【五色の賤・近世部落】賤民【穢多非人・雑種賎民】
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複合下層の変容-都市型被差別部落における高齢化問題を中心に
http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/1460/1/r-sbk-ky_013_003.pdf
戦前から都市スラムとして形成されてきた朝日町では、元々人々の流動'性が非常に高かった、という事実がある。
これは「固定された身分的差別」という我々の部落に対する素朴なイメージを壊すものだが、
こうした流動性の高さは、この地域が日本の資本主義の発達過程にしっかりと組み込まれていたことを表しているのである。
朝日町の周辺には相対的に貧しい地域が広がっており、ここをクッションとして、人々は一般地域と朝日町とを往来してきた。
一般地域における貧困層が、同じ階層文化を媒介としたインフォーマルな出会いを通じて朝日町に流入している。
このことがこの地域の階層的同質性を確保してきたといえる。
そして、戦後の解放運動と同和対策事業の展開によって地域内部での階層が分化し、
一部の住民は同和奨学金や公務員への就職などによって階層を上昇させると、よりよい暮らしを求めて流出していく。
地域内の同和住宅には収入や世帯員数などによって細かい規定が多数存在し、ある程度安定した職業を得て結婚し、
子供が大きくなると、60年代や70年代に急造されたレベルの同和住宅ではどうしても生活しにくいという現実がある。
そのため、教員や公務員、会社員などになった住民たちは、周辺に流出して一戸建てやマンションを購入するようになっていく。
もちろん流出した人々のなかには、完全に朝日町と連絡を断ってしまうことなく地理的にも近いところに住宅を購入して
解放運動の地元支部にも参加を続けているものも多くいるのだが、とにかく解放運動や同和対策事業の影響、同和住宅への入居規定など、
構造的な要因によって朝日町を始めとする都市型部落から多くの住民が流出していることは確かである。
こうした流動性の高まりのなかで、比較的若く高学歴で収入の高い層が流出した結果、地域内に残って暮らす人々が次第に高齢化していったのである。
興味深いことにこの高齢者たちもその8割が転入者である。
インフォーマルなつながりを辿って、同和事業で住宅が建設された朝日町に転入し、年金や生活保護で暮らすようになっているのである。
この人々にとっては他の地域へ転出する理由はまったくないだろう。 >子供が大きくなると、60年代や70年代に急造されたレベルの同和住宅ではどうしても生活しにくいという現実がある。
>そのため、教員や公務員、会社員などになった住民たちは、周辺に流出して一戸建てやマンションを購入するようになっていく。
>もちろん流出した人々のなかには、完全に朝日町と連絡を断ってしまうことなく地理的にも近いところに住宅を購入して
>解放運動の地元支部にも参加を続けているものも多くいる 同和地区の中に住まずとも同和地区の近隣に住むことで解放運動の継続は可能。
代わりに同和地区には他所から入ってきた貧乏人に住んでもらうことで同和地区として維持してもらう。 同和地区の中にビル建てて工務店とかやってる連中は地区の墓地に古くて立派な墓があるぞ
財産区の理事とかもしてるし何とか奉賛会長なんて肩書もある
もちろん自民党の市会議員だ 同和地区に住んでるから、みんな嫌うんですか?
過去にエタや非人だったから、嫌ってるんですか?
肉や皮を扱うからですか?
いま、肉屋は嫌われてるでしょうか?靴屋や鞄屋は嫌われてるんですか?
なんで、嫌わないんですか?
エタの支配だった、歌舞伎役者や芸能人はどうして嫌われてないんですか?
日本庭園を造ってる庭師は嫌われてるんですか?何が問題なんでしょうか?
戦後になるまで選挙権も獲得できなかった、町人身分になれない長屋住まい
出身者や、百姓のひがみなのでしょうか? 百姓は低学歴でうんこ臭いだけだからな。なんの取り柄もない。一方エタは、いまや歌舞伎など名門とか言われちゃってw エタと歌舞伎は別物だし犬猿の仲だろ。
エタは歌舞伎では悪役として描かれる。
弾左衛門と市川團十郎の遺恨は根深い。 >>434
團十郎が興行しようと思えば、弾左衛門の許可が必要で、弾左衛門にテラ銭を払わなければならない。
團十郎は弾左衛門の配下。 二代目市川團十郎の代で弾左衛門配下から解放された。
歌舞伎に続けとばかりに非人頭車善七も配下からの解放を訴えたが却下された。 宝永年間(1704−1711)のこと。京都は四条河原に小林新助という絡繰師がいた。
絡繰師といっても単なる演者ではなく、一座の興行主でもあった。
「絡繰師」と人形浄瑠璃とはどこがちがうのかは不明。
辞書を引くと、寛文2年(1662)に竹田近江が始めたという「竹田芝居」のこととある。
さて、新助は江戸に行くという役者にカネを貸すが、その後まもない宝永4年(1707)11月、富士山が大噴火。
そのため音信不通になることが多くなり、債権回収もままならくなった。
仕方なく新助は、宝永5年1月19日に京を発って江戸に向う。
ちょうどその頃、江戸は堺町の中村座の隣で浄瑠璃をやっていた薩摩小源太は、出演料でモメて1月22日に興行が中止になってしまう。
同月30日に新助は江戸に着き、その小源太を訪ねるが、仕事のない二人は興行をうつことに決め、22人の人形遣いや役者を集めた。
小林新助・薩摩小源太、そして小源太の仲間の栗橋三左衛門が江戸で人形芝居を興行していると、
それを見に来た安房国館山にある正木村の庄屋の弟平蔵は、それがたいそう気に入り、一芝居を30両で買おうと申し出る。
話がついて、新助一行はまずは正木村へ出かけ、そこでの人形芝居・歌舞妓狂言の興行を行ない成功をおさめる。
そして、正木村に引き続き、近くの真倉村でも芝居をうつことになるが、弾左衛門の手代の革買治兵衛が現われ、
関八州では弾左衛門に無断で興行を行うことはできないことを伝える。
その場は、話し合いでなんとかおさまったが、新助一行はそのまま弾左衛門に断わらず、藤谷村でも興行を行なってしまう。
それは宝永5年(1708)3月9日のことだった。 翌10日、治兵衛と正木村の長吏小頭の善兵衛が、安房・上総・下総三国の弾左衛門配下の300人を指揮して、芝居小屋を襲撃。
新助らは急遽江戸に戻り、同月21日に町奉行に訴え出る。
当時江戸四座以外で、芝居興行を行うと弾左衛門に櫓銭(興行税)を支払う義務があり、それは町奉行も認めるところだった。
ついては、今回の新助の訴えも、寛文7年の金剛太夫がおこなった「勧進能」の際の判例が今回も適用されるものと思われた。
しかし上方生まれの新助は納得せず、京都で修行し、御所でも芝居をしたことのある自分がなぜ弾左衛門の支配を受けねばならぬのか、
大体どこの役者でも旅芝居に出て稽古を積み腕をあげてから江戸、京大坂の芝居にでられるようになるのだ、と主張した。
町奉行はこの新助の訴えを一理あると認め、歌舞伎狂言・浄瑠璃なども内容として裁判は続けられた。
この時代の弾左衛門は四代目集久で、彼は証拠として源頼朝が祖先にくれたという証文を奉行所に提出した。
その証文には、座頭や陰陽師・猿飼・歌舞伎役者などの二十八座はすべて弾左衛門の支配下にあると記されていると主張した。
それに対し新助は、その証文は400年以上も前のもので、歌舞伎は出雲のお国が80年ほど前に京都の四条河原ではじめたものなのに、
どうして80年前に始まったものが400年以上前の証文に載っているのか、と反論した。
結局、町奉行は新助の主張を認めて、役者は弾左衛門に櫓銭を払わなくてよいという判決を出した。
もっとも弾左衛門の提出した証文には確かに歌舞伎役者の名は載っていないが傀儡師の名は載っており、
からくり師というのはほとんど傀儡師と同じことなので、町奉行は弾左衛門の勝ちと判決してもよかった。
それを新助の勝ちとしたのは、大きくなってきた弾左衛門の権勢にブレーキをかけようという政治的意図があった。
それにより、藤谷村で芝居小屋襲撃を指揮した革買治兵衛と正木村の善兵衛らは島流しに、
乞胸を除く全ての役者は弾左衛門の支配下から離れ、以後櫓銭を支払う必要がなくなった。 茶道、華道、連歌師なんかも、○阿などの阿号を名乗ってるけど、こんな人たちも微妙なんだろ。 まぁ、早い話が百姓は臭いだけで、なんのとりえもないってことなの? 宣教師ザビエルと被差別民
沖浦 和光 著
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480016478/
週刊エコノミスト 2017年3月7日号
書評
『宣教師ザビエルと被差別民』
評者 中尾茂夫(明治学院大学教授)
ttps://www.weekly-economist.com/2017/03/07/%E7%9B%AE%E6%AC%A1-2017%E5%B9%B43%E6%9C%887%E6%97%A5%E5%8F%B7/
こうして本書の要点をフォローすると、「ザビエルと被差別民」という表題の謎が解ける。インドでは、カースト制度下で
最も差別される側にあった民衆にキリスト教は浸透し、今もインドにおける7割のキリスト教徒は不可触民出だという事実を
指摘する。
この流れで考えれば、日本では長崎に例外的に被差別部落が少ないのは、江戸時代におけるキリスト教徒への徹底的弾圧と
相関関係にあるというのが著者の仮説である。 >>442
被差別民がキリスト教を救いとして改宗したのは理解できる。
しかしキリスト教が禁教になった後、命を捨ててもキリスト教を捨てなかったのが理解できない。
手に入れて、読んでみる。 【著者に訊け】高山文彦氏 『生き抜け、その日のために』
http://www.news-postseven.com/archives/20160512_410033.html
国際平和都市長崎を語るには、欠くことのできない3つの要素があったという。「原爆」、「キリシタン迫害」、そして「部落差別」である。
特に後者2つは慶応3年の〈浦上四番崩れ〉など、隠れキリシタン摘発の先兵に部落民が使われた史実が禍根を残し、
両者の関係は抉れたまま現代に残された。ある人が言う。〈浦上部落とキリシタン部落は、差別される者どうしやった。
それを時の権力は一方を捕り手に仕立て、両者をいがみあわせて、下層民どうしでぶつかりあわせて支配構造を組み立ててきたわけだ〉。
分断差別の歴史を超えて和解へ 『生き抜け、その日のために 長崎の被差別部落とキリシタン』
http://www.christiantoday.co.jp/articles/20857/20160512/ikinuke-sonohinotameni.htm
浦上のキリシタンと被差別部落
長崎県は日本で最もキリスト教信仰が盛んな土地だ。
人口約150万人中、カトリック信徒が6.4万人(人口比約4.3%)を占め、その中心が浦上だ。
住んでいたので分かるが、山の間のわずかな平野に住居が密集し、田畑はほとんどない。
戦前ここには「浦上キリシタン」と呼ばれた人々が1万人以上暮らしていた。
また浦上には、長崎県最大の被差別部落があり、千人以上の人々が住み、ほとんどが靴や下駄や皮革製品を作り、生計を立てていたという。
彼らは、江戸時代のキリシタン弾圧には捕り手として駆り出され、捕縛や過酷な取り調べ、拷問の任務を負わされてきた。
そのため、両者には根深い対立の歴史があったという。
キリスト教の側から見た浦上の原爆の被害については『長崎の鐘』『この子を残して』などを書いた永井隆の著作によって比較的知られているが、
同じく甚大な被害を受けた被差別部落の実態は、戦後長らく調査すらされていなかったという。
ようやく1980年に作成された「原爆被災復元調査事業報告書」によると、浦上の被差別部落1034人のうち155人が即死、
1945年内にさらに140人が亡くなるなど人口の32%が死亡、70年までに原爆症を原因として436人が死亡し、293人が行方不明となったという。 浦上の被差別部落の歴史
浦上では1928年に差別解消を目指す水平社が結成されたが、
行政や政治と一体になり人並みの生活を目指す融和派との対立の中で、2年ほどで消滅してしまった。
原爆で壊滅的な被害を受けた後、49年には県の復興計画の下、焼け残った宅地は区画整理と新たな道路設置のために安値で買い上げられた。
地主たちは、立ち入り禁止の札や針金を立て、土地を行政に買い上げてもらい大もうけをした。
もともといた住民は代替地すら与えられず、離散を強いられた。「この事業によって、浦上部落は事実上、この世から消滅した」という。
長崎県ではその後、被差別部落の人々は、名乗り出ることで差別が表沙汰になることを恐れ、差別解消運動も進まなかった。
69年に国会で同和対策事業特別措置法が成立した際、長崎県当局は“県内に被差別部落はない”とする報告を国に上げていたという。
戦後、浦上のキリシタンの歴史は、観光イメージのために大いに取り上げられたが、それにまつわる被差別の歴史は“なかった”ことにされていった。 被差別部落に生まれた2人の青年
そのような背景の下、本書では、浦上に生まれた中尾貫と磯本恒信という2人の人物が主人公として描かれる。
中尾貫は、差別の中で苦労して育ち、終戦を経て苦学しながら教師となり、51年から五島列島の中学校に赴任する。
『五島キリシタン史』によると、五島でもキリシタンは差別され、
卑しい者・全く別の生きものとされ、海に出ることも許されず、山に隠れて農業で生計を立てて生きていたという。
1868(明治元)年には「五島崩れ」という弾圧が行われ、久賀島では200人の信徒が6坪の牢に8カ月間閉じ込められ、40人以上が死亡した。
学校でも、漁で潤う町の子が良い服を着ているのに比べ、隠れキリシタンの家の子どもはつぎはぎだらけのモンペを着て、わら草履で通っていた。
「この子らは、あのころの自分たちのように差別を受けているのかもしれない。いや、もっとひどい差別を受けているのかもしれない」と思った中尾は、
隠れキリシタンの里に住みつく。
そこは、電気も水道もない、山の薪を燃料に使う自給自足の村だった。子どもたちと学校に通い、夜には自分の家に子どもを集め、勉強を教えた。
勉強の傍ら、子どもたちはぼろぼろになった聖書を読み、祈りをささげることもあった。その姿に打たれ、中尾も聖書を読むようになった。
そして中尾は、被差別部落とキリシタンの対立の歴史を知る。同僚のカトリック信徒の教師が語ったという言葉は象徴的だ。
「僕たちは“クロシュウ”と呼ばれとったんですよ。
先生たちは“エタ”と呼ばれたかもしれんばってん、僕たちは“クロシュウ”と呼ばれて、すさまじい差別をうけとりました」
「僕は小さいころ、浦上町の近くの農家で育ったんですが、
古い人から、浦上のエタの人たちからだいぶいじめられたと聞いて育ったもので、どうしても浦上の人たちに心を許せないところがあるんです」
もう1人の磯本恒信もまた、部落解放の運動に携わる中、自分たちの先祖がキリシタン弾圧の手先として使われてきたという歴史に向き合うことになる。
ある記録では、浦上四番崩れの際、キリシタン信者68人が捕らえられると、
血気盛んなキリシタンの若者数百人と部落側の若者が、竹やりやこん棒で武装し殺し合うという事件も起きたという。 磯本はこんな言葉を語っている。
「キリシタンにたいして自分たちの先祖がしてきたことを考えたら、被害者づらばかりしてはおられんとばい。
権力の手先になって、キリシタンを捕まえて、拷問にかけたり、殺したりしてきた。
そりゃあ、自分たちの先祖は権力側にいいように使われて、やりたくもないことをさせられてきたという点で被害者ではあるかもしれんばってん、
キリシタンには、そういう理屈は通らん。キリシタンとの歴史的問題をなんとか解決していく方法はなかもんかのう」
歴史の理解と和解、結城了悟(ディエゴ・パチェコ)神父
この相互対立の歴史の和解に大きな役割を果たすことになるのが、本書のもう1人の主人公、
スペイン出身で日本人国籍を取り、結城了悟という日本人となったイエズス会のディエゴ・パチェコ神父だ。
結城神父は39歳で長崎に移ってから、86歳で亡くなるまで、
戦国時代以来の日本に来た宣教師たちの手紙など膨大なキリシタン資料を集め、解読、翻訳し、世に紹介することに生涯をささげた。
その中で、部落解放運動に関わることになっていった。それは、宗教と差別をめぐるある事件がきっかけだったという。 弾圧を拒んだ人々
結城神父が紹介した、バチカンのローマ法王庁に残る資料によると、江戸時代の禁教下、
部落民の祖先の町民たちの中で、キリシタンの弾圧を拒否してキリシタンをかくまった人々がおり、
彼らの多くもまたキリシタンで、殉教を遂げた人々もいたということも明らかになっていった。
〔1619年11月17日の〕殉教の時に見られたもう一つの手柄は、皮屋たちによるものでした。
彼らは動物の皮を剥ぎ取る人たちで、牢屋まで呼ばれて受刑者たちを縛ったり、刑場まで綱を引いて行きます。
二年前に十二人の聖なる殉教者が火炙りになった時と同じように、それをするのは罪だと知っていたので行くのを拒みました。
以前キリシタンであった奉行〔代官のこと〕平蔵は、彼らの三人を呼びつけ、
自分たちの勤めであるにも関わらずに行かなかったので厳しく叱責しましたが、
彼らは、それをすることは絶対にできないし、そのように神父から教えられていると言いました。
平蔵は「気をつけよ。申しつけに叛(そむ)くようであれば殺されるであろう。注意しておくので、後日私に文句を言わないように」と申しました。
彼らは、文句を言わないし、そのようなことをするよりも死ぬ覚悟ができていると答えました。
(バチカンに所蔵されていたドミニコ会宣教師からの手紙より)
おそらく(幕府側の)弾圧に屈し、(皮屋町)住民は仏教徒に転じたと思われます。
同じように、浦上の潜伏キリシタンは、仏教徒に転じながらも、しかしその後ひそかに信仰を伝えたことに両者の違いがあったわけです。
・・・同じくキリシタンとして宗教弾圧を闘った皮屋町住民が、こんどは弾圧する側に位置づけられ、刑吏として迫害の尖兵を担いました。
そのことが、現在に至るまで両者の間に禍根を残したのであれば、それは直ちに解決されるべき問題です。
・・・一つひとつの事実を積み上げることによって、「禍」が「幸いな出会い」へと導かれるよう祈念したいと思います。
顔を合わせ、研究と学びの場が続く中で、少しずつ「和解」の場が築かれていった。 >>425
知り合いのおばちゃんが言ってたわ。
外に家を買ってそっちに住むけど、同和住宅の権利は手放さずに持ってる人がほとんどって。
別のところでは、地元の同和地域の人間は外に豪邸を建てて、住宅は工場で
雇った流れ者の社宅代わりにしているとか。
現代だけじゃなくて、江戸時代もそうだったんじゃないかな。
食いつぶした流れ者が流入する。同和地域は日銭が稼げる仕事がある。
そして、その周辺には安い賃労働を求める需要がある。
関西圏で多いのは、商業の発展で賃労働の需要が大きく、働く場所があり、
吸い寄せられた。だから、本当は貧困だったとはいえない。
困窮するようになったのは、明治に開放されてから。
職業の独占が出来なくなって、既得権を奪われたから。
自由とともに飢える自由も手に入れた。 >>424
京都の同和地域の近くに住んでたことがあるけど、幹部はおらんだろうな。
主なところはコンクリートの市営住宅にしてしまったし、古いせいもあって
あまり広くないらしい。幹部様が辛抱できるわけない。
今住んでる近所にもあるけど、年寄りばかりだ。
若いのは、他所へ行く甲斐性がない人か権益を握っている人か。
まっとうな仕事についた人は居座る意味が無いからな。
嫁や婿でよそものも流れ込んでるらしいが。
京都の某所にでっかいのがあるけど、40年前でもよそからの流入が多いと聞いた。
なんでも夜逃げした人とかが隠れ住むのにちょうど良いのだとか。 >>449
江戸時代の無宿や流民は日傭取や野非人と認識されてたのでは?
日傭取で食えなくなったら非人溜に収容されるか水替人足として鉱山に送られる。 人材派遣業「桂庵」の実態
桂庵に働き口を求めて集まった人々の多くは、地方から江戸に出てきた人たちだった。
当時江戸に知人もツテもない人が単独で働き口を探すのは至難の業であった。
また、商家も大店になればなるほど人材選びに厳しく、なんらかの縁故や紹介がなければ奉公人にはなれなかった。
つまり、桂庵に集まる人々は職そのものだけでなく、身元保証をも必要としていた。
桂庵ではそういった人々の身元保証を引き受けた上で、
まずは求職者を自分の店の二階に住まわせて江戸の風習や言葉遣いを教育、奉公先を見つけては、三ヵ月半、半年などの契約で奉公人として派遣。
宿の場合、半年契約で約70〜75匁。派遣先(奉公先)から3〜4%の斡旋料を受け取っていた。
さらに万が一契約期間中にクビになった奉公人については、次の奉公先が見つかるまで面倒をみていたということなので、
現代の人材派遣会社にも引けをとらないほどの充実したサービスを提供していたといえる。
桂庵の扱う数ヶ月単位の派遣以外に、もっと短い期間の派遣、いわゆる日雇い派遣を専門に扱っていた業者もあった。
そういった業者は「日傭座」と呼ばれ、主に土木工事や駕籠かきなどの肉体労働を伴う仕事に人材を派遣していた。
「桂庵」とは違い、事前教育やアフターフォローを必要とせず、とりあえずその日の労働をまかなう「体力優先」の仕事が日傭座の主な派遣先だった。
日傭座は労働者の得る賃金の中から一部を徴収。
例えば、とび職の場合、日傭賃は約170文〜216文、ここから日傭座が14文〜16文を手数料として受け取っていたという記録が残っている。
こうして大名屋敷や商家の下働きから、土木工事、髪結い、米引きにいたるまで実に様々な職が派遣労働者よって担われ、
彼らは重要な労働力として江戸の社会を支えていた。
しかし奉公人の出奔などのトラブルや、桂庵や日傭座自体による不正が後を絶たなかったことも実情だった。
頭を痛めた幕府は業者に組合の結成を促すなどして取締りを強化したが、根本的な解決には至らず、トラブルは絶えなかったようである。
現代の「派遣切り」や「二重派遣」などなにかと問題視される人材派遣事情となにやら通じるものがある。 生きるに値しない命として部落民を処刑する法律できないかな? >>444-448
全然同情しない。
キリシタンなんて長崎の子供を奴隷にしてヨーロッパに売ってた側だろ。
自業自得。
泣き言言うなって話。 かつて甲府地域にあった奇習「旅娘輪姦」とは?
http://www.excite.co.jp/News/odd/Tocana_201506_post_6606.html?_p=2
いずれにしろ、当の被害者からすれば「地獄」でしかないが、後者について言えば、行為中に死亡してしまった
場合などは、その女性を担ぎ、日頃、人々が訪れぬような山深い場所へと遺棄することが通例となっていたという。
なお、その際に必要な遺体の運搬役は、外部への情報発信能力が強く制限されていた被差別部落民が借り出されて
いたとする話もある。 嫌われて当然!在日朝鮮人と組んで祖国を売り40年以上も無実の女子供を虐待しているエタ(部落民)!
ヤクザ=エタ エタ≒ヤクザ これは日本人が直視しなければならない事実である。
菅沼光弘 暴力団の6割が同和3割が在日韓国朝鮮人https://www.youtube.com/watch?v=y20sSs6_Qk8
貧しいからヤクザになるのではない。ヤクザとはエタの組織なのである(後に朝鮮人が合流)。
差別とヤクザhttp://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daisanjuuyondai
>当然被差別部落民と呼ばれる人たちと毎日接することになる。その際に彼らと違和感を持つことが多かった。
>その一つは彼らのヤクザに対する寛容な態度であった。
>「あそこの弟さん、手や足まで刺青していて、それは立派なもんやったよ。組でもかなりの幹部になってるらしいよ。」
>そしてその時以来、差別問題とヤクザとはイコールではないが、かなり関係のあることだと感覚的に思ってきた。
何故、大半の言論報道関係者がいとも簡単に部落解放同盟の圧力や言いがかりに屈してしまうのか?
それは部落解放同盟が半分ヤクザの組織であり、その残虐行為が恐ろしいからである。
在日朝鮮人は強制連行の被害者などでは断じて無く、主に李氏朝鮮時代に白丁として虐げられた賤民集団。
自分の意思で日本へやってきた。だから帰国できない。朝鮮にいたときは主に「屠殺業」に従事していた。
被差別民のため「共産主義」者も多い。屠殺と共産主義と被差別民の共通点でエタと意気投合。
一緒にヤクザや偽右翼を運営している。エタと在日白丁は非常に仲がいい。通婚も進んでいる。
父親がヤクザでエタの橋下徹が「政治家橋下徹の生みの親である」と言っているやしきたかじんは在日韓国人。
エタの前原誠司はタカ派とされているが、在日韓国人の女と家族ぐるみの付き合いがあり献金も受けている。 自公連立の立役者の野中広務はエタ。朝鮮人に乗っ取られた創価学会公明党を政権与党に入れた大罪人。朝鮮人が大好き。
「拉致疑惑があるから食糧は送るなとの意見は強いが(北朝鮮とは)従軍慰安婦や植民地、強制連行があった」
「日本はコメが余っているのに隣人を助けることができないのは恥ずかしい。食料援助をすべきだと思って環境整備をしている」
エタの野中が送らせた大量の米が北朝鮮を延命。そして今、北朝鮮の核ミサイルが日本を狙っている。
河野談話を出させた首相は宮澤喜一。官房長官は首相の補佐役にして報道官。首相の意に反する談話など出せない。
そして宮澤はエタなのである。仲の良い大好きな白丁の人たちに泣きつかれたので国を売って助けた。
だが、宮澤はマスゴミから叩かれない。不自然なくらい叩かれない。
エタでありながら首相まで上り詰めた英雄を叩くことは部落解放同盟が許さないのである。
日本で決まりかけていた2002年W杯を日韓共催に持っていったのもエタの宮澤。「日韓友好のために目をつぶってくれ」
エタは大好きな在日白丁が困っていると平気で国を売って助けてしまう習性がある。
こういう人たちを政治家や権力者にしてはならない。
創価学会の依頼でヤクザ(エタと朝鮮人)は40年以上も集団ストーカーなる異常な残虐行為を続けている。
無実の女子供を虐待して降参も認めない。脅迫した一般人に虐待させて自殺に追い込む快楽殺人。
同和教育や差別報道や慰安婦報道がもたらした残虐行為。今日も哀れな無実の日本人が苦しんでいる。
在日が終戦後に朝鮮進駐軍と称して強姦略奪した事実は報じず、ヤクザ=エタの事実は報じず、
狂ったように不当な差別!民族差別!就職差別結婚差別!日本は韓国に謝罪も賠償も何もしていない!
等と嘘をついて大騒ぎして敵意や憎しみを煽った左翼共産主義の犯罪者たち。これはヘイトクライム(憎悪犯罪)である。
犯罪者は刑務所に叩き込んで懺悔の生活を送らせなければならない。
(具体的にはテレビ朝日、TBS、NHK、講談社、岩波書店、朝日新聞、毎日新聞、東京新聞、北海道新聞、
琉球新報、沖縄タイムス、部落解放同盟、朝鮮総連、日本共産党、日本社会党、日弁連、日教組など) 人権擁護法案はエタと在日と左翼の卑劣な逃げ切り法案。
エタは日本国籍、池田大作も日本国籍、それをいいことにヤクザを使ったおぞましい集団ストーカー犯罪を
「残虐な日本人による残虐な日本人のための犯罪」にしようと企んだ。そうなればエタと在日と左翼は無傷で済む。
ここ数年、ヤクザ(エタと朝鮮人)に脅迫された一般人による事故を装ったテロが頻発している。
高齢者を中心とした不自然な交通事故が多発しているが、あれの大半はヤクザに脅迫されてやらされた事件である。 〉耳にした話し
高校でコーラに薬を盛ってうつ病 閉じこもり不登校にする
特別な人だけじゃなくほとんどの人が組んで集団でコレをやるって話し >>440
芸能をしている坊主は
基本僧だから非人じゃない >>461
一見、僧に見えるけど、実は受戒を受けていないニセの僧もいたよ。 今でも本山が拝み屋の元締めをやってるくらいだから
昔なんて寺銭貰えれば黙認だろう >>463
私度僧って僧への国家としての受戒が機能していた奈良、平安時代の概念では?
阿号を名乗るのは室町時代。ロココの頃仏教は国家仏教で無くなっているから、各寺院が勝手に戒を授けてたのでは? >>465
ああそうか。書きながらなんとなく変だなという気がしてたが、そういう意味だね。分かった。ありがとう。 江戸後期からは確実にある
維時文政七甲申歳二月五日徳川十一代将軍家齋
公時代當地區民家近隣村民非道壓迫矣於茲當時
戸長四良右衛門憂深之時恰青山藩主擁道中行列
敢然抵身及直訴而為區民喪一命行年四十五歳 >>33、>>468
差別しろというお触れもでてますね。公儀がわざわざお触れを出す理由は何なんだろう。 日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』
UYFSC >>460
それ西日本の話しかい? 育った地域で気をつけろとよく言われてる 大国主は女好きで新羅で朝鮮女を孕ませ多くの子供ができた。
大国主は国王なので日本に行けばいい暮らしが出来ると考えた子供たちは海を渡って
きた。
ところが国譲りで大国主は国王どころか幽閉されていた。
朝鮮の子供達は怒って新羅教をつくり天皇や皇室の悪口を言いふらしてまわった。
天皇の成り手がないほどだったという。
こうして皇族がいる集落が被差別部落と言われるようになった。
早稲田大学の調査で天皇の古墳の分布と被差別部落の分布がほぼ一致していることが
明らかになっているのがなによりの証拠である。 古代に朝鮮人によって高貴な人が住む集落を被差別部落と貶めたところに
明治以降同和利権を求めて朝鮮人が住み着いたというのは皮肉だ。
いつの時代も朝鮮人はいらない。 古墳の周りに規則的に竪穴式住居が配置されている遺構がある
古代から賤民身分が有ったのだろう >>474
古墳と被差別部落の分布が一致するのは墓守をする天皇家の関係者の集落を
被差別部落と言ったから。 不思議なことに、古事記・日本書紀は天皇が編纂を命じたにもかかわらず、なぜか
天皇についてはひどく悪く書かれている。
この理由は被差別部落を理解すれば分かる。
大国主が朝鮮の新羅の女に産ませた子供が日本に渡り、国譲りで大国主が幽閉された
ことを知り、これに腹を立て、新羅教を作り、皇室の悪口を言いふらしたことにより、
被差別部落が出来たことは前に述べた。
実は、この大国主の「オオ」と古事記を書き表した太安万侶の「オオ」とは同一の
意味なのである。
オオとは出雲の「おうの国」のことであり、太安万侶とは出雲の「おうの国」の
安万侶という意味であり、大国主は「おうの国」の王という意味である。
つまり古事記を書いた太安万侶は大国主と同じ出身であり新羅教(後に出雲教)に
関係していたので天皇を悪く書いたのである。
新羅教(出雲教)は現天皇の打破、出雲系の天皇の擁立を図っていたのである。 19−20世紀転換期における日本のアカデミズムと被差別部落認識
https://kaken.nii.ac.jp/ja/file/KAKENHI-PROJECT-23720336/23720336seika.pdf
喜田貞吉は文部省の教科書の検定や執筆に関わった後、京都大学の教授となり、同大や東北大学で古代史の教鞭をとった。
喜田は、「複合民族論」で知られる日本人種論を展開したことで知られる。
喜田は複合民族論のなかで、どのような人種が日本列島に到来したかについて、その大枠については鳥居龍蔵の学説を踏襲している。
ただし被差別部落民については、古代史研究の立場から独自説を提示した。
喜田は、被差別部落民の起源を、天孫族(蒙古人種)よりも前に朝鮮半島から渡来し、
弥生式土器を使用した国神人種で、天孫族に征服され、隷属状況に置かれた人びとに求めている。
さらには、柳田國男の山人論の枠組をも流用し、蒙古人種によって征服された異民族が被差別部落民に編入されたとする論を展開している。 お〜創価、創価
と言ってたりする人がいるけど、
なぜだと思う
山梨(不明)のほうのチンピラが何やら、
関係しているとか 邪馬台国というスレッドによると
聖徳太子は、いたのか、いないのか?
という話になっている
卑弥呼よりも聖徳太子のほうが重要だ
みたいな話 >>477
天孫族に征服され隷属状況に置かれた人々が被差別部落民であるとする説は
次の理由で間違っている。
古墳の分布と被差別部落の分布が一致するが、彼らに古墳の近くに住み始める
必要性はない。
そして、2000年もの長い間蔑まれていた集落に住み続ける必要性もない。
被差別部落は町の中にもある。当然日本語を話すことが出来る。
嫌な思いをするなら出ていっているはずだ。
居続けるには居続けるだけの必要性があったはずだが彼らにはそれはない。
逆に天皇に関わっていた人々には、住み始め、住み続ける必要性があった。
彼らには、墓守をすることと、電話やメールがない時代、皇室に何かあると
真っ先に駆け付けられるように、その場所に留まり連絡を待つ必要性があった。
ある被差別部落の人々は天皇の即位式を大正時代まで勤めたという。
また、明治維新で天皇が東京へ行かれたときは被差別部落の人々がお供をしたと
いう。 主人と使用人は別
同じ氏族である必要もないし
同じ人種である必要もない 日本の賤民は狡賢くて卑怯で陰険で陰湿で粘着質で暴力的な悪党が多い。
弱い者いじめも差別も大好き。真の差別主義者とはこいつらのこと。
穢れ多き人に非ずとはよく言ったものだ。 モリカケでそうであるように、証拠もないのに騒ぎ立て、印象操作であり得ない
疑惑を作るのが朝鮮人の通常のやり口です。
いつも無いことで日本に言いがかりをつけてくる。
朝鮮半島に住んでいようと日本に住んでいようと
彼らのやり口は常に一緒です。
嘘でも100回言えば真実になるということです。
出雲新羅教によって悪口を言いふらし高貴な皇室の人々を被差別部落に貶めたのも
同じことなのです。 とても簡単な稼ぐことができるホームページ
念のためにのせておきます
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ST1 まだ穢多非人差別ってあったりするの?
バカでもわかるように教えて
苗字で分かったりするもんなん? 苗字ではわからない
部落に多い苗字だからと言って部落とは限らないわけだし >>492
今は実質ないと思うけどな
ディープな地域では嫌がらせとかあるみたいだけど嫌がらせしてるほうに人間的欠陥がありそうに思う記事内容だからな
昔はバカの一つ覚えみたいに忌み嫌っていた職種でも
今は一般庶民にマトモな知識が付いたから、そんなものないと思う
近年差別されてるのは、在日さんとか生保さんとか自称被差別民とか、国から出る金による生活スタイルの方々だよね… これからは移民をどんどん受け入れて在日差別や部落差別をなくしていこう
by安倍 いま私たちが一部の在日外国人に嫌な感情を持っているような感じだったんだろうね
古い時代に、他国から職人集団が移住してきたり、他国から流浪の民が流れてきたり、そういうのが 天災や飢餓で土地を追われた貧民が集まって集団化していっただけだろ
職人集団だったら有難がられることはあっても嫌がられたりしない >>498
単に山奥に住み着いたか河原に住み着いたかの違いでしかない 陵戸は朝廷から農地を与えられたりして良民と同レベルの扱いを受けてるんだよなあ
無税地の河原に集まってバラック集落作ってる連中とは大違いだ >>502
それ逆らしい。
部落が縄文系で、差別してる方が弥生系か朝鮮帰化人系らしい。 >>505
見渡すと、納得できるところがある(弥生人にとっ捕まった人たちなのかも) 弥生時代の渡来系弥生人というのは、縄文系弥生人と居住地を
分けて住んでいたらしい。
民族意識が強い人々みたいなんだよね。
日本の階層は
弥生系>朝鮮帰化人系>縄文系
なんじゃねえか? 倭人や秀吉に強制連行されたかわいそうな朝鮮人の子孫ニダ 縄文系弥生人って弥生人と混血した縄文人の事だからな 古墳期の朝鮮帰化人第一号の新羅系の秦氏は仲哀天皇がラブコールしてやって来たんだよ。
だから、相当高い地位で迎えられているはずだよ。
実際、文民で技術者ばかりだから、これで倭はようやく原始社会から抜け出したんだよ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 そんな昔までルーツたどれるなんてすごいです。皇室並みですよね。同和の皆さんは藤原氏以上にすごい。皇室の藩塀として皇室守り立てていきましょう。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 部落とは集落、地区を意味する言葉です。長閑な古き良き日本の原風景を意味する言葉です。差別用語ではありません。文科省は小学生からきちんと指導してくださいね。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. エタとは何か、何者か、諸説入り乱れ定説が作れない。
エタは賎称(蔑称)である、罵倒語である、差別語である、言ってはいけない禁忌語である、との説がある。
エタは賎民である、特殊民である、被差別民である、不可触民である、との説がある。
エタは身分である、エタという身分である、との説がある。
エタは職業である、エタという職業である、との説がある、
エタは非人である、という説もある。穢れ多し→非人であると。
エタは河原者である、という説もある。
エタは同和(同じ日本人)である、という説がある。
エタは異人である、という説がある。
エタは特殊部落民である、被差別部落民である、部落民である、との説がある。
その他諸々。
そういう言葉遊びは止めませんか。 数十年後には人口の1/3が移民になるわけですが、日本人の間に無理矢理区別つくって利権漁っている同和の皆さんはこれからどうするのでしょうか? 吉原の遊女とか花魁とかってどのポジションだったの? >>522
エタ、非人は遊女になれない。バレたら紹介者も厳罰。
遊女は身請けされて素人の妻になることもあるのだから、エタや非人が遊女になったら身分ロンダリングができてしまう。 部落という言葉は江戸期の文献には確認出来ない言葉である。
部落という言葉は明治以降に町方に対する村方の集落という意味で使用され普及したことばである。
町方に対しては部落とは言はない。
必ずしも農業をやっているとは限らないが、農村部の農家の集落地が部落という言葉の原意である。
町方在所、という言葉もあったが、この場合、在所が部落と同義語である。
小説や随想には見受けられる言葉だが、あまり公文書には見受けられない言葉である。
部落という言葉は俗語であった。
とにかく出鱈目な国語、国史を教えないでくれ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています