【貴族】保元・平治・治承の動乱【没落】
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大河スレが、王家の話で持ちきりなので
この時期に関する話題を話すスレとして建てました。
>>41
>コノ頼長ノ公。日本第一大学生。和漢ノ才ニトミテ。ハラアシク
>ヨロヅニキハドキ人ナリケルガ。
慈円は頼長を、和漢の才能こそあったが、腹黒く、やることすべてが危うい人であった
(とても摂関の器ではなかった)と大批判してるよ。
忠通は「カレ(頼長)君ノ御ウシロミニナリ候テハ天下ノ損ジ候ヌベシ」と主張、
とにかく頼長が父忠通と対立する摂関候補であったことが許せなかった様子。 >>42
なるほどね
人物評はどこまで信じていいのか難しい 対立した兄貴の子が書いた文書で悪口部分が全面的には信用できないという話は理解できるが
日本一の大学生、の部分だけを抜きとって利用されているのはどうなんだろう
よくわかんね 批判される部分は両者の立場やら何やらあるから慎重に考えるが、
肯定してあるところはだいたいそのまま受け取られることが多くないか?
褒めてるのが対立したりする方ならなおさら 慈円は頼長と、直接話したことはないだろう。
ならば、
「日本一の大学生」てのは、慈円による頼長の評価ではなく、
「なんとなく、皆がそう言ってた」という程度のこと。 慈円自身が対立したわけではないしなー
なんだかんだで身内だし
まあ人物の肯定的評価はよっぽど大袈裟なものでない限り受け入れる派だけど 異母兄や甥をディスった時の酷さに比べれば、頼長はまだ好意的に書いているぞ>慈円 慈円が自分が12歳の時に死んだ異母兄(近衛基実)を「無能」呼ばわりするのは、良く考えてみればドン引きもの。 >>48
会ったこともない叔父藤原頼長のことより、慈円が実際に対立した異母兄たちのほうが
書く際に熱が入るのは当たり前。
>>51
慈円には多くの異母兄たちがいたが、共に育った同母兄九条兼実と特に親しく、常に九条家に出入り。
兼実の子九条良経は慈円の和歌の弟子であり、九条家は大いに慈円の活動を援助していた。
良経早世後、慈円は道家や立子といった良経の遺児たちの後見を積極的にみている。
何が言いたいのかというと、慈円は同母兄の系統九条家の身内同然だったということ。
九条家が嫡流であることを世に知らしめたく、異母兄たちを貶めた。
承久の乱の際にも、九条家を外戚とする仲恭天皇の即位により天下はめでたく泰平になろうとしているので
乱を起こすべきではないと後鳥羽院に相対する内容のことを愚管抄で書いているのは有名。
>>51
じゃあ何百年も前の歴史上の人物をにわか知識で無能無能と散々にけなす一部の歴オタたちは・・・・・もっとすごいな 熱狂的かつ偏執的なな芸能人やスポーツ選手のオタよりやってることえげつないかもな歴オタw 死人に口なし
弁明もできないし
一方的に叩いてなぜか優越感を味わえる
正直祟られても文句言えねえ よくわからないことがあるから教えて下さい。
平時の乱って25日に二条天皇が六波羅行幸した段階で既に勝負は決まっていたのに
大儀も無くし、戦力に乏しく、敗色濃厚を悟った身内の裏切りにもあい、
勝算が限りなく無いに等しい義朝があえて六波羅に突撃したのは何か理由があるのでしょうか?
あの段階で東国に落ち延びていればあんな無様な最期も迎えず
いつの日にか再起を期す日も来ただろうに・・・と思うのですが。
>>57
平治物語では、義平が、
天皇は六波羅へ上皇は仁和寺に逃げたと報告するのに対して、
義朝は、
「とはいえ源氏のならいとして、心変りはもってのほかだ。」
と答えてる。臨機応変の対応ができない人だったのだろうか?(w >>58
軍記物は所詮物語だから。
義朝は保元の乱で一族のめぼしいところを斬られてしまった。
中央政界に源氏は自分しかいないんだから、落ちて再起は
無理だと踏んだと思う。 >>57
あの時点ですでに東国までは逃げ切れないと思ったんじゃないかな。
逃げるなら最後に派手に戦ってからにしようと思ったとか。
やっぱり逃げ切れずにつかまり晒し首になったが。 >>57
義朝は戦略判断が決して優れていたとはいえない。
義朝は保元で一族を失い過ぎたからね。保元で心ならず敵味方に分かれてしまった
からね。
一族の不平分子を悉く上皇方につくよう仕向け、にも関わらず頼盛の処分に失敗した
清盛とは逆の意味で対象的。 >>57
六波羅奇襲して天皇を奪い返そうとして失敗したのでは?
普通、そう考えると思うが。
>>62
そこまで清盛と頼盛とは仲悪くないだろう?
清盛死後に平家は池殿と小松家と宗家とに分裂するが、そこまでは清盛のあづかり知らぬこと。 >>63
頼盛の立場は重盛と同じく、院近臣としての立場を重視するものだったから、
清盛と後白河の対立が無ければ、このまま平穏に行ったんじゃないの? 清盛と頼盛って極めつけに仲が悪いよ。理由だが、清盛が側室の長男
なのに対し、家盛、頼盛は正室の弟だからね(このパターンで御家騒動
が起きるのは黄金パターン)。家盛は既に死んでいたから、清盛の敵対
勢力は頼盛、忠正、家弘だった。清盛はこの3者を結びつけ、上皇とともに
葬ろうとしたが、頼盛が載らなかったので、結局不平分子として残った。
ちなみに、池禅尼の嘆願で頼朝を助けることも、絶対にあり得ない。不仲
の義母の言うことなど、聞く必要など欠片もない。単に義朝が大した役割
ではなく、頼朝が死罪に値しなかったという理由だろう。 >>65
頼朝の流罪を決定したのは、朝廷
助命するだけでなく、よりよって亡父の勢力圏の近くにさりげなく置いておく(w 朝廷が何かの時に役立つと踏んであえて力を温存させてたとか?
義朝が何かの時にお役にたつので子孫の息の根をとめないでくれと朝廷に頼んだとか・・・
以仁王の令旨など最たるもの。
源氏が瀕死の状態だったのならば令旨出しても誰も来てくれない。 >>65
清盛は正室腹。
勿論、宗子(後室)の腹ではないが。
清盛の母かと思われる人物が清盛2歳の時に没しているが
「中右記」忠盛の「室」と書いてあって側室では無かった。
側室ならば妾と書く。 むしろ陰気な貴一がいないほうがマシだろ
貴一の死ぬ貴一メインの回で視聴率11.3%だったわけで
初回はいつもいい大河が最初の回から視聴率が低かったのも貴一メインだったからだろ
って言うか、保元の乱以前の時代って普通に関心が低いだろ?
一般に前期院政と呼ばれる白河鳥羽院政だけど、
今回ドラマを見ただけでも、白河院と鳥羽院の
政治手腕の差が理解できた。政治手腕は圧倒的に
白河の方が上。個人的には前期院政で後白河か
後鳥羽を見てみたかった。 ドラマは平家一族の団欒が糞つまらない
辛気臭いし。忠盛も宗子も暗い。 為朝がどのように描かれるか楽しみ。義賢の頼長のホモ相手ってのが出てこんかった。 藤原信頼の後白河のホモ相手ってのが出てくるかどうかが楽しみ。 >67
伊豆は平時忠の知行国で、地勢的には国が小さくて海に囲まれた土地なので、そういう意味では監視しやすいと考えたのかも。
あと西国にはこの頃保元の乱の関係者が配流されていた(讃岐に崇徳院、土佐に藤原師長)のと、頼朝にとって叔父に当たる
源為朝が九州で合戦を繰り返してた過去があることを考慮したのかも。
>>77
平時忠は監視者として信頼に足りる男だろうか?
頼朝は、義朝の嫡男であり、平治の乱にも実際に参戦していた。
決して、甘く扱うべき者ではなかったはずだ。
弟の希義が土佐なら、頼朝は佐渡とか隠岐あたりが適当ではなかっただろうか?
しかし、いずれにしても配流先を決めたのは、清盛じゃなくて朝廷でしょう。 監視し易いにしては北条の娘に伊東の娘と好き放題してるじゃね。 頼朝配流の地が「蛭ヶ小島」という名前だったから、
絶海の孤島+蛭の這う地のように見えて、清盛も油断したのだと思う。
実際は川の中州の地に過ぎなかったらしい。 >>62
義朝と義賢は異母兄弟。
・父親の為義は「六条判官」とよばれ、義賢の母の六条の邸宅(里)を本拠地にしていた。
(義朝の母とは死別か?義朝と同腹の兄弟は居ない)
・義賢は義朝の庶長子、義平に討たれている。
・為義の子のうち、義朝に荷担したものはいない。
とすると、義朝は仕方なく、為義と対立したとは思えないのだが。
義朝が嫡子扱いだったのかも怪しい。 >>81
勝てば官軍なんだろうね。
勝った奴の子孫が嫡流ってことになっちゃうのかな。 為義が棟梁だったのかどうか自体疑われている。幕府を開いた頼朝が嫡流である事になるように、
遡って棟梁だった事にされていると。
『源義親の四男として生まれる。 『尊卑分脈』の為義傍注によれば、父の義親が西国で乱行を起こしたため、
祖父・源義家は四男・義忠を継嗣に定めると同時に、孫の為義を次代の嫡子にするよう命じたという。』
何故義忠の実子が継嗣じゃないのか?変な話である。 >>83
>孫の為義を次代の嫡子にするよう命じたという。
義家は、為義を引きとって育てていたらしい。溺愛で目がくらんでいたのでは?
また、義忠が暗殺されたとき、嫡男の経国がまだ幼かったからだとも考えられる。 >>84
wikipediaによると義家が死んだのは1106年で義忠は1109年。
そもそも義忠を暗殺したのは義家の弟の義光で、義家亡き後の実権を握るのが目的だ。
尊卑分脈の記事を信じるならば義家が為義を継嗣と定めたのは義忠の暗殺より前で
経国の立場を考えない不自然な行為。
義忠暗殺の時点で経国が幼少故に為義が実力で奪ったならあり得る。 それも不思議。兄弟は義信、義俊、義泰、為義、義行、宗清で為義と宗清だけ仲間外れ。保元の乱/
平治の乱も他の兄弟は為義と行動を共にしていない。
『角田文衛は、義信(長男)・義俊(次男)・義泰(三男)・義行(五男)がそれぞれ対馬太郎・対馬次郎・
対馬三郎・対馬四郎の呼び名を持つことから、この4人が正室所生の同母兄弟で、為義は庶子だった
のではないかと推測している』という話も有る。 子供の頃は義光って官位を投げうって義家の元に駆けつけたり
笙の秘曲の話なんかのイメージだったけど
ネットで調べてビックリした。
まあ源氏は腕力で平家は財力で一族を束ねたって事やね。 源義忠が源義光から暗殺されたのは、財産家の伊勢平氏の正盛の婿になって、頼義流の源氏のなかで、抜きん出るのを阻止するためだろう。
で、義光の弟の義綱一族は、特に朝廷での失点もせず、受領、警護役で栄達しており義光には邪魔だった。だから濡れ衣着せて為義に捕縛、処罰させて漁夫の利を得ようとしたのかなと想像。 >>88
義光が後三年の役で義家のもとに駆けつけたのは、兄に恩賞が集中するのを嫌って、我も我もと駆けつけたとしか思えない。
史料によれば、義家生存中も、三兄弟は(特に義家と義綱)、家人同士の争いから、京中で合戦になりそうになるほど仲が悪かった。
義綱が義忠暗殺の首謀者と見られた下地は、それ以前からあったようだし。 >>85と>>87を総合すると、こういうことじゃないかな?
経国が成人後に義忠が死んだのなら、嫡男の経国が家督を継げたはずだ。
しかし義忠死亡時に、幼かった(たぶん10歳未満?)のではずされた。
それで、もとの義家の嫡男の義親の子に戻すとすると誰が適当か?
義親の嫡男の義信は、(為義が14だとすると)明らかに20を越えていてどこから見ても後継にふさわしい。
なぜ彼が家督を継げなかったのか?
そのとき、京都にいなかったのかもしれないが、それよりも、義光にとって都合が悪かったと考えられる。
一人前の大人の義信だと、源氏の実権を奪えない。
そこで、ちょっと頭の悪そうな為義を立て、義綱を討伐させる。
朝廷から為義に官位が与えられて、源氏の後継として確定したあたりで、
義光は、義忠暗殺野の犯行がばれて東国へ逃亡。
その後、義家の遺言の話が後付ででっちあげられた。
1084年 義忠生まれる(母は藤原有綱女)
1091年 義国生まれる(母は藤原有綱女)
1096年 為義生まれる(母は藤原有綱女?)
1102年 義親配流される
1106年 義家没す
1108年 義親討たれる(子に対馬太郎義信・対馬次郎義俊・対馬三郎義泰・陸奥四郎為義・宗清・対馬四郎義行)
1109年 義忠討たれる(子に河内源太経国・義高・飯富源太忠宗・義清・義雄)
1109年 義明ら為義に討たれる
1114年 為義・義国が相論 26歳で没した義忠は右兵衛権佐で前?河内守ということになるが
遅くとも22,3で受領に任ぜられているというのは中々だよねえ
また、同母の義国の極官が加賀介だと、義忠・義国の兄弟順は尊卑分脈の没年齢で正しそうだ 対馬四郎義行が義親の四男だと思うのだけど
為義はちょっと違和感ある >>92
その3人が同じ母親ってことは、
義親、まさか父親の女に手を出して、為義を種付けしたのか?www
>1114年 為義・義国が相論
何を論じ合ったのかな? >>95
上野で国司に濫妨を訴えられた家綱という武士について
為義・義国双方が自分の郎党じゃないと責任逃れした
頼朝って義朝の嫡男なの?
義朝って為義の嫡男なの?
為義って義親の男子なの?
義国って義家の三男なの?っていう この間の為朝は個人的には好感が持てた。
短い期間だけど楽しみにしている。
義平も同じく。
二人とも保元平治の主人公なのに今までみたいに
ちょい役じゃあ寂しい
短い間だけど楽しみにしている。 97です書き方が悪かったです。二人とも脳筋ですから
ただ合戦では目立ってましたから格好よく演出して欲しい >>101
その二人は、15〜18歳くらいの若さで活躍し、
花が散るように滅亡していったことが、人気の秘訣だと思う。
ドラマでは、無名でもいいフレッシュな若手の起用を期待していたが、45歳と聞いてがっくりしている。 >>102
源為朝は保元の乱後も生き残っているがな >>103
他は斬首なのに一番危ないのが島流しってのもどうなのか。
>>102
迫力は感じたけど10代か、せめて二十歳前後くらいにして欲しかった。 >>104
あの時代は10代って殺されてないな
元服も済み合戦に出て行ってるというのに
今でいう「少年法」みたいなもので守られてたのか? >>105
一の谷では10代がガンガン死ぬのが見どころというか泣かせどころになってるじゃないか >>106
戦闘中に殺すのは正当防衛だろ。
六代が斬られたあたりから武家の男子は幼くても
助命されないようになったが。 >>108
全ては九郎義経のせいです。あいつさえ大人しくしていれば、
後の世の結城の遺児も助かったはず。 >>104
為朝は戦闘にも参加し、大勢殺傷しているのに、島流し
為義の末子4兄弟、鶴若、亀若らは10歳になるかならずで、戦闘にも参加してないのに死罪
保元の戦後処理は不条理が目立つ >>110
義朝が自分が嫡子になるために兄弟甥たちを残らず処分しようとしたが
為朝だけは評判が高かったために院が許さなかったんだろ
源氏内部の闘争に近い >>111
それはぜんぜん違う。
為義は、保元の戦いの前に、義朝を嫡男に戻し、源家重代の鎧や太刀を送っている。
義朝は、実際に父や弟たちの助命嘆願に奔走したと記録にも残ってる。
天皇家、摂関家は兄弟間の権力争奪の争いだったが、
源氏は、たまたま双方の陣営の主と主従関係を結んでいて、浮世のしがらみで分かれて戦っただけ。 源氏の内紛は事実だろうが、
皇室や摂関家まで巻き込んだ戦いでしかも穢を気にする京都市中の戦いだけに、武士の処分も流罪くらいまでだと思っていたんじゃないか?>義朝
>>112
保元物語は平清盛悪、源義朝善で書かれてるからなあ。
身内をさっさと殺して為義も斬ってしまおうとする清盛に対して、
たとえ敵とはいえ父弟を助けようとする義朝。
平家悪の精神は平家物語にも受け継がれているが。
一次史料では確認できない。 『吾妻鏡』は朝長の母を波多野義経叔母としているけど
『尊卑分脈』が朝長の外祖父としている修理大夫範兼、又は大膳大夫則兼って誰? >>114
平氏の場合は清盛が保元の乱で最初から不平分子(池禅尼、頼盛、忠正、
家弘)を除く気でいた。清盛が後白河方についたのも、不仲な池禅尼が重仁
親王の乳母で、頼盛が上皇方につかざるを得ない点まで計算してのこと。
ところが池禅尼が上皇方の敗北を予想し、その意向で頼盛が後白河方に
つくというあり得ないサプライズをやらかし、頼盛を除く機会をフイにした。
義朝は敵味方こそ分かれたが、清盛のように、明確に池禅尼、頼盛、忠正、
家弘の系譜を根絶やしにしようとした意思はなかった。 清盛と義朝は、弟たちに気を使っていたかどうかも違う。清盛は池禅尼、
家盛、頼盛を孤立させるために、他の弟に気を使って、弟たちは全部計算
通り後白河方についた。頼盛まで後白河方についたのは計算外だったが。
義朝は、弟に気を使わなかったので、全部敵方にしてしまったのも興味深い。 >>117
義朝は正直言ってあんまり頭が良くなかったんだと思う
平治の乱まで一貫して後手後手で軍事的優位を全部ふいにした。
失敗したとはいえ戦略的には為義の方がまだ上だった。 >>118
義朝は、坂東武士団を服属させるだけでなく、
足利、新田、佐竹などの独立系源氏と同盟を結び自己の傘下に入れている。
その手腕はなかなかのものだと思う。
たしかに、平治の乱では、信頼との繋がりを最後まで断ち切ることが出来なかった点に弱みが露呈している。
けど、軍事的優位は常に清盛が握っていたと思うが?
それと、為義が戦略的に優れてるって、どんな点が? >>116 >>117
だから、それが一次史料で確認できないんだよ。
清盛が池禅尼と異母弟たちを排除しようとしていたのならば、
なぜ平氏全盛期池禅尼を清盛たちが住む六波羅の平氏政権中心部に住まわせて影響力を温存し、
池禅尼の意見で頼朝助命までする?
それこそ政権を取った暁には異母弟たちを流罪にして池禅尼を洛中追放することも可能だったのに。
保元物語は平家を悪にするために家族を切り殺す残酷な清盛、
家族重いな義朝を際立たせて描いたと思っている。
実際に内部抗争が酷かったのは源氏。
>>116
池禅尼は重仁親王の乳母だから頼盛は崇徳側につくというのも違うだろう。
そもそも、池禅尼は藤原家成のいとこ。
家成は美福門院のいとこでその側近として活躍していたため、
池禅尼も鳥羽院亡き後の政に深くかかわった美福門院と意思疎通をすることは可能であった。
美福門院が推していたのは後白河の皇子である後の二条天皇だったのだから。
ちなみに平清盛・時子もまた二条天皇の乳父・乳母であったにもかかわらず必ずしも二条天皇に味方してない。
ちなみに家盛は保元の乱の前に死んでいる。 >>119
戦略云々って言うのは、対中央政治に関する話なのだが。
保元の乱では最大の目的だった崇徳院と藤原頼長の捕縛に結局絡めなかったためにマイナス評価。 >>122
為義の対中央政治に関する戦略って、
藤原摂関家の犬として、
盗賊の真似事をすることですか?(www 40年近く前の(新平家)に比べると役者が随分落ちるし配役がおかしい。
ただ時代が変わったのか
教科書みたいじゃなくなって自分としては好感が持てる。
義経絡みじゃないと視聴率は上がらんでしょうね。
個人的には為朝をやって欲しいなぁ〜 為朝といえば、先週の兜姿がなんだかローマ帝国の兵士みたいな感じだったなw
為朝百人長って感じだった^^; >>124
全体的にもっとベテランの役者を使ってたよな。
為朝に比べたら義平の配役は未だ納得出来たような気がする。
為朝の兜、あれは無いなぁ。 >>119
義朝と佐竹って相馬御厨をめぐって対立していない? 義朝と清盛、役者入れ替えれば良さそうな感じがしてきました。
個人的には以前の新平家に比べて内容も良いと思う。
義平や為朝もわりと長く出そうだし。 >>124
新平家は主役が40代
ゴッドファーザー的な仕上がりになっている
今回のは清盛の若いころに焦点を当てると言って主役は20代
しかし20代の清盛は特別な功績がないために
王家のごたごたばかりに時間を割いた
保元の乱時点で清盛は39歳だからな
後白河の即位の式典で崇徳が「あなにくし」の和歌を贈ったというのは史実なの? >>134
史実じゃない
和歌も含めて脚本家の捏造 平家を描くなら絶頂期〜壇ノ浦までに焦点を当てれば
華やかさも泣き所も出せるんだが、大河として主役にできる人物がなかなかいないんだよな
時子なら高齢の女性になるし
宗盛はさすがにイメージが悪すぎるし
徳子は何もしないし あのいろは唄は創作のなかでもよく出来ていたと珍しく感心した。
あの手の創作って兼続の時だかもそうだったけど大概非常に萎える。
けど専用スレあるからスレタイの話題に繋がらないような
大河の話題は今期の大河専用スレでやろうな 吉田兼好かなんかでこんなのもあった
上5文字 よねたもれ
下5文字 ぜにもほし
返歌
上5文字 よねはなし
下5文字 ぜにすこし >>138
「義経」をやったときは松坂慶子が時子で壇ノ浦まで
結構長いことやってたな。
20代の松ケンが清盛64歳までやるんだから
別に時子役は高齢じゃなくてもいいんじゃないか。
壇ノ浦時点で時子は60歳。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています