X



【五色の賤・近世部落】賤民【穢多非人・雑種賎民】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
0001日本@名無史さん
垢版 |
2012/03/09(金) 18:51:04.80
日本の賤民・被差別民の歴史について語るスレ


関連スレ

【西光万吉】全国水平社【松本治一郎】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history2/1331218072/l50

【新説?】部落学序説 吉田向学【珍説?】
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/rights/1222161345/l50

河原乞食って?
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1291968470/l50

白丁の歴史
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1327103431/l50

サンカ
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1284268365/l50

「サンカ」の起源
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/min/1296697477/l50

“未指定”の被差別部落
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/geo/1284115560/l50

被差別部落民の美人度
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/geo/1318424748/l50
0444日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/02(木) 15:26:39.56
【著者に訊け】高山文彦氏 『生き抜け、その日のために』
http://www.news-postseven.com/archives/20160512_410033.html

 国際平和都市長崎を語るには、欠くことのできない3つの要素があったという。「原爆」、「キリシタン迫害」、そして「部落差別」である。

 特に後者2つは慶応3年の〈浦上四番崩れ〉など、隠れキリシタン摘発の先兵に部落民が使われた史実が禍根を残し、
両者の関係は抉れたまま現代に残された。ある人が言う。〈浦上部落とキリシタン部落は、差別される者どうしやった。
それを時の権力は一方を捕り手に仕立て、両者をいがみあわせて、下層民どうしでぶつかりあわせて支配構造を組み立ててきたわけだ〉。

分断差別の歴史を超えて和解へ 『生き抜け、その日のために 長崎の被差別部落とキリシタン』
http://www.christiantoday.co.jp/articles/20857/20160512/ikinuke-sonohinotameni.htm

浦上のキリシタンと被差別部落

長崎県は日本で最もキリスト教信仰が盛んな土地だ。
人口約150万人中、カトリック信徒が6.4万人(人口比約4.3%)を占め、その中心が浦上だ。
住んでいたので分かるが、山の間のわずかな平野に住居が密集し、田畑はほとんどない。

戦前ここには「浦上キリシタン」と呼ばれた人々が1万人以上暮らしていた。
また浦上には、長崎県最大の被差別部落があり、千人以上の人々が住み、ほとんどが靴や下駄や皮革製品を作り、生計を立てていたという。

彼らは、江戸時代のキリシタン弾圧には捕り手として駆り出され、捕縛や過酷な取り調べ、拷問の任務を負わされてきた。
そのため、両者には根深い対立の歴史があったという。

キリスト教の側から見た浦上の原爆の被害については『長崎の鐘』『この子を残して』などを書いた永井隆の著作によって比較的知られているが、
同じく甚大な被害を受けた被差別部落の実態は、戦後長らく調査すらされていなかったという。

ようやく1980年に作成された「原爆被災復元調査事業報告書」によると、浦上の被差別部落1034人のうち155人が即死、
1945年内にさらに140人が亡くなるなど人口の32%が死亡、70年までに原爆症を原因として436人が死亡し、293人が行方不明となったという。
0445日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/02(木) 15:31:19.86
浦上の被差別部落の歴史

浦上では1928年に差別解消を目指す水平社が結成されたが、
行政や政治と一体になり人並みの生活を目指す融和派との対立の中で、2年ほどで消滅してしまった。
原爆で壊滅的な被害を受けた後、49年には県の復興計画の下、焼け残った宅地は区画整理と新たな道路設置のために安値で買い上げられた。

地主たちは、立ち入り禁止の札や針金を立て、土地を行政に買い上げてもらい大もうけをした。
もともといた住民は代替地すら与えられず、離散を強いられた。「この事業によって、浦上部落は事実上、この世から消滅した」という。

長崎県ではその後、被差別部落の人々は、名乗り出ることで差別が表沙汰になることを恐れ、差別解消運動も進まなかった。
69年に国会で同和対策事業特別措置法が成立した際、長崎県当局は“県内に被差別部落はない”とする報告を国に上げていたという。

戦後、浦上のキリシタンの歴史は、観光イメージのために大いに取り上げられたが、それにまつわる被差別の歴史は“なかった”ことにされていった。
0446日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/02(木) 15:35:25.82
被差別部落に生まれた2人の青年

そのような背景の下、本書では、浦上に生まれた中尾貫と磯本恒信という2人の人物が主人公として描かれる。
中尾貫は、差別の中で苦労して育ち、終戦を経て苦学しながら教師となり、51年から五島列島の中学校に赴任する。

『五島キリシタン史』によると、五島でもキリシタンは差別され、
卑しい者・全く別の生きものとされ、海に出ることも許されず、山に隠れて農業で生計を立てて生きていたという。
1868(明治元)年には「五島崩れ」という弾圧が行われ、久賀島では200人の信徒が6坪の牢に8カ月間閉じ込められ、40人以上が死亡した。

学校でも、漁で潤う町の子が良い服を着ているのに比べ、隠れキリシタンの家の子どもはつぎはぎだらけのモンペを着て、わら草履で通っていた。
「この子らは、あのころの自分たちのように差別を受けているのかもしれない。いや、もっとひどい差別を受けているのかもしれない」と思った中尾は、
隠れキリシタンの里に住みつく。

そこは、電気も水道もない、山の薪を燃料に使う自給自足の村だった。子どもたちと学校に通い、夜には自分の家に子どもを集め、勉強を教えた。
勉強の傍ら、子どもたちはぼろぼろになった聖書を読み、祈りをささげることもあった。その姿に打たれ、中尾も聖書を読むようになった。

そして中尾は、被差別部落とキリシタンの対立の歴史を知る。同僚のカトリック信徒の教師が語ったという言葉は象徴的だ。

「僕たちは“クロシュウ”と呼ばれとったんですよ。
先生たちは“エタ”と呼ばれたかもしれんばってん、僕たちは“クロシュウ”と呼ばれて、すさまじい差別をうけとりました」

「僕は小さいころ、浦上町の近くの農家で育ったんですが、
古い人から、浦上のエタの人たちからだいぶいじめられたと聞いて育ったもので、どうしても浦上の人たちに心を許せないところがあるんです」

もう1人の磯本恒信もまた、部落解放の運動に携わる中、自分たちの先祖がキリシタン弾圧の手先として使われてきたという歴史に向き合うことになる。

ある記録では、浦上四番崩れの際、キリシタン信者68人が捕らえられると、
血気盛んなキリシタンの若者数百人と部落側の若者が、竹やりやこん棒で武装し殺し合うという事件も起きたという。
0447日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/02(木) 15:44:20.76
磯本はこんな言葉を語っている。

「キリシタンにたいして自分たちの先祖がしてきたことを考えたら、被害者づらばかりしてはおられんとばい。
権力の手先になって、キリシタンを捕まえて、拷問にかけたり、殺したりしてきた。
そりゃあ、自分たちの先祖は権力側にいいように使われて、やりたくもないことをさせられてきたという点で被害者ではあるかもしれんばってん、
キリシタンには、そういう理屈は通らん。キリシタンとの歴史的問題をなんとか解決していく方法はなかもんかのう」

歴史の理解と和解、結城了悟(ディエゴ・パチェコ)神父

この相互対立の歴史の和解に大きな役割を果たすことになるのが、本書のもう1人の主人公、
スペイン出身で日本人国籍を取り、結城了悟という日本人となったイエズス会のディエゴ・パチェコ神父だ。

結城神父は39歳で長崎に移ってから、86歳で亡くなるまで、
戦国時代以来の日本に来た宣教師たちの手紙など膨大なキリシタン資料を集め、解読、翻訳し、世に紹介することに生涯をささげた。
その中で、部落解放運動に関わることになっていった。それは、宗教と差別をめぐるある事件がきっかけだったという。
0448日本@名無史さん
垢版 |
2017/03/02(木) 16:06:14.69
弾圧を拒んだ人々

結城神父が紹介した、バチカンのローマ法王庁に残る資料によると、江戸時代の禁教下、
部落民の祖先の町民たちの中で、キリシタンの弾圧を拒否してキリシタンをかくまった人々がおり、
彼らの多くもまたキリシタンで、殉教を遂げた人々もいたということも明らかになっていった。

〔1619年11月17日の〕殉教の時に見られたもう一つの手柄は、皮屋たちによるものでした。
彼らは動物の皮を剥ぎ取る人たちで、牢屋まで呼ばれて受刑者たちを縛ったり、刑場まで綱を引いて行きます。
二年前に十二人の聖なる殉教者が火炙りになった時と同じように、それをするのは罪だと知っていたので行くのを拒みました。

以前キリシタンであった奉行〔代官のこと〕平蔵は、彼らの三人を呼びつけ、
自分たちの勤めであるにも関わらずに行かなかったので厳しく叱責しましたが、
彼らは、それをすることは絶対にできないし、そのように神父から教えられていると言いました。

平蔵は「気をつけよ。申しつけに叛(そむ)くようであれば殺されるであろう。注意しておくので、後日私に文句を言わないように」と申しました。

彼らは、文句を言わないし、そのようなことをするよりも死ぬ覚悟ができていると答えました。

(バチカンに所蔵されていたドミニコ会宣教師からの手紙より)

おそらく(幕府側の)弾圧に屈し、(皮屋町)住民は仏教徒に転じたと思われます。
同じように、浦上の潜伏キリシタンは、仏教徒に転じながらも、しかしその後ひそかに信仰を伝えたことに両者の違いがあったわけです。
・・・同じくキリシタンとして宗教弾圧を闘った皮屋町住民が、こんどは弾圧する側に位置づけられ、刑吏として迫害の尖兵を担いました。
そのことが、現在に至るまで両者の間に禍根を残したのであれば、それは直ちに解決されるべき問題です。
・・・一つひとつの事実を積み上げることによって、「禍」が「幸いな出会い」へと導かれるよう祈念したいと思います。

顔を合わせ、研究と学びの場が続く中で、少しずつ「和解」の場が築かれていった。
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています

ニューススポーツなんでも実況