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【貴族】保元・平治・治承の動乱【没落】
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0001日本@名無史さん
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2012/03/08(木) 01:09:47.65
大河スレが、王家の話で持ちきりなので
この時期に関する話題を話すスレとして建てました。
0214日本@名無史さん
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2012/06/09(土) 12:11:25.84
竹崎は下級御家人かも知れんが、下級武士は言い過ぎではないかな
0215日本@名無史さん
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2012/06/09(土) 12:26:17.51
竹崎て兵隊の位で言うたら陸軍大尉ドノ位?
0216日本@名無史さん
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2012/06/09(土) 12:32:27.21
そりゃ、主従5騎ってくらいだから伍長クラスじゃね?
0217日本@名無史さん
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2012/06/09(土) 13:59:09.54
>>213
武士が家紋を重要視するのは鎌倉以降です。
確か元寇の時、鏑矢を射掛けたら元軍は大笑いしたらしい。
0218日本@名無史さん
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2012/06/09(土) 14:33:42.33
一方で高麗史包茎伝には高麗軍が壱岐を攻めた際に金包茎さんが鏑矢を射たって記述があるんだが。
0219日本@名無史さん
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2012/06/09(土) 14:37:47.06
包茎伝ってなに?
0220日本@名無史さん
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2012/06/10(日) 00:21:29.98
藤原季行夫妻 九条兼実の乳母
息子 九条兼実の男色相手
娘1 九条兼実の妻
娘2 九条兼実の妻

ある種のマザコン?
0221日本@名無史さん
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2012/06/10(日) 12:21:29.27
同じ名乗りにしても、保元物語と平家物語とでは毛色が異なるな。
0222日本@名無史さん
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2012/06/10(日) 18:52:54.98
遊びをせんとや生まれける♪
0223日本@名無史さん
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2012/06/11(月) 07:54:54.94
  ,. '" _,,. -…;   ヽ
  (i'"((´  __ 〈    }
  |__ r=_ニニ`ヽfハ  } 本意を遂ぐ
  ヾ|!   ┴’  }|トi  } 喜ぶべし♪
    |! ,,_      {'  }
   「´r__ァ   ./ 彡ハ、
    ヽ ‐'  /   "'ヽ
     ヽ__,.. ' /     ヽ.
     /⌒`  ̄ `    ヽ\
    /           i ヽ
0224日本@名無史さん
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2012/06/18(月) 04:24:50.23
確か保元物語って写本しか残ってなかったよな
誤記とか結構ありそうだな
0225日本@名無史さん
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2012/06/20(水) 13:01:27.90
アメリカの博物館に現物あったと思う。いや、江戸時代政か。


まぁ完全に
保元の始まりが朝善あたりになるなら、

その後見にして、よりとも後見にして、リーダーの上総、千葉の話であると。
そもそもほぼ日本史なんてのは

むしろ
千葉、上総あたりがどうしてたか?が戦国までの500年の歴史である。
0226日本@名無史さん
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2012/06/20(水) 13:13:24.02
しいていえば、

奥州征伐  
よりとも暗殺
合議制

までがほぼ千葉、上総の歴史
そこから承久 ご成敗式目は北条と武士の歴史
そこから南北騒乱までも千葉、はたやまの歴史 むしろ足利は何したんだよ。マジ迷惑だろ足利 こんじょう天皇だけだろ
そこから戦国のはじまりまで千葉、 宗の歴史
0227日本@名無史さん
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2012/06/20(水) 13:24:19.71
で、俗説デマゴーグがうそで、
天皇システムはもはやもう初期段階、たぶんはくすきのえの敗退から渤海くらいから、もう限界がみえていた。
もはや12世紀はいつ解体するかすんでの状況である。
そこで、坂東の筆頭、上総、千葉のグループがもう没落貴族の源義朝を後見にすえ、もはや傘下として利用し始め
保元後に、もう奥州征伐までの主流上総、千葉などが(義朝を後見にした子息)が15程度のよりともの元服をはじめるあたりから始まるんだろ。

そして奥州征伐くらいまではいいんだが、ようはもう反旗、謀叛、独断多く、やくにたたないよりともうざくて、
しかも天皇廃止ようとする最中に、天皇組んで 藤原になろうとしたので、討った。

そして天皇と違う、合議制を作成する。
までがいわば一代記

そこから承久までが、北条と武士 そして坂東対大和の第二次戦争
0228日本@名無史さん
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2012/06/25(月) 09:28:48.08
日本語が不自由だなぁ・・・
0229日本@名無史さん
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2012/06/26(火) 01:08:31.63
朝鮮人、日本語覚えてから来いよ。ハングルばっか書いてるから漢字がダメじゃねえかw,
0230日本@名無史さん
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2012/06/27(水) 21:36:34.43
源為朝の島流しは
放送されないのか?
0232日本@名無史さん
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2012/06/27(水) 23:54:15.32
一応九州での活躍はやってたぜ
鳥羽院の荘園を侵略して父為義が解官されてた
0233日本@名無史さん
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2012/06/28(木) 00:09:15.58
あれ、そうだっけ?でも今後の展開には絡んで来ないし、出番は無い。
0234蘇我入鹿
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2012/06/28(木) 00:29:07.39
崇徳上皇が祖父のせいで可哀相です。

宗教、新ビジネス、歴史を作ろう!語ろう!掲示板に
是非お遊びに来て下さい!

http://jbbs.livedoor.jp/study/8576/


0236日本@名無史さん
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2012/07/04(水) 22:51:37.50
清盛が京に戻る迄に、さっさと六波羅に火を射かけて
襲撃しなかったのは何故なんです?

六波羅に残っていた兵力が源氏勢の兵力を
上回っていたとか??素人質問ですみません
0237日本@名無史さん
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2012/07/04(水) 23:07:12.38
そもそも清盛と戦う気が無かったってどっかで見た記憶がある
0238日本@名無史さん
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2012/07/04(水) 23:42:03.45
>>236
クーデターの首謀者である信頼嫡子の正室は清盛の娘であり、信頼と清盛は姻戚関係にあったことから、
信頼は清盛がクーデター側に味方すると信じていたらしい。
清盛入京まで、一切平氏方の邸を攻めるようなことはしていない。
清盛は後白河と二条を手中に収めるまで信頼の気を逆なでないよう細心に事を運んでおり、
信頼は事態に全く気付いてなかった。
0241日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/05(木) 09:50:46.34
叔父子でこれだけネットでヒットする崇徳帝哀れ
0243日本@名無史さん
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2012/07/05(木) 18:05:44.15
>>238
日本一の不覚人だな
0244日本@名無史さん
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2012/07/05(木) 19:28:19.79
この程度のバカに焚きつけられて荷担した義朝って何なんだよ。
息子の頼朝の冷徹な現実感覚と比較するとトホホな親父だったのか?
0246日本@名無史さん
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2012/07/05(木) 20:05:36.71
>>244
命乞いされなけりゃヌッコロだろw
そりゃ冷徹な判断力ついて不思議じゃないわw
0247日本@名無史さん
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2012/07/05(木) 22:07:28.12
ドラマの信頼はバカだけど、実際は違うから元木せんせの本でも読んで
おくとわかりやすい。
0248日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/05(木) 23:47:43.96
義朝はライバルの清盛を叩いておかないと邪魔と思わなかったのかな。
0249日本@名無史さん
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2012/07/06(金) 00:24:37.79
朝長
1159/2 従五位下中宮(権)少進([女朱]子内親王<父・鳥羽院、母・美福門院>)

頼朝
1158/2 皇后宮権少進(統子内親王<父・鳥羽院、母・待賢門院>)
1159/2 内親王の院号宣下に伴ない上西門院蔵人
1159/10 蔵人
1159/12 従五位下右兵衛権佐

中宮権大夫 信頼 中宮権亮 宗家
皇后宮権大夫 信頼 皇后宮権亮 実守
0250日本@名無史さん
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2012/07/06(金) 12:02:26.67
義朝ー清盛がライバル設定なのはドラマ用。
ってこここは日本史イタだよな。
0251日本@名無史さん
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2012/07/06(金) 17:22:26.51
>>248
義朝と清盛は保元の乱で一緒に戦ってるしライバルではないのだが。
義朝より清盛の官位が高いのは保元の乱以前からで、
信西の不当恩賞により差がついたわけでもなんでもない。
義朝が源氏の棟梁だったかも疑わしいところ。
義朝クラスの源氏は大勢いて、義朝だけが源氏の中で突出した存在ではなかった。
0253日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/06(金) 18:40:23.78
清盛がやりすぎたと思うな
保元の乱の後始末が強引すぎたのもある
清和源氏の武家集団はあれで完全に怒ったんではないだろうか
後、自分達が結構力を持っている事に気付いた
支離滅裂、その時々自分勝手の都合しか考えない後鳥羽上皇
になぜ従う必要があると、誰しも思うわな
あの勝手きわまるキャラクターだから
何せ清盛には白川上皇の子?
そんな話もあるだろ、源氏としたら
よけいにおもろくなかったんでないか
ゆえに謀反の火が一気加勢に広がったとみるね
もっと保元の乱の事後処置を穏やかに済ませとけば
結果は違っていた気がするね
0254日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/06(金) 19:14:36.15
清盛は保元の乱終結時には公卿ですらないじゃないか。
処分を決めたのは清盛なんかじゃないよ。
0255日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/06(金) 21:01:28.58
>>252
えっ、頼朝を真面目に担ぐ気があったのは北条・佐々木・三浦くらいだろ?
千葉・上総なんて、佐竹を倒すための看板に利用するのが本当の目的だし。
畠山あたりなんて敗北間際で寝返ったじゃないか。
0256日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/06(金) 21:47:10.95
何これ?

127. 名無しさん
2012年07月03日 23:04 ID:IrWzXgrE0
霧島 鹿島 日光 霞ヶ関 アメノコヤネの正体

スカイツリーはカラクニダケ

http://oo77986455645.wordpress.com/
0257日本@名無史さん
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2012/07/06(金) 22:33:04.10
>>252
東国はもともと朝廷に反抗する土壌があった
担ぎ上げる人物は頼朝でなくても誰でも良かったんだよ
平氏の平将門を担いだ時もあったし
源氏3代が滅んだのに摂家将軍や親王将軍担いでたし
0258日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/06(金) 22:34:07.96
摂家や親王将軍は朝廷と仲良くするってことなんだけどね。
0259日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/06(金) 22:47:34.73
>>251
そうすると後三年の役を共に戦った源義家と藤原清衡もライバルではないと?
では何故頼朝は奥州藤原氏を滅ぼしたのか?
0260日本@名無史さん
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2012/07/06(金) 23:14:21.57
誰も清盛が保元の乱の事後処置をしたなんて言ってないよ
進言したのは信西さ、ただそこいらからやりすぎた
鹿ケ谷の陰謀なんて清盛のたくらみだろ
保元の乱がでも分岐点の事件ではなかったかって
そこで公家ではないとの、武士の気概が坂東武者に生まれたのではないかって思うんだ
清盛は平治の乱、鹿ケ谷の陰謀くぐりぬけて後白河院の信任を得て
平家全盛時代を築いた。それでもだよ、ふたつの武家集団の道が分かれたのはまさしく
保元の乱ではなかっただろうかって


0261日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/06(金) 23:23:27.17
奥州藤原の巨大武家政権が怖かった
それと義経をかばった、これは後白河が裁可を与えている一件であるわけで
あんまり差し出したどうたらは関係なかったのかも
滅ぼす絶好のタイミングで攻めただけだっただろう
0262日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/06(金) 23:23:54.23
>>258
鎌倉幕府は摂家将軍や親王将軍が成人すると都に送り返してたし
朝廷の意に従って「仲良くやってた」とは思えないけどね。
0263日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/06(金) 23:30:17.60
>>262
でもさ、鎌倉時代の遺跡が発掘されて京都の模倣した
あれこれが出てきたそうで。言われて町つくりからそのようで
なんだかんだ言っても京都模倣しようとしたのかって。
やっぱり本格的な武家政権は江戸時代の徳川家康
からだな
0264日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/07(土) 00:21:12.36
徳川だって京都を模範としている所はあるだろw
寛永寺は比叡山に見立ててるんだろ
0265日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/07(土) 00:34:32.60
いや、何か初めて質実剛健の武家政権を鎌倉幕府がこだわって具現したとの幻想を持っていて
世界史版でおせえてもらってそうだった!
模倣文化かあ、やっぱ所詮日本の中心は京都にありか
0266日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/07(土) 03:16:37.02
>>262
そりゃ建前と本音でつきあうのが大人だわさ。

京の模倣ってのは、単に京から職人をよんだだけ、ってのも
あるだろうけどね。
いくら真似しようとしても、どうしても田舎の未熟さ
荒々しさが出るだろうし、鎌倉はあまり
模倣とは思わないけどな。
抽象的な話だけど。
0267日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/07(土) 07:07:24.87
『海道記』

抑相模国鎌倉郡ハ、下界ノ鹿渋苑、天朝ノ築塩洲也。
武将ノ林ヲナス、万栄ノ花万ニヒラケ、勇士ノ道ニ昌ヘタリ、
百歩ノ柳百タヒ中ル。
弓ハ暁ノ月ニ似タリ、一張ソハタチテ胸ヲ照ラシ、
剣ハ秋ノ霜ノ如シ、三尺タレテ腰ススシ。
勝闘ノ一陣ニハ爪ヲ楯ニシテ寇ヲ此ニ伏ス。
猛蒙ノ三兵ハ手ニシタカへテ互ニ雄称ス。
干戈威厳シテ梟鳥敢テカケラス。
誅戮罪キヒシクシテ虎狼永ク絶タリ。
此故ニ一朝の春ノ梢ハ東風ニアフカレテ恵ヲマシ、
四海ノ潮ノ音ハ東日ニ照サレテ波ヲ澄セリ。
貴賤臣妾ノ往還スル多駅ノ道隣ヲシメ、
朝儀国務ノ理乱ハ万諸ノ機カタカタニ織ナス。
0268日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/07(土) 07:31:55.69
わざわざ清盛不在時にクーデター起こしておきながら
清盛を警戒しないってのはアホだろ
0270日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/07(土) 11:18:43.50
>>263
東国武士は喧嘩は強くても無教養だもん、
鎌倉幕府も都から公家を呼んで政治機構作らせてただろ
政治的には朝廷から独立して朝廷に対して強い態度に出たことと
京の文化を取り入れたことは矛盾しない

それに徳川幕府は歴代将軍の正装が武家の正装かみしも姿じゃなくて
公家が朝廷へ出勤するときの正装である束帯姿なんだよ
歴代将軍御影はすべて公家装束の束帯姿で描かれてある
それを言うなら徳川幕府も朝廷の模倣なのであって
0272日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/07(土) 19:44:46.12
世界史版で遊んでた。何か思わぬ専門家がいるよな
色々教えられるぜ

江戸の町は五行思想にのっとって天海が設計した
とくに京都を模したとも思えねえし
比叡山は天海が永年修業した処だしな

0274日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/07(土) 20:59:14.95
いいや、俺の好きな食と酒、嗜好の●●とかいう
世間話の華開くスレ。何かこのところ江戸時代の話題が多かったな
0275日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/07(土) 23:22:13.22
いやだから京都の鬼門を守る比叡山の役目を東叡山寛永寺に負わせてるのは明らかじゃん。
東叡山って山号は東の比叡山だろ。
五行思想ってのはよく判らん。普通は四神相応じゃないのか?
0276日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/07(土) 23:32:29.35
そういや「水夫を撃つのはルール違反だが義経はそれを無視したから勝った」なんて俗説はどっから広まったんだ?
平家物語や源平盛衰記ですら水夫撃つのはルール違反なんて書かれてないのに
0279日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/08(日) 10:12:52.03
>>278
江戸時代の常識を勝手に過去に遡らせた武家故実の学者かも知れないぞ。
0280日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/08(日) 20:07:16.47
>>245
清盛が董卓で、信頼が何進つぅイメージでいたので
義朝はどっちかつと丁原ぽいけど
0281日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/09(月) 01:36:06.74
信頼・・・淘汰区
吉平・・・慮歩
清盛・・・曹操
良知・・・炎症
頼朝・・・斯波援
法より・・・当該
義経・・・紹介
被で平・・・孫権
より政・・・劉備
0282日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/09(月) 02:16:04.72
三国志の俳優は馬上戦闘しまくりなのに日本の大根役者ときたら
0283日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/09(月) 02:35:32.90
大河でもほんの数年前まではちゃんと馬に乗ってたのにな。
太平記の真田広之とか北条時宗の和泉元彌は騎射までやったのに。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/09(月) 11:58:11.23
ああクソ演出だから徒歩で戦ってんのかと思ったが、役者がまともに馬にのれないからだったかw
0286日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/09(月) 18:05:38.62
>>275
四神相応つうの、風水の五行思想、陰陽道つうの
やっぱ高僧ともなればそこいらに通じていたかな、天海だけど
江戸の町はそこいらを考えてこさえられたのは衆知の事実もあんまりつっこまれてもだな
俺もよく知らね

0287日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/10(火) 00:12:03.75
何じゃそら?四神は古代中国で四方を守る四つの神。玄武、白虎、青龍、朱雀。
風水上、都市を築くのにふさわしい土地は四神に守られているとして四神相応と言う。

四神は五行説よりも古い。東西南北で四つにしかならないから、五行説に取り込むにあたって
中央を五つ目とした。季節も四つしかないから季節の変わり目に土用を作った。
五行説は割と無理矢理である。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/10(火) 07:59:27.51
すいませんでした。五行思想、陰陽道、四神相応を混在一体していました
別のものだったのですか?
四神相応が元々だったんですね、安倍清明、平安時代を調べたことがありました
何せものを知らない癖にあちゃこちゃ手を出す…
すべてイコール位思っていたかなあ、ムズカシイですね、古代思想という奴ですよね
風水、五行思想、四神相応、東西南北+中央、春夏秋冬+土用、これが五行説ですか?
0289日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/10(火) 08:24:14.94
もうひとつ聞いていいですか
天海が江戸の町をつくった発想は風水ですよね
で、五行思想ですか、陰陽道ですか、四神相応ですか?

天海=明智光秀説があるんですが、もしそうだとすると
明智光秀に比叡山門徒の信望を集める実力が内在していたってことですよね?
土台、高僧と風水との関連ですが、ふつうに知っているものなのでしょうか?
0290日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/10(火) 14:18:11.40

>天海=明智光秀説

これは説というより珍説、いやネタの世界であって、口に出すのも恥ずかしいレベル

で、江戸の町が風水云々の話だが、江戸の町のごく一部に縁起を担ぐ要素があったにせよ、
そんなのが町づくりの根本思想であったとする根拠はない
そもそも寛永寺がつくられたのはその名のとおり、寛永年間。江戸の町がつくられ始めてずいぶんたってから
ようするにお気に入りの坊主が寺を欲しがっていたから、寺があるにふさわしい鬼門の地を与えた、ってだけの話

0291日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/10(火) 16:29:43.99
そら江戸の町が作られたのは徳川の世になる前、厳密に言えば豊臣秀吉存命中に開始されている
そのため戦国大名の城作りそのままに、坂が多い・道が入り組みぐるぐる回転している
など攻められにくいことを第一条件に防御を前提に作られている
江戸の町が将軍のお膝元として認知されだしたのは家光の時代からだろうが
家康・秀忠時代の戦国大名の城作りでできた町は大きく変化することはなく幕末まで残った

0292日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/10(火) 17:50:37.79
そうなんですか!
風水で江戸の町をこさえたって話を信じちゃって
鬼門の地に寛永年間に寺を建設しただけでしたか

確かに明智光秀説ですけれど、天海は比叡山門徒の心服させたにはそれ相応の何らかが過去にあったと思えますし
明智光秀って話は無理がありますよね
そう思ったんです、話としては面白い止まりで。ちょっとねえ
0294日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/10(火) 18:54:08.39
>>288
えーとですね。色々ややこしくて俺もちゃんと理解してる訳ではないんですが、おおよそ五行説が他の
要素をあれもこれも取り込んで最終的に陰陽説と合体して陰陽五行説になりました。

四方を守る四神は元々は五行説とは関係ありません。五行説だったら五神にしているところです。
キトラ古墳の石室の壁画の青龍とか白虎とか、あれが四神です。四神はそれぞれ決まった色があります。
玄(黒)、白、青、朱(赤)です。方角も決まっています。
五行説は全てを五つの要素で説明しようとする思想です。四方では一つ足りないから中央を足す。
色は黄です。五行では土なので季節では土用となりました。

陰陽説は全てを陰と陽のバランスで説明しようとする思想です。五行説と合体した結果、十干が五行の
陰と陽で説明されるようになりました。例えば甲は「きのえ」(木の兄)、乙は「きのと」(木の弟)であり、兄は陽であり
弟は陰です。十干自体は殷の時代からあって、元々は五行とも陰陽とも関係ないものです。

風水は陰陽五行説に基づいてると思います。風水の用語として都市を建設するのにふさわしい場所を
四神相応の土地とか四神相応に適っているとか、言う訳です。用語としては比較的あとになるものと思います。
特に日本のそれはwikipediaによると江戸時代以降のものらしいです。(何ですと!?)
0295日本@名無史さん
垢版 |
2012/07/10(火) 20:22:44.42
>>294
お教えを大感謝いたします
安倍清明に手をだしたはいい、陰陽道を知らず!
江戸期の話を持ってきて、ひたすら調べまくっても如何せん己の脳みそがお粗末…
いったい平安時代の陰陽師に思想的土台は何だったのか
お教えを今後にいかしたく存じます
心より御礼申し上げます
0296日本@名無史さん
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2012/07/22(日) 00:37:48.67
頼朝が嫡男だったかも怪しいもんだよねえ
平治の乱の臨時除目で頼朝が従五位下になったのだって
朝長を従五位上や正五位下にするよりハードルが低かったからでしょ?
0297日本@名無史さん
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2012/07/22(日) 00:52:31.23
母が波多野氏の娘と熱田大宮司の娘という差は大きいかと
0298日本@名無史さん
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2012/07/22(日) 15:53:48.24
>>297
源頼朝は源朝長の官位を超えたことがないんだよね

平重盛と平宗盛のどちらが嫡男かというのもよく言われるけど
母親の社会的地位は平宗盛のほうが圧倒的にいい
0299日本@名無史さん
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2012/07/22(日) 16:25:12.92
>>298
逆でしょ、朝長が頼朝の官位を超えたことがない。

嫡男と長男が食い違うとお家騒動になり易い。特に長男が嫡男より
年上の場合は要注意。甚だしき例として、頼朝の嫡男は頼家と、
長男は島津忠久は1世代近く年が違う。

ちなみに、長子相続を初めてしたのが信長で、嫡男はおらず、
庶子のみだったが、その中でも生まれの悪い長子信忠をあえて
後継者にした。
0303日本@名無史さん
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2012/07/23(月) 06:58:48.20
>>299
> ちなみに、長子相続を初めてしたのが信長で

信長が始めたわけねーだろwどんなトンチキな説だよw
0306日本@名無史さん
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2012/07/28(土) 01:17:34.97
・鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』は母を波多野遠茂女とする
・室町時代の系図集『尊卑分脈』は母を修理大夫範兼女とする
・兄義平・弟頼朝に先んじて従五位下中宮少進に叙任される(数え17歳)
・平治の乱で没す
・九条院呈子の兄伊実(九条院権大夫)の妻も藤原範兼女
・藤原範兼・範季兄弟は平治の乱後、義朝の遺児範頼を養育していたといわれる

藤原範季
・1176年陸奥守になり下向
・1186年義経を匿まい頼朝の要請で解官される
・1201年建仁の乱の首謀者の一人藤原高衡を匿まう
0308日本@名無史さん
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2012/07/29(日) 17:04:35.91
>>39
元木氏は身内発言だから相当割り引いて聞いたほうがいいと
保元/平治の乱を読み直すで言ってたな

それ以上に河内説批判を何回もしてそれだけでお腹一杯感も(-_-;)
0309日本@名無史さん
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2012/07/29(日) 18:38:05.60
>>299
信忠は信長の正室濃姫の養子になってるじゃん
身分の高い正室の正式な養子になれば実母の身分などほとんど問題にならない
0310日本@名無史さん
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2012/07/29(日) 18:56:16.17
>>308
河内氏の著書は史料を駆使しながらマニア心をくすぐる新説を出してくるのが面白いんだけどね。

河内氏の説については山田邦和氏も批判的だけど、同氏の忠通に関する論文はラストの義朝酷評がぶっ飛びすぎて折角の忠通再評価の意味が……
0311日本@名無史さん
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2012/07/31(火) 01:00:22.03
義朝 1153年3月頃 従五位下
義朝 1157年1月 従五位上
義朝 1157年10月 正五位下
朝長 1159年2月頃 従五位下
義朝 1159年12月 従四位下か
頼朝 1159年12月 従五位下
0312日本@名無史さん
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2012/08/05(日) 12:00:47.49
>>298
確かに宗盛が追い上げて、鹿ケ谷以降は時間の問題だったにしても
基本的には重盛が嫡子扱いなように感じる。
そういえば、小松家の軍事力は都落ちのときに有力家人に見限られる形で
瓦解したらしいけど、重盛って死ぬまで平氏軍制の中枢にいたのだろうか。
宗盛が畿内惣官になったのは以仁王の乱の後だったはずだけど

>>300
朝時が「実朝の勘気をこうむった」から泰時が・・・という話か
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