【貴族】保元・平治・治承の動乱【没落】
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大河スレが、王家の話で持ちきりなので
この時期に関する話題を話すスレとして建てました。
>>196
日本は韓国に技術供与する決まりになっている。半導体なんかがそうだな。 >>196
まあ、威張り腐ってた連中からしたら頭にくるだろうな この時代の合戦って本当に名乗りあって一騎打ちしてたの?
これより100年前の後三年の役は普通に集団戦やってたし
逆に100年後の元寇も近年では一騎打ちやってたという説は否定されてるけど。 >>199
一騎討ち「も」やった、ではないかと。
矢合わせと呼ばれる行為は、単なる開戦儀式じゃなく射撃戦だろうし
当然集団での撃ち合いに一騎討ちもへったくれもない。
で、互いの矢を突破した者同士は時に乱戦し、たまには一騎討ちになるってとこじゃないかと。 >>200
なるほど。
確かに平家物語や吾妻鏡なんかではそんな感じだね。
ただ、保元物語や平治物語だと名乗りあったり
個人の武勇が主体に描かれてる印象だったからどうだったのかなあと。
夜討ちかけてるのに「ここを守ってるのは誰だ?俺は○○だ」とか
「俺は先祖が○○の××だ」とか悠長なこと本当にしてたのかなあと。 >>201
それはいくつかの要素を想像しちゃいますね。
一つは物語の脚色である可能性。もう一つは投降勧告の可能性。
保元の乱は、市街地で大きな建物に立てこもる相手との戦闘です。
現代の立てこもり犯人に対する対応を参考にすると。
「ああ、こちら帝の命でによりやってきた源義朝である。北殿に立てこもる者たち、直ちに投降しなさい」
「おお、兄者か。こちらは院に従う。投降はしない」
「しゃあないな。じゃあ、全軍攻撃」
なんてのが「名乗り合い」の実態だったのかも。 テレビや映画だって刀を片手でヒラヒラと振り回すけどあんなに軽くはない。
文学的演出というもんでしょう。
忠臣蔵とか寝込みを襲うのに山鹿流の陣太鼓とかおかしいでしょ。 >>202
保元の乱は合戦というよりさながらクーデターの色合いが強いから確かに後者は有り得るかもw 保元の乱の夜討ちは奇襲じゃないだろ。
夜討ちを行ったなら月明かりも相当あったはずだから歴戦の兵がいるなら
夜討ちを警戒してるよ。新月では必ずない。
そもそもこの時代馬印ないわけだからそこに誰がいるかわからない。
名乗りあったと考えたほうが自然。他人の名前を聞く前に名乗るのが礼儀だから
まず自分の名乗りを言ってると考えられる。 じゃあ同じように馬印が無かった奈良時代〜後三年の役や
源平以降〜室町時代はなんで名乗りあってないの?っと。 在日の1です。
●ハングルを普及してくれたのは日本の植民地政策のおかげです。
●シナから独立させてくれたのは日本なのです。
●植民地時代、鉄道も病院もインフラを整備してくれたのは日本人です。
●その上、戦後、賠償金として多額のお金までもらいました。
●在日は不法入国なのに強制送還されるどころか永住権のプレゼントもどうもです。SBの損マサヨシも不法入国者の一族です。
●日本人を罵倒する。これ韓国人の常識です。中華思想に従わず、天皇制で自主独立体制を確立した日本は野蛮人の国なのです。儒教国(中国と韓国)以外は野蛮人これが中華思想です。
●あらゆる分野で日本の後塵を拝しているのが韓国です。したがって歴史だけでも優位に立とうと、歴史を歪曲し有利なように捏造して反日教育をしてきました。
●靖国問題や教科書問題、従軍慰安婦など、日本人が相手にすると付け上がって徹底的に反抗してくるのが小中華の韓国なのです。
●現在マスコミは我々在日が組織的に同胞を送り込み、オウム信者がテレビ局員に多数存在したように、報道をコントロールしているのです。
●六本木はもとより、赤坂に続いてお台場までも乗っ取り、汐留ももう終わりでしょう。
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宗主国日本のみなさん 'ニ===⊂⊃=} {=⊂⊃=}
朝鮮半島を近代化して  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄
くれてありがとうございます。 RPGみたいなキャラクターデザイン(笑)
我慢して観ると行動がチグハグで人物造型もめちゃくちゃ >>206
wikiによると7月10日だから新月ではないな >>206
100年後の元寇の時は竹崎季長みたいな下級の武士にも
自分の旗持ちがいたけど(蒙古襲来絵詞の注釈でそいつの馬が射殺されたと書かれてる)
この時代はどうだったんだろうか? 竹崎は下級御家人かも知れんが、下級武士は言い過ぎではないかな そりゃ、主従5騎ってくらいだから伍長クラスじゃね? >>213
武士が家紋を重要視するのは鎌倉以降です。
確か元寇の時、鏑矢を射掛けたら元軍は大笑いしたらしい。 一方で高麗史包茎伝には高麗軍が壱岐を攻めた際に金包茎さんが鏑矢を射たって記述があるんだが。 藤原季行夫妻 九条兼実の乳母
息子 九条兼実の男色相手
娘1 九条兼実の妻
娘2 九条兼実の妻
ある種のマザコン? 同じ名乗りにしても、保元物語と平家物語とでは毛色が異なるな。 ,. '" _,,. -…; ヽ
(i'"((´ __ 〈 }
|__ r=_ニニ`ヽfハ } 本意を遂ぐ
ヾ|! ┴’ }|トi } 喜ぶべし♪
|! ,,_ {' }
「´r__ァ ./ 彡ハ、
ヽ ‐' / "'ヽ
ヽ__,.. ' / ヽ.
/⌒`  ̄ ` ヽ\
/ i ヽ 確か保元物語って写本しか残ってなかったよな
誤記とか結構ありそうだな アメリカの博物館に現物あったと思う。いや、江戸時代政か。
まぁ完全に
保元の始まりが朝善あたりになるなら、
その後見にして、よりとも後見にして、リーダーの上総、千葉の話であると。
そもそもほぼ日本史なんてのは
むしろ
千葉、上総あたりがどうしてたか?が戦国までの500年の歴史である。 しいていえば、
奥州征伐
よりとも暗殺
合議制
までがほぼ千葉、上総の歴史
そこから承久 ご成敗式目は北条と武士の歴史
そこから南北騒乱までも千葉、はたやまの歴史 むしろ足利は何したんだよ。マジ迷惑だろ足利 こんじょう天皇だけだろ
そこから戦国のはじまりまで千葉、 宗の歴史 で、俗説デマゴーグがうそで、
天皇システムはもはやもう初期段階、たぶんはくすきのえの敗退から渤海くらいから、もう限界がみえていた。
もはや12世紀はいつ解体するかすんでの状況である。
そこで、坂東の筆頭、上総、千葉のグループがもう没落貴族の源義朝を後見にすえ、もはや傘下として利用し始め
保元後に、もう奥州征伐までの主流上総、千葉などが(義朝を後見にした子息)が15程度のよりともの元服をはじめるあたりから始まるんだろ。
そして奥州征伐くらいまではいいんだが、ようはもう反旗、謀叛、独断多く、やくにたたないよりともうざくて、
しかも天皇廃止ようとする最中に、天皇組んで 藤原になろうとしたので、討った。
そして天皇と違う、合議制を作成する。
までがいわば一代記
そこから承久までが、北条と武士 そして坂東対大和の第二次戦争 朝鮮人、日本語覚えてから来いよ。ハングルばっか書いてるから漢字がダメじゃねえかw, 一応九州での活躍はやってたぜ
鳥羽院の荘園を侵略して父為義が解官されてた あれ、そうだっけ?でも今後の展開には絡んで来ないし、出番は無い。 崇徳上皇が祖父のせいで可哀相です。
宗教、新ビジネス、歴史を作ろう!語ろう!掲示板に
是非お遊びに来て下さい!
http://jbbs.livedoor.jp/study/8576/
清盛が京に戻る迄に、さっさと六波羅に火を射かけて
襲撃しなかったのは何故なんです?
六波羅に残っていた兵力が源氏勢の兵力を
上回っていたとか??素人質問ですみません そもそも清盛と戦う気が無かったってどっかで見た記憶がある
>>236
クーデターの首謀者である信頼嫡子の正室は清盛の娘であり、信頼と清盛は姻戚関係にあったことから、
信頼は清盛がクーデター側に味方すると信じていたらしい。
清盛入京まで、一切平氏方の邸を攻めるようなことはしていない。
清盛は後白河と二条を手中に収めるまで信頼の気を逆なでないよう細心に事を運んでおり、
信頼は事態に全く気付いてなかった。 この程度のバカに焚きつけられて荷担した義朝って何なんだよ。
息子の頼朝の冷徹な現実感覚と比較するとトホホな親父だったのか? >>244
命乞いされなけりゃヌッコロだろw
そりゃ冷徹な判断力ついて不思議じゃないわw ドラマの信頼はバカだけど、実際は違うから元木せんせの本でも読んで
おくとわかりやすい。 義朝はライバルの清盛を叩いておかないと邪魔と思わなかったのかな。 朝長
1159/2 従五位下中宮(権)少進([女朱]子内親王<父・鳥羽院、母・美福門院>)
頼朝
1158/2 皇后宮権少進(統子内親王<父・鳥羽院、母・待賢門院>)
1159/2 内親王の院号宣下に伴ない上西門院蔵人
1159/10 蔵人
1159/12 従五位下右兵衛権佐
中宮権大夫 信頼 中宮権亮 宗家
皇后宮権大夫 信頼 皇后宮権亮 実守 義朝ー清盛がライバル設定なのはドラマ用。
ってこここは日本史イタだよな。 >>248
義朝と清盛は保元の乱で一緒に戦ってるしライバルではないのだが。
義朝より清盛の官位が高いのは保元の乱以前からで、
信西の不当恩賞により差がついたわけでもなんでもない。
義朝が源氏の棟梁だったかも疑わしいところ。
義朝クラスの源氏は大勢いて、義朝だけが源氏の中で突出した存在ではなかった。 >>251
じゃあその嫡男で流人の頼朝に板東武者達が従ったのは何故? 清盛がやりすぎたと思うな
保元の乱の後始末が強引すぎたのもある
清和源氏の武家集団はあれで完全に怒ったんではないだろうか
後、自分達が結構力を持っている事に気付いた
支離滅裂、その時々自分勝手の都合しか考えない後鳥羽上皇
になぜ従う必要があると、誰しも思うわな
あの勝手きわまるキャラクターだから
何せ清盛には白川上皇の子?
そんな話もあるだろ、源氏としたら
よけいにおもろくなかったんでないか
ゆえに謀反の火が一気加勢に広がったとみるね
もっと保元の乱の事後処置を穏やかに済ませとけば
結果は違っていた気がするね 清盛は保元の乱終結時には公卿ですらないじゃないか。
処分を決めたのは清盛なんかじゃないよ。 >>252
えっ、頼朝を真面目に担ぐ気があったのは北条・佐々木・三浦くらいだろ?
千葉・上総なんて、佐竹を倒すための看板に利用するのが本当の目的だし。
畠山あたりなんて敗北間際で寝返ったじゃないか。 何これ?
127. 名無しさん
2012年07月03日 23:04 ID:IrWzXgrE0
霧島 鹿島 日光 霞ヶ関 アメノコヤネの正体
スカイツリーはカラクニダケ
http://oo77986455645.wordpress.com/ >>252
東国はもともと朝廷に反抗する土壌があった
担ぎ上げる人物は頼朝でなくても誰でも良かったんだよ
平氏の平将門を担いだ時もあったし
源氏3代が滅んだのに摂家将軍や親王将軍担いでたし 摂家や親王将軍は朝廷と仲良くするってことなんだけどね。 >>251
そうすると後三年の役を共に戦った源義家と藤原清衡もライバルではないと?
では何故頼朝は奥州藤原氏を滅ぼしたのか? 誰も清盛が保元の乱の事後処置をしたなんて言ってないよ
進言したのは信西さ、ただそこいらからやりすぎた
鹿ケ谷の陰謀なんて清盛のたくらみだろ
保元の乱がでも分岐点の事件ではなかったかって
そこで公家ではないとの、武士の気概が坂東武者に生まれたのではないかって思うんだ
清盛は平治の乱、鹿ケ谷の陰謀くぐりぬけて後白河院の信任を得て
平家全盛時代を築いた。それでもだよ、ふたつの武家集団の道が分かれたのはまさしく
保元の乱ではなかっただろうかって
奥州藤原の巨大武家政権が怖かった
それと義経をかばった、これは後白河が裁可を与えている一件であるわけで
あんまり差し出したどうたらは関係なかったのかも
滅ぼす絶好のタイミングで攻めただけだっただろう >>258
鎌倉幕府は摂家将軍や親王将軍が成人すると都に送り返してたし
朝廷の意に従って「仲良くやってた」とは思えないけどね。 >>262
でもさ、鎌倉時代の遺跡が発掘されて京都の模倣した
あれこれが出てきたそうで。言われて町つくりからそのようで
なんだかんだ言っても京都模倣しようとしたのかって。
やっぱり本格的な武家政権は江戸時代の徳川家康
からだな 徳川だって京都を模範としている所はあるだろw
寛永寺は比叡山に見立ててるんだろ いや、何か初めて質実剛健の武家政権を鎌倉幕府がこだわって具現したとの幻想を持っていて
世界史版でおせえてもらってそうだった!
模倣文化かあ、やっぱ所詮日本の中心は京都にありか >>262
そりゃ建前と本音でつきあうのが大人だわさ。
京の模倣ってのは、単に京から職人をよんだだけ、ってのも
あるだろうけどね。
いくら真似しようとしても、どうしても田舎の未熟さ
荒々しさが出るだろうし、鎌倉はあまり
模倣とは思わないけどな。
抽象的な話だけど。 『海道記』
抑相模国鎌倉郡ハ、下界ノ鹿渋苑、天朝ノ築塩洲也。
武将ノ林ヲナス、万栄ノ花万ニヒラケ、勇士ノ道ニ昌ヘタリ、
百歩ノ柳百タヒ中ル。
弓ハ暁ノ月ニ似タリ、一張ソハタチテ胸ヲ照ラシ、
剣ハ秋ノ霜ノ如シ、三尺タレテ腰ススシ。
勝闘ノ一陣ニハ爪ヲ楯ニシテ寇ヲ此ニ伏ス。
猛蒙ノ三兵ハ手ニシタカへテ互ニ雄称ス。
干戈威厳シテ梟鳥敢テカケラス。
誅戮罪キヒシクシテ虎狼永ク絶タリ。
此故ニ一朝の春ノ梢ハ東風ニアフカレテ恵ヲマシ、
四海ノ潮ノ音ハ東日ニ照サレテ波ヲ澄セリ。
貴賤臣妾ノ往還スル多駅ノ道隣ヲシメ、
朝儀国務ノ理乱ハ万諸ノ機カタカタニ織ナス。 わざわざ清盛不在時にクーデター起こしておきながら
清盛を警戒しないってのはアホだろ >>268
×わざわざ清盛不在時に
◯たまたま清盛不在時に >>263
東国武士は喧嘩は強くても無教養だもん、
鎌倉幕府も都から公家を呼んで政治機構作らせてただろ
政治的には朝廷から独立して朝廷に対して強い態度に出たことと
京の文化を取り入れたことは矛盾しない
それに徳川幕府は歴代将軍の正装が武家の正装かみしも姿じゃなくて
公家が朝廷へ出勤するときの正装である束帯姿なんだよ
歴代将軍御影はすべて公家装束の束帯姿で描かれてある
それを言うなら徳川幕府も朝廷の模倣なのであって >>251
先週の放送でも頼朝より位が上の光保が家来扱いだし 世界史版で遊んでた。何か思わぬ専門家がいるよな
色々教えられるぜ
江戸の町は五行思想にのっとって天海が設計した
とくに京都を模したとも思えねえし
比叡山は天海が永年修業した処だしな
いいや、俺の好きな食と酒、嗜好の●●とかいう
世間話の華開くスレ。何かこのところ江戸時代の話題が多かったな
いやだから京都の鬼門を守る比叡山の役目を東叡山寛永寺に負わせてるのは明らかじゃん。
東叡山って山号は東の比叡山だろ。
五行思想ってのはよく判らん。普通は四神相応じゃないのか? そういや「水夫を撃つのはルール違反だが義経はそれを無視したから勝った」なんて俗説はどっから広まったんだ?
平家物語や源平盛衰記ですら水夫撃つのはルール違反なんて書かれてないのに >>274
あそこは世界史板でも結構活発なスレの1つだからな >>278
江戸時代の常識を勝手に過去に遡らせた武家故実の学者かも知れないぞ。 >>245
清盛が董卓で、信頼が何進つぅイメージでいたので
義朝はどっちかつと丁原ぽいけど
信頼・・・淘汰区
吉平・・・慮歩
清盛・・・曹操
良知・・・炎症
頼朝・・・斯波援
法より・・・当該
義経・・・紹介
被で平・・・孫権
より政・・・劉備
三国志の俳優は馬上戦闘しまくりなのに日本の大根役者ときたら 大河でもほんの数年前まではちゃんと馬に乗ってたのにな。
太平記の真田広之とか北条時宗の和泉元彌は騎射までやったのに。 ああクソ演出だから徒歩で戦ってんのかと思ったが、役者がまともに馬にのれないからだったかw >>282
三国志の時代には鐙も青龍偃月刀も無かったけどな。 >>275
四神相応つうの、風水の五行思想、陰陽道つうの
やっぱ高僧ともなればそこいらに通じていたかな、天海だけど
江戸の町はそこいらを考えてこさえられたのは衆知の事実もあんまりつっこまれてもだな
俺もよく知らね
何じゃそら?四神は古代中国で四方を守る四つの神。玄武、白虎、青龍、朱雀。
風水上、都市を築くのにふさわしい土地は四神に守られているとして四神相応と言う。
四神は五行説よりも古い。東西南北で四つにしかならないから、五行説に取り込むにあたって
中央を五つ目とした。季節も四つしかないから季節の変わり目に土用を作った。
五行説は割と無理矢理である。 すいませんでした。五行思想、陰陽道、四神相応を混在一体していました
別のものだったのですか?
四神相応が元々だったんですね、安倍清明、平安時代を調べたことがありました
何せものを知らない癖にあちゃこちゃ手を出す…
すべてイコール位思っていたかなあ、ムズカシイですね、古代思想という奴ですよね
風水、五行思想、四神相応、東西南北+中央、春夏秋冬+土用、これが五行説ですか?
もうひとつ聞いていいですか
天海が江戸の町をつくった発想は風水ですよね
で、五行思想ですか、陰陽道ですか、四神相応ですか?
天海=明智光秀説があるんですが、もしそうだとすると
明智光秀に比叡山門徒の信望を集める実力が内在していたってことですよね?
土台、高僧と風水との関連ですが、ふつうに知っているものなのでしょうか? ↑
>天海=明智光秀説
これは説というより珍説、いやネタの世界であって、口に出すのも恥ずかしいレベル
で、江戸の町が風水云々の話だが、江戸の町のごく一部に縁起を担ぐ要素があったにせよ、
そんなのが町づくりの根本思想であったとする根拠はない
そもそも寛永寺がつくられたのはその名のとおり、寛永年間。江戸の町がつくられ始めてずいぶんたってから
ようするにお気に入りの坊主が寺を欲しがっていたから、寺があるにふさわしい鬼門の地を与えた、ってだけの話
そら江戸の町が作られたのは徳川の世になる前、厳密に言えば豊臣秀吉存命中に開始されている
そのため戦国大名の城作りそのままに、坂が多い・道が入り組みぐるぐる回転している
など攻められにくいことを第一条件に防御を前提に作られている
江戸の町が将軍のお膝元として認知されだしたのは家光の時代からだろうが
家康・秀忠時代の戦国大名の城作りでできた町は大きく変化することはなく幕末まで残った
そうなんですか!
風水で江戸の町をこさえたって話を信じちゃって
鬼門の地に寛永年間に寺を建設しただけでしたか
確かに明智光秀説ですけれど、天海は比叡山門徒の心服させたにはそれ相応の何らかが過去にあったと思えますし
明智光秀って話は無理がありますよね
そう思ったんです、話としては面白い止まりで。ちょっとねえ >>288
えーとですね。色々ややこしくて俺もちゃんと理解してる訳ではないんですが、おおよそ五行説が他の
要素をあれもこれも取り込んで最終的に陰陽説と合体して陰陽五行説になりました。
四方を守る四神は元々は五行説とは関係ありません。五行説だったら五神にしているところです。
キトラ古墳の石室の壁画の青龍とか白虎とか、あれが四神です。四神はそれぞれ決まった色があります。
玄(黒)、白、青、朱(赤)です。方角も決まっています。
五行説は全てを五つの要素で説明しようとする思想です。四方では一つ足りないから中央を足す。
色は黄です。五行では土なので季節では土用となりました。
陰陽説は全てを陰と陽のバランスで説明しようとする思想です。五行説と合体した結果、十干が五行の
陰と陽で説明されるようになりました。例えば甲は「きのえ」(木の兄)、乙は「きのと」(木の弟)であり、兄は陽であり
弟は陰です。十干自体は殷の時代からあって、元々は五行とも陰陽とも関係ないものです。
風水は陰陽五行説に基づいてると思います。風水の用語として都市を建設するのにふさわしい場所を
四神相応の土地とか四神相応に適っているとか、言う訳です。用語としては比較的あとになるものと思います。
特に日本のそれはwikipediaによると江戸時代以降のものらしいです。(何ですと!?) >>294
お教えを大感謝いたします
安倍清明に手をだしたはいい、陰陽道を知らず!
江戸期の話を持ってきて、ひたすら調べまくっても如何せん己の脳みそがお粗末…
いったい平安時代の陰陽師に思想的土台は何だったのか
お教えを今後にいかしたく存じます
心より御礼申し上げます 頼朝が嫡男だったかも怪しいもんだよねえ
平治の乱の臨時除目で頼朝が従五位下になったのだって
朝長を従五位上や正五位下にするよりハードルが低かったからでしょ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています