【貴族】保元・平治・治承の動乱【没落】
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大河スレが、王家の話で持ちきりなので
この時期に関する話題を話すスレとして建てました。
>>95
上野で国司に濫妨を訴えられた家綱という武士について
為義・義国双方が自分の郎党じゃないと責任逃れした
頼朝って義朝の嫡男なの?
義朝って為義の嫡男なの?
為義って義親の男子なの?
義国って義家の三男なの?っていう この間の為朝は個人的には好感が持てた。
短い期間だけど楽しみにしている。
義平も同じく。
二人とも保元平治の主人公なのに今までみたいに
ちょい役じゃあ寂しい
短い間だけど楽しみにしている。 97です書き方が悪かったです。二人とも脳筋ですから
ただ合戦では目立ってましたから格好よく演出して欲しい >>101
その二人は、15〜18歳くらいの若さで活躍し、
花が散るように滅亡していったことが、人気の秘訣だと思う。
ドラマでは、無名でもいいフレッシュな若手の起用を期待していたが、45歳と聞いてがっくりしている。 >>102
源為朝は保元の乱後も生き残っているがな >>103
他は斬首なのに一番危ないのが島流しってのもどうなのか。
>>102
迫力は感じたけど10代か、せめて二十歳前後くらいにして欲しかった。 >>104
あの時代は10代って殺されてないな
元服も済み合戦に出て行ってるというのに
今でいう「少年法」みたいなもので守られてたのか? >>105
一の谷では10代がガンガン死ぬのが見どころというか泣かせどころになってるじゃないか >>106
戦闘中に殺すのは正当防衛だろ。
六代が斬られたあたりから武家の男子は幼くても
助命されないようになったが。 >>108
全ては九郎義経のせいです。あいつさえ大人しくしていれば、
後の世の結城の遺児も助かったはず。 >>104
為朝は戦闘にも参加し、大勢殺傷しているのに、島流し
為義の末子4兄弟、鶴若、亀若らは10歳になるかならずで、戦闘にも参加してないのに死罪
保元の戦後処理は不条理が目立つ >>110
義朝が自分が嫡子になるために兄弟甥たちを残らず処分しようとしたが
為朝だけは評判が高かったために院が許さなかったんだろ
源氏内部の闘争に近い >>111
それはぜんぜん違う。
為義は、保元の戦いの前に、義朝を嫡男に戻し、源家重代の鎧や太刀を送っている。
義朝は、実際に父や弟たちの助命嘆願に奔走したと記録にも残ってる。
天皇家、摂関家は兄弟間の権力争奪の争いだったが、
源氏は、たまたま双方の陣営の主と主従関係を結んでいて、浮世のしがらみで分かれて戦っただけ。 源氏の内紛は事実だろうが、
皇室や摂関家まで巻き込んだ戦いでしかも穢を気にする京都市中の戦いだけに、武士の処分も流罪くらいまでだと思っていたんじゃないか?>義朝
>>112
保元物語は平清盛悪、源義朝善で書かれてるからなあ。
身内をさっさと殺して為義も斬ってしまおうとする清盛に対して、
たとえ敵とはいえ父弟を助けようとする義朝。
平家悪の精神は平家物語にも受け継がれているが。
一次史料では確認できない。 『吾妻鏡』は朝長の母を波多野義経叔母としているけど
『尊卑分脈』が朝長の外祖父としている修理大夫範兼、又は大膳大夫則兼って誰? >>114
平氏の場合は清盛が保元の乱で最初から不平分子(池禅尼、頼盛、忠正、
家弘)を除く気でいた。清盛が後白河方についたのも、不仲な池禅尼が重仁
親王の乳母で、頼盛が上皇方につかざるを得ない点まで計算してのこと。
ところが池禅尼が上皇方の敗北を予想し、その意向で頼盛が後白河方に
つくというあり得ないサプライズをやらかし、頼盛を除く機会をフイにした。
義朝は敵味方こそ分かれたが、清盛のように、明確に池禅尼、頼盛、忠正、
家弘の系譜を根絶やしにしようとした意思はなかった。 清盛と義朝は、弟たちに気を使っていたかどうかも違う。清盛は池禅尼、
家盛、頼盛を孤立させるために、他の弟に気を使って、弟たちは全部計算
通り後白河方についた。頼盛まで後白河方についたのは計算外だったが。
義朝は、弟に気を使わなかったので、全部敵方にしてしまったのも興味深い。 >>117
義朝は正直言ってあんまり頭が良くなかったんだと思う
平治の乱まで一貫して後手後手で軍事的優位を全部ふいにした。
失敗したとはいえ戦略的には為義の方がまだ上だった。 >>118
義朝は、坂東武士団を服属させるだけでなく、
足利、新田、佐竹などの独立系源氏と同盟を結び自己の傘下に入れている。
その手腕はなかなかのものだと思う。
たしかに、平治の乱では、信頼との繋がりを最後まで断ち切ることが出来なかった点に弱みが露呈している。
けど、軍事的優位は常に清盛が握っていたと思うが?
それと、為義が戦略的に優れてるって、どんな点が? >>116 >>117
だから、それが一次史料で確認できないんだよ。
清盛が池禅尼と異母弟たちを排除しようとしていたのならば、
なぜ平氏全盛期池禅尼を清盛たちが住む六波羅の平氏政権中心部に住まわせて影響力を温存し、
池禅尼の意見で頼朝助命までする?
それこそ政権を取った暁には異母弟たちを流罪にして池禅尼を洛中追放することも可能だったのに。
保元物語は平家を悪にするために家族を切り殺す残酷な清盛、
家族重いな義朝を際立たせて描いたと思っている。
実際に内部抗争が酷かったのは源氏。
>>116
池禅尼は重仁親王の乳母だから頼盛は崇徳側につくというのも違うだろう。
そもそも、池禅尼は藤原家成のいとこ。
家成は美福門院のいとこでその側近として活躍していたため、
池禅尼も鳥羽院亡き後の政に深くかかわった美福門院と意思疎通をすることは可能であった。
美福門院が推していたのは後白河の皇子である後の二条天皇だったのだから。
ちなみに平清盛・時子もまた二条天皇の乳父・乳母であったにもかかわらず必ずしも二条天皇に味方してない。
ちなみに家盛は保元の乱の前に死んでいる。 >>119
戦略云々って言うのは、対中央政治に関する話なのだが。
保元の乱では最大の目的だった崇徳院と藤原頼長の捕縛に結局絡めなかったためにマイナス評価。 >>122
為義の対中央政治に関する戦略って、
藤原摂関家の犬として、
盗賊の真似事をすることですか?(www 40年近く前の(新平家)に比べると役者が随分落ちるし配役がおかしい。
ただ時代が変わったのか
教科書みたいじゃなくなって自分としては好感が持てる。
義経絡みじゃないと視聴率は上がらんでしょうね。
個人的には為朝をやって欲しいなぁ〜 為朝といえば、先週の兜姿がなんだかローマ帝国の兵士みたいな感じだったなw
為朝百人長って感じだった^^; >>124
全体的にもっとベテランの役者を使ってたよな。
為朝に比べたら義平の配役は未だ納得出来たような気がする。
為朝の兜、あれは無いなぁ。 >>119
義朝と佐竹って相馬御厨をめぐって対立していない? 義朝と清盛、役者入れ替えれば良さそうな感じがしてきました。
個人的には以前の新平家に比べて内容も良いと思う。
義平や為朝もわりと長く出そうだし。 >>124
新平家は主役が40代
ゴッドファーザー的な仕上がりになっている
今回のは清盛の若いころに焦点を当てると言って主役は20代
しかし20代の清盛は特別な功績がないために
王家のごたごたばかりに時間を割いた
保元の乱時点で清盛は39歳だからな
後白河の即位の式典で崇徳が「あなにくし」の和歌を贈ったというのは史実なの? >>134
史実じゃない
和歌も含めて脚本家の捏造 平家を描くなら絶頂期〜壇ノ浦までに焦点を当てれば
華やかさも泣き所も出せるんだが、大河として主役にできる人物がなかなかいないんだよな
時子なら高齢の女性になるし
宗盛はさすがにイメージが悪すぎるし
徳子は何もしないし あのいろは唄は創作のなかでもよく出来ていたと珍しく感心した。
あの手の創作って兼続の時だかもそうだったけど大概非常に萎える。
けど専用スレあるからスレタイの話題に繋がらないような
大河の話題は今期の大河専用スレでやろうな 吉田兼好かなんかでこんなのもあった
上5文字 よねたもれ
下5文字 ぜにもほし
返歌
上5文字 よねはなし
下5文字 ぜにすこし >>138
「義経」をやったときは松坂慶子が時子で壇ノ浦まで
結構長いことやってたな。
20代の松ケンが清盛64歳までやるんだから
別に時子役は高齢じゃなくてもいいんじゃないか。
壇ノ浦時点で時子は60歳。 清盛の子、甥、孫世代は結構一人一人面白いんだが
義経の人気に対抗できるような特に一人こいつ!ってのがいない
重盛が長生きしていたら、維盛に根性があったら、
知盛が戦乱期以前からもっと目立てていたら、重衡が一の谷でとっ捕まらなければ…
色々惜しい人ばかり 重盛の存命中から嫡子は宗盛だったし
重盛ってもう転落してただろ 壇ノ浦での宗盛がもう少し格好良ければ
他の様々な残念エピソードはごまかせても最期が駄目だと主役には難しい
周囲が潔すぎるのもあるが 壇ノ浦での宗盛、むっちゃかっこよかったやん。
水を得たかのごとくにスイスイ泳ぎまくって天下無双の河童ぶり。
流石は平氏の武士。 割と本気で不思議なんだけど、宗盛はいつ水練を習得したんだ
創作かと思えば愚管抄にも書いてあるし
鎧のまま着衣泳ってかなりのレベルだろ 生け捕ったやつが捏造して吹聴してまわったんじゃない?
おぼれてるやつ捕まえるより、泳ぎまわってるやつ捕まえた方が
格好いいし 源氏といえば馬
平家といえば船
船といえば子供の頃から水練は必須だろうjk >>149
それシナの「南船北馬」のパクリな。
基本京都住まいの平家の連中がそんな船乗るわけないだろjk 船遊びのお船しか乗ったことがない方々だったでしょうな
そんな平家坊ちゃんの中で唯一強かったという能登殿無双も創作だし
後に平家物語中でそういう役割を与えられるような何かが実際にあったのかもしれないけど
ただ壇ノ浦まで生きてて都合の良いポジションがこの人だけだったとしか思えない 清盛は10年間も安芸国司を勤めて
栄華を極めた後も何度も一門引き連れて厳島神社参拝してるんだから
瀬戸内海を渡る船には乗ったことあるだろ しかし宗盛がせっせと泳ぎの練習してる姿は想像できない
他の一門も指揮官としての訓練や実践で使える武芸はちゃんと磨いてたんだろうか 皆よく宗盛に付いていったね。
分裂しなかったし暗殺って事もなかったし
ただ人に取り入るのは上手かったみたいだけど。
知盛が一門を率いていたら? >>143
実質はね
だが、清盛も小松系を完全に切り捨てる腹積もりは出来ていなかったんじゃないかな。多分、死ぬまで。 >>155
清盛が生きている間は子に違いはない重盛を完全に見捨てるつもりはなかっただろうが
あのまま安徳天皇の治世が続いて居ればどのみち小松系失脚は仕方なかったんじゃね?
建礼門院平徳子は従二位平時子の娘で同母兄弟が勢いを増してくるし
たとえ鹿ケ谷の陰謀で義兄をかばって重盛失脚ということがなくても 重盛がアホみたいに成親を庇いまくったのは
もう嫡流が時子腹の宗盛の方に移って来てることを察して
妻の一族の方に寄ろうと考えていたってことでいいの? 宗盛に比べれば重盛の方が優秀じゃあないですか?
清盛も一目置いていた感じがするけど >>158
嫡庶と個人の能力は関係がない
宗盛は平家滅亡時の平家棟梁だったから叩かれまくってるけど
清盛存命中は目立った失策もなかったんでは?
重盛のことは鹿ケ谷のあたりからは清盛も持て余していた 源氏だったらどうなっていた?
跡目争いで義平が大暴れ。 >>157
成親は重盛の描く次の平氏政権像では重要な役割を果たす筈だったんだろう。 吉屋信子の「女人平家」では宗盛は優れた人物として描かれ、重盛は悪辣な人物として描かれている。
当時、宗盛のほうを高く評価する見方はあったのだろうか?
また、平家が窮地に立つことなく、平穏に権力を維持することができていたなら、
宗盛は公卿として高い評価を得て天寿をまっとうしたのだろうか。 >>162
鹿ケ谷があってもなくても重盛は次の平家棟梁になれたかどうか怪しいぞ?
重盛の正室は成親の妹だが、重盛が跡取りとしていた維盛はこの正室の子ではないなど
矛盾も多い。 >>162
反平氏の成親が平氏政権に加わる可能性はなかったと思うが。
それでも重盛が説得すれば平家打倒の志を捨てて、平家を主君として仕えるとでも?
むしろ、157が言うように重盛が藤原氏化していた(成親の一族のようにふるまっていた)
可能性のほうが高いと思うが。 成経を教盛の娘婿にしたのは成親としては何の目的だったんだろう
重盛が失脚した時の保険? 建春門院死亡までは後白河と清盛の仲は順調だったので、
むしろ成親のほうでも平氏政権との癒着を望んでいたのだろう
建春門院死の翌年が鹿ヶ谷なので、ここで成親は平氏ではなく後白河を取った
重盛室が自分の甥の結婚を支援したことも考えられる
維盛の正室も成親の娘だ >>163
九条兼実いわく「天性大食の人」だそうだけど、平家物語以外でも
宗盛の評価や逸話は、家族関係の話を除けばろくなものがない感がある。
当時の人たちの評価も高いということはないだろうなあ。
武家の棟梁のくせに馬にもまともに乗れないというのはあんまりだよなあ。
>>164
当初は清経(重盛と成親妹の子)が嫡子扱いだったようだけどね。
小松家の場合、家全体で見ると確実に平家一門の主流から外れて行ってるけど、
その中でも嫡子の地位は維盛、資盛、清経の間で移り変わっていたみたいだな。
小松家の場合は成親と近い以上に後白河院とのつながりが深いので、清盛と院が
対立する以上は、どっちにせよ苦しい立場に追い込まれるのは間違いないけれど。
そういえば、とかく成親と重盛の近さがクローズアップされるけど、冷泉隆季・隆房や
花山院忠雅・兼雅などと重盛の関係はどうだったんだろう。 清経って地味だよな…
なぜか能やら小説にはなってるけど 『尊卑分脈』が朝長の母を範兼女としているのは吉見氏か高倉家周辺の系図にそうあったってことだよね? 為義が髭切りを持っていたって事は
河内源氏の棟梁って認められていたって事ですか? >>169
殿下乗合事件の時点では重盛の嫡子は次男の資盛(「玉葉」)、
その後長男の維盛が資盛の官位を追い抜いて嫡子になったようだが
清経が嫡男だった時期ってあったっけ?
>>171
義忠暗殺事件のあと、
為義は義家の六条の屋敷と河内の領土を相続してる。
兄の義信は、為義より官位は上だけど、貴族化していく。
為義が家督を継ぐのに不満を持つものは大勢いたけど、
棟梁として努力してたのは為義だけ。 為朝参陣で意気あがる
為義陣営ですが
当時からそんなに武名を
はせていたんですね。 義朝陣営には名のある
武将はいなかったのでしょうか? 鎮西八郎の名の通り九州で大暴れして悪名を轟かせていました。 義親と為朝どっちが悪いの?
頼長と義平どっちが悪いの? >>178
>義親と為朝どっちが悪いの?
wikipediaによると為朝は九州を平らげたそうだから為朝の勝ちかな。
>頼長と義平どっちが悪いの?
義平は関東で暴れて叔父さん殺しただけだけど頼長は京の公卿たちを震え上がらせたから頼長かな。 掘り掘られまくった頼長様♥
そりゃ、公卿たちも穴(ケツ)を押さえて震撼したに違いない >>176
坂東の名のある武士が義朝陣営にくわわっているんじゃないの。 >>182
鎌倉党の大庭景義が参加してて、為朝に片脚を矢撃たれて後遺症が残るケガを負ってる。
後遺症のせいで、合戦の最前線に立てなくなった大庭景義は、のちに弟の大庭景親に家督を取られてる。
>>172
鹿ケ谷事件までは清経のほうが昇進速度が維盛や資盛に比べても
早く、禁色を許されたのも維盛よりも早かったそうな。 >>184
1173年 惟盛、従四位下
1174年 清経、正五位下
(1177年 鹿ヶ谷の陰謀)
1178年 清経、従四位下
同年 惟盛、正四位上・禁色許される・東宮権亮
1179年 清経、禁色を許される
1181年 惟盛、従三位・右中将
(1183年 平家都落ちにより解官)
惟盛と清経を比べたものだが、清経が惟盛の官位を追い抜いたことは一度もなく
禁色も惟盛が先に許されている。
清経が禁色を許されたのは鹿ヶ谷の後。 清盛勢三百騎、義朝勢2百騎、足利勢百騎と言ってもこれは騎馬武者だけで、
徒歩武者、雑兵、それに騎馬武者の従者は入っていないよね。 日本の生活保護制度における外国籍(特に在日韓国・朝鮮人)の異常な多さを知っていただきたい。
日本国籍を取得せず在日のままだと簡単に生活保護にありつけます。
これが数ある在日特権の一つであり、経済テロの一種である。
2009年TOP3
1位:韓国・北朝鮮 24,827世帯
2位:フィリピン 3,399世帯
3位:中国 3,354世帯
となり、いかに在日韓国・朝鮮人社会が日本にたかっているかの証左である。
サムソン栄えて国民が貧しくなる韓国人は、日本に不法入国したり、
在日を頼って日本に来て生活保護を狙っているのです。
歴史的な背景を考えれば生活保護を受給する権利は十二分にありえない。
ソフトバンクの孫正義をその代表として現在の在日は不法入国がほとんど。
力道山もそう。
戦時中出稼ぎに来たまっとうな朝鮮人労働者は半島に帰国。
その代表が現韓国大統領。大阪朝鮮部落出身。
これは在日に支配されているマスコミが報道しない事実です。
在日はテレビの報道局に韓国朝鮮籍を送り込み、歴史歪曲と歴史ねつ造を図っているのが現実です。
その代表がT○Sとア○ヒ。
最近では富士にも日テレにも侵入し、在日社員たちが報道やドラマで暗躍している。
そしてスポーツ中継では日本人選手がメダルを獲得しても
日の丸掲揚と国歌を放送しなくなったのは在日社員の影響力が増してきているからです。 >>185
年齢に対する昇進の速度という意味だな。 >>188
過去の朝鮮国に対する行為からすれば当然だ。
朝鮮人にはもっと貢ぐべきだ。 >>189
父親の清盛が出世しているのだから下の子ほど同じ年齢での出世が速いのは仕方がない。
嫡男ならば、庶兄を超えて出世するのに、清経にはそれが見られない。 >>189
資盛は「玉葉」に嫡男とある通り、兄の維盛を超えて出世していた。
(途中で維盛が嫡男に変わったとみられ、資盛を追い抜いている)
しかし、清経は一度も兄の官位を追い抜いていないのが問題。 >>192
ゴキブリ在日
オマエが言うなwwwwwwwww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています