【五色の賤・近世部落】賤民【穢多非人・雑種賎民】
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形質人類学のデータ
http://ryuchan56.269g.net/article/17864123.html
第1章で説明したように、エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、
東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、
全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、
部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。
とし、
頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。
したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。
しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。
と書き、さらに、
大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。
おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。
と述べている(図2参照)。
http://ryuchan56.up.269g.net/image/ryuchan56-2013-07-12T11:25:23-1.jpg
重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、
中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。
つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。 >>118
形質人類学とかDNAの解読ができるようになった時点で過去のものだろw
同和の起源はおそらく、俘囚(東北の蝦夷の戦争捕虜)と朝鮮半島からの戦争捕虜
そして、第二次大戦後の在日が加わる。 >>119
DNA調査結果あったら出してくれよ。
できなおんだよ。部落が人種差別説に反対してるから。 >>120
日本人のDNAデータは均質的(朝鮮人のように近親相姦とかじゃなくて)に混ざってるって話だから
弥生系も縄文系も無いってDNAデータになってるけど
沖縄から北海道まで基本的に変わらないらしいが?
だとしたら同和も変わらんと思うよ?
直接の同和の起源は穢れの多い仕事を差別した中世的価値観からだと思う。 最新の研究により縄文人が狩猟だけでなく陸稲等の農耕も行っていたことや、後世のY染色体研究により、日本人はY染色体D系統を多く保有している事が判明した。
このD系統は中国・朝鮮半島には見られず縄文人特有とされる。この事から従来考えられていた以上に縄文人からの連続性がある事が証明された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA
http://iup.2ch-library.com/i/i0245487-1298021938.jpg 梅原猛・埴原和郎 著 「アイヌは原日本人か」
「頭骨の計測Data分析」133頁
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/1-thumb.jpg
●近畿
●朝鮮人
●中部 ●新潟
●千葉
●東北
近畿の人と朝鮮人が非常に近いことが目立つ
整理すると、
(1)アイヌは北方に住んでいても「寒冷地適応」を受けていない。
(2)朝鮮半島から渡来した弥生人たちは北方的要素をもっている。
(3)近畿人が朝鮮人に近いということは、近畿地方の人々は弥生人の混血の影響を相当に受けていると想像される。
(4)オンコロマナイと礼文華の違いから、道内でも道北と道南では小進化の速度が違っているようである。
生体計測値の全国統計資料(1910年代、40年代、50年代の3回に分けてとられた)からの分析(東大人類学教室、河内まき子)によれば、
日本人の特徴によって「中心部」と「周辺部」とに分かれる。
日本の中心部(近畿から山陽、九州の一部、四国の一部)はかなり朝鮮系に似ている。 周辺部(東海、関東、東北、北陸、山陰、九州の真ん中あたり)は別の特徴を持つ。
すなわち、国内における地域差がはっきりと出ている。 骨で決めるって可能なんかなあ。
江戸時代人と現代人は、形質はずいぶん違うが、江戸人が攻め滅ぼされた訳じゃないし、
多数の他民族に支配されたわけでもない。
朝鮮半島からやって来たなら、半島は日本人よりも酒に弱いはずだが、逆だ。
骨は知らんが、下戸遺伝子で言えば、中国南部の下戸がやってきて、近畿人は
その影響が一番強いってのなら納得できるが。
朝鮮と似てるのって、意外と日本から渡った人が多かったからじゃないかな。 国立大学法人 総合研究大学院大学
プレスリリース概要
『日本列島3人類集団の遺伝的近縁性』
その結果、アイヌ人からみると琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する
本土人は、琉球人に次いでアイヌ人に近いことが示された。一方、本土人は集団としては韓国人
と同じクラスター(注2)に属することも分かった。さらに、他の30人類集団のデータとの
比較より日本列島人の特異性が示された。このことは、現代日本列島には旧石器時代から日本
列島に住む縄文人の系統と弥生系渡来人の系統が共存するという、二重構造説を強く支持する。
http://www.soken.ac.jp/news_all/2719.html 世間はバレンタインの季節になりましたが、
吉川裕にとっては「釣り」や「関係破壊工作」の季節です。
金目の物やチョコレート等食べれる物を与えると
研究室中に「俺の女がしつこいんだよねw」とデマをまき散らします。
注意しましょう。
2011年
発信者 よしかわゆたか
SUB RE:RE:RE:RE:百合とは何か
2/11 23:24
スカイプはつかってなけりゃあ、そもそもパソコンが今手元に無い。
研究室に置きっぱなし。そして私は今から寝る。「あーもーいいや、寝ちゃお寝ちゃお寝ちゃおーそう寝ちゃおー」と、
「ふわふわ時間」的に言いながら。ああ神様お願い。ドリームタイムください。
じゃあまた。 わしは部落民やが なんで東北から連れてきられて
人種差別になんねん? 純日本列島人と言う事やで。
これからじょじょに分かってくるよろな。
あんたらがき〜つけな あんたらは百済がかかってるんちゃうか?
朝鮮列島は今現在新羅やったら 敵はあんたらかもしれんで。
戦争になったら 自分らでしりふけよ。
わしらは関係ない も〜だまされんで!6年後ほんまに こないなるような
気がしてきたは wwww
http://www.qetic.jp/blog/pbr/archives/3654 >>129
蝦夷は、支配層から人種差別されてたわけだが。
空海は、蝦夷を「羅刹の流(たぐ)いにして非人の儔(ともがら)なり」(人を食う
鬼の類であって、非人=悪鬼の仲間である。)とか「人面獣心」と罵っているので
ある。つまり、空海にとって、旃陀羅や蝦夷は人間ではなく、仏の救済対象など
では絶対にあり得なかったのである。
http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-10.html
学問の神様菅原道真も、蝦夷の性は「狼子」であり、「野心」をもっているとのべ
ているのである(『菅家後集』)。さらに、帰服した蝦夷である俘囚でさえも、
律令国家の渡来系の支配層や平民とは民族的に違うことから、『類聚国史』には
「夷俘の性、平民に異なり」とかかれているし、『日本三代実録』にも、「夷俘の
性、本より平民に異なる」などと記されているのである。
http://machi.to/bbs/read.cgi/osaka/1242807306/481 >>79
持説と完全に符合。
ただし組織はコミンテルンのスパイ。 >>80
京都が都でみやこと呼ばれ、近畿は首都圏だったわけだから、
武装貴族たる武士の武具を作るのは近畿で始まったと見るべし。
源流は別でも。
例えば日本刀は大陸由来(南シベリア草原由来
(金属に対する姿勢が特別に良いため、
ヒッタイトの鉄器を得て、すぐに発展活用し応用しまくった
(馬具武器武具等)。))
で東北で成立した、とかの源流は個々の武具にあるが、それはまた別の話。 >>87
初期倭寇は日本侍。
中期倭寇と後期倭寇は朝鮮人支那人。 >>101
差別してなかったんだって。
差別するようになったのは明治時代から。
特定業種の利権を維持しつづける階級
それだけ。
明治の市民平等で利権を喪失し、没落したところを、
共産主義に浸透され、
自由民権運動、共産主義、部落解放同盟、外国人暴力団などの
テロリストに利用された。
>>104
別に穢れた仕事ではない。
武装貴族である武士と一体不可分の業種。
まさに特権業種。
>>106
それは武士の仕事だがな。
二人で組み伏せるのが同和。
首切り役人はみな各代の山田浅右衛門に習いに行っていた。
白装束の切腹には介錯必須だからな。 江戸時代の身分制度なんていう話が広まってしまってるよなあ オットー・モーニケの見た日本人と日本の社会環境
http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/5414/1/KJ00000702904.pdf
モーニケの報告文の貴重な部分は、自らか体験した江戸時代末期の部落差別の体験を記録しているところにあるだろう。
モーニケは江戸から長崎への戻り旅の途次、ある晩(兵庫と思われる土地で)海岸に沿った砂丘を日本人の付け人たちと散歩をしていた。
モーニケの葉巻の火が消えた。後ろを歩いていた役人と奉公人に火を乞うたが、誰も火を付ける道具を持っていなかったので、
足の早いものが近くの家から松明をもってきた。しかしその家が「エトリ」の家とわかると、モーニケの手から松明は取り上げられ、
松明を掴んだものは海水で手を洗い、松明を運んだものは、身体を清めるためと称して、海のなかに入ったのである。
そして、かなり離れた家からあらためて松明が取り寄せられた。すさまじいできごとである。
将軍と「エタ頭」との関係においても明白な差別がなされている。モーニケはそれについて記している。
元旦の祝賀には大名たちとともに「エタ頭」も祝賀の席に連なる。その際、客には煙管と煙草入れ、
火の付いた炭と炭入れからなる煙草盆が与えられるが、「エタ頭」には火のついた炭は与えられず、
「自分で火を付けるために鉄と、石と火口が置かれていた」。つまり他のものとは身分がちがうということを見せつけている。 村八部の起り
頼山陽が門下生になり教えを受けた事もある備後神辺の儒者にして詩人でもあった菅茶山は、
文政10年(1827)年8月に死去する前に「福山風俗」「福山志科」を書き残した。
その中に備後福山市東の三吉村に、「三八という者らの住む地域あり。
これ水野侯が福山十万石を賜る時、三河より伴いきたりし八の者なれば、今も三八と名づく」と出ている。
この水野侯というのは「汝も光秀に肖るべし」と、家康から光秀遺愛の槍を貰った寵臣で、
大坂夏の陣の大和街道の指揮官を勤め、後の島原の乱にて討死にした板倉重昌に代わって
松平伊豆守が指揮をとっても不落と聞くや、老体に鞭打ち福山から駆けつけ島原を落城させた
水野勝成で、その三男も旗本に取り立てていたが、この倅が旗本白束組の水野十郎左衛門である。
さて、この福山の三八について、「六郡志」に、「三八は常に両刀を腰に帯び、牢番、警吏、拷問、処刑をなし、
深津村專故寺の前にて斬首をせしが、のち榎峠にてこれを行っていた」同地方の事を誌している。
また「備後御調史料」では、「当地にては茶筅は竹細工をなすが、勧進ともよばれ代官役所の稲の坪切りをなし、
普段は捕縛術剣術の練習をなし常時代官の検覧をうく。また鎮守の祭礼には神輿の先払いをなし、
陣笠ぶっさき羽織にて両刀を帯び、手に六尺棒腰に十手をさした。三八または八部衆ともいう」とでている。
これは「おどま勧進勧進」の五木の子守唄で知られるように、いわば「乞食」扱いを蔭ではされながら、
表向きは刀を二本さし代官直属として、気にくわぬ者はすぐ召し捕ってしまい、
でっちあげのように牢屋へ放り込んで断罪していた三八の風俗である。
今でも言われる「嘘の三八」とか「嘘っぱち」の語源かこれからだという。
さて、なぜ百姓が彼らを乞食扱いしたかというと、正規の扶持米ではなく、
百姓から役得のように米を巻き上げ、それで寄食していたせいである。
明治維新で薩摩出身の川路利良が邏卒総長となり、外遊後新しい制度を設けてから、
それまでの警察官であった三八が村内からつま弾きされてしまったのが、
いわゆる今も伝わる「村八分」の起こりなのである。 三八は知らなかった。
「八」は「鉢」ではない?
「鉢屋衆」ってのは有名。 三とか八とか五とか四とかの数字がつく名前が部落のひとにいるのは、そのためか?
民主党の「放射能つけちゃうぞ」といったとかなんとかで辞任させられた鉢呂なんて顔からしてそれっぽかったが…。
川端とか枝野とか仙谷とか細野とか江田とか鳩山とか山根とか輿石とか松原とか長島とか、っぽい名前と顔のやつが多いな。
佐藤弘夫(創価学会)研究室に11年いた吉川裕は
やっぱり創価学会。創価じゃないと出世できない東北大学のからくりがバレる。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/716475.html (創価の見分け方)
週刊新潮はいつも真実が書いてあるっていうとファビョるのが創価
http://www.geocities.jp/myudash/new.html (裕チャンのブログ)
べいべー!! 週刊誌に書かれてるのは全部嘘だぜ! のピレプーです。違いますか、違います。エジャナイカエジャナイカどーでもエジャナイカ〜。
創価のコネで東北大のアカポスを狙う吉川裕を殺せ
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創価のコネで東北大のアカポスを狙う吉川裕を殺せ 平安時代 武蔵国(埼玉県鴻巣市)の住人箕田綱、摂津国渡辺へ移住し渡辺姓を名乗る
▽摂津渡辺村と被差別部落
戦国時代 渡辺の里に居住。石山本願寺の寺内町に隣接した皮革職人の町
天正年間 石山合戦と大坂城の建設により渡辺町へ移動(1573-92)
天和年間 西成郡下難波村へ移住(1615-24)
元禄11年 刑場のある野江村へ移動を命ぜられるが、湿地帯のため居住に適せず、替え地を嘆願(1698年)
元禄14年 西成郡木津村へ移動(1701年)
宝永3年 移動完了(1706年)
同和地区(1987年3月31日現在)
▽1地区あたりの平均世帯数
関東37.1 中部47.2 近畿178.8 中国39.8 四国58.9 九州60.7
▽世帯数
関東23,344 中部26,034 近畿143,364 中国42,325 四国40,021 九州53,221
出典:部落問題 資料と解説(解放出版社) 『被差別部落一千年史』(岩波文庫/高橋貞樹著/大分県出身)
P186
部落民の分布は、穢多の水上(えたのみなかみ)と称せられる近畿地方を中心として最も多い。
兵庫県のごときその最たるもので、和歌山、三重、奈良、大阪、京都等いずれも多数の部落がある。
これらの一県一郡の各部落の中心をなすものは、その地方での大部落である。
関西地方は部落数が多いだけでなく、また一部落の人口が大で、職業も部落の事業をそのまま踏襲している。
大阪西浜(旧渡辺村)は、全国の中心をなすほどの大部落である。
P193
近畿、山陰等は差別の程度が濃厚であって、山陽、四国、九州等はこれに次いだ差別程度である。
部落の分布の多いところほど差別が甚だしく、関東中部、北陸、東北地方に至るに従い差別の度も少ない。 >>144
東北でも部落あるで
戊辰戦争調べてみ
会津戦争とか 皇族の墓があった村だと、墓守(五色の賤、非人)部落の可能性が高いかな アテルイのころの蝦夷と呼ばれた人々はアイヌ人であって
今の東北人とは関係ない
蝦夷は東北人の先祖ではない
勘違いしている東北人も多いが 今の東北人の多くは、鎌倉武士とかの子孫だろうな。
千葉、葛西、三浦とかいう苗字の人が東北はやたら多い。 部落民=奴隷じゃないと困る人がいるみたいだな
宦官、奴隷、傭兵(一時期除く)が基本的にいないのが
日本史のいいところなんだよw この話か
都会での話
同じクラスに(a)山田さんと、(b)山田さんがいたとしよう
親戚ではないし、付き合いがないのと同じ
友達という程度
(a)の家族が病気になり、入院しても
(b)の家族が見舞いにくるわけでもない 被差別部落の一千年史とか読んだけどマルクスの影響受けすぎだよ
当時は進歩的でよかったんだろうがなw 朝廷が班田制と戸籍制度を基礎にした人民の人別支配を放棄し、名田経営を請け負う田堵負名を通じた間接支配への移行により律令制が解体していく過程で、この身分制も次第に有名無実化した。
良賤間の通婚も次第に黙認されるようになり、中には賤民と結婚して租税を免れようとする者も現れた。789年には良賤間の通婚でできた子は良民とされる事になり、907年には奴婢制度が廃止された
(これには、9世紀末の寛平年間に既に廃止されていたとする見解も存在する)。
よって、古代の賤民と中世以降の被差別民、さらに近代以降被差別部落と呼ばれるようになった江戸時代の被差別民共同体との歴史的連続性はなく、性質の異なる起源を有したと考えられる。
広島藩史(県所蔵)によると江戸期は、カワタ村とエタ村は別々の村であった。
水平社は、歴史の違う村々を被差別部落とひとくくりにした。だからその差別構造は各々歴史も違い複雑である。
家康賎民説もある。やはり勝てば官軍で時代により差別の対象は変化している。
維新時に差別の対象となった者が現在の差別につながっている。歌舞伎はもともと賎民であったが維新時は差別の対象でなかった。
また、
江戸期カワタは下級武士で藩から死牛馬の処理による鎧や馬具製造の独占権をあたえられ、村(農家)の警護と、百姓の足抜け取り締まり
の役を与えられていた。百姓の怒りは、封建制度化本来は大名等上級武士に向けられるべきだが、直接、百姓を管理していたカワタに向けられた。
武家社会の、悪行や矛盾をすべてカワタに背負わせ、武士は維新後もまんまと逃げ切り、政治にも携わっている。
勝てば官軍の歴史は、その時々で差別構造が変化している。 日本は職業差別
近世において穢多と呼ばれるのは死体処理だの
そういうのに関わってた人ら
肉食忌避の概念もここからだからな 官軍だの朝廷なんだのの話になればまた別かもしれんがな
農村主体の惣村社会ならそれが正解だ 維新以前は
百姓は搾取される側の一番手だし。人口も多かった。
そりゃ、カワタを嫌うのも無理がない。百姓とカワタは維新での下剋上? カタワだろ馬鹿w
まあ稲作になって徴収されるのは米だからな
肉食業者の持ってた包丁が刀の起源というのは
誇張でもなんでもない >>164
武家社会に肉職業は無かった。皮革による、武具製造(太鼓、馬具、鎧等)や日本画使うニカワとか?
死牛馬の処理の特権はあったのは事実だし、藩から役を貰っていたのも事実だし。
お国替えの時、大名はカワタを同道させてる史実もある。
長州藩では、藩の財政を皮革輸出で支えてたという記述もある。
死牛馬の処理であり、農耕に必要な生きた馬や牛を殺せば重罪で 律令体制化
実際の社会においては良民が賤より課役が重いために却って賤の方が生活が恵まれている場合もあり、
8世紀末期にはそれを回避するために意図的に賤との婚姻を図るものもいた。このため、延暦8年(789年)
には良民と賤の間の子は全て良民として課役を負担させることとし、貞観5年(863年)には賤にあたる者を
計帳に記載する場合には父母の氏名記載を義務付けて賤の発生を抑制して租税徴収を図る方針を採るようになった。
このため、賤の人口は減少し、更に10世紀には戸籍自体が行われなくなったために良民と賤の区別が不可能と
なったために良賤法の意味を成さなくなった。だが、一方で良民が貧窮によって隷属民になる事例も見られるように
なるなど、新たな賤民身分の形成も見られるようになった。なお、鎌倉時代の幕府法においても良賤の父母の間の子に
関する規定が設けられるなど、良賤法とは異なる新たな規定が制定される場合もあった
時代により、賎民は変遷している。 時代を極めた、平家の落ち武者も賎民視された。
勝てば官軍の歴史でしょう。 >>161
肉を食べることを「薬食い」って言ってたから、一概にマイナスイメージじゃないんじゃないかと思うんだよねぇ…
穢れの語源にしても毛(稲穂)枯れからだから、海山の民はそこまで差別しなかったんじゃない? 益獣を食べるのは罪で害獣を食べるのはオーケー
イノシシ、クマ、タヌキ、キツネ、こんなの普通に
食ってたわ イヌ、ネコ、ウマ、ウシを食べるのがなんで忌み嫌われたかというと益獣だから 話的にはおもしろいですが、
彼>>170は、無視ください。 ウサギなんて食わないけど?
第一、日本にウサギいるの?
大猿なら戦国時代に食ってた記事は見つかった >>173
ウサギ食べたいから、鳥扱いで一羽二羽って数えるってきいたことあるけど、俗説? 175
うーん、どうなんだろな
ノウサギ見ても耳がネズミみたいで羽とは数えんわな
あるいは創作かもな >>176
鳥なら食べてもいいから、ウサギも鳥だよ、てことで一羽二羽って数えるようになったんだよーって聞いたんだ。
ウサギってそんなに旨いんかぁと思った 俺が小学校のころ、学校行事でウサギ追いをし
取った兎は翌日の給食に出てきた。
長野の山間部の学校だが・・・・・ 武士の狩りには下級武士のカワタ(エタとは違う)がお付きした。
獲物は鹿、兎、鷹等々
すぐに解体しないと、腐るからである。 >>183
勉強不足。歴史板にはふさわしくないカキコミです。
人権板なら、貴君の知識でも通じますが・・・・ >>184
人権板は普通に地名かくよな
あれ不味いんじゃないの? 広島藩について誰かが書き込んでいますが、江戸期の地図にも、
エタ村とカワタ村の区分けされてる藩がいくつも存在します。
水平社なるものが、ごった煮にしてしまいました。明治政府には都合が良かったと思います。 続けます。
戸田藩史によると、カワタの村は三宮である某神社の守も兼ねています。
神社は前方後円墳で、維新後の第一次町村合併時までは大塚村と表記されてます。
また、処刑上はエタ村付近にありカワタの村と区分されてます。 >>183
これは完全間違いでもないと思うが。
カワタの史料上の初出は駿河今川家文書でしょ。
東海地方ではカワタ称が一般的だったようだが、近畿圏で
カワタ称が見られるのは太閤検地以降。それまでは出てこない。
広島藩でカワタとされてる村は、たしか福島正則転封の時に
同道してきたという村で、在地のエタ村とは区別されていたようだが
近畿圏のように、同じ村が時代によって呼称が変わった、或いは併存
したという地域もあり、エタカワタが集団の性格や成立の経緯によって
どこでも厳密に使い分けられていたわけではないからね。 http://istdjapan.org/data/kobayakawa_ronbun_01.pdf
>広島藩では、被差別身分は革田としての役を担った。そして他の被差別民の役に非人があった。
>福山藩では、穢多、茶筅、非人の役があり、それらすべてが、穢多役としての非人番を勤めた 近世国家―専制国家と賤民官僚制
近世の場合において、あるいは戦国期あたりからはじまるわけなんですけれども、
武士団組織というのは寄親寄子といいまして家父長的な原理によって組織するようになる。
契約ではないんですね。織豊政権ではそういうことが、もっと徹底するのでありますが、幕藩体制になりますと、
一応形式的には封建制であるようにみえながらも実質的にはむしろ専制的支配権力が完成する。
もはや封建制というものは形骸にとどまっておる。その証拠には、賤民官僚制として被差別者を編成する。
その頃の言葉ではエタ村と呼ばれていますが、これを役人村に位置づけている。
エタ村がなぜ役人村であるかという問題は、専制国家が賤民官僚制を編成するという必然性があるということを認識して解決できる。
広島の場合にも、革田弾左衝門は関東の浅草弾左衛門と深い関係があります。
そういう人々が中心になりまして役人村を編成するわけです。
役人村というのは役負担を担います。近世幕藩体制の警察・行刑というのはこの人々が担っていたのです。
これをみれば専制主義というものと賤民官僚制というものは深い結びつきがあることがわかる。
日本の近世幕藩体制におけるこの人々の人数は相当多くの人数といわれておりますが、
こういう幕府の最も基本的な治安維持の問題につきまして、この人々にこの役を負わせたという問題があります。
これは近世社会の国家というものが、専制主義の国家であるということを不可分に結びついておる。
中世賤民というものにこのような組織を認めることは決して出来ません。 21 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/18(日) 09:41:54 ID:85NJv/PU0
広島から養子 ?を受けてるよね
団左衛門
22 :名無しさん@お腹いっぱい。:2007/02/19(月) 12:34:43 ID:wKTSe2OC0
11代集民 芸州佐伯郡廿日市村 長吏頭河野團左衛門の子
12代集司 信州筑摩郡出川村 長吏頭大友彦太夫の弟
13代集保 摂州莵原郡灘住吉村中ノ町 寺田利左衛門の子
12代は、はじめ信州小県郡諏訪部村の長吏頭小十郎の家に養子の話が来たんだけど、
信州の別の藩(佐久郡)の長吏頭の家に出しちゃってたから、かわりに筑摩郡のほうから養子にとったということらしい。 沖浦和光「島に生きる 瀬戸内海民と被差別部落の歴史」(広島県豊町、1998 407頁)
第二章 芸予諸島における「かわた」集落の形成
「かわた」から「穢多」へ
毛利氏による賎民統制
近世初頭の福島正則の時代
島嶼部と見地
革田頭・河野団左衛門 https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0247020/top2.html
沖浦 たとえば万歳・春駒・大黒舞,こういう新春の寿(ことほ)ぎの門付け芸がありますね.
これは東国と西国でちょっと違いますが,士・農・工・商に入らない被差別民がそれを担った.
たとえば広島藩では「革田(カワタ)」身分以外は万歳ができない.革田というのは穢多のことです.
彼らにだけ「新春の門開き万歳」が許可されている.日ごろは穢れていると差別されているんですが,
新春の寿ぎをやるハレの日には,神仏の代理人として門口に登場するんです. >>189
記憶違い自己訂正です。
広島の革田頭河野弾左衛門家は、実朝将軍の時に鎌倉から厳島神社神主として
宮島に下向する中原何某の供をして、相模から移ってきたのが始まり。
元々神社の隷属民です。
だからカワタは下級武士でエタとは違うというのも呼称だけにとらわれた
乱暴な見方で、カワタと称していても河野弾左衛門などは一般的なエタと
変わらんよね。
広島藩の文書でも、江戸後期になるとあまり歴史的経緯など把握しておらず
「カワタと言ってもエタと言っても、そもそもは同じものであり
ただ弾左衛門家に関しては清浄を尊ぶ宮島の警固という役目がら、
穢という字を使うのを憚ってカワタと呼んでるだけである」とか書いてある。 さすれば、歌舞伎役者、僧侶、河原者、サンカ、逃亡農民、平家の落人、等々もカワタでいいのでしょうか? また、多くの藩ではお国替えの時、カワタを同道させてますが、
カワタ=エタなら相当な人数を同道させなければいけないのでは? 信長が美濃攻めに際し、カワタを今の県境である木曽川付近に、清州から移動させています。
美濃攻めの後方部隊として、皮革による武具製造を命じています。
秀吉は、移動農民であり、先祖は田畑を所有していません。所有していたのなら、長男である秀吉は農家を継いだでしょう。
また、秀吉の先祖が所有していた田畑も特定されていません・・・移動農民だからです。 落ちぶれた、身分を隠している、
好きで、その道(芸)に入った人もいる
何か楽しい事ないかな〜そうだ、歌舞伎役者になろう!で良い
学識のある人たちが付いていたはずだよ >>202
そうです。
ただそういう移動農耕者を百姓とは言わない
小作は西洋でいうところの農奴であって農を担う民ではなく、
農で稼ぐ日雇い民みたいないちずけなんだけら >>203
お前は時代を勘違いしている
好きで職業選択が自由な時代じゃない
それなりの各領域の主体性をなす家系であらば、それを受け継ぐ責任と守る役割が存在する
もし職業選択が趣味嗜好で転職可能な地位は
大名クラスか、何一つ何もない家の両極
中上位間層 は絶対ありえない >>205
江戸時代も武家に生まれたりしなければ結構自由なんだがなぁ つうか武家といっても下級武士なんて内職自由、婚姻自由 、士売買自由、なんでもありだが?
逆に名主層は村政を担い、地方自治の根幹だから自由は許されない
基礎がわかってない馬鹿が多すぎだな 大前提で土地を持つものは自由は基本許されない
武士や河原は身一つだから逆に自由度は高い
江戸の武士は土地を持たない
何故ならば下克上で繋がりがあるからだろ ハッキリ言うが、江戸時代の身分は徳川が勝手に区分したもので、ここに意味はない
土地に根差した生活けんを保持維持出来てたかどうかがポイントだろ
足利将軍家や守護大名、そして国司層以外は在地の大豪農が豪族化して土豪地侍の武士領主化したものが大半なんだから、
土地を基盤に考えていかないと話にならないんだよ 馬鹿だから豪農≠武士領主とおもってんだろうが
中世豪農が武装して発展したものが土豪地侍だという大前提わかってんのか?
大規模な土地を所有するものは昔も絶大な力を固持できている
関東武士団なんて生活スタイルは武装豪農だぞ
名門鎌倉関東武士団なんて江戸時代はかなりの家が帰農して名主層になってるほど、基盤に大地主の豪農稼業が存在すんだが? そうかんがえると武士稼業に不浄職も包括されてるのは、
江戸の武士の出自にも繋がりがあったからだろ
豪農の職制に不浄な仕事なんて一切ないぞ
それは豪農層に不浄出自が存在しなかったから名残がないんだろ >>212
関東は特殊だよ?
馬足軽なんて兵種がある時点で他の土地と違う。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています