【貴族】保元・平治・治承の動乱【没落】
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大河スレが、王家の話で持ちきりなので
この時期に関する話題を話すスレとして建てました。
世界史版で遊んでた。何か思わぬ専門家がいるよな
色々教えられるぜ
江戸の町は五行思想にのっとって天海が設計した
とくに京都を模したとも思えねえし
比叡山は天海が永年修業した処だしな
いいや、俺の好きな食と酒、嗜好の●●とかいう
世間話の華開くスレ。何かこのところ江戸時代の話題が多かったな
いやだから京都の鬼門を守る比叡山の役目を東叡山寛永寺に負わせてるのは明らかじゃん。
東叡山って山号は東の比叡山だろ。
五行思想ってのはよく判らん。普通は四神相応じゃないのか? そういや「水夫を撃つのはルール違反だが義経はそれを無視したから勝った」なんて俗説はどっから広まったんだ?
平家物語や源平盛衰記ですら水夫撃つのはルール違反なんて書かれてないのに >>274
あそこは世界史板でも結構活発なスレの1つだからな >>278
江戸時代の常識を勝手に過去に遡らせた武家故実の学者かも知れないぞ。 >>245
清盛が董卓で、信頼が何進つぅイメージでいたので
義朝はどっちかつと丁原ぽいけど
信頼・・・淘汰区
吉平・・・慮歩
清盛・・・曹操
良知・・・炎症
頼朝・・・斯波援
法より・・・当該
義経・・・紹介
被で平・・・孫権
より政・・・劉備
三国志の俳優は馬上戦闘しまくりなのに日本の大根役者ときたら 大河でもほんの数年前まではちゃんと馬に乗ってたのにな。
太平記の真田広之とか北条時宗の和泉元彌は騎射までやったのに。 ああクソ演出だから徒歩で戦ってんのかと思ったが、役者がまともに馬にのれないからだったかw >>282
三国志の時代には鐙も青龍偃月刀も無かったけどな。 >>275
四神相応つうの、風水の五行思想、陰陽道つうの
やっぱ高僧ともなればそこいらに通じていたかな、天海だけど
江戸の町はそこいらを考えてこさえられたのは衆知の事実もあんまりつっこまれてもだな
俺もよく知らね
何じゃそら?四神は古代中国で四方を守る四つの神。玄武、白虎、青龍、朱雀。
風水上、都市を築くのにふさわしい土地は四神に守られているとして四神相応と言う。
四神は五行説よりも古い。東西南北で四つにしかならないから、五行説に取り込むにあたって
中央を五つ目とした。季節も四つしかないから季節の変わり目に土用を作った。
五行説は割と無理矢理である。 すいませんでした。五行思想、陰陽道、四神相応を混在一体していました
別のものだったのですか?
四神相応が元々だったんですね、安倍清明、平安時代を調べたことがありました
何せものを知らない癖にあちゃこちゃ手を出す…
すべてイコール位思っていたかなあ、ムズカシイですね、古代思想という奴ですよね
風水、五行思想、四神相応、東西南北+中央、春夏秋冬+土用、これが五行説ですか?
もうひとつ聞いていいですか
天海が江戸の町をつくった発想は風水ですよね
で、五行思想ですか、陰陽道ですか、四神相応ですか?
天海=明智光秀説があるんですが、もしそうだとすると
明智光秀に比叡山門徒の信望を集める実力が内在していたってことですよね?
土台、高僧と風水との関連ですが、ふつうに知っているものなのでしょうか? ↑
>天海=明智光秀説
これは説というより珍説、いやネタの世界であって、口に出すのも恥ずかしいレベル
で、江戸の町が風水云々の話だが、江戸の町のごく一部に縁起を担ぐ要素があったにせよ、
そんなのが町づくりの根本思想であったとする根拠はない
そもそも寛永寺がつくられたのはその名のとおり、寛永年間。江戸の町がつくられ始めてずいぶんたってから
ようするにお気に入りの坊主が寺を欲しがっていたから、寺があるにふさわしい鬼門の地を与えた、ってだけの話
そら江戸の町が作られたのは徳川の世になる前、厳密に言えば豊臣秀吉存命中に開始されている
そのため戦国大名の城作りそのままに、坂が多い・道が入り組みぐるぐる回転している
など攻められにくいことを第一条件に防御を前提に作られている
江戸の町が将軍のお膝元として認知されだしたのは家光の時代からだろうが
家康・秀忠時代の戦国大名の城作りでできた町は大きく変化することはなく幕末まで残った
そうなんですか!
風水で江戸の町をこさえたって話を信じちゃって
鬼門の地に寛永年間に寺を建設しただけでしたか
確かに明智光秀説ですけれど、天海は比叡山門徒の心服させたにはそれ相応の何らかが過去にあったと思えますし
明智光秀って話は無理がありますよね
そう思ったんです、話としては面白い止まりで。ちょっとねえ >>288
えーとですね。色々ややこしくて俺もちゃんと理解してる訳ではないんですが、おおよそ五行説が他の
要素をあれもこれも取り込んで最終的に陰陽説と合体して陰陽五行説になりました。
四方を守る四神は元々は五行説とは関係ありません。五行説だったら五神にしているところです。
キトラ古墳の石室の壁画の青龍とか白虎とか、あれが四神です。四神はそれぞれ決まった色があります。
玄(黒)、白、青、朱(赤)です。方角も決まっています。
五行説は全てを五つの要素で説明しようとする思想です。四方では一つ足りないから中央を足す。
色は黄です。五行では土なので季節では土用となりました。
陰陽説は全てを陰と陽のバランスで説明しようとする思想です。五行説と合体した結果、十干が五行の
陰と陽で説明されるようになりました。例えば甲は「きのえ」(木の兄)、乙は「きのと」(木の弟)であり、兄は陽であり
弟は陰です。十干自体は殷の時代からあって、元々は五行とも陰陽とも関係ないものです。
風水は陰陽五行説に基づいてると思います。風水の用語として都市を建設するのにふさわしい場所を
四神相応の土地とか四神相応に適っているとか、言う訳です。用語としては比較的あとになるものと思います。
特に日本のそれはwikipediaによると江戸時代以降のものらしいです。(何ですと!?) >>294
お教えを大感謝いたします
安倍清明に手をだしたはいい、陰陽道を知らず!
江戸期の話を持ってきて、ひたすら調べまくっても如何せん己の脳みそがお粗末…
いったい平安時代の陰陽師に思想的土台は何だったのか
お教えを今後にいかしたく存じます
心より御礼申し上げます 頼朝が嫡男だったかも怪しいもんだよねえ
平治の乱の臨時除目で頼朝が従五位下になったのだって
朝長を従五位上や正五位下にするよりハードルが低かったからでしょ? 母が波多野氏の娘と熱田大宮司の娘という差は大きいかと
>>297
源頼朝は源朝長の官位を超えたことがないんだよね
平重盛と平宗盛のどちらが嫡男かというのもよく言われるけど
母親の社会的地位は平宗盛のほうが圧倒的にいい
>>298
逆でしょ、朝長が頼朝の官位を超えたことがない。
嫡男と長男が食い違うとお家騒動になり易い。特に長男が嫡男より
年上の場合は要注意。甚だしき例として、頼朝の嫡男は頼家と、
長男は島津忠久は1世代近く年が違う。
ちなみに、長子相続を初めてしたのが信長で、嫡男はおらず、
庶子のみだったが、その中でも生まれの悪い長子信忠をあえて
後継者にした。 >>299
従五位下になったのは朝長が先
>>297
藤原範兼女という説もある >>299
> ちなみに、長子相続を初めてしたのが信長で
信長が始めたわけねーだろwどんなトンチキな説だよw >>297
熱田大宮司は格は高いけど、源氏としてのメリットは全くないのだが >>299はキチガイなのか、トンデモ説で目立ちたい人なのか…
まあ、両方か ・鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』は母を波多野遠茂女とする
・室町時代の系図集『尊卑分脈』は母を修理大夫範兼女とする
・兄義平・弟頼朝に先んじて従五位下中宮少進に叙任される(数え17歳)
・平治の乱で没す
・九条院呈子の兄伊実(九条院権大夫)の妻も藤原範兼女
・藤原範兼・範季兄弟は平治の乱後、義朝の遺児範頼を養育していたといわれる
藤原範季
・1176年陸奥守になり下向
・1186年義経を匿まい頼朝の要請で解官される
・1201年建仁の乱の首謀者の一人藤原高衡を匿まう >>39
元木氏は身内発言だから相当割り引いて聞いたほうがいいと
保元/平治の乱を読み直すで言ってたな
それ以上に河内説批判を何回もしてそれだけでお腹一杯感も(-_-;) >>299
信忠は信長の正室濃姫の養子になってるじゃん
身分の高い正室の正式な養子になれば実母の身分などほとんど問題にならない >>308
河内氏の著書は史料を駆使しながらマニア心をくすぐる新説を出してくるのが面白いんだけどね。
河内氏の説については山田邦和氏も批判的だけど、同氏の忠通に関する論文はラストの義朝酷評がぶっ飛びすぎて折角の忠通再評価の意味が…… 義朝 1153年3月頃 従五位下
義朝 1157年1月 従五位上
義朝 1157年10月 正五位下
朝長 1159年2月頃 従五位下
義朝 1159年12月 従四位下か
頼朝 1159年12月 従五位下 >>298
確かに宗盛が追い上げて、鹿ケ谷以降は時間の問題だったにしても
基本的には重盛が嫡子扱いなように感じる。
そういえば、小松家の軍事力は都落ちのときに有力家人に見限られる形で
瓦解したらしいけど、重盛って死ぬまで平氏軍制の中枢にいたのだろうか。
宗盛が畿内惣官になったのは以仁王の乱の後だったはずだけど
>>300
朝時が「実朝の勘気をこうむった」から泰時が・・・という話か >>39功績が残せた「だろう」という想像での持ち上げはよくないぞ >>312
朝時のは、どう考えても比企能員の変のせいだろ >>312
清盛の第一子であった重盛は保元・平治の乱を父清盛と共に戦った軍功により
嫡妻腹の異母弟たちを抑えて出世を続けていたが、殿下乗合事件辺りからは微妙。
高倉天皇元服に際しては欠席した重盛に対して、
高倉天皇の母建春門院(宗盛の叔母)の養子でもある異母弟宗盛が出席、
高倉・安徳天皇の血縁者として次第に重んじられていく。
殿下乗合事件以降、重盛が軍事行動に出ることはなかったので軍制は分からない。
重盛が死んだとき、嫡子の維盛はすでに22歳になっていたのに平家の棟梁となれず、
棟梁の座は異母弟の宗盛へと移った。 >>312
むしろ、重代の家人は小松家に付けられていたから、重盛系から宗盛系に嫡流が変わることは結果的に彼らも平家軍制の中核から追い出してしまった。
勿論、譜代の家人がいなくてもそれに代わる軍制を構築できれば問題が無かった訳だが、その前に頼朝が挙兵してしまった。 >>65
>清盛の敵対
>勢力は頼盛、忠正、家弘だった。清盛はこの3者を結びつけ・・・・・・・・・・
保元乱以前の清盛にさしたる政治的影響力のない時代に、失脚させねばならぬ
敵対勢力などというものがあったとは思えないんだが。
しかも伊勢平氏一門同士が敵対しあうというのは、首肯できないな。主の貴族同士の
政治抗争で、やむなく敵対はあったかもしれぬがね。
院近臣を係累に持つ亡父の正室と公然と不仲というのも首肯できないな。立身出世に、
利用するというのが野心を抱く政治的人間の選択肢だろう。 >>318
誰が跡取りになるかの争いは一門内で常にあっただろ
それによって出世の度合いが全然変わってくる
例えば池禅尼腹の家盛が跡取りになれば清盛が兄とはいえ家臣として弟に仕えねばならないのだから
敵対する理由はどこにもないとはとても言えない
同時代の源氏も嫡流の座を巡って一族内で死闘を繰り返している そうだよなぁ。せっかく八幡太郎義家が大きくしたのに三弟の新羅三郎義光が跡目を狙って義家の子の義忠を
暗殺した上に、その罪を兄の賀茂次郎義綱に着せるなんて無茶苦茶な事してるから義忠の跡目を継いだ
為義があんなうだつの上がらない事になって…。 >>320
>義忠の跡目を継いだ為義
義忠の跡目を為義が継いだあたりにも疑惑が一杯。 そうなんだよねぇ。いろいろ怪しい。義忠暗殺の犯人として義綱を捕縛した(冤罪)って言うけど、
14才らしいし、誰かの差し金? 義綱捕縛は私闘じゃないし、可能性としては白河あたり? 源為義は白河法皇から検非違使に任じられて昵懇だった
為義が嫡子となるために白河法皇に告げ口して叔父を葬ったのかも 叔父って義忠の事?でも義忠事件の黒幕は義光だって言うし。
そこらもひっくるめて白川法皇の差し金ってこと? 生存説もある義親が一連の騒動の黒幕だったら面白いけど
義親に何のメリットもないんだよなぁ 源為義って、本当に義親の子供なのか?
通称でみたら、陸奥四郎だから
義家の子供で、義忠や義国と兄弟のような気がする。 為義は義家の養子として元服しているのだから、社会的には義忠や義国の弟だろ? 為義は義家の長男義宗の実子で、義宗早世の後義家の養子に
なった気がする。証拠は無いけど。 高橋昌明氏の新刊「平家と六波羅幕府」(東京大学出版会)
清盛研究の集大成.永久保存版として購読すべきですかね. 『平清盛』プロデューサー在日朝鮮人 磯智明(反日・天皇制度廃止論者)のプロデュース作品
@『監査法人 (2008)』反体制・反社会
A『最後の戦犯 (2008)』反日・天皇制度廃止・反体制・反社会
B『リミット -刑事の現場2- (2009)』反体制・反社会 源為義が、源義親の実子だとしても、従兄弟にあたる
河内忠国、新田義重、足利義康よりも大分、年上だよね。
叔父にあたる源義国とは5歳違いだし、叔父で宗家を継いだ源義忠とも13歳違い。
でも、為義って、源義親の四男なんだよな?
ということは、異母兄の源義信とか、もっと年上だよね?
そういう風に考えたら、源義家の子供って
義宗、義親と、義忠、義国の間で、だいぶん、年が離れているのか?
義忠は義家が44歳、義国は義家が52歳の時の子供らしい。 >>320
義綱捕縛から追討まで20年以上あるのがきな臭い
いかにも適当に理由をつけただけって感じだ >>348
■━⊂( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)ノ >>296
頼朝は天皇蔵人だったから昇殿は許されていたし、出世コースとしては朝長よりおいしい
その後、右兵衛権佐を頼朝に与えたことで二人の立場はハッキリしたはず 頼朝は母ちゃんの実家が凄かったからね。マジモンのサラブレッド 由良の実家って従四位程度だし
中流公家ってだけだけどね 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
4SMSA >>15
頼長の妻子は皆殺しになっているから、頼長は確実に処刑だろう。
それも、ただの処刑では済まない。車裂き、鋸引きクラスの酷刑が
待っていただろう。 (参考:頼長を自殺に追い込んで自分だけ助かろうとした藤原忠実は
鋸引きの刑で処刑されている。) >>357
>頼長の妻子は皆殺しになっている
頼長の死後、長男の師長・次男の兼長・三男の隆長・四男の範長はみな配流となり、師長を除く3名は
それぞれの配所にて死去した[注釈 9]。唯一生き残って都に戻ることが出来た師長は、後に太政大臣に
まで昇進するものの、今度は平清盛によって再び配流される波乱の生涯を送っている。
皆殺しどころか太政大臣になってる。
>>358
>藤原忠実は鋸引きの刑で処刑されている。)
忠実は高齢と忠通の奔走もあって罪名宣下を免れるが、洛北知足院に幽閉の身となった。
処刑されてないし、公家に鋸引きはない。武家の源為義とかでも斬首なのに。 武士に対する処罰は厳しく、薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑が復活し、
28日に忠正が、30日に為義と家弘が一族もろとも斬首された。死刑の復活には疑問の声も
上がったが(『愚管抄』)、『法曹類林』を著すほどの法知識を持った信西の裁断に反論できる
者はいなかった。貴族は流罪となり、8月3日にそれぞれの配流先へ下っていった。ただ一人逃亡
していた為朝も、8月26日、近江に潜伏していたところを源重貞に捕らえられる。『保元物語』に
よれば武勇を惜しまれて減刑され、伊豆大島に配流されたという。
死刑自体が300年ぶりの復活で反対する声も多かった。武士は死刑でも貴族は流罪にとどまった。
死刑を強く主張した信西は平治の乱で晒し首になった。自業自得である。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
検索してみよう『立木のボボトイテテレ』
SY7 皆様詳しいですね
そこで質問ですが
平家について知る上でいい書籍などがありましたら教えて頂けますでしょうヵ 平安末期の保元の乱、平治の乱の勉強をしたが、日本の内乱、政争のパターンは全部同じ >>360
貴族も徹底的に殺されたよ、保元の乱
崇徳上皇:自身は相模に配流。妻子は上皇の目の前で焼き殺される。
藤原頼長:死体は車裂きの刑+妻子皆殺し。
藤原忠実:首謀者として鋸引きの刑。息子忠通の除名嘆願も門前払い。
平忠正:自身、妻子皆殺し。
平家弘:三族皆殺し
源為義:義朝の系譜を除き、妻子、孫に至るまで皆殺し
その他、上皇方の公家、武家:悉く三族皆殺し
平治の乱
藤原信頼:首謀者として車裂きの刑+三族皆殺し
なお、一族で逃げたお尋ね者藤原基成は、29年後源頼朝の手で捕らえられ
引き渡され、一族すべて処刑されたのちに車裂きの刑。
源光保:三族皆殺し
源義朝:三族皆殺し・・・・にすべきだったが、しなかったので後で酷い目に。 なお、保元の乱では、「宗族を亡ぼすもの、100余家」と言われた。
ここで生じた著しい人材不足も、平家の官位独占の大きな要因となっている。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています