみると、美作の宮本村が武蔵生誕時になかった可能性があるという話すらある。
美作出身説が有名になったのは吉川英治が「宮本武蔵」の出身地として採用してからだが、
最初は吉川英治は武蔵の出身地といわれる播磨の宮本村に取材にいったら、何が悪かったのか追い返されたという経緯があるそうだw
まあ、その播磨宮本村からして、伝承があるというだけでなんの遺物もないんだけどなw
美作の宮本村はそれこそいっぱい遺跡やらにやらあるが…。
播磨宮本村も最近になって生誕地として注目され始めると遺跡が創作されたっていうから、何処もまあ…郷土愛好者とかたいがいなもんだって話。
都合のいい解釈の繋ぎあわせでいうのなら、残念ながら播磨説は美作説にはかなわんな。
何せあそこはもう何十年も、戦前から矛盾した史料をなんとか本当にするために史跡を創作したり、果てはイタコに武蔵は無二の実子だと証言されたりしてる。
到底、昨日今日主張されだした播磨説の及ぶところではない。
積み重ねられた情報の重みは、生半に覆せるものではないからな。 剣術家なんて平和な時代でしか飯が食べれない曲芸師、武士道なんて理想論で読んでられない、やっぱリアリティは地元の戦国時代でしょ 江戸時代の武士は概念的でよくわからん、戦国の武士は現実的で人間臭くていい 岡山の「宮本武蔵資料館」にはまともな資料など無く全部複製品だったのにはがっかりだった。
関ヶ原で宇喜多軍に属していた事を隠す為に播州出身としたわけだ。
武蔵が晩年に過ごした熊本には本物の武具や資料があるのでもう熊本人でいいんじゃないか?
家の近所に宮本武蔵ゆかりの神社がある俺が来ましたよっと 武蔵が宇喜多家の足軽だったっていうのは、新免家が宇喜多家の臣だったということからでてきた説だけど、新免無二は黒田家に仕えてたというのは黒田分限帳にも載っているし、参軍してたとはたら東軍だと思うぞ。
熊本にいったのは、養子の伊織と細川家の長岡佐渡の書簡によれば、弟子に誘われて出かけた先で歓待されて居着いたということらしい。
そりゃあ、小笠原家筆頭家老の伊織の養父なんだから、歓待されるよな…。
細川忠利という理解者を得て云々というのは、後付け解釈らしく、すぐに死んでいるということもあるが、忠利は武蔵に特に言及した書類は残してない。 倉敷、本太城の土橋やばい、死にかけた、本丸下の装飾的石垣、堀をかねた巨大井戸など築城方法からして秀家時代の物らしい。なお、近場の二つの本太城は秀家本太城とは時代が違い、同じ本太城と扱うのはナンセンスとの事 同市、戸山城、旧指定史跡にも関らず地元の人に聞いても、誰一人知らん、との事、さすがに寺の住職は知ってた。当然登山道もないが、石垣、土橋など山城の形態をよく残す。常山合戦の折、落城とか 中世城は町が発展するに、大きく関る物で現代の町々の礎なのに、ろくな調査もされず、毎年無残に破壊されつずけてる、城から時代背景を考察できなくなる。保護するにも戦国の城を皆知らない、嘆かわしい 歴史語るのは、本に頼るのもいいが、自分で現場を歩いて自分の見識を織り交ぜて語らなきゃいかんよ >>70
犬養毅は桃太郎の犬の末裔なんだよなw
正確には桃太郎のモデルだとされている大吉備津彦に仕えた
犬飼部、犬飼武が桃太郎の犬のモデルとされ、
犬養毅はその末裔だそうだが。 奈良で活躍した吉備真備の銅像が今も皇居の堀の脇に立ってるけどなぜ? 本で得た知識を偉そうに開けかすのはよいが、実際に現場を歩いて自分の見解を持たにゃいかんよ、本が真実を語っとるとは限らんのじゃから >>74
現場の捏造意見よりは論文ひいては古文書の方が正しいよ。 情報は生のままでは役にたたないものなあ。
分析、評価する人間がいないと。 学がない人間は学者に学説を聞いても理解できないから、都合のいいものを選ぼうとする。 本に頼るのもよいが、現場を歩きゼロベースから自分の考えを構築していかにゃならんよ、机上の議論じゃいかんよ。素直さをもたにゃいかんよ 瀬戸内市の智間城、確かに人口的な削平はあるが、よく見えてこない。山裾を昔は川が流れてて、智間氏が監視をしていたとか,冬の山城シーズンが終わり山城報告が困難なため少々控えます、ご了承ください。 早雲が縄張りした言われる井原市の米持城、切岸は見事だが少し崩落しかけてる、まあ切岸だけでも削るのも当時は大変な労力じゃな 早雲が縄張りした米持城、単郭だと思えば、採掘で破壊されたらしい、早雲が現代に残した貴重なものを簡単に壊すなんて、、悲しいのう 出来る奴はみんな出て行った・・・・
結論、今の岡山にはカスしかいない。 大平首相の有名な言葉
「東京に三代住むと白痴になる」 宮本武蔵は兵庫出身だろう?
たぶん、太子町か高砂市のどっちか。
岡山出身説が出回ったのは、吉川栄治の小説の中だけ。 宮本武蔵の五輪の書って白いノートの事じゃないのか? 広島で被爆後に患者の治療を続け、著書「ヒロシマ日記」を通じて原爆の悲惨さを国内外に伝えた岡山市出身の医師、蜂谷道彦さん(1980年に76歳で死去)の足跡を伝える特別展「Dr.ハチヤの功績とその意義」が、生家に近い北区の津高公民館で開かれている。 吉川英治が小説にする前の宮本武蔵はどんなイメージだったんだろう
もしかして誰も知らない無名の存在だったんだろうか >>102
違うわw
江戸時代から剣豪として大有名。
勝海舟の氷川清話にも出てくる。
吉川英治が無学なのがわかるのは武蔵は幼少から「たけぞう」と呼ばれていたという大嘘。
幼名が権兵衛だか田子作だろうと有り得るが、「たけぞう」だけはあり得ない。
あれは〜〜武蔵守、〜〜武蔵介の「武蔵」。武蔵=「武蔵の国」を現しているんだから。
もうアホ丸出しとしか言えんわw >>102
真田幸村と同じく講談で語られるスーパーマン
実在の人物というより、伝説の人物って感じだろう
だから、いろいろ話に尾ひれがついた
しかし、現実には一生浪人で終わったショボイ人物
だから、どこの馬の骨ともわからんってことでも何も不思議ではない
ただ、大名がスポンサーになってくれたりするんでただ者ではないとは思うが、
そも作庭とか町割りとか絵画の才能の方を買ってるようなんで、一種の山師だったんじゃないかな? 岡山のスレで武蔵の話をするのは無粋だが…。
>>103
吉川英治は当時としては武蔵についての資料を結構集めてたのは、随筆宮本武蔵を読めば解る。
ただ、あんまり史実を反映した、あるいはそのままのことを書こうって気はなかったらしい。
あくまで武蔵を題材にした小説を書いたってこと。
随筆宮本武蔵には武蔵についてあちこちの資料から話を引いてるので、武蔵=たけぞうはわざとだろう。
>>104
武蔵が浪人だったのは確かだが、養子が本多家、小笠原家に仕えて大成しているという時点で武士としては勝ち組だと思う。
というか、養子を三人共本多家、小笠原家の殿さまの近習…将来の幹部候補にできるのだから、どんだけ武蔵は殿様たちに信頼されてたのだ…。
伊織は近習として使えてた者を武蔵の養子となったという説もあるが、いずれ武蔵はただものではない。
そんな武蔵なら仕官することも容易かったろうけど、していない。できなかったのではなくて、あえてしなかったのだろう。
仕官運動をしてできなかったというのは、ああいうのは基本、後世の創作だし。
最終的に姫路の宮本家は三百石、小倉宮本家は二千石となったのだから、相当なものだ。 宮本武蔵は名前で得をしている。
宮本河内とか
宮本長門とか
宮本尾張だったら
ここまで人気者になってない。 もちろん講談のスターであっても吉川英治がブーストかけて人気ものにしたのは、事実、読み物として大変面白い。
歴史小説家なんて、知っててサービスで色々やってるだけだから嘘っぱちって言っちゃうのは、恥ずかしいですよ。
文学と歴史を混同してる。 >>106
吉川英治も最初に兵庫の宮本村訪ねたんだが、地元の神社の氏子総代が武蔵にはなんの興味もなく
けんもほろろに追い返されたんだそうだ。
よもやそのせいではあるまいが、ちょうどその頃に村おこしみたいに岡山の宮本村があれこれやってたので
そっちにのっかったらしい。 敵の名は宮本武蔵、という小説が面白かったんだけど
ネットで感想をあさっていたら
「吉川英治の宮本武蔵は作られた英雄像でしかない。
本書で真実の宮本武蔵を知ることができた」
みたいなのがけっこう多くて草生える。
いや、ベクトルが違うだけで、どっちも創作だし。
むしろ、敵の名は宮本武蔵、の方が伝奇色濃いめだし。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
EN44T 武蔵は端境期の人だな
武蔵以前の世代は実戦で活躍して
以後の世代は武術を教えることを仕事にした 五輪書と播磨鑑を信じて、太子町の宮本村説がいいなぁ
美作説の東作誌は、作者が胡散臭い感じがする。
高砂説はもはや根拠すらないんじゃない? 高砂説の根拠は宮本家の家系図から、
武蔵が伊織の伯父であると書かれているのくらいしか資料ないんじゃないかな。
あれはどうも後世に適当に作られたものっぽい。
播磨鑑を信じるのなら、少なくとも播磨鑑が書かれた当時には武蔵と伊織に親戚関係があった
という伝承は田原家にはなかったみたいね。
東作誌はアレだな、世間的には知られてない伝承を聞いて舞い上がってる素人郷土史家みたいな感じ。
資料をまとめているうちに幾分か冷静になって伝承に整合性がないと疑義を述べているのが微笑ましい。
そういえば美作説だけど、あそこに宮本村ができたのは確かに武蔵の死後だけど、
武蔵の生前にもすでに宮本とついてたと主張している記事があった。
確かになんかあるみたいだけど、その資料にも美作と書かれていて、
どうして武蔵はここを播磨国と書いたのかという疑問は深まるばかり。
確かに播磨にほど近くはあるんだが。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
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OND 597 人間七七四年[] 2018/11/17(土) 00:55:03.77 ID:12BHW4Sj
宮本武蔵、は存在していない
証拠もある ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています